愛は命(小舘)

2024年6月2日春風学寮日曜集会

聖書個所 コリントの信徒への手紙一13:8-13

 

1.解説

13:8 愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、

13:9 わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。

13:10 完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。

*ここに書かれていることは、決定的に重要なことである。「愛は決して滅びない」とはいったいどういうことであろうか。文字通りに言えば、愛は永遠に続くということであるが、ここにはそれ以上の意味がある。それは、愛は永遠の命と直結しているということである。前回述べたように、聖書の思想によれば、死の原因は罪であり、罪とは心に愛がないことである。心に愛がないからこそ人は死ぬのである。だから、もし心に愛があるならば、それは罪が清められたということであり、死の原因がなくなったということ、すなわち永遠の命に入ったということである。だからこそパウロは、「愛は決して滅びない」と述べたのだ。

・付け加えて言うならば、神の本質は愛であった。だから心に愛があるということは、神の本質を分け与えられたということである。「愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです」(ヨハネの手紙一4:7)とある通りだ。神の本質を分け与えられた者が、永遠の命に入るのは、当然のことと言える。つまり、神は愛であるという面からみても、愛は永遠の命と直結しているのである。

*この箇所から学ぶべきもう一つのことは、愛の全体的完全性である。愛は、前回学んだような種々の要素(寛容で情け深く、ねたまずおごらず、礼儀正しく、自分の利益を求めず、怒らず恨まず、不義を喜ばず、真実を喜び、神を信じて希望を失わない)をすべて持っている。そのような全体的完全性を持っているからこそ愛は永遠なのである。

・対して預言や異言や知識は愛の一部に過ぎない。預言とは神様の言葉を取り次ぐ能力であり、それはそれで素晴らしい能力であるが、そのような預言は愛の一部でしかない。異言とは、人知を超えた神の言葉を受信して語る能力であり、知識とは神に関する知恵である。これらも素晴らしい能力ではあるが愛の一部でしかない。そのような愛の一部でしかないものは滅んでしまうとパウロは言う。寛容だって、情け深さだって、礼儀正しさだって、愛の一部に過ぎない。だからそれだけではすたれ滅んでしまうのである。

・まとめるなら、愛の全体は永遠の命に直結するが、愛の一部だけでは永遠の命に至らないということである。いったいなぜそのようなことが言えるのか。預言や異言を語る者も知識を持った律法学者も皆滅んでしまったが、愛の全てを体現したイエスは、死に打ち勝って復活したからだ。加えて、愛の全てを体現したイエスが登場して以降、預言や異言を語る者も律法学者も存在意義を失ってしまった。イエス一人に学べば、愛の全てを学ぶことができることが明らかになったからだ。

・このように、愛の全体を体現したイエスは、復活という面からみても、社会的役割から見ても、永続的な存在であった。だからこそパウロは言うのである。「完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう」と。

13:11 幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。

*「幼子だったとき」とはパウロや他の弟子たちが復活のイエスに会う前である。復活のイエスに出会う前、彼らは律法(旧約聖書の十戒を初めとする掟)を守ってさえいれば救われると思い、必死で律法を守ろうとしていた。そして守れる自分を誇り、守れない他者を蔑んでいた。要するにみんなが律法の世界のお山の大将になりたがっていたのだ。これこそが「幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた」ということである。

・対して「成人した今」とは復活のイエスに出会った後のことである。復活のイエスに出会った弟子たちはそのときイエスの持っている愛がいかに広大で包括的なものであるかを知った。そしてそれと共に、律法の世界のお山の大将になろうとする態度がいかに裁きに満ちており、愛とは正反対のものであるかを知らされた。だから、その後には、律法を守ることで競い合うというせせこましいことはやめてしまった。代わりにイエスの広大な愛に自分が包まれていることを信じ、ただそのことを感謝し、喜び合うようになった。そして互いに競い合い裁き合うのではなく、互いを認め合い赦し合うようになった。これこそが、「幼子のことを棄てた」ということである。

*このように、復活のイエスと出会い、その愛の広大さに触れてしまうと、人は完全に変えられてしまう。一番になろう、立派になろう、偉くなろうという修行的態度から、そのようになれない自分が愛されていることを喜ぼうという福音的態度へと変えられるのだ。

