カインの末裔(小舘)

2025年7月6日春風学寮日曜集会

聖書 創世記4:16-26, 6:1-8

 

1.神の呪い

 

4:16 カインは主の前を去り、エデンの東、ノド(さすらい)の地に住んだ。

 

カインは弟殺しの罰として、神による自然への呪いゆえに農耕生活から締め出された。加えて神によって定住を許されない身となった。これは実に正当な罰である。殺人は神の創造に反する行為であるゆえに神の創造した自然と対立することなり、殺人はまた神の意志である愛に反する行為であるゆえにだれからも愛されることなくさすらわなければならないというわけだ。

 神の罰は、さながら自業自得ともいうべきものであり、自身の罪の必然的結果と重なっている。ここに神の罰の正当性がある。もし神が人に罰を下すとすれば、まさにそのような罰であろう。

 他方で神は、罰そのものを目的として罰を下すのではない。その罰は、罪人に自身の罪を知らせ、かつ悔い改める機会を与えるためのものである。この二つをまずは神のメッセージとして受け止めておこう。

 ところで神は、二度ほど呪いを発している。3:17で神はこう言っていた。「お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。」神はこのときより土(自然)に呪いをかけたのである。また4:11ではこう言っていた。「今、お前は呪われる者となった。お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりもなお、呪われる。」カインは自然以上に神から呪われことになったのである。

 そこで考えなければならない。神は自然を本当に呪ったのか。カインを本当に呪ったのか。物語はあくまでこのことが事実であるかのように展開する。そして古来ユダヤ教やキリスト教はこれを事実と受け止めてきた。しかし愛を本質とする神が本当に呪いなど発するのであろうか。呪うような神を愛の神であると信じていくことができるのであろうか。

 呪いとは何か。それは敵を滅ぼすための滅びの力であり、あるいはその力を発動する行為である。病気や自然災害の原因を知らなかった古代においては、病気や自然災害は何ものかの呪いの結果であると考えられた。そして呪いはしばしば悪霊となって継続的に敵を苦しめると考えられた。だから、呪いは極めて危険視され、かつ重視され、呪術や魔術として各地で発展していくこととなった。

 ところが驚くべきことに旧約聖書では、このような発展は見られない。それどころか呪術や魔術は異教徒の業として厳しく禁じられている。新約聖書にあっては、愛に反する行為であるゆえに呪いは完全に否定されている。そして神はしばしば、呪いを解き、それを祝福に変える神とされ、神に呪いを要請することなど一切なかった(『旧約新約聖書大辞典』参照)。さすが聖書である。

 ところが、その神がこの最初の部分では呪いを発動している。これはいったいなぜであろうか。それこそ時代的限界というものであろう。創世記の筆者らは呪いや悪霊ではなく人の罪こそが諸悪の根源であると考えていた。人間の罪に対する神の怒りが自然災害や病気を引き起こすのだと。このような考え(罪の重大さ)を表そうとするとき、彼らはやむを得ず「呪い」という言葉を使ったのではないだろうか。思えば神自身が「呪い」という言葉を使ったときは、いずれも人(アダムとカイン)に罪の重さを教えようとする場面であった。恐らく聖書の筆者はこう言いたかったのだ。「神の呪いを引き起こしてしまうかもしれないほどに罪は恐ろしいものなのだ」と。そして「呪い」という言葉に込められた神のメッセージも恐らくこれであろう。

 だとすれば、神はやはり「呪い」を発動したりしない。神は人に罪を教えるために怒りもし、罰も与えるであろう。しかし、人を滅ぼすための呪いなど決して発動しはしない。呪いは本来聖書全体を貫く神の愛に反するものなのだから。

 

2.文明の成立

 

4:17 カインは妻を知った。彼女は身ごもってエノクを産んだ。カインは町を建てていたが、その町を息子の名前にちなんでエノクと名付けた。

4:18 エノクにはイラドが生まれた。イラドはメフヤエルの父となり、メフヤエルはメトシャエルの父となり、メトシャエルはレメクの父となった。

4:19 レメクは二人の妻をめとった。一人はアダ、もう一人はツィラといった。

4:20 アダはヤバルを産んだ。ヤバルは、家畜を飼い天幕に住む者の先祖となった。

4:21 その弟はユバルといい、竪琴や笛を奏でる者すべての先祖となった。

4:22 ツィラもまた、トバル・カインを産んだ。彼は青銅や鉄でさまざまの道具を作る者となった。トバル・カインの妹はナアマといった。

4:23 さて、レメクは妻に言った。「アダとツィラよ、わが声を聞け。レメクの妻たちよ、わが言葉に耳を傾けよ。わたしは傷の報いに男を殺し/打ち傷の報いに若者を殺す。

