2025年6月8日(日)春風学寮日曜集会
聖書 創世記2:8-9、2:16-17、3:1-13
1.エデンの園の謎
さて、今日の箇所では、人格を与えられた人間というテーマがさらにほりさげられていく。先ずは、2:8~9を読んでみよう。
2:8 主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。
2:9 主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。
神は、世界の一隅のエデンというところに、人間が暮らすための場所をお造りになった。いわゆる「エデンの園」である。エデンという言葉は元々「楽しみ」とか「贅沢」とかいう意味であるから、この園は後に「楽園」と呼ばれることになる。神は人間が木の実を食べて何不自由なく暮せるようにと、人間のために「楽園」を造ったのだ。
ところが神は最後に不可解なことをする。「園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた」のである。そして人間にこう命じる。
2:16 主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。
2:17 ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」
はてさて、これはいったいどういうことであろうか。神はいったい何のためにこのような、死に至るような木をわざわざ植えて、その木の実を食べることを禁じたのであろうか。
2.「善悪の知識」とは
この謎を解く鍵は、神が人間だけに人格を与えたという前回からのテーマである。人格とは何であったか。それは自由に愛を選ぶことのできる自由意志を持った主体のことであった。このような人格の意味を考慮に入れるならば、神がエデンの園の真ん中に敢えて危険な木を植えて、「食べるな」という命令を発したのか、その理由が理解できる。神は人間が与えられた人格をきちんと使うことができるかどうか試そうとしたのだ。人間が自由意志によって神を信じ、神の命令に従う道を選ぶか、それとも神を信じず、神の命令に逆らう道を選ぶか、そのような試練を与えることで、人間の人格のうちに神を信じる心を育て、愛の人格を養っていこうと思ったのだ。
だとしても疑問は残る。なぜ神が人に試練を課すために植えた木が「善悪の知識の木」なのであろうか。この木のもたらす「善悪の知識」とはいったい何なのであろうか。実を言えば、この問題については様々な説があり、まだ解決しているとは言い難い。主な説をあげると以下の通りだ。
①善悪を判断する倫理的判断能力
②善悪だけでなく良し悪し、美醜、幸不幸、利害などあらゆることを二つに分けて判断しようとする二分法的認識能力
③性別を認識する能力
④神のようになろうとする欲望
⑤無限の知識欲
はたしてこのうちのどれが正しいのか。一通り読み終わった後で検討してみよう。
3.「蛇」
恐らく男と女は普通に暮らしていけば、「善悪の知識の木」から取って食べず、命の木からとって食べ、とこしえに生きられたことであろう。ところがそこに蛇が登場して、女を誘惑する。「蛇」が語りかけることによって「善悪の知識」は極めて魅力的なものへと一変するのである。その語りかけ部分をもう一度読んでみよう。
3:1 主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」
3:2 女は蛇に答えた。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。
3:3 でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」
3:4 蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。
3:5 それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」
3:6 女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。
この5節の言葉「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ」によって事態は一変する。今や「善悪の知識の木」は極めて魅力的な欲望の対象と化した。食べても死ぬことはないうえに、「神のように善悪を知るものとなる」ことができるのだとしたら、これはもう食べない手はない。今や「その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆す」木のように見え始めたわけだ。
こうして「善悪の知識の木」は男と女に課された本格的な試練へと変貌する。神の言葉(死んでしまう)を信じ、神の命令(善悪の知識の木からとって食べてはいけない)に従うのか。それとも「蛇」の言葉(死ぬことはない、神のように善悪を知る者となる)を信じて神を疑い、神の命令に逆らうのか。二人は今や神を信じて神に従う愛の道を選ぶのか、それとも神を疑い神に背く罪の道を選ぶのか、という重大な試練の前に立たされることとなった。
