2025年6月1日春風学寮日曜集会
創世記
2:18 主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」
2:19 主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。
2:20 人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった。
2:21 主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。
2:22 そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、
2:23 人は言った。「ついに、これこそ/わたしの骨の骨/わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう/まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」
2:24 こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。
2:25 人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。
序 人格の大きな影響力
まず確認しておきたいことは、このような話はほとんどフィクションであるということだ。ここには何も事実が含まれていないと言い切ることはできないが、ほとんどは当時の人間の作り話であると考えて良いだろう。しかしだからと言ってここに神からのメッセージが含まれていないということではない。たとえフィクションであるとしても、筆者は何らかの啓示を神から受けて書いたのである。以下、できる限りそのメッセージを受け取っていきたいと思う。
神は人間だけに自由に愛を選ぶことのできる主体、すなわち人格を与えた。このことは人間の様々な活動に影響を及ぼす。人格を正しく用いて愛を選ぶのか、それとも本能だけに隷属する道を選ぶのか、さらには本能を超えてまで自分を利する道を選ぶのか、これらのうちのどれを選ぶかによってその人の人生はぜんぜん違ってしまう。例えば、恋愛や結婚といった男女関係。男女が人格対人格として向き合い愛を選んで付き合っていくのか、それとも本能対本能として向き合い本能的欲望に従って付き合っていくのか、それとも本能を超えて自分を利するために相手を利用しようとして付き合っていくのか、これらのうちのどれを選ぶかによって男女関係は全く違ったものになってしまう。
今日の個所は男女の創造について語る記事だが、その奥には、全ての人間が人格対人格として向き合い、愛を選んでいく道を歩むための重大なメッセージが込められている。以下、学んでいこう。
1.助け手の必要
今日の箇所の冒頭は、こうはじまる。
2:18 主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」
ここで神は「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」と言い、彼の助け手を造ることに決めたわけだ。この言葉からすると、初めに創造された人間は一人であり、男であったことになり、その後に女が造られたことになる。しかも彼女は助け手として造られた。このことに目くじらを立てて聖書は男女差別的だと批判する人もいる。しかしこのような展開は、聖書を書いた筆者の人間的限界である。聖書には男女差別的な言葉がたくさん出てくるが、それらは全て筆者の背負う文化的背景(ユダヤ人の文化)の現れであるにすぎない。だから、それらの差別的な言葉を信じ込んではいけないし、あるいは逆にそれらを差別的だと言って非難してもあまり意味はない。繰り返すが、重要なことは筆者の人間的限界の向こうにある普遍的なメッセージ(神のメッセージ)を受け取ることなのだ。
ではここにはいったいどんなメッセージが隠されているのだろうか。「助ける」というからには男女が二人で目指すべき目的があるはずである。その目的とは何か。もちろん愛である。神は愛であり、その愛を実現することこそ神の天地創造の目的であるから、男女が目指すべき目的も愛である。したがって神は、人間が助け合いながら愛を目指して生きていくことを願って、人間を男女に創造したのだ。
それでは、いったいなぜ愛を目指すことに助け合いが必要なのであろうか。それはやはり、愛を選び取り、それに従っていく道が険しく困難なものであるからだ。前回学んだように、神は人間に他の生物の管理責任を委ねた。神は人間に愛をもって他の生物を守っていくという使命を与えたのだ。そのような使命を一人で全うすることは極めて難しい。それだけではない。後で述べるように、愛にはとても愛せないような相手(例えば敵対する人)を愛することも含まれる。これは極めて困難な道である。であればこそ、神は「人が独りでいるのは良くない」と言い、助け手を創造したのである。
というわけで、ここから先ず受け取るべきメッセージは、人は一人では愛の道を歩み続けることはできないということである。人は欲深い。重大な局面で誘惑に負けて愛以外のものを選んでしまうかもしれない。人は愚かである。愛だと思って愛とはかけ離れた迷惑行為を行ってしまうかもしれない。人は弱い。嫌いな人や敵に対しては簡単に愛することを諦めてしまう。このような逸脱を食い止めてくれる者があるとすれば、それは神ご自身であり、さもなければやはり他の人格的存在であろう。人が愛の道を歩み続けるためには神や他の人格的存在と協力していかなければならないのである。ユダヤ教やキリスト教で集会(前者ではシナゴーグ、後者では教会)が発達したのも、そしてこの寮が集会と共同生活を重んじるのも、人は一人では愛の道を歩み続けることはできないという神のメッセージを受け入れているからである。
