2025年12月8日春風学寮日曜集会
聖書 創世記25:20-26, 27:1-41, 28:10-22
創世記
25:20 イサクは、リベカと結婚したとき四十歳であった。リベカは、パダン・アラムのアラム人ベトエルの娘で、アラム人ラバンの妹であった。
25:21 イサクは、妻に子供ができなかったので、妻のために主に祈った。その祈りは主に聞き入れられ、妻リベカは身ごもった。
25:22 ところが、胎内で子供たちが押し合うので、リベカは、「これでは、わたしはどうなるのでしょう」と言って、主の御心を尋ねるために出かけた。
25:23 主は彼女に言われた。「二つの国民があなたの胎内に宿っており/二つの民があなたの腹の内で分かれ争っている。一つの民が他の民より強くなり/兄が弟に仕えるようになる。」
25:24 月が満ちて出産の時が来ると、胎内にはまさしく双子がいた。
25:25 先に出てきた子は赤くて、全身が毛皮の衣のようであったので、エサウと名付けた。
25:26 その後で弟が出てきたが、その手がエサウのかかと(アケブ)をつかんでいたので、ヤコブと名付けた。リベカが二人を産んだとき、イサクは六十歳であった。
序 復習+α
前回は、アブラハムが一人息子のイサクを神に捧げようとする話を学んだ。そこに描かれていたのは信仰者の究極の理想像である。アブラハムは神を絶対的に信頼していた。神の言葉がどんなに非常識に思われようとも、それに従っていくならば、自分では想像もできないかったような最善へと導いてくださる。そのような神への絶対的な信頼ゆえに、彼は最愛の息子の命を神に捧げよという理不尽な命令でさえも従うことができたのだ。つまり究極の自己犠牲(究極の神愛)を実践できたのだ。神への絶対的な信頼は究極の自己犠牲(愛)を可能にするのである。
神はこのような人間を基礎として神の国を築こうとしていた。もちろんすべての人間がアブラハムのようになれるとは思っていなかったであろう。にもかかわらず、少なくとも神の国の民にはアブラハムを目指してほしいと思っていた。多かれ少なかれアブラハムを目指す人々を通じて神はご自身の国を築こうとしていたのだ。
また、人間はこのような究極の理想像を示されればこそ、初めて生きるべき方向を見出し、高邁な(気高い)人生を送ることができる。神はアブラハムを通じて人間に目指すべき目標を与えたのだ。
この物語が、もう一つ伝えようとしているのは、アブラハムが到達したような絶対的神信頼は、神の助けなくしては確立できないということである。他の宗教や文化においては、理想の人格はたいてい自己鍛錬や修行によって確立されていく。ところが聖書の理想とする人格は、そのような自力(自己鍛錬や修行)によってだけでは確立されえない。自力に加えて神の助けがあってこそ初めて確立される。神の言葉を信じて受け入れるという人の側の意志があり、そこに神の助けや導きが加わって初めて確立されるのである。アブラハムの生涯はまさしくそのことを示している。
だから、アブラハムのような絶対的神信頼に到達したいと思うなら、アブラハムを目指そうと努力するだけでなく、神に祈ることが重要なのである。祈りを通じて神の助けや導きを得てこそ、人は初めてアブラハムのようになることができる。
それでは、アブラハムの子孫たちはアブラハムのように育っていったであろうか。アブラハムの跡継ぎであるイサクは、聖書ではほとんど活躍しない。そのために、ただの中継ぎとさえ言われてしまうが、私も概してその意見に賛成である。だから、イサクに関する物語はほとんど飛ばし、今回はいきなりイサクが死ぬところから読み始めたいと思う。
1.解説
27:1 イサクは年をとり、目がかすんで見えなくなってきた。そこで上の息子のエサウを呼び寄せて、「息子よ」と言った。エサウが、「はい」と答えると、
27:2 イサクは言った。「こんなに年をとったので、わたしはいつ死ぬか分からない。
27:3 今すぐに、弓と矢筒など、狩りの道具を持って野に行き、獲物を取って来て、