それではこのような「蛇」の存在を通じて神は何を伝えようとしているのであろうか。それはやはり、この世には神と人間の間を引き裂こうとする力が存在するということであろう。ここに登場する「蛇」は聖書に登場する唯一の言葉を話す動物であるため、後にサタンと呼ばれ、神と敵対する存在であるかのごとくに描かれるようになる。サタンのようなものが実際に存在するのか、私は知らない。しかし、サタンとでも言いたくなるような神と人間を引き離そうとする悪の力が存在するのは確かである。自然災害、病気、事故、戦争、貧困、不条理な運命・・・。このようなものと出くわすとき私たちは強烈に神の存在を疑いたくなる。果たして愛の神など存在するのかと。ここに登場する「蛇」はそのような悪の力の象徴であると言えよう。
神は私たちの人格を成長させようとして試練を与える。それだけでなく、ただの試練とは言い難い悪の存在をも容認している。神はこの世界を素晴らしいものとして創造したが、そこは全く悪の存在しない世界ではなかった。悪が存在しつつも、それに打ち負かされずに神を信じ、神に従っていくべき世界だったのである。
だとすればここに込められたメッセージはあもはや明らかであろう。神はこう呼びかけているのだ。ときには試練に加えて大きな悪と出くわすかもしれない。しかしそのような試練や悪に打ち負かされずに、神を信じ、神の御心(愛)に従う道を選び取りなさいと。そうすることがあなたの人格を真に成長させていく道なのだと。
4.堕落
さて二人はそのような試練と悪を乗り越えることができたであろうか。3:6の後半にはこうある。「女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた」と。二人はあっけないほど簡単に「蛇」を信じて神を疑い、神に背いたのだ。つまり二人の人格を育てるために神が与えた試練と悪は二人の人格を堕落させる結果となってしまったのだ。
その堕落の結果はいかなるものであったか。以前、二人は裸であるにもかかわらず恥ずかしいとは思わなかった。ところが今や「自分たちが裸であることを知り、・・・いちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。」つまり、自分たちが裸であることを認識し、裸であることを恥ずかしいと思い、特に相手のそれとは異なる自分の性器が恥ずかしいと思うようになってしまったのだ。
それだけではない。二人は神を避けるようになってしまった。
3:8 その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、
3:9 主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」
3:10 彼は答えた。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」
いったいなぜ男と女は神を恐れて避けるようになってしまったのだろうか。「裸ですから」とアダムは答えている。いったいなぜ裸であることが怖いのだろうか。自分の性器を神に見られることが恥ずかしさを超えて、恐れを生んだのであろうか。そうではあるまい。彼らは彼らなりに、神に背いてしまったことの罪を認識しているのだ。そうであればこそ神が恐ろしくなり神を避けているのだ。ところがその罪を知られまいとしてアダムは嘘をつく。裸であることが恐ろしいのですと。今やアダムは、自分の罪を隠すために嘘をつくまでになった。
そして最後の場面で、彼らの堕落は頂点に達する。
3:11 神は言われた。「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」
3:12 アダムは答えた。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」
3:13 主なる神は女に向かって言われた。「何ということをしたのか。」女は答えた。「蛇がだましたので、食べてしまいました。」
「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」なんと情けない言葉であろうか。自分の罪を反省するどころか、その罪の責任を最愛の存在である女になすりつけているのである。これだけでも男は十分すぎるほどに堕落してしまっているわけだが、それでも足りないかの如くに彼は自身の罪の究極的な責任を神に擦り付ける。このような女を創造して自分に与えた神が悪いのだと。今や彼は、自分を正当化するために、最愛の人を断罪し、神すらも断罪するようになってしまった。アダムの堕落もここに極まれり、というところだ。
その堕落を補完するかのように女は言う。「蛇がだましたので、食べてしまいました。」これもまた自分を正当化するために他者を断罪する行為であるが、この断罪が悪質なのは断罪の相手が弱者であるということである。「蛇」は動物の中で最も頭が良いとはいえ、あくまでも人間に管理責任を委ねられた動物であり、その意味で弱者である。その弱者に背きの責任を擦り付けるというのは、弱者を犠牲にして自身を正当化しようとする最も卑劣な行為であろう。
