本当に人を救うもの(小舘)

2024年6月23日春風学寮日曜集会

聖書 マタイによる福音書28:6-13

讃美歌 312, 121

1.解説

 

①命がけの女

26:6 さて、イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家におられたとき、

26:7 一人の女が、極めて高価な香油の入った石膏の壺を持って近寄り、食事の席に着いておられるイエスの頭に香油を注ぎかけた。

*さりげなく書かれているが、ここに書かれていることは驚くべきことである。「重い皮膚病」とは正体不明の皮膚病のことである。かつてはらい病(またはハンセン氏病)と訳されていたが、今は本当にらい病だったかどうかわからないということで「重い皮膚病」または「既定の病」と訳されている。いずれにせよこの病にかかった者は少しずつ体が腐敗し、着実に死へと向かっていく。その上この病は他者に感染する。だから、「重い皮膚病の者」は普通の人の住居に住むことは許されず、定められた特定の場所に住むか、野山を放浪しなければならなかった。また、他の人に二メートル以上近づくことを禁じられており、だれかが近づいてきたときには、自分から「私は汚れた者です」と呼びかけ、近寄らないように警告を発しなければならなかった(レビ記13:45)。

・それだけではない。この病にかかったということは神から呪われていると考えられたため、その者は宗教的にも霊的に汚れた者と見なされ、軽蔑された。

・だから、「重い皮膚病の人シモンの家」というのは、間違いなく普通の人が入ってはいけないはずの場所であった。ところがそこにイエスとその弟子たちは入り、食事をしている。それだけでも驚くべき出来事であるが、なんとそこに「一人の女」が入って来たのである。これはさらに驚くべき出来事、いわば驚天動地の出来事である。というのも、当時のユダヤでは女が男たちの宴席の場に近づくことは禁じられており、その禁を破った女は処罰されたからである。「重い皮膚病の人」の家に入って来た上に、男たちの宴席の場にさえ入って来た。つまりこの女は二重に律法を破ったのである。このようなことは当時のユダヤ人社会では断じて許されないことであった。

・ということは、この女は命がけだったということである。二重に律法を破って、命の危険まで冒して女はイエスのもとにやって来た。

*それでは彼女はいったい何をやりに来たのであろうか。「極めて高価な香油の入った石膏の壺を持って近寄り、食事の席に着いておられるイエスの頭に香油を注ぎかけ」に来たのである。「石膏の壺」に入った「極めて高価な香油」とは、オリーブ油に香料を混ぜたものであり、上流階級の人々の美容や祭司の儀式のために用いられた高級化粧品である。マルコによる福音書の並行記事によれば、このときに注がれた香油は300デナリオンで売れたそうである。1デナリオンは日雇い労働者の一日分の給与だから、今の一万円に相当する。ということは、300デナリオンの香油とは300万円の香油なのである。この女はイエスの頭に300万円分の香油を注ぎかけたのだ。これまた驚天動地の行為である。

・いったいなぜこの女は命をかけてまでこんなことをしたのか。ここには、聖書の伝えようとする最も重要なメッセージが隠れている。以下、それを読み解いていこう。

②弟子たちの思い

26:8 弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「なぜ、こんな無駄遣いをするのか。

26:9 高く売って、貧しい人々に施すことができたのに。」

*ここで思い出すべきは、この出来事の直前にイエスが繰り返し愛の実践の重要さを説いていたことである。「10人のおとめ」のたとえも、「タラントン」のたとえも、最後の裁きの物語も、全ては愛の実践を命じる物語であった。それらを聞いていたからこそ、弟子たちは愛を実践すべきだと思い、言ったのだ。「高く売って、貧しい人々に施すことができたのに」と。つまり300万円で売れば、たくさんの貧しい人たちに愛を実践することができたではないかと批判したのだ。

*ところで、弟子たちのこの言葉は本当に愛から出たものであろうか。彼らは本当に貧しい人を助けたいと思ってこういう批判をしたのであろうか。半分はそうであろう。しかし、どうもそれだけではなさそうである。もしこの言葉が本当に愛のみから出た言葉であるなら、この女の行為に憤慨しはしなかったであろう。何より、他人の愛の行為に文句を言って、正しい愛の在り方を命じるという行為は、愛を動機とする人からは出てこないことである。彼らが他人の愛の行為に文句をつけたということ自体が、彼らの批判の動機が純粋な愛ではなかったことを物語っている。

