2025年6月29日春風学寮日曜集会
聖書 創世記4:1-15
序 復習
アダムとエバは罪(自己中心性)を心に抱き、「善悪の知識」(二分法的認識能力)を身に着けた。今回の記事では、主人公は二人の息子たちカインとアベルへと移る。罪と「善悪の知識」は二人にも遺伝していったのか。そうではあるまい。実際弟のアベルにはこれらの要素は見られない。これらの要素を如実に表すのは、カインだけである。
やはり罪も「善悪の知識」も遺伝しないと考えるべきだろう。しかし、遺伝したと言いたくなるほどに人間は概して自己中心的であり、二分法的認識能力を駆使して自己中心性を増幅させていく。この物語はカインを通じてそのことを象徴的に描き出す。以下読みながら神のメッセージを探っていこう。
1.第二の試練
アダムとエバのもとに生まれたカインとアベルが成人したところから物語は始まる。
4:2 ・・・。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。
4:3 時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。
4:4 アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、
4:5 カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。
兄のカインは農耕者となり、弟のアベルは羊飼いとなった。そして命の根源である神の恵みによって、それぞれは食べ物を得た。そこで二人は、感謝のしるしとして神に「献げ物」を持っていった。カインは「土の実り」(収穫)を、アベルは「羊の初子」を持っていった。ところが神は、アベルの「献げ物」には目を留めたが、カインの「献げ物」には目を留めなかった。それでカインは、怒って目を伏せた。以上が今の箇所の要約である。
さて、いったいなぜ神はアベルの「献げ物」に目を留め、カインの「献げ物」には目を留めなかったのであろうか。三つの説がある。
①アベルの「献げ物」(子羊)の方がカインの「献げ物」(土の実り)より上等だった。
②神はカインの心の中に何か不純なものがあることを見抜いた。
③神は遊牧民族に比べて農耕民族を快く思っていなかった(H・.グンケル)。
①について。「土の実り」より「子羊」を上等と見なすのは、肉好きな人間の偏見であり、ユダヤ人の祭儀においては「大地の実り」は動物と同様に重要な「献げ物」であった(レビ記2章)。ゆえに①はあり得ない。
②について。キリスト教の教会は早くからこの解釈を採用し(へブル書11章)、カインを悪人に仕立て上げてきた。しかし、カインの心に不純なものが生じるのは、神に「献げ物」を無視された後であり、その前にはそのようなことを示す描写は一切ない。ゆえに②にも無理がある。
③について。文化人類学的にはなかなか説得力のある解釈だが、この物語の設定はまだ農耕民族も遊牧民族も生まれてもいない時代なので、そのような物語に農耕民族と遊牧民族の対立を読み込むことは不可能である。
つまりどの学説も当てにならない。そこで改めて問おう。いったいなぜ神はカインの「献げ物」に目を留めなかったのか。その真相を教えてくれるものこそ罪と「善悪の知識」である。人はなべて罪(自己中心性)と「善悪の知識」(二分法的認識能力)を宿す存在である。そのような人間に農耕をさせ続けたらどうなるであろうか。たくさんの食糧を蓄え、巨大な力を持つようになり、自分勝手に振舞うようになるのではないか。遊牧民にはそのような恐れはない。羊の肉や乳は長期にわたり保存できないからだ。ところが「土の実り」は長期にわたって保存できる。「善悪の知識」を持つカインがその保存性を利用すれば、たくさんの「土の実り」を蓄えるようになり、巨大な力を持つようになるであろう。そしてさらには自分勝手にその力を用いるようになるであろう。巨大な力を持った人間が自分勝手に振舞うことほど恐ろしいことはない。そうであればこそ、神はカインを試練に懸け、そうならない道を示そうとしたのだ。つまり、神がカインの「献げ物」に目を留めなかった真の理由は、カインを試練にかけ、巨大な力を持つことになるであろう彼と彼の子孫に、その力を自制するための道を示すことにあったのだ。
2.難解な文の解読
次に進もう。
4:6 主はカインに言われた。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。
4:7 もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」
