2024年1月12日春風学寮日曜集会
讃美歌 121、286
聖書個所 詩編22:1-31
序 十字架の前提
いよいよ十字架そのものについて学ぶわけだが、これはあまりに大きい問題なので、その前にある程度地ならしをしておく必要がある。イエスの十字架は歴史の中に突然ひょっこり現れてきたわけではない。その前に神からの啓示の積み重ねがあって、その啓示が実現するかたちでイエスの十字架という出来事が成立するのだ。だから、十字架について深く学ぶためにはその前提となった神からの重要な啓示をいくつか学んでおく必要がある。その第一弾が今日扱う詩篇22篇である。
驚くべきことに、マタイによる福音書を初めとするイエスの十字架の記事は、この詩編とそっくりである。その理由は、十字架の記事を書いた福音書の筆者たちがいずれもこの詩編をモデルにして十字架の記事を記録したからである。それでは、いったいなぜ彼らはこの詩編をモデルにして十字架の記事を書いたのであろうか。その理由は、やはりイエスの十字架の出来事がこの詩編に酷似していたからなのだ。イエスの十字架の出来事は実際にこの詩編とそっくりであった。だからこそマタイを初めとする福音書の筆者たちは、この詩編を基にしてイエスの十字架の出来事を記録したのである。
というわけで、以下はこの詩編を詳しく学んでいこう。
1.神に見捨てられて
22:1 【指揮者によって。「暁の雌鹿」に合わせて。賛歌。ダビデの詩。】
*「ダビデの詩」とあるが、ダビデの人生とこの詩編はあまり関係がない。ダビデは、生涯にわたって神から見放されたことがなかった。自分の家臣の妻を寝取るという最悪の罪を犯したあとでさえ、神はダビデを見捨てなかった。
・したがってこの詩はダビデとは関係のない、独自のものとして読む必要がある。
・「暁の雌鹿」というのは曲名であるが、その曲がどのようなものかはもはやわからない。
22:2 わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず/呻きも言葉も聞いてくださらないのか。
22:3 わたしの神よ/昼は、呼び求めても答えてくださらない。夜も、黙ることをお許しにならない。
22:4 だがあなたは、聖所にいまし/イスラエルの賛美を受ける方。
22:5 わたしたちの先祖はあなたに依り頼み/依り頼んで、救われて来た。
22:6 助けを求めてあなたに叫び、救い出され/あなたに依り頼んで、裏切られたことはない。
*この詩を読み説くうえでまず理解しておくべきことは、作者と神の関係である。5-6節にあるように、神は常に作者や作者の先祖と共にあった。「助けを求めてあなたに叫び、救い出され/あなたに依り頼んで、裏切られたことはない」のである。
・事実イスラエルの民は先祖代々神と共に歩んできた。彼らにとっての神は、どんなときにも祈りに応えてくださる、生きて働く神であったのだ。イエスは、しばしば「神を信じて疑わなければ、神はどんな願いでもかなえてくださる」と語った。この言葉は、イエスの考え出したフィクションではない。イスラエルの民が数千年にわたって体験してきた事実なのだ。
#だから、ここでまず受け取るべきメッセージは、神は祈りに応えて下さる、生きて働く神であるこということである。ところが、私たちはこのような神を体験したことがない。いったいなぜだろうか。神など存在しないからであろうか。そうではない、と聖書は言う。神を信じないから体験できないのだと。生きて働く神を信じ、その神により頼んで祈らないから、生きて働く神を体験できないのだと。
・そもそも私たちは神に真剣に祈ったことがあるだろうか。日本人は年末年始に初詣に行き、旅に出かければ旅先の神社仏閣で参拝し、親戚が亡くなったときには仏壇を拝む。しかし、このようなものは厳密に言えば、祈りでも何でもない。なぜなら、日本人は神を本気で信じていないのだから。日本人が本気で信じるものは金と力と自分だけであるのだから。
・祈りは、そのような人間に決して実行できないものである。なぜなら祈りは、金にも力にも自分にもすがることができない心境から生まれてくるものであるからだ。自分がどうしようもなく弱い存在であることを自覚するときに生まれてくるものであるからだ。だから、祈るという行為は、自分が弱い存在であるということをさらけ出す行為であり、より頼むものがある強い人間には恥ずかしくてできないものである。事実、強いと自負する人間はしばしばこう言う。「祈る人を見ていると背筋がぞっとする」と。強い人間にしてみれば、祈る人間は努力もせずに神にすがって何かをなしとげようとする意気地のない、弱い連中なのだ。自分は決してそのような人間ではないと思うからこそ彼らは祈る人たちに嫌悪感を覚え、自分では決して祈ろうとしないのだ。