・パウロがその典型であった。復活のイエスに出会う前、パウロは律法を守ってお山の大将になることに命をかけていた。しかしそのようなときに、パウロは復活のイエスと出会った。負けず嫌いのパウロはイエスに願った。自分をもっと強くしてくださいと。するとイエスはこう答えたのだ。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(第二コリント12:9)と。この一言によって、パウロはイエスの愛が弱い者(罪人)をも包み込む広大なものであることを知らされた。と同時に、一番になることを目指し、弱い人を裁き続ける自分がいかに愛とはかけ離れた存在かを知らされた。こうしてパウロは、一番を目指すパウロではなく、一番になれないこと(弱さ)を喜び、感謝し、他者を認め赦すパウロへと変えられたのだ。

13:12 わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。

*「今」とは、復活のイエスに出会って以降のことである。それ以降弟子たちは、復活のイエスによって愛の広大さを知らされた。そしてその愛に包まれていることを喜び感謝する赦しの人へと変えられた。それが、「今は、鏡におぼろに映ったものを見ている」という状態である。

*対して「そのとき」とは最後の裁きの時である。最後の裁きの時には、イエスが再びこの世に遣わされる。そして弟子たちと正面から向き合って、その愛の全貌を完全に示す。そのとき、弟子たちは、イエスの愛に完全に包まれることになる。そしてイエスと同様の完全な愛の人に変えられることとなる。それこそが、「そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる」である。

・最後の裁きの時には、イエス・キリストによってすべての人が生前の行いに応じて裁かれると聖書は伝える。しかし、その裁きは愛に反することをした者を地獄へと送り、愛を実践した者を天国へ送るという単純なものではない。イエスの愛の全貌が示されることによって私たちの罪の全てが明らかにされ、全ての人が悔い改めさせられ、もって愛の人に変えられる、これがキリストによる裁きである。敢えて言えば、イエス・キリストの裁きは、究極の救いなのである。

13:13 それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。

*信仰とは神の愛を信じることであり、希望とは神の愛によって救われることを願うことである。愛が永遠の命である以上、その愛を信じる信仰はすたれることはなく、その愛による救いを願う希望もすたれることはない。だからこそ、「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る」のである。

・しかし、信仰と希望が永遠であるのは、全て愛が永遠であるゆえである。だからこそ、「その中で最も大いなるものは、愛である」ということになる。

 

2.メッセージ

①愛は命

 今日の個所から受け取るべきメッセージの一つ目は、愛こそ永遠の命そのものであるということある。聖書は死の原因を罪であると考える。罪とは神の本質である愛に対する背きであり、すなわち利己的であることである。利己的に生きるからこそ人は死ぬ。これは聖書の伝える超重大なメッセージである。このメッセージを皆さんは受け入れられるであろうか。

歴史を振り返ってみれば、利己的な人や利己的な国は自滅へと向かう傾向がある。たとえ自滅しないとしても、そのような人や個人にはどことなく死の気配が漂っている。そもそも利己的な人や国は、自身のために平気で他者を利用するのだから、そこに死の気配が漂うのも当然であろう。このようなことをふりかえってみるならば、私は罪と死が直結しているという聖書の主張に同意せざるを得ない。

他方、聖書は愛こそ永遠の命であると主張する。こちらの方は受け入れられるであろうか。歴史を振り返ってみれば、愛のあふれる集団や個人は、確かに生き生きしている。例えば、中村哲さんと彼の率いるペシャワールの会などは、命の輝きに満ち満ちている。愛は利他的精神であり、他者を尊重し、理解し、他者に奉仕しようとするのだから、それがあるところに命の輝きが生まれてくるのも当然であろう。このようなことを振り返ってみるならば、愛こそ永遠の命であるというメッセージにも私は同感せざるを得ない。

②愛は人を変える

 今日の個所から受け取るべき二つ目のメッセージは、愛は人を変えるということである。特にイエス・キリストが示したような完全な愛に出会うと人は変わらずにいられない。そのようにして変えられた人の例として先ほどパウロを紹介したが、今日はもう一人井上伊之助という日本人を紹介した。

 井上は1882年(明治15年)、高知県に生まれた。彼の生涯での最大の出来事は、父親が台湾で原住民の山岳民族によって首を切られて殺されてしまったという出来事であった。台湾の山岳地帯には樟脳の原料である楠の大木が大量にあった。彼の父は、その楠から樟脳を製造するという国策事業製造に従事するために台湾へ渡っていたのだが、現地の山岳民族の中にはそれを面白く思わない者がいた。彼らには外国から来た者はみな侵略者であるとしか思えなかったのだ。井上の父は現地の人の立場に立って事業を進めようとするきわめて善良な人物であった(新渡戸稲造路線を進む人物であった)が、彼らの目には侵略者にしか見えず、結局彼らからその首を切り落とされてしまったのだ。