2.異なる人格の必要
しかし、今日の箇所にはさらに重要なメッセージが込められている。続きを読んでみよう。
2:19 主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。
2:20 人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった。
全く理解し難い描写である。繰り返すが、この通りのことが実際に起こったわけではない。創世記の1章では、神が他の生物を造った後で人間を造っていた。対してここで神は、人間を造った後で他の生物を造っている。もうめちゃくちゃと言ってもよい。聖書は物質現象のことを解説しようという書ではないから、こうしたことについては平然と矛盾したことを語るのだ。では、この記事が本当に伝えようとしているのはどういうことであろうか。
名前はその存在の本質をあらわすという古代の常識を前提とすれば、理解することができる。この常識からすれば、人が他の生物に名前をつけたということは、人がその生物の本質を理解したということを意味する。つまりこの描写は、人があらゆる生物の本質を調べ理解してみたが、自分の助け手にふさわしい生物を見つけることができなかったことを伝えようとしているのだ。一体なぜ見つけることができなかったのか。もちろん他の生物には人格がなかったからである。他の生物は全て本能のままに生きる存在であった。そのような存在が人間の助け手になれようはずがない。他の生物をことごとく調べて理解した結果、人は人格を持つ自分にふさわしい人格を持った助け手をどこにも見出すことができなかったのだ。
そこで神は、人格を持つもう一つの生物、すなわち女を造ることにする。
2:21 主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。
2:22 そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。
再び理解し難い描写である。もちろんこの通りのことが起こったというのではない。では何を伝えようとしているのか。「人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた」とはいったいどういうことであろうか。ここに込められた神のメッセージはいったい何なのであろうか。
人格という脈絡で考えるなら、わかってくる。神は、ある人格の欠点を補ってくれるような別の人格の必要を伝えようとしているのだ。険しく困難な愛の道を歩み続けるためには、助け手が必要である。しかしその助け手が自分と全く同じような人格であったなら、助け手の意味がない。助け手は自分と異なる人格を持った存在であってこそ自分を補ってくれるのである。人が愛の道を歩み続けるためには異なる人格をもって補いの役割を果たしてくれる助け手が必要である。そのようなメッセージが、男のあばら骨の一部を抜き取って女を造ったというグロテスクな物語の背後には隠されているのである。
このような神のメッセージの正しさを最も端的に教えてくれるのは、やはり現実の男女関係である。男の人格的特徴とは何であろうか。いろいろな特徴の男がいるけれど、やはり一般的な男の特徴は強さであろう。腕力であれ、知力であれ、技能であれ、男は一般的に強さを売りとする。しかしその分残酷にもなりうる。けんかをしたり、戦争を始めたりするのはたいてい男である。対して女の人格的特徴とは何であろうか。女にもいろいろな女がいるけれど、その最も一般的な特徴は優しさであろう。思いやりであれ、親切さであれ、愛情であれ、女は一般的に優しさを売りとする。しかしその分妥協的で弱くなりうる。だから、強い男は優しい女に補われて初めて愛の道を歩んでいくことができるし、他方優しい女も強い男に補われて初めて愛の道を歩んでいくことができる。もちろん現実にはいろいろな組み合わせがあるであろう。普通とは全く逆の、優しい男と強い女の組み合わせもあるかもしれない。しかしいずれの場合にせよ、男女は互いの人格的特徴を補い合い、助け合ってこそ愛の道を歩んでいくことができる。事実、夫婦も家族も、いや会社や議会や政府ですらも、そのような男女の助け合いがなされてこそ愛の道に沿って健全な発展を遂げていく。だからこそ、最近ではあらゆる団体が、一定数のメンバーを女性に割り当てるジェンダー・バランスというアイディアを採用しているのである。
しかし、この物語はもちろん男女だけの補い合いの必要を訴えようとするものではない。様々な人間関係において、愛の道を選び続けるためには、個性を持った複数の異なる人格による補い合いが必要だと言いたいのである。
3.愛の本質とその第一歩