・そのような態度である限り、生きて働く神を体験することなどできない。繰り返すが、生きて働く神を体験することができるのは、神の存在を信じ、自分の弱さを自覚して、心から神により頼み祈るときであるからだ。私たちは何よりもまずこのメッセージをこの箇所から受け取る必要がある。
*そこで話をテクストに戻せば、この詩の作者は、間違いなく、神の存在を信じ、自分の弱さを自覚して、心から神により頼み祈る人間であった。だからこそ生きて働く神を無数に体験してきた人であった。そのような作者が、今や突然神から見捨てられたのである。神は今や作者から遠く離れ、逆境にある作者を救おうともせず、沈黙し続けているのである。神のみを頼みとする作者が神から見捨てられた。その悲しみと苦しみはいったいいかばかりであろうか。
・にもかかわらず作者は驚くべきことを語る。「夜も、黙ることをお許しにならない」と。これは一体どういうことかと言えば、要するに一晩中祈り続けているということである。神が祈りに応えてくれないものだから、作者は一晩中祈り続けざるを得なくなった。そのことを作者は「夜も、黙ることをお許しにならない」と表現したのである。
・これは何と驚くべきことであろうか。普通の人なら、もし神が祈りに応えてくれないのだとすれば、神に祈ることなどやめてしまうであろう。日本人はご利益のない神を見捨ててしまうことで有名であるが、ユダヤ人だって神が祈りに応えてくれないなら祈ることはやめてしまう。ところがこの詩の作者は、神が祈りに応えてくれないにもかかわらず、祈り続けているのである。これはいったいどういうことであろうか。
・ここにあるのは、真の信仰の姿である。普通の信仰は全てご利益信仰である。すなわち祈りに応えてくださるから神を信じるという信仰である。世界中の信仰はほとんどすべてがご利益信仰であり、聖書の大半もご利益信仰であると言ってよい。ところがこの詩の作者は、ご利益信仰とは全く異なる信仰の在り方を表している。すなわち、自分を見捨てた神をも信じるという信仰である。言い換えれば、それは自分のご利益を度外視した神中心の信仰である。これぞ本当の信仰である。
#というわけで、今日の個所から受け取るべき第二のメッセージはこれ、すなわち本当の信仰は自分のご利益を度外視した神中心の信仰であるということである。すなわち、たとえ自分が見捨てられたとしても、神の御心がそれで実現するならそれでよしとする信仰である。これこそが本物の信仰であり、聖書の信仰を他のあらゆる信仰と区別する決定的な点である。
・この本当の信仰を明確に表したのは、もちろんイエス・キリストである。イエスは私たちに祈りの方法を教えてくれたが、その祈りとはまさに自分のことではなく、神のことを真っ先に祈る祈りであった。以下、その祈りをマタイによる福音書から引用しよう。
6:9 だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。
6:10 御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。
6:11 わたしたちに必要な糧を今日与えてください。
6:12 わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。
6:13 わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。』
これは「主の祈り」と呼ばれている有名な祈りだが、この祈りで重要なのは、自分のことは後回しにして、神のことを真っ先に祈っている点である。「御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように」と。このような祈りを真っ先に祈る祈りこそは本当の祈りである。そして本当の信仰とは、自分の利益よりも神の御心の実現を神に信仰なのだ。このことを皆さんにはぜひとも覚えておいていただきたい。
2.平安の根源
22:7 わたしは虫けら、とても人とはいえない。人間の屑、民の恥。
22:8 わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い/唇を突き出し、頭を振る。
22:9 「主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら/助けてくださるだろう。」