時に井上は24歳。東京でこの知らせを聞いた井上は、怒りのあまり号泣したという。そして何としても父の仇を討ちたいと思ったそうだ。しかし、そのような井上に語りかける者があった。それこそイエス・キリストであった。井上は、内村鑑三の著作を通じて聖書に親しみ、神学校に通うようになっていたが、そのときに学んだキリストの言葉が彼の心に鳴り響いたのである。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ伝23:34)と。

この言葉を聞いた井上は変わった。この言葉を通じて敵をも赦すイエスの愛に触れた井上は、自分もイエスのように敵を愛そう、台湾の山岳民族を愛そうと思うようになった。しかし、どうすれば山岳民族を愛することができるのであろうか。その答えはやがてイエスから与えられた。山岳民族にイエスの愛を伝えればよいのだと。敵の首を切る山岳民族に敵をも愛するイエス・キリストの愛を伝えてこそ、彼らを本当に愛したことになると。父の仇を討つということは、父の仇の身体をやっつけることではなく、父の仇の敵を憎む心をやっつけることなのだと。

こうして井上は、以降台湾の現地人にキリストの愛を伝えることに全力を尽くす。しかし、すぐに第二の試練が前に立ちはだかった。台湾の現地人にキリスト教を伝えることを日本政府から禁じられたのである(日本は台湾人の間に神道を植え付けようとしていた)。それでも井上は諦めず、医師になって、言葉ではなく行動で、現地の人たちにキリストの愛を伝えることに決めた。こうして井上は台湾へ赴き、医者として働きながら、言葉ではなく行動でキリストの愛を伝え続けたのであった。その期間は実に30年。日本政府はついに一度も井上に言葉でキリストを伝えることを許可しないまま、戦争に負け、台湾を手放すこととなった。当然井上も帰国を命じられる。1947年、帰国の船の中で、井上は泣いた。父の敵を討つことはできなかったと。現地の人々になんらキリストの愛を伝えることはできなかったと。

ところが、である。井上が日本に帰ってから、事態は急変した。思想の自由を与えられた山岳民族の間にリバイバル(一度に多数の人がキリスト信仰を告白し始める現象)が起こり、またたくまにキリスト教が広まったのである。井上の活動は無駄ではなかった。井上の活動によって、台湾の人々の間には、キリストの愛がしっかりと伝わっていたのである。こうして1967年には、台湾の山岳地帯の教会は約300以上となり、キリスト教徒数はなんと60000人に近づいた。もちろん山岳民族はもはや首切りをしなくなった。こうして今や井上は、台湾山岳伝道の父と呼ばれ、多くの台湾人から慕われている。井上伊之助とグーグルで検索すれば、彼をたたえる台湾の動画がいくつか出てくる。日本人は井上のことなどほとんど誰も知らない。

というわけでキリストの愛は人を変える。キリストの愛に触れるなら、人を裁き、敵をやっつけようとする心は消えていく。代わりにキリストに自分が愛されているように自分も人を愛そうという気持ちが起こってくるのである。

だから皆さんにはぜひともキリストの愛に出会ってほしい。ではどうすればキリストの愛に出会えるのか。先週話した通りである。イエスの言葉を問いかけとして心に持ち続けることである。イエスの言葉を問いかけとして持ち続けるなら、その答えが外側から示されることがある。それこそイエスの愛に触れるときである。大げさに言えば、復活のイエスと出会うときである。皆さんが復活のイエスと出会うことを心から願う。

③裁きは救い

 キリストによる最後の裁きはどのようになされるのか。この問題に答えることは、昨年末の集会で小野君から与えられた宿題であった。今日ようやくその宿題を果たすことができた。小野君には、遅れてすみませんとお詫び付きでこの話の原稿を送っておこう。

 それはそうと、最後のメッセージはキリストによる最後の裁きは救いであるという驚くべきメッセージである。キリストの愛の全貌が示されることによって人は皆自身の罪をはっきりと知らされ、悔い改めることになる。これが聖書の示したこの世界の歴史の結末なのである。

 先週も話した通り、現代は正義と真実に喜ばず、不義と虚偽を喜ぶ時代である。先日出たトランプの判決に対するアメリカ人の反応(トランプへの圧倒的支持)がそのことを如実に表している。アメリカ人の半分にとっては、何が正義で何が真実かなどどうでもよいのだ。彼らはただひたすら自分に都合の良い情報を支持するのだ。これはソーシャルメディアが普及して以降、アメリカだけでなく世界中で起こっている驚くべき事態であるが、これくらい絶望的なことはない。