・それでは、弟子たちがこの女を批判した本当の動機はいったい何だったのか。思うにそれはこの女の越境的な態度への嫌悪感であろう。そもそもこの女は、律法を破って男だけの宴席の場に入って来た。卑しむべき女が聖なる男の宴席に入って来たのだ。弟子たちは先ずこのような女の越境的態度が気に入らなかった。しかし、それ以上に気に入らなかったのは、卑しい女が自分たちの師である聖なるイエスのもとへずかずかと近づいて行って、まるで自分の子供にでもするかのように、香油を頭に降りかけたことである。イエスを最高の師として崇めてきた弟子たちにしてみれば、それは自分たちだけが入ることのできる聖所に土足で踏み込んでくるような行為に思えたであろう。なぜこの女は何のわきまえもなく、踏み越えてはならない境界を踏み越えてくるのか、その越境的態度が、弟子たちにはどうしようもなく気に入らなかった。だからこそ彼らは憤慨し、この女の行為を批判したのである。

③女の真意

26:10 イエスはこれを知って言われた。「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。

26:11 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。

26:12 この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた。

*ここでまず注目すべきことは、イエスが弟子たちの真意を見抜いていることである。イエスは弟子たちの言葉が半分は貧しい人たちへの愛から出たものでありながら、半分は女の越境的態度への怒りから出たものであることを見抜いていた。だからこそイエスは弟子たちをほめもしなければ、𠮟りつけもせず、優しく諭したのである。「なぜ、この人を困らせるのか」と。

*しかし、それよりも注目すべきことは、イエスがこの女の行為の真意をも見抜いていたことである。「この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた」と。この言葉によってこの女の不可解な行為の真意が解き明かされる。彼女の行為はイエスを葬るための準備であったのだと。イエスは、今までに何度も自分は殺されると語っていた。ところが誰一人その言葉を真に受けなかった。直弟子であると自負している弟子たちでさえ真に受けなかった。そのような中で、この女だけはその言葉を真に受けていたのだ。その言葉を真に受けて、殺されようとしているイエスのことを心より憐れんでいたのだ。

・イエスについて来るような女がお金持ちのはずはない。おそらくこの香油は、女が全財産をはたいて購入したものであろう。つまり彼女は全財産をはたいて、律法を二重に破るというリスクを冒してまで、殺されようとするイエスのことを憐れんだのだ。これほどの愛があるであろうか。彼女の行為はまさしく、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」という最も重要な教えの純粋な実践であったのだ(イエスは神の子であるということを女は信じていた)。

・してみれば、彼女の越境的態度は、最も重要な掟を実践した結果であったのだ。

*それにしても、いったいなぜこの女だけがイエスの言葉(自分は殺されるという言葉)を真に受けることができたのであろうか。これについては、いろいろな解釈が提出されているが、私は単純にイエスのことを心から愛していたからだと受け取りたい。イエスを心から愛していたからこそ、イエスの身になって考えることができ、イエスに迫る危険を察知できたのだ。

④女の愛

26:13 はっきり言っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」

*以上のような女のイエスへの愛は、弟子たちのイエスへの愛とは全然異なるものである。弟子たちのイエスへの愛は自己愛の延長線上にあるものであった。イエスに気に入られたい、イエスから偉いと認められたい、イエスの弟子として一番になりたい、イエスの神の国で要職につきたい・・・。弟子たちのイエスへの愛はそのような自己愛の延長線上に生まれてくるものであった。ところが、この女の愛は、全くそうではない。その愛は本当に自分の全てを捨てて相手を思う、見返りを求めない愛であったのだから。

・イエスはそのような彼女の純粋な愛をくみ取った。だからこそ宣言するのである。「はっきり言っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」と。