・・・
22:13 雄牛が群がってわたしを囲み/バシャンの猛牛がわたしに迫る。
22:14 餌食を前にした獅子のようにうなり/牙をむいてわたしに襲いかかる者がいる。
22:15 わたしは水となって注ぎ出され/骨はことごとくはずれ/心は胸の中で蝋のように溶ける。
22:16 口は渇いて素焼きのかけらとなり/舌は上顎にはり付く。あなたはわたしを塵と死の中に打ち捨てられる。
22:17 犬どもがわたしを取り囲み/さいなむ者が群がってわたしを囲み/獅子のようにわたしの手足を砕く。
22:18 骨が数えられる程になったわたしのからだを/彼らはさらしものにして眺め
22:19 わたしの着物を分け/衣を取ろうとしてくじを引く。
*ここに描かれているのは、作者が神から見捨てられたときの状況である。あらゆる人から見捨てられ、「虫けら、…人間の屑、民の恥」と蔑まれ、ばかにされる。襲い掛かってくる敵どもによって心身ともにボロボロにされ、財産も全て奪われてしまう。しかし、作者を最も苦しめているのは、そのようなみじめな状況自体ではない。神がそのような状況から作者を救い出して下さらないことである。自分はこれほど悲惨な目に合っているのに神は沈黙している。いったいなぜなのか。この疑問が作者を何よりも苦しめているのである。
#ここから受け取るべきメッセージ(第三のメッセージ)は、神との断絶こそが最も人を苦しめるということである。不名誉もつらいし、敗北もつらいし、不健康もつらいし、貧困もつらい。神を信じていない日本人は地震や津波などの自然災害に襲われることや癌などの不治の病にかかることが一番つらいことだと思っている。しかし本当につらいのはそうした災難自体ではない。そうした災難を通じて神と断絶してしまうことこそが最もつらい、究極の絶望を引き起こすのだ。神とつながってさえいるならば、人はいかなる災難に見舞われようとも、なんとか平安を保って生きていくことができる。しかし、神から見捨てられたと思うなら、心の平安は根本的に崩れ去ってしまう。
・神を信じない人は、このことに気付かない。神を元々信じていないわけだから、神と断絶したところで何も問題はないと思っている。しかしそれは、完全な間違いである。神と断絶しているからこそ最もつらい、絶望的状況に陥るのである。その証拠はいたるところにある。例えば、心の病。うつ病、自閉症、登校拒否症…。現代は、かつてないほどに心の病が増えている時代である。あるいはマインドコントロール。現代は陰謀論やフェイクニュースやカルト宗教によって簡単にマインドコントロールされてしまう時代である。あるいはゲーム、漫画、ギャンブル、アルコールを初めとする数々の依存症。現代はかつてないほどに数々の依存症を生み出す時代である。いったいなぜこうなるのか。神と断絶しているからである。神と断絶しているからこそ根本的な心のよりどころを失い、心を病み、怪しいものに頼ることになるのである。事実、神との関係が安定していた時代には、これらの現象はほとんどなかった。
・だからみなさんには、神との断絶こそが最もつらい絶望を引き起こすというメッセージをここから受け取ってもらいたい。そして同時に、神とつながっているという感覚こそが心の根本的安定の要であるというメッセージをもここから受け取ってもらいたい。
3.無信仰の信仰
22:10 わたしを母の胎から取り出し/その乳房にゆだねてくださったのはあなたです。
22:11 母がわたしをみごもったときから/わたしはあなたにすがってきました。母の胎にあるときから、あなたはわたしの神。
22:12 わたしを遠く離れないでください/苦難が近づき、助けてくれる者はいないのです。
・・・
22:20 主よ、あなただけは/わたしを遠く離れないでください。わたしの力の神よ/今すぐにわたしを助けてください。
22:21 わたしの魂を剣から救い出し/わたしの身を犬どもから救い出してください。
*これらの言葉は、作者が夜ごとに祈っていた祈りの内容である。作者は神に見捨てられてなおも祈っていた。その信仰は確かに立派なものであるけれど、しかしその祈りの内容は相変わらず自分を救ってくださいというご利益信仰的な祈りである。イエスのように、神の御心の実現を中心に据えて、神のためなら自分は二の次になってよいという祈りには至っていない。
