アブラムの旅立ち(小舘)

2025年10月26日春風学寮日曜集会

聖書 創世記14:1-12

同 19:1-11

 

序 復習+α

 前回は、バベルの塔の物語を通して、神が人間の集団的協力に否定的であることを学んだ。なぜなら人間が罪(自己中心性)に支配されているからだ。集団的協力は善悪の知識と結びついて巨大な力をもたらす。もし罪に支配された人間がそのような巨大な力を持ったらどうなるであろうか。そこからは必ずや途方もない悪が生じるであろう。そうであればこそ、神は人間が集団的に協力することに否定的であり、時折現実に介入して怒りを表し(天罰を下し)、その危険性に注意を喚起するのである。

 しかし、神がいくらそのように注意を喚起しても、人間は繰り返し集団的協力を試み、巨大な力を得ようとした。そしてその結果各地に文明と呼ばれるものを作っていった。メソポタミア文明、エジプト文明、黄河文明、インダス文明などはその例である。

 それではそのような文明はどのような末路をたどるのであろうか。今日取り上げる記事はいずれもその末路を暗示するものである。

 

1.神なき集団協力の末路

 聖書が指し示す文明の末路の一つは14章にある。以下引用しよう。

14:1 シンアルの王アムラフェル、エラサルの王アルヨク、エラムの王ケドルラオメル、ゴイムの王ティドアルが、

14:2 ソドムの王ベラ、ゴモラの王ビルシャ、アドマの王シンアブ、ツェボイムの王シェムエベル、ベラ、すなわちツォアルの王と戦ったとき、

14:3 これら五人の王は皆、シディムの谷、すなわち塩の海で同盟を結んだ。

14:4 彼らは十二年間ケドルラオメルに支配されていたが、十三年目に背いたのである。

14:5 十四年目に、ケドルラオメルとその味方の王たちが来て、アシュテロト・カルナイムでレファイム人を、ハムでズジム人を、シャベ・キルヤタイムでエミム人を、

14:6 セイルの山地でフリ人を撃ち、荒れ野に近いエル・パランまで進んだ。

14:7 彼らは転進して、エン・ミシュパト、すなわちカデシュに向かい、アマレク人の全領土とハツェツォン・タマルに住むアモリ人を撃った。

14:8 そこで、ソドムの王、ゴモラの王、アドマの王、ツェボイムの王、ベラすなわちツォアルの王は兵を繰り出し、シディムの谷で彼らと戦おうと陣を敷いた。

14:9 エラムの王ケドルラオメル、ゴイムの王ティドアル、シンアルの王アムラフェル、エラサルの王アルヨクの四人の王に対して、これら五人の王が戦いを挑んだのである。

14:10 シディムの谷には至るところに天然アスファルトの穴があった。ソドムとゴモラの王は逃げるとき、その穴に落ちた。残りの王は山へ逃れた。

14:11 ソドムとゴモラの財産や食糧はすべて奪い去られ、

14:12 ソドムに住んでいたアブラムの甥ロトも、財産もろとも連れ去られた。

突然たくさんの固有名詞が出てくるので、まずは交通整理をしよう。14:1に出てくる4人の王「シンアルの王アムラフェル、エラサルの王アルヨク、エラムの王ケドルラオメル、ゴイムの王ティドアル」とは要するにメソポタミア地方とその周辺(今のイラクやシリアあたり)の王たちである。対して14:2に出てくる5人の王「ソドムの王ベラ、ゴモラの王ビルシャ、アドマの王シンアブ、ツェボイムの王シェムエベル、ベラ、すなわちツォアルの王」とは、死海沿岸(今のイスラエル、ヨルダン、パレスチナのあたり)の諸都市の王たちである。つまり、メソポタミア地方の王たちが手を組んで、死海周辺の王たちに戦争を仕掛け、彼らを打ち負かし、ソドムとゴモラの全財産を奪い去ったことがここに記されているのである。いったいなぜこのようなことが突然記されているのか。今までの脈絡から考えれば明らかであろう。罪に支配された人類が善悪の知識を駆使して集団的協力を突き進めていくとどうなるか、その末路が世界大戦であることを示そうとしているのである。「世界最初の中東戦争」とこの戦争を呼ぶ人もいるが、実際にはこれ以前にもこのような大規模な戦争はあったらしい。しかし、どれが最初かなどどうでもよい。重要なのは、これと同様の大戦争があちこちで起こっていたということであり、これ以降もあちこちで起こり続けたということである。罪に支配された集団は知識と協力によって巨大な力を持つに至り、その力を自己中心的に使用する。その行き着く先は富の奪い合いであり、戦争である。このメッセージを伝えるためにこそ神は聖書の筆者を通じてこの大戦争を伝えたのだと私は思う。