*ところで、ここにはもう一つ解説しなければならないことがある。「福音」という言葉である。「福音」とはいったい何か。それは、救い主によって罪と死からの解放がもたらされるという知らせである。そして救い主という言葉のヘブライ語はメシアであり、メシアの元々の意味は「油を注がれた者」である。古来ユダヤでは、祭司から油を注がれた者が王となり、地に救いをもたらした。このような歴史のゆえに、救い主は「油を注がれた者」すなわちメシアと呼ばれるようになったのだ。

・このような「福音」とメシアという言葉の意味を理解するなら、なぜイエスが「世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」と言ったのか、そのもう一つの理由が理解できる。この女がイエスの頭に香油を注いだという行為は、奇しくもイエスがメシア(救い主)であるということを宣言する儀式となったからである。この出来事を伝え聞いたユダヤ人は誰もが考えさせられたであろう。イエスは本当に油を注がれた者(メシア=救い主)であったのかと。そしていまだに世界中の人々が考えさせられている。イエスは本当にメシアであったのかと。こうなることを見抜けばこそイエスは言ったのである。「世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」と。

*だとするともう一つ疑問が湧いてくる。イエスは本当にこの後殺されることになるわけだが、そのようなイエスがいったいどうして救い主なのであろうか。殺されてしまう無力なイエスのことをどうして世界中の人々が救い主であるかもしれないと思うのであろうか。

・言うまでもなく、十字架にかけられて殺されたイエスが、実際に救いの力を発揮したからである。すなわちイエスの死は自分の罪を償うためのものであったと信じる無数の人々を罪と死(霊的死)から救い出したからである。あるいはイエスの死は究極の愛の実践であったと信じた無数の人々を罪と死(霊的死)から救い出したからである。さらには、そのように信じない人たちにまで、無意識のうちに影響力を行使してきたからである。

イエスは殺されるとによって真のメシア(救い主)となった。これこそ今日の個所が述べ伝えようとする最大のメッセージである。

 

2.メッセージ(今回よりメッセージ=疑問というパターンが加わる。疑問を投げかけること自体がメッセージであるということが聖書にはしばしばあるからだ)

 

①本当に愛するとはどういうことか

今日の個所から受け取るべき最初のメッセージは、本当に愛するとはどういうことかについて考えることである。イエスの弟子たちは、香油を高く売って貧しい人に施せば、愛が実践できると考えた。驚くべきことに今でもほとんどの人が他人にお金をくれてやることが愛の実践であると思っている。日本政府などは、集めた税金を国民にばらまくことが愛だと思い込んでいるらしい。はたしてお金を与えることによって愛が成るのか。さらには本当の愛の実践はいかにすれば可能になるのか。これこそ今日の個所で先ず考えるべきことである。

②愛を他者に命じてよいか

第二のメッセージは、愛を他者に命じることができるか考えることである。弟子たちは、女の行為を愛ではないと断じ、別の方法で愛することを憤りつつ命じた。果たしてこれは正しいことか。

聖書には、愛の命令がたくさん書かれている。しかし、他者に愛を命じることができるのは神(もしくは神の子)だけなのではあるまいか。人間が他の人間に愛を命じるというのは、とんでもなく間違ったことなのではあるまいか。

③越境すべき時はいつか

第三のメッセージは、愛のためにこの世の秩序を超えて良いのはどのようなときかを考えることである。今日の個所に出てくる女は、大胆に次々と世の秩序を乗り越えて自身の愛を実践した。イエスもまた次々に大胆に世の秩序を乗り越えて愛を実践した。しかし、いつもこのようなことが許されるわけではない。私たちは、平穏な日常においては世の秩序に従うべきである。それでは、いったいこのようなことが許されるのはどのような時であろうか。この世の秩序を超えてまでも、愛を実行すべき時とはどのような時なのか。

④純粋な愛が真の知恵を生む

第四のメッセージは、純粋な愛こそが真の知恵を生むということである。弟子たちは不純な愛(自己愛の延長としての愛)しか持てなかったから、結局のところイエスの気持ちになって考えることができなかった。対して女は、純粋な愛(自分を捨てて相手本位になる愛)を持っていたからこそイエスの気持ちになって考えることができた。つまり、純粋な愛があればこそ、人は他者の気持ちになって考えることができ、真の知恵を持つことができるのである。