27:4 わたしの好きなおいしい料理を作り、ここへ持って来てほしい。死ぬ前にそれを食べて、わたし自身の祝福をお前に与えたい。」
*ここでまず登場するのは、イサクの長男エサウ〈冒頭に読んだ箇所で生まれた双子の先に生まれた方〉である。エサウは今でいうところのアウトドアタイプであり、野山に行って狩りをするのが大好きな男であった。
*次に注目すべきは、イサクの人物像である。イサクは自分の死期が近いのを知って最後の願いとして肉料理を食べたいと言いだした。このことはイサクが食いしん坊だったことを表している。そして狩り好きのエサウはイサクの好きな肉をいつも野山から狩ってきたので、自ずからイサクはエサウを偏愛するようになっていた。25:28には「イサクはエサウを愛した。狩りの獲物が好物だったからである」とはっきり書かれている。
*「祝福」という言葉についても注目する必要がある。祝福を与えるということは、聖書では単にお祝いの言葉を述べることではない。祝福は、生命力や幸福をもたらす言葉であり、祝福を与えられた者は健康・繁栄・成功・身の安全といったあらゆる良いものに恵まれる。そのような祝福を与えられるのは本来神だけである。しかし、神から特別に選ばれた人々(族長・祭司・預言者…)も祝福を与えることができた。ただ、彼らは自由に祝福を与えることができたわけではない。あくまでも神の御心に沿った場合にだけ祝福を与えることができた。それに、神のように無限に祝福を与えられたわけでもない。彼らが神から与えられた祝福を与える力はもちろん限られたものであった。
・イサクも神の国を築くための中心人物として祝福を与える力を授かっていた。その力は限られてはいたものの、アブラハムの後継者であるがゆえに、大きなものであった。そしてその力は、代々その子孫へと受け継がれていくものであった。イサクはその祝福を与える力を行使して今長男のエサウに祝福を授けようとしているのである。
*しかし何よりもここ指摘しておく必要があるのは、イサクが神の言葉に逆らっているということである。先程読んだとおり、イサクにはエサウのほかにヤコブという双子の弟がおり、この二人が生まれたとき、神は妻のリベカに告げた。「二つの国民があなたの胎内に宿っており/二つの民があなたの腹の内で分かれ争っている。一つの民が他の民より強くなり/兄が弟に仕えるようになる」(25:23)。この言葉に明らかなとおり、神は弟ヤコブをイサクの継承者とみなしていたのだ。だとすれば、イサクはヤコブに祝福を授けなければいけないはずである。ところが彼は長男のエサウを祝福しようとしている。これは明らかに神の言葉に背く行為である。いったいなぜイサクは神の言葉に背いてまで、エサウに祝福を与えようとしたのであろうか。
27:5 リベカは、イサクが息子のエサウに話しているのを聞いていた。エサウが獲物を取りに野に行くと、
27:6 リベカは息子のヤコブに言った。「今、お父さんが兄さんのエサウにこう言っているのを耳にしました。
27:7 『獲物を取って来て、あのおいしい料理を作ってほしい。わたしは死ぬ前にそれを食べて、主の御前でお前を祝福したい』と。
27:8 わたしの子よ。今、わたしが言うことをよく聞いてそのとおりにしなさい。
27:9 家畜の群れのところへ行って、よく肥えた子山羊を二匹取って来なさい。わたしが、それでお父さんの好きなおいしい料理を作りますから、
27:10 それをお父さんのところへ持って行きなさい。お父さんは召し上がって、亡くなる前にお前を祝福してくださるでしょう。」
*一読して分かるようにリベカは頭がよく、その頭を策略に用いる女であった。ここでも彼女はイサクの視力が悪化していることを利用して、イサクの祝福を横取りし、それが次男のヤコブに授けられるよう策を弄している。