ここはヘブライ語の原文が難しく、かなり訳が不十分なので、訳を修正しながら読み進まなければならない。「もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか」という訳は、より正確に訳すならば、「もしお前が正しくふるまおうとするならば、顔を上げるべきだ」となる。原文では、未来または継続を表す未完了形の「正しくある、正しくふるまう」という動詞が使われているからだ。するとこの一文の意味は、こうなる。「もし正しくふるまおうと思うならば、顔を上げて自分の「献げ物」のどこがいけなかったのか尋ねるべきではないか。」
次の文も訳が不十分なので修正しなければならない。「正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない」とあるが、先ず「正しくないなら」は、先ほどのように「正しくふるまおうとしないなら」と訳すほうがよい。それから、「罪は戸口で待ち伏せており」は次の文とは主語が違うので、「罪は戸口で待ち伏せている」といったん切ったほうが良い。つまりここは、「正しくふるまおうとしないならば、罪は戸口で待ち伏せている」と訳すのがより正確である。するとこの文の意味は次のような意味だと解釈できる。「正しくふるまおうとして神にたずねないならば、罪を犯すことになる。」つまり神はカインに、自分の判断を正しいと考えて、神に相談しないなら、行為としての罪を犯すことになると警告しているのだ。
では、残った「お前を求める。お前はそれを支配しなければならない」とはどういう意味であろうか。先ほど述べたとおり、ヘブライ語の原文の「お前を求める」にはきちんと主語がある。その主語は「彼の思い」という語である。この彼とはいったい誰か。「罪」は女性名詞だから、彼で受けるはずがない。だとすれば、この彼は弟のアベルを指すとしか考えられない。つまり、「アベルの思いはお前を求める」というのが、原文の直訳なのである。また「支配」という訳もよくない。以前にも述べたが、この「支配」は良い意味であって、「管理」とか「保護」と訳すほうがよい言葉である。したがって、より正確に訳すならこの一節はこうなる。「アベルの思いはお前を求め、お前はその思いをきちんと導かなければならない。」だとすれば、この言葉に込められた意味も分かってくる。ここで神はカインに向かって兄としての義務をきちんと果たすように命じているのだ。「お前は兄なのだから、お前を慕い求めてくる弟をきちんと導かなければならないのだぞ」と。
このように訳を修正するならば、この箇所全体の示す意味がようやく浮かび上がってくる。まとめればこうである。「もし正しくふるまおうと思うならば、顔を上げて自分の「献げ物」のどこがいけなかったのか尋ねるべきではないか。正しくふるまおうとしてわたしに尋ねないならば、お前は行為としての罪を犯すことになる。そうなってはならない。お前は兄としてお前をしたい求める弟をきちんと導かなければならないのだぞ。」神はカインに、自分の判断の正しさに固執することの危険性を警告し、同時に何が正しいかを神に相談しつつ、兄としての義務を果たすように命じたのである。
そしてこれこそが神が試練を通じてカインに示そうとした力を自制するための道である。神はこれから巨大な力を持つことになるであろうカインに絶えず神と相談することこそが力を自制するための道であることを示したのだ。
だとすれば、この箇所に込められた神のメッセージは明らかであろう。神はカインへの言葉を通じて私たちにこう呼びかけているのだ。「あなたは罪と善悪の知識のゆえにたびたび的外れな判断をしてしまうであろう。だからこそ絶えずわたしにより頼みなさい。わたしの前に立ち、わたしに祈り、わたしと語り合いなさい。そうすれば、たとえ的外れな判断を下しても、最後には正しい判断に導かれるであろう。しかしそのことを拒否し、わたしを無視し続け、自分の判断にこだわり続けるなら、あなたはとんでもない罪を犯すことになる。」
3.「善悪の知識」+「罪」の帰結
①自己義認
さて、このように神から警告され、兄としての義務を果たすように命じられたカインは、はたしてどのような行動に出たか。続きを読んでみよう。
4:8 カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した。