現代は、post-truthの時代であり、ソーシャルメディアによって詐欺やフェイクニュースが飛び交うために何が真実であるかわからなくなる時代であるが、なぜなにが真実かわからなくなるかと言えば自身の動機が不純だからである。何が自分の利益かと考えて真偽を判断しようとするから何が真実かわからなくなる。純粋な愛に基づいて自分を捨て、何が他者のためになるかを考えるなら、たいていの場合は真実らしきものが見えてくる。その情報にまつわる関係者の真の動機が見えてくるからだ。

純粋な愛の目で情報を見ることこそ、post-truthの時代を生き抜く最高の方法である。

⑤本当に人を救うもの

第五のメッセージは、純粋な愛が人を動かすということである。弟子たちのイエスへの愛は、自己愛の延長でしかなかった。だからそのような愛によって変えられる人は誰もいない。彼らの愛がどんなに合理的で他者の役に立ったとしても、そのような愛は他人を変えはしない。

ところが、この女の愛はそうではない。この女の愛は人を感動させ、人の心に残り、人を変えていく可能性を秘めている。彼女の愛が実際には何の役にも立たない、非合理的なものであったとしても、彼女の愛は他人の心を打つ。いったいなぜか。純粋だからだ。彼女の愛は純粋に他者中心的な、純粋にイエスのことを思いやる愛であった。彼女はイエスの本当の気持ち(殺されようとする苦しみ)を見抜いていたのだから。しかも彼女はそのような愛を命がけで、全財産を使ってまで実行した。このように他者本位で、自己犠牲的であるがゆえに、彼女の愛は人の心を打ち、人の心に残り、人を変えるのである。

つまり、本当に人を変え、世の中を変え、人を救うものとは、他者本位にして自己犠牲的な愛なのである。イエスが十字架上で殺されるという行為は、そのような愛の極限であったと言えよう。

⑥イエスは本当にメシアだったのか

 最後のメッセージは、イエスが本当にメシアだったのかという疑問である。もしイエスが、スーパーマンのように悪人を全てやっつけ、力で正義を実現し、永遠の命を即座に与えてくれたなら、私たちは文句なくイエスを救い主と認めたであろう。ところがイエスはそのようなことはしなかった。処刑されて悪の勝利を招き、永遠の命を与えないままに死んでしまった。このようなイエスが果たして本当に救い主なのであろうか。極めて怪しい。

 にもかかわらず、イエスが殺されたことによって無数の人々が心底変えられたことも事実である。スーパーマンのようなイエスなら、このように人を変えることはできなかったであろう。そのような救い主は力によって人を屈服させるだけなのだから。

 私たちは人を救うものは力だと思っている。しかし本当に人を救うものはやはり純粋にして自己犠牲的な愛なのである。その愛を完全に示したという意味において、イエスはやはり本当のメシアなのではないだろうか。

 

3.話し合い

 

U君「弟子たちの愛は計算づくですが、女の愛は、計算がない、純粋なものであると感じました。」

寮長「その純粋さがどのようなものかが、重要です。」

Ka君「女はイエスのために全財産をはたいて買った香油を全てイエスに捧げました。この善意をイエスは褒めたのではないでしょうか。」

寮長「その通り。そこが重要です。女の行為は、自己愛の延長であるような弟子たちの愛とは違う、本当にイエスのことを思う愛の現れでした。だからこそイエスは女をほめたのです。」

Ku君「『貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない』とはどういうことでしょうか。」

寮長「『貧しい人たちに奉仕することはいつでもできるけれど、私に奉仕することは今しかできない、私はもうすぐ殺されるのだから』という意味です。貧しい人たちに奉仕することも大事だが、今は私に奉仕することが重要だと言っているのです。いったいなぜ今は自分に仕えることが重要だとイエスは言ったのでしょうか。それは十字架にかけられるということが、人類の救いを左右する大仕事だからです。だからイエスは、今こそ私に仕えて自分を支えてほしいと思っているわけです。」

I君「『純粋な愛こそが真の知恵を生む。何が自分の利益かと考えて真偽を判断しようとするから何が真実かわからなくなる』というメッセージに心打たれました。ソーシャルメディアの情報を見ていると本当にそうだと思います。儲けようという心があるから騙される。知恵は訓練とスキルによって身に着けるものだと思っていましたが、それだけでは不十分ですね。」