・いったいなぜ彼女は祝福をヤコブのものにしたいのであろうか。それは、彼女がヤコブを偏愛していたからである。ヤコブは、兄のエサウとは対照的な、インドアタイプで、いつも彼女と過ごし、彼女の手伝いなどをしていた。25:27に「ヤコブは穏やかな人で天幕の周りで働くのを常とした」とある通りだ。それだけではない。ヤコブはリベカのように頭がよく、策を弄するタイプであった。25章においては、エサウの空腹に付け込んで、おいしい料理と交換にエサウに長子の権利を譲らせるという詐欺師まがいのことまでやっている。というわけで、ヤコブはよく手伝いをしてくれるうえ、リベカによく似た人物であった。だから、当然のごとくリベカはヤコブを偏愛したのである。
27:11 しかし、ヤコブは母リベカに言った。「でも、エサウ兄さんはとても毛深いのに、わたしの肌は滑らかです。
27:12 お父さんがわたしに触れば、だましているのが分かります。そうしたら、わたしは祝福どころか、反対に呪いを受けてしまいます。」
27:13 母は言った。「わたしの子よ。そのときにはお母さんがその呪いを引き受けます。ただ、わたしの言うとおりに、行って取って来なさい。」
27:14 ヤコブは取りに行き、母のところに持って来たので、母は父の好きなおいしい料理を作った。
27:15 リベカは、家にしまっておいた上の息子エサウの晴れ着を取り出して、下の息子ヤコブに着せ、
27:16 子山羊の毛皮を彼の腕や滑らかな首に巻きつけて、
27:17 自分が作ったおいしい料理とパンを息子ヤコブに渡した。
*エサウはアウトドアタイプだったので当然毛深く、ヤコブはインドアタイプだったのでその肌はなめらかであった。目の見えないイサクでも、腕に触れればそれがエサウではないと悟るであろう。それをごまかすために、リベカはヤコブの腕や首に「子山羊の毛皮」を巻き付けた。知能犯である。
*もし父をだましていることがわかれば、「祝福どころか、反対に呪いを受けてしまいます」とヤコブは言っている。呪いというのは祝福とは反対に死と不幸をもたらす言葉であり、呪いを受けた者は病や不毛や失敗や事故といったあらゆる悪い事態を経験することになる。
・いつかも述べたとおり、神は基本的に人を呪うことをしないし、人が他の誰かを呪うことを律法で厳しく禁じている。しかしこれは神が呪うことができないというわけではない。無限に祝福を与えることができる神であれば、無限に呪いを与えることもできるであろう。なぜなら神は生命をつかさどるものなのだから。したがって、神から祝福する力を授けられた者は、同様に呪いを与えることもできたであろう。そうであればこそ、ヤコブは父から呪われてしまうと恐れたのだ。
*そこでリベカである。リベカは、「そのときにはお母さんがその呪いを引き受けます」と語っている。この言葉はいったいどう評価されるべきであろうか。。これは自己犠牲的な愛を表す言葉であろうか。
・こうしてリベカとヤコブは策を実行に移す。さて、結果はどうであったか。結果の部分だけ読もう。
27:27 ヤコブが近寄って口づけをすると、イサクは、ヤコブの着物の匂いをかいで、祝福して言った。「ああ、わたしの子の香りは/主が祝福された野の香りのようだ。
27:28 どうか、神が/天の露と地の産み出す豊かなもの/穀物とぶどう酒を/お前に与えてくださるように。
27:29 多くの民がお前に仕え/多くの国民がお前にひれ伏す。お前は兄弟たちの主人となり/母の子らもお前にひれ伏す。お前を呪う者は呪われ/お前を祝福する者は/祝福されるように。」
*一読して明らかなように、イサクはヤコブにまんまと騙され、ヤコブに祝福の言葉を語った。これによって、祝福はヤコブのものとなったのである。
・これは天地の恵みが豊かに与えられ、多くの民の主人となるという莫大な祝福である。そしてとくに注目すべきは、「お前は兄弟たちの主人となり」というくだりである。この祝福は、ヤコブが兄エサウの主人になることを保証するものでもあるのだ。
・そこへエサウが帰ってくる。さて、エサウはどのように反応したであろうか。
27:30 イサクがヤコブを祝福し終えて、ヤコブが父イサクの前から立ち去るとすぐ、兄エサウが狩りから帰って来た。