カインは、神の警告を聞かなかったのだ。彼は神により頼もうとせず、神を避け続けたために、神の警告どおり、行為としての罪を犯すことになってしまったのだ。しかもその罪は、殺人という重罪であった。カインは、彼を慕い求める弟をきちんと導くという義務を果たすどころか、弟を野原におびき出して殺してしまった。なんというひどい展開であろうか。
そこで考えてみよう。このような展開を通じて神はいったい何を伝えようとしているのであろうか。その第一は、自分の過ちを認めない心(自分を義とする心)が最悪の罪の行為を生み出すということである。自己中心的な人間が善悪の知識に基づいて判断するならその判断は必ず的外れなものになる。しかし、的外れであることは仕方がないと神は認めている。神が認めないのは、的外れであるにもかかわらずそれに固執し、自分を義とし続けようとする精神である。これをこそ神はここで、強烈に告発し、その危険性を訴えている。これこそが最悪の罪を引き起こすのだと。その実例はいたるところにある。ナタ二エフだって、トランプだって、プーチンだって、みんなこの通りの道を歩んでいるではないか。
ここで特に思い出してほしいのは、20世紀前半の日本人の態度である。日本人は、日本を神の国と考え、それゆえに無敵であると考えた。そのころには中国とロシアという超大国を打ち負かすという空前の行為を成し遂げたのだからそれも当然だろう。そして日本こそは正義を世界に打ち立てるのだと考え、周辺諸国の領土を占領し、植民地化し始めた。これは、当然神の判断とは異なる的外れな判断である。にもかかわらず日本人は自分を義とし続け、この判断を正しいと思い続けた。その結果どうなったか。大東亜戦争という巨大な罪を犯すことになったのだ。この戦争の中で日本人が犯した罪を書き連ねていけば、一万枚紙があっても足りないほどである。戦闘の邪魔になるという理由で子供を殺したり、少年を飛行機や魚雷に乗せて突撃させたり、兵士たちを竹やりで機関銃や戦車に向かって突撃させたり、勇敢に戦った部下に敗北の責任をなすりつけたり、食料も調達せずに兵士を戦わせて餓死させたり、物資の窮乏を補うために統治下の国々の物資を略奪したり、兵士たちの性欲を満たすために現地の女性たちをレイプしたり・・・。これらの卑劣きわまる罪は全て、日本は神の国であり、自分たちこそが世界に正義を打ち立てるのだという判断にしがみつき、自分を義とし続けたために生じたものだ。このような日本人の経験こそは、カインの物語に込められたメッセージ(自分を義とする心が最悪の罪の行為を生み出す)がいかに真実であるかを歴然と証するものである。
ところが他方で、自分を義とすることは心の安定を保つための重要なメカニズムである。人は自分の判断を正しいと思えばこそ、自信を持ち、心の安定を保つことができる。人は自分が間違っているという思いを抱えてまともに生きていくことなどできない。
それでは一体どうすればよいのか。自分の正しさを絶えず吟味し、更新していくほかはないであろう。そして自分の正しさを絶えず吟味し更新していく最高の方法こそが、神により頼むことなのである。
②比較する心
ところで、カインがアベルを殺した理由は、自分を義とする心だけであろうか。ここにはもう一つ、比較する心が働いていたということができる。〈自分よりもアベルのほうが神に気に入られてしまっている。神の目から見れば、兄の自分よりも弟のアベルの方が上である。〉そう思ったカインは日々苦しんだに違いない。そしてこう考えた。〈アベルさえいなくなれば、自分より上の者はいなくなる、それゆえに神は自分の元に戻ってくる〉と。これは長男長女には実によくわかる感情である。弟や妹ができると突然父母の関心は弟や妹に移ってしまう。このとき長男長女は自分が弟や妹よりも下であるかのように思い、非常に苦しむ。そして弟や妹さえいなくなれば再び自分は最高位に返り咲き、父母の関心は自分の方に戻って来るのではないかと思いこむ。かくして長男長女は、弟や妹をいじめ始めるのだ。私などは三歳のころ一歳の弟をベッドから引きずり落としたことがある。今思い出しても冷や汗が出てくる。それほどに比較する心は人を狂わせる。だから、私にはアベルを殺したカインの気持ちがよく分かるのである。