4:24 カインのための復讐が七倍なら/レメクのためには七十七倍。」

 

 カインの子孫たちは農耕生活から締め出されたので、農耕以外の方法で生きていくことになる。ヤバルは「家畜を飼い天幕に住む者の先祖」となり、ユバルは「竪琴や笛を奏でる者すべての先祖」となり、トバル・カインは「青銅や鉄でさまざまの道具を作る者」となった。ここで先ず注目すべきは、「家畜を飼い天幕に住む者の先祖」という言葉である。そのまま読めば、これはアベルのような遊牧民を指すように思われるが、ヤバルという名前は「運ぶ人」という意味であるらしく、だとするとこの言葉は、隊商(家畜に物を運ばせて物を売り買いする人々)を意味することになる。つまりこれは、放牧民とは正反対の貿易商のごとき存在であるというのが最近の研究の結論である。次に注目すべきは、「竪琴や笛を奏でる者すべての先祖」という言葉である。この言葉をそのまま読めば、のどかな楽師を思い浮かべてしまうが、当時の楽師は全て宗教的祭儀のために演奏する神殿楽師か王侯貴族のために演奏する宮廷楽師であった。つまり、この楽師は少しものどかな職業ではなく、むしろ公務員のようなものであったのだ。そして最後に「青銅や鉄でさまざまの道具を作る者」という言葉に注目しよう。彼らが単に生活のための道具だけでなく戦争のための武器も作ったことは明らかである。

だとするとこれらの文が意味するところは明らかになる。カインの末裔は、農耕以外のありとあらゆる方法で生活し、力をつけていき、都市国家のような文明を支える者となったのである。すでに述べたように、都市国家を成立させる原動力は、農耕生活である。農耕によってたくさんの食糧を蓄えたときに初めて、都市国家が成立する。しかし、ただ蓄えただけでは都市国家は成立しない。それを運用していく人々がいて初めて都市国家が成立するのである。そのような運用の中心的役割を担ったのが、農耕以外で暮らしを立てるカインの末裔であった、と物語は伝える。神はカインが巨大な力を持つことを許さないために彼を農耕生活から引き離した。しかし彼の子孫は農耕生活とは別の形で力をつけ、都市国家(文明)の担い手となったのであった。

このようにしてカインとその末裔は、罪を悔い改めるどころか独自の形で力を蓄え、神に頼ることなく、神なしで生きていけるようになった。このような事態が破局に向かわないはずがない。すでに学んだように、罪と善悪の知識を宿した人間は絶えず神により頼むことによってのみ、正しい道を歩むことができ、そうでないなら大きな罪の行為を犯すことになるのだから。

事実カインの末裔のレメクは、恐るべき言葉を口にするようになる。「わたしは傷の報いに男を殺し/打ち傷の報いに若者を殺す。カインのための復讐が七倍なら/レメクのためには七十七倍。」この言葉は何を意味するのか。そもそもこの言葉は歌である。/は韻を踏んでいたことを示す。つまり、レメクはこの言葉を歌として二人の妻(アダとツィラ)に繰り返し聞かせていたのだ。いったいなぜそのようなことをレメクはしたのか。その理由を教えてくれるのは、「殺す」の一言である。最近の研究によれば、この言葉の正しい訳は「殺した」(過去形)なのだそうだ。だとすればすべての謎が解ける。レメクは何らかの戦いで傷を受け、その復讐として相手の男を殺したのだ。恐らく何度も。そしてその武勲を歌にして、毎晩のように妻たちに聞かせたのだ。これは何よりもまずレメクが自分の武勲を自慢するための歌であったのだ。これだけでもレメクがいかに危険な存在か理解できよう。