27:31 彼もおいしい料理を作り、父のところへ持って来て言った。「わたしのお父さん。起きて、息子の獲物を食べてください。そして、あなた自身の祝福をわたしに与えてください。」
27:32 父イサクが、「お前は誰なのか」と聞くと、「わたしです。あなたの息子、長男のエサウです」と答えが返ってきた。
27:33 イサクは激しく体を震わせて言った。「では、あれは、一体誰だったのだ。さっき獲物を取ってわたしのところに持って来たのは。実は、お前が来る前にわたしはみんな食べて、彼を祝福してしまった。だから、彼が祝福されたものになっている。」
27:34 エサウはこの父の言葉を聞くと、悲痛な叫びをあげて激しく泣き、父に向かって言った。「わたしのお父さん。わたしも、このわたしも祝福してください。」
27:35 イサクは言った。「お前の弟が来て策略を使い、お前の祝福を奪ってしまった。」
27:36 エサウは叫んだ。・・・「お父さんは、わたしのために祝福を残しておいてくれなかったのですか。」
27:38 エサウは父に叫んだ。「わたしのお父さん。祝福はたった一つしかないのですか。わたしも、このわたしも祝福してください、わたしのお父さん。」エサウは声をあげて泣いた。
27:39 父イサクは言った。「ああ/地の産み出す豊かなものから遠く離れた所/この後お前はそこに住む/天の露からも遠く隔てられて。
27:40 お前は剣に頼って生きていく。しかしお前は弟に仕える。いつの日にかお前は反抗を企て/自分の首から軛を振り落とす。」
27:41 エサウは、父がヤコブを祝福したことを根に持って、ヤコブを憎むようになった。そして、心の中で言った。「父の喪の日も遠くない。そのときがきたら、必ず弟のヤコブを殺してやる。」
*以上の描写で明らかな通り、祝福を奪い取られたエサウは号泣し、激しい怒りを抱いた。そしてヤコブを憎むようになり、ついにはヤコブ殺害を決意するのである。この後、エサウに殺されることを恐れたヤコブは、家を出て逃亡生活を送ることになる。リベカは策略によってヤコブに祝福をもたらしたが、ヤコブ自身を失ってしまった。ヤコブも祝福を手に入れはしたが、家族も、家も、相続すべき財産も失ってしまった。そしてエサウは殺人鬼と化した。これはまさしく家族の崩壊である。さて、このような物語が伝えようとするメッセージはいったい何であろうか。
*ところで、エサウはこう叫んでいる。「わたしのお父さん。祝福はたった一つしかないのですか。わたしも、このわたしも祝福してください、わたしのお父さん。」その通りである。祝福は一つしかないのであろうか。エサウも祝福してやることはできないのであろうか。これは後のことであるが、ヤコブは亡くなる時に子供たち全員に祝福を与えている。つまり祝福を子供たちに分け与えることは可能なのである。ところがここでイサクは、エサウに分け与える祝福はないことを、全ての祝福をヤコブに授けてしまったことをほのめかしている。「お前の弟が来て策略を使い、お前の祝福を奪ってしまった」と。いったいなぜイサクは祝福を分けたえなかったのであろうか。
*他方ヤコブは、イサクに殺されることを恐れて、天涯孤独・無一物で荒れ野へと旅立っていく。最後にそのシーンを読もう。
28:10 ヤコブはベエル・シェバを立ってハランへ向かった。
28:11 とある場所に来たとき、日が沈んだので、そこで一夜を過ごすことにした。ヤコブはその場所にあった石を一つ取って枕にして、その場所に横たわった。
28:12 すると、彼は夢を見た。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。
28:13 見よ、主が傍らに立って言われた。「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。
28:14 あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。