もしこの読みが当たっているとするならば、ここには次のような神のメッセージも含まれているだろう。すなわち、自分と他者を比較して一喜一憂してはならない。「善悪の知識」(二分法的認識能力)を持つ人間は、何よりも比較して物事を認識する。あれは良いがこれは悪いという具合に。このような比較は物に関して行われる限り問題はないが、人に対して行われるなら大きな問題を引き起こす。あの人は良い人だがこの人は悪い人だという裁きの心を引き起こすからだ。そしてその比較が自分と他者に適用されるとき、さらにまずい問題が生じる。優越感や劣等感を引き起こすのだ。優越感とは、自分が他者より上であると判断して喜ぶ感情だ。対して劣等感とは自分が他者より下であると判断して憂う感情だ。「善悪の知識」を持つ人間は、おおよそこれらの感情から逃れることができない。自分が他者より上であると思うとき、人の心は安定するが、自分が他者より下であると思われるとき、人の心は安定を失う。なぜ俺の月収は30万円なのにあいつは1000万円ももらっているのだと思い始めるならとても冷静ではいられまい。なぜ俺はチョコレートを一つももらえないのに、あいつはたくさんチョコレートをもらえるのかと思い始めるなら怒りが湧いて来るであろう。なぜ俺は英語すらも満足にできないのに、あいつは何か国語も簡単に習得できるのかと思い始めるなら悲しくなってくるであろう。自分と他者を比較して自分が下であると判断されるとき、人は途方もない憂いに襲われるのである。そしてその憂いは自分より上である人間への理不尽な恨み(ルサンチマン)へと展開していく。カインのアベル殺害は、このような私たちの心の動きを象徴的に表したものである。そしてそこに込められた神のメッセージは恐らく、自分と他者を比較して、喜んだり憂いたりするなということであろう。
そしてこのメッセージは、先ほどのメッセージ「絶えず神により頼め」と表裏をなすものである。私たちのなすべきことは、他者と自分を比較して一喜一憂することではなく、神の前に立って神と相談しながら自分を反省することである。前者は罪を増幅する道であるが、後者は罪を抑える道である。そして前者の比較する心を乗り越える道こそが後者の神により頼む道である。人は、神の前に立って自分を反省するとき、初めて自分と他者を比較する心(優越感や劣等感)を乗り越えていくことができる。神はカインの殺人を通じてこれらのことを訴えているのではないだろうか。
ちなみに優越感の方は、人の心をおごり高ぶらせると同時に、様々な差別を生み出す。人種差別とか、男女差別とか、障害者差別とか、学歴差別とか、貧富差別とか・・・。これらの根深い問題の原因は比較して自分を上と見なして喜ぶ心(優越感)であり、そしてその心の根幹には、「善悪の知識」(二分法的認識能力)と罪(自己中心性)の合体があるのである。
4.神の罰の意図
最後の部分を読み進もう。
4:9 主はカインに言われた。「お前の弟アベルは、どこにいるのか。」カインは答えた。「知りません。わたしは弟の番人でしょうか。」
ここで神はカインに「お前の弟アベルは、どこにいるのか」と問いかけている。神は、カインが命じられたとおり、弟をきちんと導いているか確認しているのだ。これに対してカインはこう答えている。「知りません。わたしは弟の番人でしょうか。」これは一見、しらばっくれて罪を隠そうとするかのような言葉だが、神から弟の導きを命じられたという流れからすれば、神の命令を真っ向から無視したこと言葉である。今やカインは神に堂々と反抗する、神を恐れぬ者となってしまったのだ。
これに対して神はどう反応したであろうか。
4:10 主は言われた。「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる。
4:11 今、お前は呪われる者となった。お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりもなお、呪われる。
4:12 土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出すことはない。お前は地上をさまよい、さすらう者となる。」
神は、当然カインに罰を与えた。その罰の一つはアダムに与えた罰よりもいっそう厳しい罰、すなわち彼に対して自然は一切作物を実らせないという罰である。この罰は、カインが農耕者であったことを思い出せばいかに厳しい罰かわかるであろう。カインは職を奪われたのだ。もう一つの罰は、一定の土地に定住することはできないという放浪の罰である。一定の土地に定住することができないとすれば、田畑を耕すこともできない。つまり神は、カインを徹底的に農耕生活から遠ざけたのだ。このような罰の意図はいったい何であろうか。やはり、カインに巨大な力を持つ余地を与えないということであろう。罪と善悪の知識を合わせ持ち、さらには神の前に立つことを拒否したカインに農耕生活を続けさせるなら、カインとその子孫は巨大な力を持ち、それを自己中心的に使い始めるであろう。神は、そのことを許さないためにカインを農耕生活から遠ざけたのだ。