 人類の歴史をたどれば、それが戦争の連続であることは明らかであり、さらに20世紀には二つの世界大戦があった。そして今や三つ目の世界大戦がはじまりそうな気配である。このような事実を振り返るなら、聖書の示すこのメッセージは、単なる知恵を超えた真理というべきものであると言えよう。

 

2.もう一つの末路

 ところで聖書が伝える集団的協力の末路は戦争だけではない。戦争よりもはるかに醜悪な末路が待ち受けている。その末路を記すのが19章である。以下引用しよう。

19:1 二人の御使いが夕方ソドムに着いたとき、ロトはソドムの門の所に座っていた。ロトは彼らを見ると、立ち上がって迎え、地にひれ伏して、

19:2 言った。「皆様方、どうぞ僕の家に立ち寄り、足を洗ってお泊まりください。そして、明日の朝早く起きて出立なさってください。」彼らは言った。「いや、結構です。わたしたちはこの広場で夜を過ごします。」

19:3 しかし、ロトがぜひにと勧めたので、彼らはロトの所に立ち寄ることにし、彼の家を訪ねた。ロトは、酵母を入れないパンを焼いて食事を供し、彼らをもてなした。

19:4 彼らがまだ床に就かないうちに、ソドムの町の男たちが、若者も年寄りもこぞって押しかけ、家を取り囲んで、

19:5 わめきたてた。「今夜、お前のところへ来た連中はどこにいる。ここへ連れて来い。なぶりものにしてやるから。」

19:6 ロトは、戸口の前にたむろしている男たちのところへ出て行き、後ろの戸を閉めて、

19:7 言った。「どうか、皆さん、乱暴なことはしないでください。

19:8 実は、わたしにはまだ嫁がせていない娘が二人おります。皆さんにその娘たちを差し出しますから、好きなようにしてください。ただ、あの方々には何もしないでください。この家の屋根の下に身を寄せていただいたのですから。」

19:9 男たちは口々に言った。「そこをどけ。」「こいつは、よそ者のくせに、指図などして。」「さあ、彼らより先に、お前を痛い目に遭わせてやる。」そして、ロトに詰め寄って体を押しつけ、戸を破ろうとした。

19:10 二人の客はそのとき、手を伸ばして、ロトを家の中に引き入れて戸を閉め、

19:11 戸口の前にいる男たちに、老若を問わず、目つぶしを食わせ、戸口を分からなくした。

ここに描かれているのは説明することさえ恥ずかしくなるほど醜悪なことである。ロトの家に二人の旅人が泊ったことを聞きつけたソドムの町の男たちは若者も年寄りもこぞって押しかけ、家を取り囲んで、次のようにわめきたてた。「今夜、お前のところへ来た連中はどこにいる。ここへ連れて来い。なぶりものにしてやるから」と。「なぶりものにしてやる」とはどういうことか。原語のヘブライ語を確認するならば、ここには「ヤダ」という動詞がつかれている。「ヤダ」は直訳すれば「知る」だが、「知る」は聖書では性的交わりを意味する言葉である。したがって、「なぶりものにしてやる」とは実は「レイプ(強姦)してやる」ということなのである。そうなのだ。ソドムの町の男たちは、二人の男の旅人たちを集団レイプしにやってきたのだ。レイプというのは、普通男が女に対して行うことであるが、ソドムの連中は驚くべきことにそれを男に対して行っていた(ソドミズムと呼ばれる)。ロトは彼らに対して自分の若い娘二人を差し出したのに、彼らは彼女らには見向きもしていない。つまり彼らは、女をレイプすることにはもう飽き飽きしていたのだ。これは何と醜悪な事態であろうか。