 しかし、それよりも問題なのは、最後の「カインのための復讐が七倍なら/レメクのためには七十七倍」の一言である。この言葉も最近の研究によれば、誤訳であるらしく、正しくは「カインが七倍の復讐をするとすれば、レメクは七十七倍の復讐をする」と訳すべきであるらしい。つまりレメクは、復讐を行うのは神ではなく、人間であるという信念に基づいてこの歌をうたっていたのだ。

 そもそもカインの復讐は、神がするはずのものであって、カインがするはずのものではなかった。神はカインが長生きして悔い改めることを望めばこそ、「カインを殺す者は、だれであれ七倍の復讐を受けるであろう」と述べたのであった、つまり復讐の担い手はあくまで神であり、その復讐もカインへの愛を動機とするものであった。ところがレメクは復讐の担い手を神からカインに変えてしまい、それに基づいて、自分のための復讐の担い手を自分自身に設定してしまった。つまりレメクは、神の言葉を改変することによって、自分の復讐は自分でするという自分の信念を正当化しようとしているのだ。

これだけでも相当に悪いのであるが、さらに悪いのは「七十七倍」という数である。七十七は聖書の世界では完全数であるから、レメクは自分の力によって徹底的・かつ無限に復讐すると述べていることになる。つまりレメクは、この数字によって自分の復讐は極めて過剰な復讐であることを宣言し、それによって他者が自分に歯向かわないよう威嚇したのだ。実際レメクは、「傷の報いに男を殺し/打ち傷の報いに若者を殺した」と歌っている。つまりレメクは何度も過剰な復讐を行ってきたのである。その過去を反省するのではなく、むしろ利用することによって威嚇によって自身を守ろうとする、それこそが七十七倍の復讐という言葉に込められた意図なのだ。これはまさしく核抑止力と同じ発想ではないか。

 復讐は本来神だけに許されるべきものである。神だけが自己中心性を超えた正しい判断をくだすことができるからだ。ところがここでレメクは自分の復讐は自分で行うと宣言しており、しかもその復讐は相手を滅ぼしてしまうほどの徹底的なものである。ここにはまさに自分を神の位置につけるほどの自己中心性がある。このような人間が、強大な力を持つ都市国家を担っていくとき、その先にはいったい何が起こるのであろうか。無限の戦いの連鎖が起こり、膨大な武力で威嚇し合う状況が生まれるのは必定である。現在世界は、核兵器で威嚇し合うことによってかろうじて平和を保っているが、そのような時代が到来することをすでにこの物語は見抜いており、その罪深さと危険性をレメクという人物を通じて明確に描き出している。神の思いもそれと一致しているであろう。神はレメクの物語を通じて人間による復讐という発想自体が間違ったものであり、過剰な復讐によって身を守ろうとすることがいかに罪深く、かつ危険なことであるかを人々に伝えようとしているのだ。

 

3.辺境の恵み

 

4:25 再び、アダムは妻を知った。彼女は男の子を産み、セトと名付けた。カインがアベルを殺したので、神が彼に代わる子を授け(シャト)られたからである。

4:26 セトにも男の子が生まれた。彼はその子をエノシュと名付けた。主の御名を呼び始めたのは、この時代のことである。

 

神は殺されたアベルの代わりに、アダムとエバにセトという息子を与えた。そしてセトの子孫らが「主の御名を呼び始めた。」「主の御名」を呼び始めるとは、すなわち信仰が始まるということである。カインの末裔が築き上げた文明とは全く異なる環境で、信仰は生まれたのだ。

ここには間違いなく神のメッセージが込められている。すなわち信仰は文明とは基本的に相容れないということだ。文明とは自力だ。人間が自分の力を駆使して、自分を守ろうとするところに文明が発達する。対して信仰は他力だ。自分の無力を知り、神により頼むことこそが信仰である。つまり文明と信仰は本来的に相容れないのだ。

もちろん文明の中に生まれた者が信仰を持つことはある。文明の真っただ中に暮らし、文明のむなしさと自分の無力を思い知った者なら神により頼むかもしれない。逆に文明のない辺境に生まれ育った者が信仰を持たないこともある。田舎者同士で争って自分は強いとうぬぼれた者なら、神なき者となるであろう。しかしいずれの場合も例外である。文明は基本的に自力の発想から生まれたものであり、そこに生きる者は自力で生きることを強いられる。文明から遠く離れた、頼る者がないような辺境地帯で生まれ育ってこそ神により頼む心が生じるのである。超越的な神を信じる唯一神信仰(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)が砂漠で生まれたのも決して偶然ではない。