しかしそのような罰の内容以上に気になるのは、神が異様にカインの恐怖を煽り建てようとしていることである。「お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる。今、お前は呪われる者となった。お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりもなお、呪われる」という神の言葉の中には、「呪い」と「血」という言葉が二度ずつ用いられており、それらが「叫び」に重ね合わされて用いられることによって何とも言えぬ恐ろしさを醸し出している。いったいなぜ神はこのような恐ろしい言葉を用いてカインに罰を宣告したのであろうか。その答えは一つしかない。神はカインにカインの犯した罪がどんなに恐るべき重大なものであるかを教えようとしたのだ。カインの犯した殺人は、そもそも人間を創造した神の創造のみ業に背くものであり、さらには神の意志である愛に背くものである。この両方に真っ向から背くものであるがゆえに、殺人は罪として断トツに重い行為である。その重さを知らしめるためにこそ、神は敢えて恐ろしい言葉で、カインに罰を宣告したのである。
だとするとここに込められた神のメッセージが分かってくる。殺人は神の創造のみ業と神の意志に反する最も重い罪であるということである。ダンテによれば、裏切りこそ最も重い罪であり、イエスを裏切ったユダこそが地獄の最下層にいることになっている。しかし、カインの物語を通じて神は、殺人こそ最も重い罪の行為であると伝えているのである。ここで改めて私たちは殺人が愛と創造の神から最も遠い行為であるということを確認しておく必要がある。
5.愛とは待つこと
神の言葉によってカインは初めて自分の犯した罪が重大なものであることを知った。だからこそ言うのである。
4:13 カインは主に言った。「わたしの罪は重すぎて負いきれません。
4:14 今日、あなたがわたしをこの土地から追放なさり、わたしが御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう。」
普通なら「わたしの罰は重すぎて負いきれません」と言うところであろう。ところが、カインは「わたしの罪は重すぎて負いきれません」と言っている。重い罰を恐ろしい言葉で告げられて、初めてカインは自分の罪の重大さを知ったのだ。逆に言えば、自分の弟を殺すという罪の重大さを今の今まで全くわかっていなかったということだ。これこそ神によらずに「善悪の知識」によって自己中心的に物事を判断していったことの結果である。
ところで、カインは「わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう」と言っている。この段階で他の人間などいないはずなのに、いったい誰から殺されるというのであろうか。物語的には、明らかに破綻している。しかし物語はそのような破綻など気にしていない。なぜなら物語の関心は、人間同士の関係にはなく、神と人間の関係にあるのだから。
ではこの言葉によって物語は何を言いたかったのであろうか。恐らく、自分の罪の重大さを知ったカインが自分の罪の影に怯え始めたことを言いたかったのであろう。殺人という罪の恐ろしさを知ったカインは今やその罪を処罰されるのではないかと怯え始めた。このことを表すために、カインに「わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう」と言わせたのだ。
このように怯えるカインに対して神は言う。
4:15 主はカインに言われた。「いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の復讐を受けるであろう。」主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた。
この「しるし」がどんなものかはいまだにわかっていない。しかし、この「しるし」によってカインが他者から殺されることがなくなったことだけは確かである。そうなのだ。神はカインがこれから生まれるであろう他の者から殺されることを封じたのだ。なんと優しいことであろうか。
そこで考えてみて欲しい。はたしてこれらはカインの犯した罪にふさわしい処遇であろうか。カインの受けた罰(農耕生活からの締め出し)は確かに厳しい罰であるけれど、カインのうけた「しるし」はあまりに寛大だと言えないだろうか。カインは自分の弟を殺しているのだ。このような大罪に対しては死刑が妥当である。ところが神は、大して怒りもせずに、カインの命を守り通そうとしているのだ。いったいなぜ神はこれほどに寛大なのであろうか。