ここで注目すべきことは、この二人には自分の罪を反省するという精神が全くないことである。彼らは自分が神に背くという罪を犯したことを確かに認識しているのだが、そのことを一切認めず反省していない。反省するどころか、それをごまかすために他者を裁いてますます罪を重ねてしまっている。今や彼は罪の奴隷となってしまったのである。
神が創造した世界は、試練や悪が存在しつつも、やはり素晴らしい世界であった。しかし男と女が罪の奴隷と化してしまったことで、何ら素晴らしい世界ではなくなってしまった。なぜならそこはもはや愛が実現する余地のない場所となってしまったからである。自由意志をもって神の御心である愛を選び取るはずの人間が、次から次へと神に背く道を選び続ける罪の奴隷となってしまったのだ。そのような人間が管理する世界に、どうして愛が実現し得ようか。人間が管理する世界は、愛の実現する見込みのない世界、悪と罪が満ち溢れる世界となってしまったのだ。
このような物語を通じて神は何を伝えようとしているのであろうか。それは、この世界を本当に堕落させたのは人間であるということである。確かに神は試練を作り、悪を容認した。しかしそのこと自体は大した問題ではなかった。人間が自由意志を持って神に従う道を選び取りさえすれば、いくらでも愛を実現することができたのだから。しかし、人間が罪の奴隷と化したとき、世界は本当に愛を失ってしまった。そして今なお人間はその道を突き進んでいる。と、神は伝えたいのではないだろうか。
5.「善悪の知識」の正体
そこで改めて「善悪の知識」とは何かという問題を考えてみよう。現在提出されている主な学説は以下のとおりであった。
- 善悪を判断する倫理的判断能力
②善悪だけでなく良し悪し、美醜、幸不幸、利害などあらゆることを二つに分けて判断しようとする二分法的認識能力
③性別を認識する能力
④神のようになろうとする欲望
⑤無限の知識欲
これらのうち④と⑤は「善悪の知識」を知識ではなく欲望であると考える学説だが、木の実を食べた二人は実際に賢くなっていることを考えるとこれらの説は妥当ではない。③は狭く取りすぎであろう。だとすると①か②である。全体の流れからすると①を取りたくなってしまうが、木の実を食べて最初に起こった変化は、裸であることの認識であった。ここには倫理的判断はない。だとすると、答えは②である。「善悪の知識」とはあらゆることを二つに分けて考える二分法的認識能力のことであり、この木から取って食べた二人はあらゆることを二分法的に認識できるようになったのだ。裸であるか何かをまとっているか、自分の性器と相手の性器の違い、神に背くというが善であるか悪であるか。そのような悪を誘発した女や神が善であるか悪であるか。このような二分法的認識能力こそが「善悪の知識」の正体である。これはやがて数学や科学的思考に発展していく知的思考方法である。
だとすると、なぜ神が「善悪の知識」を身に着けることを禁じたのかも分かってくる。二分法的認識能力は、愛の神が用いてこそ有用であるが、愛のない、愛を選ぶ可能性しか与えられていない人間がその能力を用いたならば、間違った自己中心的な判断を誘発するものとなってしまう。ときにそれは自分を守るために愛する者や弱者を断罪するための手段と化し、さらには神をも断罪するための手段と化してしまう。その行きつく先は神の存在を否定して、自分を神と見なす態度である。これらのことを見抜いていたからこそ、神は、「善悪の知識」(裁きの知恵)を人間に禁じたのである。
更には、なぜ神が試練として「善悪の知識の木」を植えたのかもわかってくる。「善悪の知識」が神をも裁くことを可能にする二分法的認識能力であるとするならば、それは神を信じ、神に従順に従うことの対極に位置する態度である。神は、人間に二分法的認識能力によって神を裁く道ではなく、素直に神に従う道を選び取ってほしかった。そうであればこそ、神は敢えてエデンの園の中央に「善悪の知識の木」を植えたのだ。
そうなのだ。神がこの木を植えた本当の理由は人間に試練を課すことではなかった。むしろそれは、人間に正しい道を指し示すべく植えられた木なのだ。人間の生きるべき道は、二分法的認識能力により頼んで他者や神を裁く道ではなくて、神により頼んで神に従い、他者と協力する道なのだと。
ここまで読み取るならば、この不可解な物語に込められた神の真のメッセージが分かってくる。神はこの物語を通じて、人間にこう呼びかけたのである。二分法的認識能力を頼みとして生きてはいけない。もしこの判断力のみに頼って生きていくなら、あなたは必ず他者を裁くようになり、やがては必ず神を裁くようになるであろう。なぜならあなたには、この判断力を正しく行使できるほどの愛がないのだから。むしろあなたは絶えず神を頼みとし、神に相談し、神に従う道を歩みなさい。そして他者を裁かずに他者と補い合い、協力していく道を歩みなさい。それが愛の人格を成長させていくための道である。これこそは、今日の個所に込められた最大の神のメッセージである。