ところで現代は、グローバル化の時代である。そこには、文明と辺境の違いなどない。なぜなら世界中がネットでつながっていて、世界全体が一つの文明と化してしまっているからだ。このような世界では、全ての人間が自力で生きていくことを強いられ、神により頼むなどという発想は生まれる余地がない。

しかしそうであればこそ、現代は自力の発想の限界を学ぶのに格好の時代であると言えよう。現代文明をよくよく眺めてみれば、そこには自力の限界が至る所に噴出している。戦争、テロ、核兵器、無限の競争と貧富の拡大、自然破壊、心の病、自殺、様々な中毒・・・。これらはすべて自己中心的な人間が自力に頼って生きていこうとした結果ではないか。このことに気付くなら、皆さんも神により頼む信仰がどんなに貴重なものであるか、わかってくるはずだ。

 

4.神の裁き

 

6:1 さて、地上に人が増え始め、娘たちが生まれた。

6:2 神の子らは、人の娘たちが美しいのを見て、おのおの選んだ者を妻にした。

6:3 主は言われた。「わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない。人は肉にすぎないのだから。」こうして、人の一生は百二十年となった。

6:4 当時もその後も、地上にはネフィリムがいた。これは、神の子らが人の娘たちのところに入って産ませた者であり、大昔の名高い英雄たちであった。

6:5 主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、

6:6 地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。

6:7 主は言われた。「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する。」

 

 「神の子ら」とは何者か。その子孫である「ネフィリム」とは何者か。古代イスラエルにおいては、王は「神の子」と呼ばれていた。ゆえに「神の子ら」とは王たちのことである。そして「ネフィリム」は王たちがはらませた王子たちのことである。ダビデの逸話で有名なように古代の王たちは、家臣や庶民の妻や娘らを自由にわがものとした。ソロモンに至っては、700人の妻を抱えていたと言われる。筆者はそのような王たちへの批判を「神の子らは、人の娘たちが美しいのを見て、おのおの選んだ者を妻にした」という文(6:2)で密かに表したのだ。

 密かに表されているので、その重みが伝わりにくいが、ここに記されていることは極めて重大なことである。なぜなら男女は、異なりながらも対等な人格として向き合い、自由意志をもって助け合う存在として創造されたからだ。ところが、古代の王たちは、女の自由意志を無視して、強引にわがものとした。女を物としか見ていなかったのだ。これは明らかに創造の秩序に対する反逆である。

 そうであればこそ神は3節で言う。「わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない。人は肉にすぎないのだから」と。こうして人の寿命は120年になったと聖書は語る。人は元々永久に生きる存在ではなかった。しかし、5章には、1000年近く生きた先祖たちの名が10人近く羅列されている。そして古代の王たちは彼らを超えて永久に生きることを望んでいた。これらの全てに対して神はここでNo!を突き付けたのだ。人は120年以上生きるべきではないと。

 いったいなぜか。言うまでもなく、人間が女を物のごとく扱い、対等な人格として助け合わないからである。女を物扱いにするとすれば男も物扱いにするであろう。つまり人間はやがて互いを物扱いし、対等な人格として助け合っていくことはなくなっていくであろう。そのような人間が1000年も生きたらどうなるであろうか。一人の力ある男が何万人も妻を抱えるようになるかもしれない。あるいは一人の力ある男が数千万人の家来を従えて王座に君臨するかもしれない。このような世界に、対等な人格としての助け合いが生まれるはずがない。対等な人格としての助け合いがないなら、愛など実現しようはずがない。であればこそ神は、人間の寿命を120年にとどめるという重大な罰を下したと創世記は語る。このような罰を本当に神が下したのかどうか、定かではない。恐らくそんなことはないであろう。しかしここに込められた神のメッセージは明らかである。神はこう言いたいのだ。「肉の命を長らえることに意味はないのだ、愛し合うことこそが重要なのだ、対等な人格として助け合うことこそが重要なのだ、愛がなければすべてはむなしいのだ。」

 ところがそのような神のメッセージも人間には何ら効果を及ぼさなかった。罪と善悪の知識に巨大な力が加われば、もう歯止めは聞かない。その結果「人の悪」は増し、人は「常に悪いことばかりを心に思い計る」ようになっていったのだ。