 それではこのような記事を通して聖書は何を伝えようとしているのであろうか。今までの脈絡に照らせば明らかであろう。罪に支配された人間が集団的協力によって巨大な力を得た場合に向かう、もう一つの末路を示そうとしているのだ。罪に支配された集団は、その力を自己中心的に用いる。その行き着く先の一つは戦争であった。しかし、戦争が回避された場合にはどこへ向かうのか。あらゆる形での快楽の追求へと向かうであろう。そしてその結果個人的に快楽を追求するよりも集団的に快楽を追求したほうが、快楽は大きいことを知るであろう。一人で歌を歌うよりも集団で歌を歌ったほうがはるかに楽しいし、一人でスポーツを行うよりも集団でスポーツを行ったほうがはるかに楽しい。一人で飲み食いするよりも集団で宴会をした方がはるかに楽しいし、一人で性的快楽に浸るよりも、集団で性的快楽に浸るほうがはるかに楽しい。罪に支配された人間は集団的協力を通じて、必ずそのような集団的快楽の追求へと向かっていく。そのことの危険性をこの記事は伝えようとしているのだ。もちろん罪に支配されていない者たちが集団的に快楽を追求したところで危険はない。しかし人は概して罪(自己中心性)に支配されている。そのような者たちが集団的に快楽を追求していくなら、その果てにあるものはいったい何か。個人や人権の尊重、弱者への思いやり、人格的交流といった最も大切なものが軽んじられていくことになっていくのではないか。上記のソドムの記事は、そのような危険な事態を極端な形で伝えようとするものである。そこでは年齢差、性差、地域差、人格といった一切の個性が見失われ、相手は単なる自分の欲望を達成するための道具とみなされている。罪人による集団的快楽の追求においては、こういうことが起こるのである。この醜悪極まりないソドムの記事は、それを伝えようとする記事なのである。

 ところでここにはもう一つ見過ごせない箇所がある。それは、ロトが神の御使い〈二人の旅人は実は神の御使いである〉を助けようとしてソドムの男たちに二人の娘を差し出す個所である。いくら神の御使いを助けるためとはいえ、これは少しやりすぎなのではないか。自分を犠牲にするならまだしも、娘を犠牲にして善をなそうとするとは、これでは善と呼ぶに値しない。たとえどんなに良い目的のためであっても、他者を犠牲にしてしまうならそれはもう罪である。いったいなぜロトはそのような基本を見失ってしまったのだろうか。はっきりした理由は書かれていないが、脈絡から推測するならやはりソドムの影響を受けたためであろう。ソドムでは集団的快楽追求のために個人を物とみなし、犠牲にすることが常識となっていた。ロトはソドムの近くで長く暮らしたためにその影響を受け、娘を犠牲にすることを悪であると感じなくなっていたと推測できる。

 だとすればこの個所を通じて神が何を伝えようとしているかもわかってくる。罪に支配された人々の集団の近づくべきではないと伝えたいのだ。人は他者の影響を受けずにはいられない弱い存在である。悪い集団の中にいれば必ずその影響を受けてしまう。だから、せめて悪い集団には近づくなと神は伝えようとしているのではないか。世の中には悪い集団がいっぱいある。悪い国、悪い自治体、悪い会社、悪い学校、悪い部活動、悪いサークル、悪いバイト先、悪いSNS集団…。そういうところに入ってしまったら、もうその影響を受けずにはいられない。だから、できるだけ悪い集団に近づかないよう私たちは努力すべきだ、とこの記事を通じて神は訴えていると私は思う。

 

3.生まれ故郷を捨てよ

さて、話を戻そう。罪に支配された人間が集団的に協力して力を蓄えていくと、その先にあるものは戦争か非人格的快楽追求であることを聖書は記録する。それではこのような人間の動向を見て神はどう思ったであろうか。いくら警告を発しても(天罰を下しても)無駄だと思ったのではないか。そしてもっと根本的な解決策を講じなければ人間が巨大な悪(戦争や非人格的快楽追求)へと向かっていくのを防ぐことはできないと思ったのではないか。

そこで神は諸悪の根源である人間の罪(自己中心性)と対決することにする。その決意を表す記事こそ有名なアブラムの旅立ちの記事である。以下、引用しよう。

12:1 主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。

12:2 わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。

12:3 あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」

12:4 アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。アブラムは、ハランを出発したとき七十五歳であった。

神はいきなりアブラムという男に呼び掛けて、「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい」と言うわけだが、このアブラムとはいったい何者か。彼の正体をよく知るためには、この章の前に記されている系図について少し学んでみる必要がある。少し退屈な作業であるが、世界史とも関係する重要な情報が含まれているのでお付き合い願いたい。

 10章の系図によれば、ノアにはセム、ハム、ヤフェト(別訳ヤぺテ)という三人の息子が生まれた。セムは、アラビヤ人やヘブライ人(ユダヤ人)の祖先であり、ハムはエジプト人や北アフリカ人の祖先であり、ヤフェトはヨーロッパ人の祖先であると言われている。これが本当かどうかは怪しいけれど、セム、ハム、ヤフェトの名は古来各民族を分類するために使われるようになり、アラビヤ人とヘブライ人はセム族、エジプト人と北アフリカ人はハム族、ヨーロッパ人はヤフェト族と呼ばれるようになった(現在ヤフェト族は東欧・西北アジアの諸族の総称へと変わっている)。