 ところが最後の裁きには、キリストによって明確に真実と正義が示される。そのことによってすべての人が悔い改めへと導かれる。それは裁きであると同時に救いなのである。もし聖書のこのメッセージを受け入れるなら、このような現代でも希望をもって生きて行けるのではないか。そしてトランプやトランプを支持する人々も何とか愛していけるのではないか。

 だからこそ、皆さんが聖書の最後の裁きのメッセージを受け入れることを私は願っている。

 

3.話し合い

O君「ぼくは、常々イエスの罪人を赦す愛と最後の裁きとがどう両立するのか疑問に思っていました。イエスは罪人を救うためにこの世に遣わされたのに、最後の裁きの日には罪人を裁くために遣わされると黙示録には書いてある。これは矛盾ですよね。」

寮長「鋭い。それこそ聖書を学ぶ世界中の人々を悩ませてきた難問です。でも今日の話に従って考えれば理解できますよね。イエスは確かに裁きを下す。しかしその裁きは完全であるゆえに、裁かれる罪人を愛の人に変えてしまう。そうだとすれば、イエスの愛と裁きは完全に両立します。」

O君「だから、今日の話にはなるほどと納得させられました。」

寮長「うれしいですね。」

U君「幼子という言葉は、聖書では良い意味に使われてきたと思うのですが、今日の個所では悪い意味に使われているように思えます。それでよいのでしょうか。」

寮長「もちろんです。幼子という言葉は、脈絡次第で良くも悪くもなります。今日の個所での幼子は、単に未熟者という意味で、そこには良い意味はありません。」

KF君「井上さんの話には感動しました。というのも、原発推進派の人たちにどう対処すればよいのか、ヒントを与えてくれた気がするからです。彼らには言葉でどんなに説得しても無駄です。だとすれば、行動で愛を示すほかはない。そのためには彼らに近づき、共に暮らさなければだめだと。」

寮長「それで思い出しましたが、井上さんには内村鑑三から手紙が来て、そこには台湾伝道のためのアドバイスが書いてありました。その内容はこうです。《台湾へ言ったら、言葉でキリストを伝えようなんて思ってはいけない。君のような人間が彼らと共に暮らすだけで、キリストは自ずから彼らに伝わる。伝道は言葉だけでするものと思ったら大間違いだ。》

KF君「さすが内村ですね。」

KU君「永遠の命と言われても、ただ永遠に生きるなんて苦痛ですよね。ましてやこのような世の中で今の自分が永遠に生きるのだとすると、永遠の命なんて苦痛でしかない。」

寮長「今日の個所は、聖書の説く永遠の命がそのような単なる肉体の存続ではないことをはっきり示しています。永遠の命は愛とセットなのです。人は愛の人に変えられて永遠の命に入っていく。だからこの世のまま、今の自分のまま永遠に生きることでは断じてありません。だから、永遠に生きるなんて嫌だと言って聖書から離れていくのは、聖書の誤解以外の何物でもありませ。」

I君「本当の仇討ちは仇の身体をやっつけることではなく、仇の悪い心をやっつけることだという言葉に感動しました。僕は自分をいじめた人をやっつけたいと思っていましたが、この言葉を知ってそういう思いから少し抜け出せた気がします。」

寮長「だとすると、今日の話をした甲斐があったというものです。」

M君「寮長自身は、敵を愛することができるのですか。嫌いな人とかいないのですか。」

寮長「ある程度はできるようになりました。というのも、教師という仕事は敵を愛することそのものですから。学生はいつの時代にも教師に反抗します。教師の言うことに従わず、ときには教師の悪口を言う。そういう学生たちを育てていくということは、愛敵の実践以外の何物でもありません。だからまじめな教師である以上は、自ずから敵を愛する資質を養っていくことになります。しかしもちろん完全に敵を愛せるわけではありません。今は、鏡に移った影(イエス様)をおぼろに見ているだけと言えましょう。」

K君「一部だけでは永遠の命につながらないとありましたが、自分にはその一部すらありません。自分は本当に罪人なんですね。だからこそ、一つだけでもできるようになりたいです。いちばん僕にできそうなのは寛大になることだと思います。例えば、トランプを批判するだけではなく、なぜトランプがこれほどに人を引き付けるのか、細かく見ていきたいと思います。そうすれば寛大にはなれそうな気がします。」

寮長「自分の罪を振り返るということは最も難しいことです。それにチャレンジしようとするのは、実に立派です。それはもう愛の始まりですね。今日は皆さんのおかげでとても充実した集会となりました。どうもありがとうございます。」