もう一つ不思議なことがある。神は全能であるから何でもお見通しのはずである。カインが神の命令を無視してアベルを殺したこともお見通しだったはずである。にもかかわらず、神は先ずカインに問いかけている。「お前の弟アベルは、どこにいるのか」と。これは不思議である。そういえば、アダムとエバが罪を犯したときも、神は先ずアダムに問いかけていた。「どこにいるのか」と。いったいなぜ神はいきなり罪を指摘せずに、はじめに問いかけるのであろうか。
これらの不思議が意味する所は、一つしかあるまい。神は罪を犯した人間が自分から悔い改めることを待っているのだ。つまり、自分から罪を認め、謝罪し、その罪を償おうとすることを待っているのだ。そうであればこそ、何よりも先ず問いかけ、そして寛大な処遇を与えることによって悔い改めのチャンスを与えるのである。
だとすると、この箇所に込められた神のメッセージが分かってくる。神は悔い改める心が人間に起こることを待ち続けているということだ。すでに述べたように、神が人間に何よりも望んでいるのは、神に従おうとする心(愛の道を選ぼうとする心)であった。しかし、罪と善悪の知識を宿す人間が神に従い続けるのは極めて難しい。そこで神はせめて人間が絶えず神の前に立ち、神に祈り、神と語り合い続けることを望んだ。一言で言えば、神により頼もうとする心、これこそ神が人間に二番目に望んだことである。しかし、それすらも人間は拒否する。人間は神により頼むことさえも拒否し、ついには凶悪な罪を犯してしまう。それでも神は人間のことを見捨てない。寛大な処遇を与えながら、人間が自分から悔い改めるのを待つのである。これこそカインに寛大な処遇を下す物語に込められた神のメッセージであろう。
神は基本的に人に罰など下しはしない。神はこの世界を基本的には自然現象と人間の自由意志に委ねている。罰を与えることがあるとしても、それはカインに下されたように寛大なものであり、その罰の意図はたいてい人間に罪を知らしめるという愛に満ちたものだ。いったいなぜ神はこれほどに寛大なのか。人が自分から悔い改めるのを待っているからだ。神は愛であると言われるが、その愛は太古の昔より待つという形で現れてきたのだ。
6.まとめ
話が多岐にわたったのでまとめよう。「善悪の知識」と罪を併せ持つ人間は、必ず自分を義とする心(自己義認)と自分と他者を比較する心〈劣等感と優越感〉に支配されることになる。これらを野放しにしておくなら、人は必ず大きな罪の行為を犯すことになる。これらを乗り越える道は、神により頼むこと、すなわち絶えず神の前に立って自分を反省し、神と語り合い、神に祈ることである。ところが、人はしばしば神により頼むことを拒否し、罪の行為を犯すことになる。しかし、たとえそうなったとしても、神は人を見捨てない。寛大に人を見守りつつ、人が悔い改めるのを待ち続けるのである。
古の昔より神は待っている。これ以上神を待たせてよいものであろうか。(参考:月本昭男「創世記Ⅰ」、北森嘉蔵「創世記」)
話し合い
Sa「情報が氾濫している現代、私たちはどうしても比較する心を引き起こされてしまいます。その結果人を殺さないにしても、自分に害を及ぼしてしまう。」
寮長「全くその通りですね。」
Sa「ところで神により頼むということを具体的に実践するにはどうすればよいのでしょうか。」
寮長「イエスの言葉や行動を学び、それらに基づいて自分を反省し、イエスに従おうとすること、そのようにできるようにイエスを通じて祈ることです。イエスが与えられて初めて人は神により頼むとはどういうことか、知ることができるようになりました。」
Mi「他者と自分の比較から良いことも出てくるのではないでしょうか。例えば、他者と自分を比較して自分を反省し、それでよい方向に向かうこともあるのではないでしょうか。」
寮長「あるでしょう。但し比較する他者が良い方向、ぶっちゃけて言えばイエスのように愛の方向に沿っているときに限られると思います。ひたすら強くなったり、賞を取ったりすることを目指す人たちに学んでも、やはり良い結果にはならないと思います。その点やはり長嶋はいいですね。みんなを楽しませるためにスポーツをやっているというのは、愛の方向です。」
Ma「僕は、カインは悪くないのかと思って読んでいました。神は肉食で生きようとするアベルを殺そうとして、カインをけしかけたのではないかと。」