28:15 見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」
*ヤコブは天涯孤独、無一物で荒れ野へと追い出された。ところがそこに神が現れる。そして言うのである。この土地をヤコブに与えると。ヤコブの子孫を砂粒のように増やすと。絶えずヤコブのそばにいてヤコブを守ると。これは最高の祝福の言葉である。
・ところで、ヤコブは策略によって父の祝福をだまし取った人間である。このような人間を神はなぜ祝福なさるのであろう。自分が語った言葉「一つの民が他の民より強くなり/兄が弟に仕えるようになる」を全うするためであろうか。それともイサクがヤコブに祝福を与えため、それに沿って神もヤコブを祝福しているのであろうか。恐らくそれだけではないはずだ。神がヤコブを選んだことには、もっと本質的な理由があるはずだ。その理由とはいったい何であろうか。
2.話し合い(メッセージを探る)
Ka「リベカもヤコブも祝福の本質がわかっていないのではないでしょうか。」
寮長「そうではないと思います。祝福の本質は要するにご利益です。そこを二人はわかっていてそれが欲しいと思っている。神に従うよりもご利益優先。要するにご利益信仰ですね。そういう信仰だから、平気で悪いこともするわけです。」
Ue「偏愛は愛ではない。愛はもっと平等なものであるということが言いたいのではないでしょうか。リベカのヤコブへの愛は実は愛ではなく、イサクのエサウへの愛も実は愛ではないと。」
寮長「その通りです。まさしくそのことを言おうとして、この物語は書かれています。イサクの愛もリベカの愛もその本質は愛情であり、愛情は自分の欲望の投影でしかない。それと愛は違うのだと伝えたいのだと思います。」
Ma「イサクがエサウを祝福できなかったのは、イサクがすべての祝福をエサウにやろうとして、それを誤ってヤコブに与えてしまったからだと思います。財産にたとえればよくわかります。イサクは誤ってすべての財産をヤコブに与えてしまったので、エサウにやる財産はなくなってしまったというのと同じだと思います。」
寮長「つまりこれもイサクの偏愛の結果ですね。」
Ho「いったいなぜ神はヤコブを祝福するのでしょうか。何かヤコブにも良いところがあったのか、それともこの後ヤコブと共にいることによってヤコブを変えていこうとしているのか。」
寮長「まさしくその後者です。ヤコブはご利益信仰の塊で、しかもかなりの罪人です。そのヤコブを神が祝福したのは、神が罪人を祝福し、そのことを通じてヤコブを変えよう、もっと言えば悔い改めさせようと思っているからです。」
Ok「ヤコブは兄のことをどう思っていたのでしょうか。兄のことを慕っていたなら、兄に祝福が与えられたってなんの不服もないはずですよね。」
寮長「その通り。この点からもヤコブは罪深い人間であったとわかります。その罪深いヤコブを神が祝福する、そして彼と共にいると約束する。これこそこの一連の物語の最大の問題です。」
3.メッセージ
①なぜイサクは神の言葉に背いたか
すでに解説した通り、神は弟ヤコブをイサクの継承者とみなしていた。だとすれば、イサクはヤコブに祝福を授けなければいけないはずである。ところが彼は神の言葉に背いて長男のエサウを祝福しようとした。いったいなぜイサクは神の言葉に背いてまで、エサウに祝福を与えようとしたのであろうか。
イサクがリベカから神の言葉を聞いていなかった可能性はないと新聖書注解(いのちのことば社p.197)は言う。他方NTB(Abington,p.534)は、この家族には家族間でのコミュニケーションが少ないので、イサクが神のお告げをリベカから聞いていない可能性があることをほのめかす。しかし、イサクがそのお告げを聞いていようと聞いていまいと、彼が神の意志に反することをやろうとしたことは確かである。だとすると改めてイサクが神の意志に反することをやろうとしたのかが問われなければならない。