・しかしここには、イエスが示した本当の祈りの一歩手前ともいうべき言葉がある。それは、12節の「助けてくれる者はいないのです」という言葉である。この世の全ての人々から見捨てられた者は、神に助けを求める以外にない。そして神以外に助けてくれる者がないと完全に分かったとき、やむにやまれず信仰が生じてくる。この信仰こそは、自分の意志で持とうとする信仰ではなく、神から与えられる信仰であり、以前学んだ「無信仰の信仰」(自分には信仰すらないと思ったときに外から与えられる信仰)である。この信仰は外から与えられるものであるだけに自己中心性がなく、神中心の信仰に極めて近い。そのような「無信仰の信仰」が「助けてくれる者はいないのです」という言葉にはよく表れている。だからこそこの言葉には、格別の注意を払うべきなのである。
#というわけで、ここで受け取っておくべきメッセージ(第四のメッセージ)は、本当に絶望したときにこそ外から本当の信仰が与えられるということである。
・かつて内村鑑三は、不敬事件(天皇陛下の写真に対して最敬礼しなかった)によって日本人のほぼ全員から国賊とののしられて見捨てられ、神に頼る以外にどうしようもない状況へと追いやられた。そしてそうなったときに、外側から無信仰の信仰を与えられた(『キリスト信徒の慰め』参照)。私も子供が癌にかかって死んでしまい、この世に完全に絶望したときに同様の信仰を与えられた。無信仰の信仰こそは、希望が失われたときに外から与えられる本当の信仰への第一歩なのだ。
*ここまでこの詩のメッセージを理解するなら、いったいなぜ神は作者を見捨てたのかというこの詩の最大の疑問が解き明かされる。この詩は開口一番「わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか」と叫ぶのだが、いったいなぜ神は彼のことを見捨てたのであろうか。具体的理由はどこにも書かれていないが、以上のようなメッセージを受け取ることができるなら、その理由は以下のようなものであると推測できる。神は無信仰の信仰を与え、ついにはご利益信仰を超えた真の信仰へと作者を導くために敢えて彼を見捨てるかのような行動をとったのだと。
・だから、神は本当の意味で彼を見捨てたのではない。愛の神が人間を見捨てることなどありえない。神は人間をさらに良い方向へと導くために、見捨てたかのように沈黙するだけなのである。
#というわけで、ここから第五のメッセージが出てくる。すなわち、神の沈黙は私たちをよい方向へ導くための試練であるというメッセージが。真の神は祈りに応えてくださる、生きて働く神である。その神が沈黙する理由は何かと言えば、それは決して人を見捨てたということではない。むしろ人をさらに良い方向へ導くためにこそ沈黙なさるのだ。もちろん神を信じない人に対して神は沈黙を続ける。しかし神を信じる人に対してなされる沈黙には、その沈黙と全く別の意味がある。その意味とはまさしく、その人をより方向へ導くことなのである。すなわちより深い神との交わりへと。
4.時空を超えて
22:22 獅子の口、雄牛の角からわたしを救い/わたしに答えてください。
22:23 わたしは兄弟たちに御名を語り伝え/集会の中であなたを賛美します。
22:24 主を畏れる人々よ、主を賛美せよ。ヤコブの子孫は皆、主に栄光を帰せよ。イスラエルの子孫は皆、主を恐れよ。
22:25 主は貧しい人の苦しみを/決して侮らず、さげすまれません。御顔を隠すことなく/助けを求める叫びを聞いてくださいます。
22:26 それゆえ、わたしは大いなる集会で/あなたに賛美をささげ/神を畏れる人々の前で満願の献げ物をささげます。
22:27 貧しい人は食べて満ち足り/主を尋ね求める人は主を賛美します。いつまでも健やかな命が与えられますように。
22:28 地の果てまで/すべての人が主を認め、御もとに立ち帰り/国々の民が御前にひれ伏しますように。
22:29 王権は主にあり、主は国々を治められます。
22:30 命に溢れてこの地に住む者はことごとく/主にひれ伏し/塵に下った者もすべて御前に身を屈めます。わたしの魂は必ず命を得
22:31 -32子孫は神に仕え/主のことを来るべき代に語り伝え/成し遂げてくださった恵みの御業を/民の末に告げ知らせるでしょう。
*ここには重大な誤訳がある。22節には「獅子の口、雄牛の角からわたしを救い/わたしに答えてください」とあるが、この箇所の正確な訳は「獅子の口、雄牛の角からわたしを救ってください。/するとあなたは私に応えて下さった」である(「救う」の原語は命令形、「答える」の原語は完了形)。
・つまり、この個所は神がついに作者の祈りに応えて、作者を救い出してくださったことを表しているのである。だからこそこの後は神賛美となる。