一体人はどのような悪事を働き、どのような悪事を思い計ったのであろうか。具体的には何も書かれていないが、すでに書かれたことがエスカレートしていったとみて良いだろう。つまり人はアダムとエバが行った以上に他者批判と他者への責任転嫁を行い続けたのだ。カインが行った以上に自己義認と比較に基づく差別や殺人を行い続けたのだ。レメクが行った以上に過度な復讐と争いを行い続けたのだ。そして古代の王たちが行った以上に女や他者を物扱いにし続けたのだ。このような罪の行為は全人類へと拡大していった。信仰を抱いたセトの子孫さえもその影響を受けずにはいられなかった。

 こうして神は6:7で言うのである。「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する。」

 神は愛である。故に愛を実現しようとしてこの世界を造り、動物を造り、人間を造った。人間こそは、愛を実現するために中心的役割を果たすはずの存在であった。ところがその人間が、愛とは全く別の方向に進んでしまった。善悪の知識を利用して巨大な力を獲得し、自己中心性を果てしなく拡大する方へと向かっていってしまった。これでは世界を造った意味が全くない。神の思いによれば、愛がなければ無に等しい。そうであればこそ、神は人間を含む全ての動物を滅ぼすことにしたのである。

 人間が悪いなら、人間だけ滅ぼせばよいのに、なぜ神は他の動物まで滅ぼすのであろうか。古代オリエントやギリシアの世界観においては、人間と自然は連動していた。人間が良ければ自然は良くなり、人間が悪ければ自然も悪くなると考えられていたのだ。その古代の考え方を聖書の筆者(祭司)たちは引き継いでいた。そうであればこそ、ここで神は、人間が悪くなると同時に他の動物も悪くなったとみなし、全ての動物を滅ぼそうとするのである。これは明らかに筆者の時代的限界である。

 さて、このような物語に込められた神のメッセージとは何であろうか。それはやはり、神は悪に対して最終的な裁きを下すということである。神は愛である。このことは神が悪に対して何も感じないということではない。神は悪に対して怒るのである。いや大いに激しく怒るのである。にもかかわらず神は、その怒りを抑えて、人を寛大に扱い、悔い改めを待ち続ける。しかしその寛容も無限ではない。人間の悪が限界を超えてしまったなら、神は裁きの大鉈を振るう。そのようなメッセージがここには込められているとみるべきであろう。

 繰り返すが、この物語自体はフィクションである。神が悪の一途をたどる人間を他の動物と共に滅ぼそうとした事実などない。にもかかわらずこの物語には確かに神のメッセージが含まれている。そしてそのメッセージとは、いつの日か必ず神は裁きの大鉈を振り下ろすということである。

 このような神が果たして愛の神なのか。そうなのだ。このような神であればこそ愛の神なのだ。愛の神は怒らずに罰を下さない神ではない。悪に対して最終的な裁きを下さない神ではない。愛の神は悪に対して正当な罰を下し、極度の悪に対しては最終的な裁きを下す。神は愛の神である。赦す愛と裁く正義、この二つは一つのものであって別のものではないのだ。

 

話し合い

Ko「なぜ神が洪水を起こすのか、今まで良くわからなかったけど、今回の話でよく理解できました。女を物と見なすことの批判がそこにあるとは思いませんでした。」

寮長「ところが、せっかくここでは良い指摘を行っているのに、聖書の筆者たちの中にも結構男尊女卑が入っていて、そのような言葉が聖書にはたびたび登場します。ここを神のメッセージと同一視しないようにしなければなりません。」

Ka「現代は復讐はなされるけれど、正しい裁きはなされない時代だと思いました。例えば、すし屋の皿をなめた少年がいましたが、彼が処罰されるのは当然だとしても、その少年の両親までみんなから批判されています。これはもう裁きではなくて、復讐ですよね。」

寮長「復讐というよりは差別かもしれません。批判している人たちは別に被害を受けたわけではないのですから。」

Ka「僕はかつてバスに乗っていて、やばいおじさんに絡まれたのですが、警察に訴えると、あのおじさんは心が病んでいるので訴えることはできないと言われました。心が病んでいようと悪いことは悪いという正しい裁きがなされるべきだと思わないでしょうか。」