寮長「その通り。しかし、自分を捨てて相手の立場になるということもまた訓練が必要です。愛もまたある程度訓練して身に着けることなのです。私は教師なのでいつもその訓練にさらされています。学生たちと話をするときには、いったん自分の考えや価値観を捨てなければなりませんから。」

So君「重い皮膚病の人には友達なんて誰もいなかったと思います。その人の家に弟子たちを連れて訪れ、共に食事をするというのは、これこそ本当の愛の実践だと思いました。最後に歌った讃美歌、『友なき者の友となりて、こころくだきし』の通りですね。ただ弟子たちも共に連れて行って感染の危険にさらすのは、少しやり過ぎではないでしょうか。」

寮長「もしこれが強制であったならやりすぎですが、弟子たちは自発的に同行しているので、やり過ぎとは言えないと思います。イエスは確かに弟子たちに「愛しなさい」と命令しますが、別にこれは罰を伴う掟であるわけではなく、あくまで自発的に従うことを求めた呼びかけです。」

Ya君「弟子たちがなぜ怒るのか、今までよくわかりませんでしたが、女の越境的態度が気に入らなかったという今日の説明で、初めて納得できました。僕はルールを守るタイプなので、ルールを守らない人にはいつもイライラさせられますが、自分も弟子たちと同じように、その人たちの越境的態度にムカついていたのだとわかりました。」

Sa君「弟子たちはお金を与えることが愛の方法だと言っていますが、そのような方法は表面的なことでしかありません。本当の愛は、この女がしたように、全身全霊で相手に寄り添うことだと思います。」

寮長「そこまで読み取ってくれてうれしいです。」

Mi君「越境すべきときとはどのようなときか考えようというメッセージに心を打たれました。というか、この問題にはいつも考えさせられています。世の中には、何でもかんでも越境するのが良いことだと考える風潮がありますから。」

寮長「去年の寮生には、そういう人が結構いましたね。越境してはいけない場面で越境してしまう。これではアナーキズムです。」

Ku君「せっかく自己犠牲的な愛を発揮して人を救っても、その人が自己中心的なままだったら、何の意味もないと思うのですが。」

寮長「確かにその通りですが、今日の話のみそは、自己犠牲的な愛が人を変えるというところにあります。イエスは自己犠牲的な愛によって自己中心的な人々を赦しましたが、決して彼らをそのままにしておいてよいとは考えませんでした。むしろ、彼らを自己中心性から解放するためにこそ自己犠牲的な愛を示したのです。そして実際、そのような愛を示された人々の中には、自己中心的でなくなる人たちが出てきました。」

Ku君「そんな人ちょっと想像できないのですが。」

寮長「例えば、パウロがそうでした。パウロは名門出のお金持ちであり、エリートでありました。そして律法を守れない人を処刑し続けていました。パウロは自分こそは正義であると信じる超自己中心的な人間だったのです。しかしそういうパウロの心にも何か満足しきれないところがありました。そして、自分が処刑したステファノがイエス様のように「私を殺した人たちをおゆるし下さい」と叫びながら死んで逝くのを見たとき、彼の心は変わり始めていきました。自己中心から他者中心へと方向転換が始まったのです。このように、自己犠牲的な愛は単に相手をそのままでよしとするものではありません。相手を自己中心性から他者中心性へとシフトしていくものなのです。」

Go君「知事選の言説を見ていると、全てがネガティブキャンペーンなので嫌になります。結局何が真実かはわからなくなり、一番ましなのを選ぼうという態度になってしまう。どうすればよいのでしょうか。」

寮長「ネガティブキャンペーンの言説なんてみんな嘘ですから、そんなものに悩まされる必要はありません。重要なことは、候補者が本当に自分で言っている通りのことをやって来た人なのかを調べることです。本人の著作や履歴を調べればたいていはわかります。その人の言葉や経歴を消すことはできませんから。その場合にも必要なのは、自分を捨て去って相手の立場に立って考えてみることですね。他の専門家やインフルエンサーの意見を聞くなんてことは、絶対やってはいけません。」