その理由は、二つある。その一つはもちろんエサウが長男だったからである。太古より人類のほとんどは長男を重んじ、長男にすべてを受け継がせてきた。そのような人類の慣習に従ってイサクもエサウに祝福を与えたわけである。もう一つの理由は先に述べたとおり、イサクがエサウを偏愛していたからだ。エサウはイサクの大好物である「狩りの獲物」をいつも捕ってきてくれた。だからエサウはイサクの大のお気に入りとなった。であればこそ是非ともエサウに祝福を授けたいとイサクは思ったのだ。
つまりイサクは、世間の慣習と自分の欲望に従って神に背き、エサウに祝福を授けた。これは、常識や自分の欲望を完全に無視してイサクを神に捧げようとしたアブラハムとは対極にある態度である。
②「母さんが呪いを引き受けます」
次にリベカの言葉「母さんが呪いを引き受けます」について考えてみよう。この言葉は日本的視点からすると感動的な言葉であり、子供のために自分を犠牲にしようとする母親の深い愛情を表しているということになる。しかし、聖書の視点からするならば、このようなリベカの言葉は愛でも何でもない。いったいなぜか。
アブラハムの態度と比較してみればすぐにわかる。イサクは最愛の子を神に捧げようとした。そこには一切の私利私欲がない。自分の最高価値である自分の息子よりも神の命令を優先したのだ。これこそ究極の自己犠牲であり、愛である。
ところがリベカの言葉は私利私欲に満ちている。「母さんが呪いを引き受けます」という言葉は一見自己犠牲的に響くが、この言葉の本質的な意図は自分の最高価値である息子のことを最優先することにある。そしてなぜヤコブがリベカの最高価値なのかと言えば、それはヤコブが自分に似ているからなのだ。つまり、「母さんは呪いを引き受けます」という言葉はどこからどう見てもリベカの自己愛を投影した言葉なのだ。
このように考えてみると、このイサクの家族の物語は、アブラハムの物語とは正反対の境地を描こうとしていることがわかる。イサクもリベカも息子のことを愛しているようだが、実は自分のことしか愛していない。その故にコミュニケーションの不足、祝福の奪い合い、家族の対立という悲惨な事態に陥ったのだ。これに対してアブラハムは、息子を神に捧げてしまうけれど、それは私利私欲を超えた神への純粋な愛の現れであった。この神への純粋な愛のゆえに、アブラハムは雄羊を備えられ、かえってイサクの命を得たのであった。
というわけで、ここに込められた重大なメッセージはこうである。家族のことを本当に愛そうと思うなら、先ずは神のことを本当に愛せ。そうしてこそ、本当に家族間の愛は成就する。
③なぜイサクは祝福を分け与えなかったか
祝福を横取りされたと知ったとき、泣き叫びながらエサウは叫んだ。「お父さんは、わたしのために祝福を残しておいてくれなかったのですか」と。「祝福はたった一つしかないのですか」と。これはもっともな疑問である。なぜイサクは祝福を一つしか与えられなかったのであろうか。なぜイサクはエサウのために祝福を残しておけなかったのであろうか。その理由は一つしかない。エサウを偏愛していたために、イサクが自分の持てる限りの祝福を全てエサウに与えるつもりであったからだ。ところが、その全てを間違ってヤコブに与えてしまった。だからこそ、エサウに与えるための祝福は残されていない、祝福は一つしかないということになってしまったのだ。確かに人間が与えられる祝福の量は限られている。だとしても、神に選ばれた人間が一つしか祝福を与えられないはずはない。その気になれば、イサクは祝福をイサクとヤコブに半分ずつ分け与えることもできたのだ。すでに述べたとおりヤコブは死ぬときにそれを行った。ところがイサクはそうしようと思わなかった。エサウに全ての祝福を与えるつもりであった。だからこそ、過ってそれをヤコブに与えてしまったとき、エサウに与える祝福は残されていないという事態が生じてしまったのだ。