 さて、アブラムだが、アブラムはそのセムから数えて10代目の子孫にあたる(11章)。アブラムの頃には、セムの子孫たちは西アジア一帯に拡散し、各地で繁栄していった。この中からメソポタミア文明が生まれるわけである(実はメソポタミア文明のほうがセムより古いのだが、聖書ではセムの方が古いことになっている。事実について聖書は相変わらずいい加減である)。

11:28によれば、アブラムの生まれ故郷は、カルデアのウルという町である。カルデアというのは聖書ではバビロニア王国の別名であり、ウルはバビロンと並ぶバビロニア王国の中心都市であった。考古学的研究によれば、ウルには王宮があり、ユーフラテス川から引いた運河があり、巨大な塔(ジッグラト)があったことも分かっている。つまり、アブラムの生まれ故郷のウルはバベルのような文明都市であったのだ。

 このような背景を理解した上で、「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい」という神の呼びかけを読むならば、この呼びかけの背後にははっきりとした理由があると理解できる。神はアブラムを、罪に支配されたまま巨大な力を持ち始めた文明都市ウルから引き離したかったのである。

 しかし、単に引き離したかっただけではない。その後で神はこう言っている。「わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る」と。要するに神はアブラムを祝福して大いなる国民にすると述べ、さらにはアブラムを祝福する人や民族も祝福すると述べているのである。このような言葉の背後にある神の真意はいったい何であろうか。今までの流れを全て考慮すれば、理解できよう。神はアブラムを中心にして、罪(自己中心性)に支配されない人々を育て、そのような人々を通じて国(神の国)を築こうとしているのである。

神は人間の集団的協力に否定的であったが、それは人間が罪(自己中心性)に支配されていたからであり、もし人間が罪に支配されていないなら、神はむしろ人間の集団的協力に肯定的であった。なぜなら神の本質は愛であり、愛に基づく助け合い(協力)を実現するためにこそ神は複数の異なる人格を持った人間を創造したのだから(アダムとエバの創造のメッセージ)。

神は今改めて人間創造の原点に立ち返り、愛に基づく助け合いを実現すべく動き出した。すなわちアブラムを中心にして、罪(自己中心性)のない人間が相互に協力していく社会(神の国)を造ろうと動き出したのである。

それでは神はいったいどのようにして罪のない人間を造り出そうというのであろうか。その答えが神の言葉の中にすでに表れている。すなわち、「祝福の約束」である。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい」という神の呼びかけに対して、アブラムは即応している。すなわち迷いもせずに「主の言葉に従った」のである。「生まれ故郷」を捨てるというのは非常に難しいことである。にもかかわらず、アブラムはまるでごみでも捨てるかのように簡単に「生まれ故郷」を捨てている。いったいなぜであろうか。もちろん神が祝福を約束したからである。神は、アブラムを祝福すると約束し、アブラムを祝福する者も祝福すると約束した。そしてさらにはアブラムを呪う者を呪うとまで約束した。この約束を信じればこそ、アブラムは心おきなく「生まれ故郷」を捨てることができたのである。神は今これと同じ方法によってすべての人間の罪(自己中心性)を取り除こうとしている。

人はいったいなぜ神の意志である愛に逆らい、自己中心的になるのであろうか。愛など実行したら損をするし、自分の身が危険にさらされると思うからではないか。しかしもし神の祝福の約束を信じられるならどうであろうか。自分が損をするとか、自分の身が危険にさらされるとかいった心配は一切なくなるであろう。そうなるならば、自己中心的である必要は全くなくなる。今や神はそのようにして人の罪を弱め、神の国を造ろうと動き出した。そのことを伝えようとする記事こそが、アブラムの旅立ちの記事なのである。

というわけで、アブラムの旅立ちの記事に込められた神のメッセージは、神の祝福の約束を信じることができるなら、人は自己中心性(罪)を弱めていくことができるということである。もし私たちがアブラムのように神の祝福の約束を信じることができるなら、私たちの自己中心性は根本的に崩壊していく。だとすれば、皆さんも神の祝福の約束を信じてみたいと思わないだろうか。

 

 