・それでは、いったい神はどのようにして作者を救い出してくださったのか。具体的なことは何も書かれていないが、途方もない救いの業がなされたことは確かである。なぜなら、この後に続く作者の神賛美は、うって変わって絶大な神賛美であり、しかもその神賛美はユダヤ教の枠をはるかに超えたものであるのだから。
・例えば、28節では、「地の果てまで/すべての人が主を認め、御もとに立ち帰り/国々の民が御前にひれ伏しますように」とある。全世界が神のもとにひれ伏すという発想は、旧約聖書にはほとんどない。旧約聖書の関心はイスラエルの救いに集中しているからだ。さらに30節には、「命に溢れてこの地に住む者はことごとく/主にひれ伏し/塵に下った者もすべて御前に身を屈めます」とある。「塵に下った者もすべて御前に身を屈めます」とは、死んで黄泉にいる者も皆よみがえって、神を崇めるということである。つまりここでの作者の関心は死後の世界にまで及んでいる。このような発想もまた旧約聖書にはほとんどない。旧約聖書は死者を汚れた者として神の領域の外に置いてきたのだから。さらに30節の後半には「わたしの魂は必ず命を得」とある。これは明らかに永遠の命を得るということである。これまた旧約聖書にはない発想である。なぜなら旧約聖書の関心は現世に集中しているからである。というわけで、これらの発想は全て旧約聖書の枠をはるかに超えた発想であり、全世界どころか死後の世界まで包括する発想(ビジョン)である。
・これほどの発想へ導かれたのだとすれば、この詩の作者はよほどにすごい救いの御業を体験したに違いない。ひょっとすると彼は復活のようなことを体験したのではないだろうか。そうでなければ、全世界と死後の世界を包括するようなビジョンを与えられるはずがない。
*いずれにせよ、彼に示された神の救いは、全世界と死後の世界を包括するような救いであった。そのことだけは確かである。そのような救いをもたらす神であればこそ、人間に不動の平安をもたらしうるのである。皆さんがそのような神を受け入れることを心より願う。
話し合い
It「自分が見捨てられてまで神を信じるという信仰は、とても自分には持てないと思いました。」
寮長「その通りです。だからそれは外から与えられるほかない信仰です。」
So「絶望しない人には信仰は必要がないということでしょうか。」
寮長「少なくとも自分が強いと思っている人には信仰は必要ない、というか祈る心が生じないでしょう。でも神とつながっていないなら、何らかの問題が生じてしまうので、やはり信仰は全ての人に必要だと思います。」
So「でも信仰がなくても、幸せに暮らしている人はたくさんいますよね。」
寮長「それはお金か力か自分の能力のおかげで悲惨な現実や自分の弱さと向き合わないで済んでいるからですよ。しかしそれはあくまで当面のことです。それらに頼って幸せに生き抜けるほど人生は甘くないと思います。」
Ya「僕は、神とつながっていることが心の安定を保つというところに感動しました。その通りだと思います。」
寮長「ありがとう。」
Mi「今日の詩篇の作者は、自分の思い通りにならない悲惨な現実にきちんと向き合い、それによって思い上がりやおごりを回避する結果になったと思います。」
寮長「それはいいところに気付きましたね。信仰とは言い換えればへりくだりであるかもしれません。自分の弱さを自覚して神により頼むことが信仰なのですから。作者は神の沈黙によって悲惨な現実と向き合うことになり、おかげでおごり高ぶりを回避できたと言えるでしょう。」
Ma「神以外助けてくれるものがない」という考えは、神信仰を強制しようとするテロリストの思想に近いと思います。」
寮長「神以外助けてくれる者がない」という言葉は、そういう思想を表す言葉ではなく、そのような絶望的状況を表す言葉です。そういう状況に置かれたときに信仰が与えられるということであって、それをテロリストの思想と結びつけるのはとんでもない読み違いです。」
Ma「神の御心が実現すれば自分は神から見捨てられてもよいという信仰も、自爆テロなどで自分の命を平気で捨てるテロリストたちの発想と似ているように思われました。」