ちなみに罪は、古代ヘブライ語ではハッタ―ス、古代ギリシア語ではハマルティアであるが、いずれも元の意味は「的外れ」である。なぜこのような語が罪を表すために用いられるのであろうか。罪の本質は、神に背くことであり、言い換えれば自己中心性である。神のようになろうとする過剰な自己拡大欲求と言ってもよい。この罪と二分法的認識力が結びつくとき、その結果は愛とは異なる的外れな判断となって現れる。そうであればこそ、罪を表すために的外れという言葉が用いられたのであろう。思えば、「善悪の知識」獲得後にアダムの下した判断は全て神の意志(愛)とは異なる的外れな判断の連続であった。そして人間は、今なお的外れな自己中心的な判断を続けて生きているのではないか。
6.罪こそ死
ところで、神は「善悪の木」から取って食べたなら死んでしまうと述べていた。ところが、二人は食べたのに死ななかった。この矛盾はどう理解したらよいのだろうか。神が嘘をつき、「蛇」が正しかったということなのであろうか。
この矛盾を理解するためには、聖書の背後にある死生観を学ばなければならない。聖書における死は、単に肉体が死ぬことではない。聖書では、神と共にあることこそが本当の生であり、神から離れることこそが死であるのだ。たとえ肉体が生きていたとしても、神から離れている者はすでに死んだ者であり、たとえ肉体が死んだとしても神に祝福されて死んだのなら、その者は生きているとみなされるのだ。
このような死生観を前提として考えるならば、神の言ったことは嘘ではなかったことが分かる。なぜなら、「善悪の知識」を身に着けた二人は、独自に物事を判断する道を歩み、神を避けるようになってしまったのだから。神を避けるようになった二人は、聖書的にはすでに死んでいるのである。神を断罪するアダムの姿は、まさに死者の姿と言ってよい。対してこのような状態をもって生きていると考えた「蛇」こそは過ちを伝える嘘つきであったことになる。
だとすると、今日の個所に込められた最後の神のメッセージが分かってくる。本当の命は神と共にあることであり、本当の死は神から離れて罪の道を歩むことであるということである。今日の箇所を通じて神はこうも伝えているのである。肉体の生死よりも神と共にあるかどうかの方が大事だ。神と共にあることこそが本当の命なのだから。これまた強烈な聖書のメッセージだ。さて皆さんはこのメッセージにどう応答するであろうか。
話し合い
Ryo「この知恵は、言い方を変えれば自分が主になり、神を従としてしまう知恵であり、さらには自分を正義とし、他者を悪としてしまう考え方ですね。」
寮長「その通りです。そういう考え方がどんなにこの世界に横行していることでしょうか。」
Ok「自分はほとんどのことを二分法的考え方に従って判断しているので、この考え方を否定することはできません。」
寮長「するどい。二分法的判断力自体が悪いのではありません。それは人間の思考方法の基礎をなすものであり、数学的知恵として精密化されていくものですから、そのような知恵が必要な場合はたくさんあります。しかし問題なのは、その知恵だけを頼りとし、神を無視してそれで判断しえないことまでも独自に判断していく態度なのです。例えば人間の人格に成績をつけたり、人間の命に金額をつけたり、神の存在を科学的に否定しようとしたり…。もし二分法的判断力を神に祈りつつ、謙虚に用いていくことができるなら、それは神の意志に背くことではないと思います。」
Ho「人間が善悪の木の実を食べた後の変化は、認識力の変化か、判断力の変化か、微妙な所だと思います。」
寮長「確かにそうですね。そこをもう少しきちんと分けて行けば、もっと洗練した解釈が下せるのかもしれません。しかし、そこまで厳密なメッセージを神が伝えようとしていたかは、疑問です。」
Ma「母は休みになると刑務所に伝道に行きました。僕は犯罪者が怖いので、行かないでと頼みました。ところが母は、怖い人なんかいないよと言い、僕を刑務所に連れて行ってくれました。すると、果たして、刑務所にいる犯罪者と呼ばれている人たちは、僕らと同じ普通の人たちでした。それで、犯罪者が怖いというのは、自分の偏見だと分かりました。」
寮長「いい話ですね。犯罪者というのは、やはり善悪の知識に従って人間が人間に張ったレッテルにすぎません。裁判所や警察といえども、その人が本当にどれくらい悪いのか、判定できるはずがありません。ですから、裁判所から犯罪者と判定されたからと言って、その人たちをまるっきりの悪人と考えてしまうのは、間違いです。そういう考え方を今日の個所は非難しているのだと思います。」
Ue君「裁判員裁判で、日本に覚せい剤を密輸したメキシコ人の裁判を見ました。その過程で、本当にこの人が悪い人なのか、疑問に思いました。覚せい剤の密輸は、確かに法律違反ですが、この法律で裁ききれない要素が背後にはあることを思い知らされました。」
寮長「犯罪者の中には、白か黒かで判定できない者がたくさんいますよね。裁判所はそういう人たちに必要上止むを得ず有罪判決を下すのですけれど、それと神の前で罪人であることとは別であるとはっきり認識しておく必要があるでしょう。」
So「二分法的思考によって独自に物事を判断していくなら、人はどんどん自己を正当化し、自分を拡大していこうとするでしょう。その行き着く先が戦争なのではないかと思います。」
寮長「ある独自の価値判断が暴走し、多くの国民に支持されて国を包んでいくときに、戦争は起こります。戦争はある国民が独自の価値判断によって他国の国民を裁くという行為です。そういう意味で言えば、今日の個所は、人間が戦争を犯さない道を神が提示したものと読み取ることもできますね。」