話し合い

Ma「集団の中では、人は結構自己犠牲的になることができます。例えば、国民を守るために命を懸けて働く人が出てきます。しかし、彼らは集団外の人たちに対しては全く冷たい。まさに自己集団中心的になってしまう。こういうのも、集団の恐ろしさですね。」

寮長「その通り。」

Ma「ところで、悪い集団と悪くない集団とはなかなか見分けにくいのではないでしょうか。また、そういうふうに集団を善悪に分けてしまい、悪そうだったらその集団から抜けてしまうというのは間違っているのではないでしょうか。」

寮長「確かになかなかわかりにくいこともあります。しかしはっきりと悪い集団は存在しますし、その集団の目的や価値観、そして構成員たちの態度をよく調べて行けばけっこう良し悪しはわかります。そのようにして悪い集団だと分かったときにそこを抜け出したり、そこから距離を置いたりすることは決して悪いことではないと思います。繰り返しになりますが、人間は集団に染まらないほど強くはありませんから。」

Ryo「ロトが娘を差し出した動機がよくわからなかったのですが、ソドムの影響だったと考えれば確かに納得できます。そもそもロトはこの前の章で自ら望んでソドムの近くの土地に住んだのでした。そしてこの後には、娘たちと近親相姦してしまう。これらのことを考えあわせても、ロトはソドムから強い影響を受けていたと言えるでしょう。」

寮長「さすが。よく勉強していますね。」

Oko「集団を作ることは決して悪いことではないという意見も先週にはありましたが、今日の話を聞きながら、やはり集団の中にいると罪に支配されやすくなると感じました。」

Ho「やはり集団のサイズが重要なのではないでしょうか。顔と顔が見える程度の集団なら、人格的関係が保てるけれど、数百人の集団になれば、構成員はもはや集団の歯車でしかなくなってきます。そうなると集団は罪を誘発しやすくなってくるのだと思います。」

Ma「もう一つ重要なのは影響力のある人物です。そういう人物が良い人なら集団は良くなるけれど、悪い人なら集団は悪くなってしまう。」

寮長「なるほど。トランプを思い出さざるを得ませんね。」

Ko「アブラムがごみを捨てるかのように故郷を捨てたというのは言い過ぎだと思います。聖書には書かれていませんが、アブラムは相当に悩んだ末に故郷を捨てたのではないでしょうか。」

寮長「これは一本取られましたね。君の解釈のほうが正しいでしょう。ごみを捨てるかのように故郷を捨てたというのは、話を盛りすぎですね。」

Ka「きちんとした良い目標があって集団を形成するのは良いことですが、ほとんどの人は目標とは関係なく、集団の乗りで行動するようになってしまう。これもまた集団の危険なところですね。」

寮長「その通り。大東亜戦争を始めたときの日本国民などは、目的や勝算をよく考えもせずに、乗りで戦争に賛成していた。集団ではこういうことがとかく起こりがちです。」

Oka「ぼくは田舎に小さなコミュニティを作って暮らしていくのが夢であり、そのモデルをいくつも見てきたのですが、小さな集団でも人は自己中心的に動きがちであり、なかなか罪を克服できないようでした。」

Ma「ゴリラなどは他の集団と戦うために小さな集団を作る習性があります。この遺伝子が人間にも受け継がれているのではないでしょうか。」

寮長「そうかもしれません。ただ人間は言葉を使うことができるので、話し合いを通じてそれを乗り越えていける可能性がある。言葉は知識を増やし、協力を可能にする優れた道具です。この道具は使い方次第で、悪の足しにもなれば、善の足しにもなる。言葉をうまく使って、罪を乗り越えていくことが重要なのだと思います。」

Ku「ロトの娘を犠牲にしようとする行為は、決して悪いことではなく、むしろ神に娘を捧げようとするよい行為であり、そのためにこそロトは神から好意を得ているのではないでしょうか。」

It「それは全然違うと思います。自分が犠牲になるならまだしも、娘を犠牲にしようとするなんて、娘の命の尊厳を何も考えていないではありませんか。僕の目には、ロトはソドムの悪習に染まっているとしか見えません。」

寮長「ロトの行為をどう評価したらよいかは昔から意見が割れているところです。この後アブラムが息子のイサクを犠牲にするという行為が書かれていますが、この行為とロトの行為とを果たして同列に考えて良いのでしょうか。また、聖書の神は人を神のための生け贄にすることを一切規定しない神です。そのような神がロトの行為を果たして喜ぶのか。結論を急がずにじっくり考えて行きましょう。」