寮長「そこまで言えるかどうか。」

It「本人に正常な主体的意志がないなら、裁いても無駄ですよね。さらには、彼の生活環境も考慮に入れなければ、彼を裁いてよいか同課は判定できません。」

寮長「どうすれば正しい裁気が下せるかを考えていくと、話が難しくなってきます。やはり人間には正しい裁きは無理なので、裁きは神に委ねるべきというのが一番なのではないでしょうか。」

Sa「神による復讐というのがどうも納得できません。復讐は普通被害者が加害者に対して行うものです。その復讐を神が代わりに行ってくれるというのはどういうことでしょうか。」

寮長「神による復讐は、人間が行う復讐とは全く別のものであり、神が悪に対して下す裁きのことです。加害者は自身の悪のゆえに必然的に悪い結果を引き起こす、これが神の裁きであり、神による復讐です。ですから、復讐を神に任せるということは、相手を神の裁きに委ねるということなのです。」

Ku「神は呪わなくとも、呪いとか悪霊とかいうものはあると思います。自分の罪に気付かないでいると、そういうものに占拠されてしまう。僕自身そういう経験があります。」

寮長「呪いや悪霊が本当にいるのかどうか。これは今日の問題と離れますのでまたいつか扱うことにしましょう。」

So「信仰と文明が相容れないというのは、納得できません。人間には自力と他力の両方が必要で、もしこの両者を両立していけるなら、信仰と文明を両立していくことも可能だと思います。」

寮長「その通りです。両者が両立できれば最高でしょう。ただ信仰と文明が他力と自力と同様に別方向を向いていることは確かだと思います。その意味で両者はやはり相容れない。しかし人間の心の中では、これらの相容れないものを両立させていくことは可能ですし、また両立させていくのが理想だと思います。」

Ya「愛と義が神においては一致しているというところに感動しました。死刑反対という発想もそういうところから生まれてくるのではないでしょうか。」

寮長「死刑反対というのはむしろ、神以外に究極的に人を裁ける者はいないという考えと神の似姿ゆえの人の命の絶対的尊厳から生まれてくるのだと思います。」

It「人には人を裁くことなどできなし、赦すこともできないというのが本当でしょう。」

寮長「しかし、面白いところは、キリストに頼るなら赦すこともできるようになるということです。かつて講演しに来てくれた本間さんなどは、アメリカ軍に家族を殺され、アメリカに復讐することを誓い、強力な武器を開発しようとしましたが、その途中でキリストと出会い、アメリカを赦す者へと変えられました。キリストに頼るなら、神の力が働いて、敵をも赦せるようになるのです。」

Ma「多神教は人間の欲望の結果だという寮長の言葉は見過ごすわけにはいきません。聖書は多神教をすべて否定しているのでしょうか。また寮長は多神教をすべて否定しているのでしょうか。そんなの信教の自由に反するじゃないですか。」

寮長「旧約聖書について言えば、多神教をすべて否定していると言ってよいでしょう。旧約聖書で一番重要な掟は他の神を崇めてはいけないであり、二番目に重要な掟は偶像を作って拝んではならないですから。これらの掟はすべて、偶像崇拝に代表される多神教がなべて人間の欲望をかなえるために人間が作り出した宗教だという前提から生まれたものです。しかし、新約聖書になりますと、話が違ってきます。神は愛であり、最も大切なものは愛ですから、他者を裁くことこそ一番いけないということになる。いくらその主張が正しくとも、愛がなければ無に等しいということになり、そこから、他者の信仰をも尊重する精神が出てきます。ですから、新約聖書からすれば、多神教は決して厳しく禁じられるべきものではなく、むしろ尊重されるべきものでありましょう。そして恐らく神の御心も新約聖書のそれと同じであると思います。神は恐らく、多神教の中にも神の信仰に通じるものがあると考え、それらを寛大に見守っていると思います。私の意見も同じです。多神教と十把一絡げにするのではなく、多神教の中にも良いものがあると認め、それを尊重するのが正しいと思います。例えば仏教や神道の中には人間の欲望から生み出されたものとは異なる清らかなものがあり、それを信じる清らかな人たちもいます。そういう人たちを否定してしまうとすれば、そこには愛も何もないし、神の愛に反すると思います。」

Ma「それなら安心です。先ほどはきつい言い方をしてすみませんでした。」