寮長「自分の命を平気で捨てるテロリストたちは自分の理想(本人にとっては神の御心)を実現しようとして自分の命を捨てるのであって、それは、形は自己放棄でも本質的には自己放棄ではありません。むしろそれは、自力によって神から認められようとする究極の自己中心主義と言ってよいでしょう。本当に神から見捨てられてよいと思っているなら、自爆テロなどという力業には出ずにすべてを神にゆだねるはずです。また自爆テロという行為は自力で自分の理想(彼らにとっての神の御心)を実現しようとする行為であり、これまた自分を捨てて神にすべてを委ねる信仰とは全然異なります。両者は似ているようでありながら、全く違うものなのです。この違いに気付かなければ。さらに言えば、神の御心とは神の愛による支配であり、自爆テロとは無縁です。」
Ryo「旧約聖書にも全世界の平和を望む思想はあるのではないでしょうか。」
寮長「たしかにあります。創世記の天地創造の記事にも、イザヤの預言にも確かにそういうビジョンがある。しかし旧約の中心はやはりイスラエルの救いであり、異民族の救いはやはり周辺的なものといわざるを得ません。異民族はなにしろ、モーセの十戒の第一戒を犯す偶像崇拝者の集団なのですから。」、
Ma「ちょっとおかしいと思ったところは、キリスト教徒にも心が病んでいる人がたくさんいるという事実が触れられていないところです。僕はキリスト教徒ですが、僕の周りのクリスチャンにはそういう人がたくさんいます。そういう人は熱心に祈っているけれど、少しも心の病が治りません。彼らは祈るよりもむしろ病院へ行くべきだと思うのですが。彼らは祈りの依存症になっているように思われます。」
寮長(この発言には当日語られなかった内容が含まれています)「難しい問題ですね。先ず言えることは、いくら祈っても治らないということは、今日の詩篇が伝えていたように、神があえて沈黙しているわけであり、そこに何らかのメッセージがあるということです。神はその試練を通じて彼らに何かメッセージを与えようとしているのでしょう。ではそのメッセージとは何か。イエスは確かに祈りによって人々の病を治しました。しかし、それは治すこと自体を目的とした行為ではなく、神の国到来を伝えるための行為でした。またイエスの祈りは、すべて他人の病を癒すための行為であり、自分の病を癒すための行為ではありませんでした。これらのことに注目するなら、神が彼らの祈りに応えない理由が分かってくるかもしれません。ひょっとすると神は『何でもかんでも祈りによって解決しようという態度は間違いだ』と伝えたいのではないでしょうか。つまり、君が指摘するような祈り依存症の過ちをしらせようとしているのかもしれません。」
Ue「この詩編とダビデは直接関係がないと言われましたが、ダビデにも苦しいときはあったと思います。確かにダビデは絶えず勝利し続けましたが、そういう人でも絶望することがあったのではないでしょうか。つまり僕が言いたいのは、お金や力や能力を持った人でも、絶望することがあるのではないかということです。そういうときにはお金や力や能力を持った人でも信仰を与えられるのではないでしょうか。」
寮長「その通りだと思います。お金や力や能力を持っているというのはあくまで外的問題です。重要なのは内的に自分のことを弱い人間であると自覚しているかどうかです。いくらお金を持っていても、自分は本当に弱い人間だと絶望することはいくらでもあります。そういうときには、その人は信仰を与えられるでしょう。逆に貧乏で無力で無能でも自分は強いのだと思いあがっているならば、信仰など与えられません。そもそもそういう人は、神に祈ろうとは思わないでしょうから。」
Ko「今日の話は本当に良い話だと思いました。僕が経験してきたことが多く含まれていましたから。絶望の時は誰にでも必ずやって来ると思います。そのときには、見捨てられても神を信じる信仰(神中心の信仰)の素晴らしさが本当にわかると思います。」
寮長「君は苦労したからそういうことが分かるのでしょうね。」
Ka「信仰のない人は祈る人に嫌悪感を持つと言われましたが、僕も祈る人に対しては嫌悪感を抱いていました。しかしそれは、祈る人が騙されて狂信的になっていると思ったからです。しかし、今日の話を聞いて、祈りというのが神以外に頼るものがない状況から与えられるものだということを知り、考えを改めました。ほとんどの日本人から見捨てられて、そのような信仰を与えられた内村の話には心を打たれました。」
寮長「そのように受け止めてくれてうれしいです。これは前々から言っていることですが、皆さんには理性と信仰の両方を大事にしてもらいたい。信仰だけですと狂信的になり、何でも祈りで解決しようとするようになってしまいます。他方で理性だけですと、生きている意味や希望や心のよりどころを見失ってしまいます。これからの一年、両方を大切にしつつ充実した寮生活を送っていってください。」