寮長「神が菜食主義を望んでいたということにあまり引きずられるべきではないでしょう。神の関心はやはり愛が実現するかどうかで、菜食主義はその方法の一つでしかありませんから。ましてや菜食主義を守らせるために神が人を殺そうとするなどということがあるはずがない。むしろ神はここでカインとアベルを何とか愛の方向へ導こうとしている。カインとアベルが愛し合う方向へ導こうとしている。その延長線上で、神が試練をカインに課したとみるべきでしょう。ところで、Ma君のようにここを解釈して、カインこそ正しかったのだと読む人たちが昔からたくさんいました。知識を学ぶことによって神のようになろうとするグノーシズムや神秘主義の人たちです。彼らはカインやユダのような神に逆らった人たちを、実は本当に真の知識を理解していた知恵者であると崇め、英雄視するのです。しかしそれはとんでもない誤解です。聖書はどう読んでも、人が神のようになろうとすることを罪としていますし、神に逆らった人こそが実は正しい人だったなどということを認めていません。」
Ku「ヘッセの『デミアン』という小説にもカインのことを崇める人が出てきました。」
寮長「つまり20世紀に至っても神のようになろうとする人がたくさんいるというわけです。自分が神のようになるというのは魅力的ですからね。であればこそ、教会は彼らを異端として必死で弾圧してきたのです。」
Ryo「わたしは教会で、①の説を習ってきました。アベルの方がよいものを神にささげたのだと。だからこそ、できるだけ良いものを神に捧げなさいと。しかし、神が捧げた物の良し悪しによって人を判断するわけがありませんよね。それでは献金の多い人が偉いということになってしまいます。」
寮長「なるほど、教会はその個所から献金を引き出すわけですか。思いもよりませんでした。」
Ryo「神が一番求めていたのは、何を捧げるかではなく、神と正面から向き合い、自分の罪を知ることです。そのためにカインに試練を課したという寮長の解釈は、納得できます。」
寮長「ありがとう。」
Ok「カインは神から教えられて初めて、殺人という罪の重さに気付いたということですが、このとき初めてカインが人間性を獲得したということができないでしょうか。これまでカインにとってアベルはただの物でしかなかった。しかし神に教えられて、初めてアベルも自分と同じ人格を持つ人間なのだと気づいた。つまりこのときに愛を選ぶことのできる人格が成長を始めたのではないでしょうか。」
寮長「そう解釈することもできると思います。確かに神はここで、人に与えた人格を成長させようとしている。それにしたがってカインが初めて成長し始めた。そのような神による人の教育の物語としても十分読むことができますね。」
Ho「殺人の罪の重さを知ったカインがこの後どうなるのか、興味が湧いてきました。」
寮長「これまたよい着眼点です。この後カインもカインの子孫も、少しも悔い改めません。人は悔い改めることさえできない。これが旧約聖書の結論です。そうであればこそ、救い主イエスが必要になってくるのです。私たちはイエスを知ることによって初めて悔い改めへと導かれる。これが聖書全体の主張です。」
Ue「私は教会で②の説を習い、カインは悪かったのだと習いました。アベルほどの「献げ物」を捧げる努力を怠ったから神はカインを無視したと。しかし今日の話で、悪くないカインに試練が与えられたという解釈を聞き、驚きました。」
寮長「ここは微妙です。カインには確かに悪意はありませんでした。カインはカインなりに精一杯のものを捧げたのだと思います。しかし、罪を宿したカインの判断は神の判断が必然的に違う、的外れなものとなってしまう。そうであればこそ神は、カインにその的外れから逃れる方法を示そうとしたのです。」
Ku「人は悔い改めることさえできないというのが旧約聖書の結論だと寮長は言いましたが、ダビデは悔い改めていますよね。」
寮長「確かにその通りですが、ダビデの悔い改めについては三つのことを考慮しなければならないでしょう。①ダビデのように悔い改めができる人はむしろ例外であり、旧約聖書のほとんどの人はやはり悔い改められていないこと。②ダビデの悔い改めも自分からなしたものではなく、祭司(神の代理)の導きによって引き起こされたこと。③ダビデの悔い改めは不完全であり、その後も彼は神に背くようなことを行っていること。ダビデは旧約聖書中最高の人物であり、ユダヤ人の英雄です。その人にしてようやく悔い改めることができた。しかもその悔い改めは、自発的なものではなく、不完全なものであった。ですからダビデの悔い改めこそが、逆説的にも人間は自力で悔い改めることはできないという先ほどの主張を裏付けてしまうのです。いやー、今日も皆さんのお陰で本当に良い学びができました。ありがとうございました。」