そのことはイサクが唱えた祝福の言葉に如実に表れている。「地の産み出す豊かなものから遠く離れた所/この後お前はそこに住む/天の露からも遠く隔てられて。お前は剣に頼って生きていく。しかしお前は弟に仕える」とは、要するにエサウは辺境で武器だけを頼りに僕として生きていかなければならないという言葉である。すでに述べたとおり、天地の恵みが豊かに与えられ、多くの民の主人となる力を与えるという莫大な祝福はヤコブのものとなってしまった。だからエサウに残された祝福は、祝福らしからぬ出がらしのような祝福でしかないのだ。
このように読み解いてみるならば、ここにはやはり重大な神のメッセージが込められているとわかってくる。それはやはり、愛と愛情の違いをしっかりと区別し、重要な場面では愛に従えということであろう。人間である以上愛情を持つのは当然である。だから愛情に基づいて、子供たちのうちの誰かをひいきしたってかまわない。しかし、本当に重要な局面では、愛情に基づいた判断を下してはいけない。そこでは、私利私欲を超えた愛(アガペー)に基づいた判断が下されなければならない。そこで愛情に基づいた判断をしてしまうから、人間関係が崩壊していくのである。
では私利私欲を超えた愛(アガペー)とはどのようなものか。イエスが十字架において示したような、平等にすべての人を重んじる愛である。
④なぜ神はヤコブを祝福するか
新聖書注解を始めとするほとんどの新しい注解は、神がヤコブを祝福することには何の理由もないと言う。それはあらかじめ神が定めていたことであるから、神はその意志を貫徹しただけだと。
確かにそういう面もあろうけれど、やはりそこには何か本質的な理由があるように私には思われる。ではその理由とは何か。
再び巨視的な視点から考えてみよう。今や神は、アブラハムをロールモデルととして罪に支配されない人々、言い換えれば神を絶対的に信頼する人々を育てようとしているのであった。
しかし、みんながみんなアブラハムのようになれるわけではない。ほとんどの人間は、平凡な罪人なのである。神はそのことを百も承知である。そのような神の視点に立つならば、神がヤコブをなぜ祝福するのかもわかってくるような気がする。ひょっとすると神は、罪人でさえも神が祝福する可能性があるということを示そうとしたのではないか。そう思って探してみるならば、ヤコブは所々で重大な罪を犯している。例えば、祝福をだまし取ろうとした時には、神をだしに使って嘘をついている。
27:20 「わたしの子よ、どうしてまた、こんなに早くしとめられたのか」と、イサクが息子に尋ねると、ヤコブは答えた。「あなたの神、主がわたしのために計らってくださったからです。」
神を利用して嘘をつく罪は途方もなく重い。また、荒れ野で神と出会った後では、神にご利益を求めている。
28:20 ヤコブはまた、誓願を立てて言った。「神がわたしと共におられ、わたしが歩むこの旅路を守り、食べ物、着る物を与え、
28:21 無事に父の家に帰らせてくださり、主がわたしの神となられるなら、
28:22 わたしが記念碑として立てたこの石を神の家とし、すべて、あなたがわたしに与えられるものの十分の一をささげます。」
何という高飛車な態度であろうか。彼はこともあろうに、ご利益を与えてくれるなら、この石を神の家とし、10分の一税を捧げますと述べているのだ。ご利益を与えるなら、十分の一税を捧げるとは、半ば脅迫であり、ご利益信仰の極致ではないか。
このようなヤコブを神は祝福しているのである。この物語に込められた神のメッセージが、罪人の祝福であることは確かであろう。神は今や罪人をも一方的に祝福することで、罪に支配されない人々を悔い改めに導き、育てていこうとしているのだ。事実、ヤコブ物語のクライマックスは、壮大な悔い改めである。
というわけで、今日の最後のメッセージは、神は罪人ですら祝福してくださる可能性がある。いやそれどころか、罪深い者にこそ祝福を与えて悔い改めを促す可能性が高いということである。だから、罪人であることを誇れとは言わないけれど、罪人であるからと言ってがっかりする必要はない。M白罪人であることはチャンスであると前向きにとらえてほしい。