しかし、ここにはさらにもう一つ重要なメッセージが込められている。つまり、神が男と女をそれぞれ異なる人格に創造したという物語のうちには、さらに重要なメッセージが含まれているのである。そのメッセージとは、愛の第一歩は自分とは異なる存在を受け入れ、尊重し、大切にすることであるということである。愛とは、価値のある存在を好きになることではない。世間では、価値のある存在(美しい者・強い者・賢い者・裕福な者、自分の家族や身うち、自分の仲間)を好きになることを愛するというが、そうしたことは実は愛ではなく、エロスである。これに対して聖書の説く愛はアガペーと呼ばれ、その本質は相手の価値とはかかわりなく、相手を受け入れ、尊重し、大切にすることである。そしてそのような愛の第一の現れこそは自分とは異なる者を受け入れ、尊重し、大切にすることなのである。助け手として自分とは全く異なる人格を持つ女が創造される物語は、愛の道を歩み続けるためには異なる人格を持つ人間と補い合う必要があるということだけでなく、それ以前にそのような異なる人格を持った他者を受け入れ、尊重し、大切にしなければならないということをも伝えているのである。
寮生活において皆さんにぜひとも実践して欲しいことの一つはこのこと、すなわち自分とは異なる者を受け入れ、尊重し、大切にすることである。人は基本的に自分とは異なる人格を持つ者に対しては拒否反応を示す。「僕はああいう人は苦手だから」と、即効で見捨ててしまう。しかしそのような態度の人がたくさんいる寮で楽しく暮らすことができるだろうか。自分が否定されるほうの立場に立って考えて欲しい。「僕はああいう人は苦手だから」と他の寮生から見捨てられて、気持ちが良いであろうか。自分とは異なる者を受け入れ、尊重し、大切にすることは、愛の第一歩であるばかりか、寮生活を楽しく心地よいものにするかどうかの要でもあるのだ。だからこそ、がんばってこのことを実践して欲しい。(ちなみに愛の第二歩は、劣った存在(醜いもの、弱いもの、愚かなもの、貧しいもの・・・)を尊重して大切にすることであり、第三歩は見ず知らずの存在を尊重して大切にすることであり、最終歩は敵対する者を尊重して大切にすることである。愛の道のなんと険しく困難なことか。このような道をどうして一人で歩んでいくことができようか。)
4.愛の実践方法
最後の部分へと進もう。
2:22 ・・・。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、
2:23 人は言った。「ついに、これこそ/わたしの骨の骨/わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう/まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」
2:24 こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。
2:25 人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。
「ついに、これこそ/わたしの骨の骨/わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう/まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」この言葉は明らかに男が女を与えられて大喜びしていることを表している。しかしいったいなぜ大喜びしているのだろうか。「これこそ/わたしの骨の骨/わたしの肉の肉」という言葉が教えてくれる。この言葉は、第一に自己愛を表している。相手がかつて自分の一部であったからこそ、相手が可愛くて仕方がない。そのような自分の分身が与えられたからこそ男は喜んでいるのだ。しかしそれだけではない。今や女は、男とは全く異なる人格なのである。だとすればここには、自分とは異なる存在と愛し合うことの喜びも含まれていよう。自分とは全く異なる人格を持つ者と仲良くなれたとき、人は新しい友人を得たような、喜びで満たされる。このシーンの男の喜びにはそのような喜びも含まれているに違いない。
それでは、このシーンにはいったいどのようなメッセージが込められているのであろうか。そこで思い出すべきは、イエスが最も重要な掟として提示した言葉「隣人を自分のように愛しなさい」である。ここで男は、まさしく自分を愛するのと同じように女を愛している。だとすればここに込められた神のメッセージはもはや明らかであろう。神はここで、愛の基本的実践方法について伝えようとしているのである。愛するとは自分を尊重し大切にするのと同じように他者を尊重し大切にすることであると。そしてそのような関係が成就されたときにこそ最高の喜びがあると。
ここを理解するなら、続く部分も理解することができる。「これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう/まさに、男(イシュ)から取られたものだから」とあるように男は女を自分の名前「イシュ」を少し変形させて「イシャー」と名づけたわけだが、これも男が女を自分のように愛するが故の命名である。ちなみにヘブライ語では、今なお男をイシュと呼び、女をイシャーと呼ぶ。
「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」という言葉も同じように理解できる。「こういうわけで」とは「隣人を自分のように愛するために」という意味である。男が父母の元を離れて女と結婚するのは、隣人を自分のように愛するという愛の道を歩んでいくためなのだと。
「人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった」という言葉も同様に理解できる。自分のように相手を愛することができるなら、隠しておくべきことは何もなく、恥ずかしがるべきことも何もない。愛が実現した状態においては、人はあるがままに正直でいられる。このことをこの最後の文は伝えようとしているのだ。
5.まとめ
というわけで、今日の箇所は、愛について非常に重要なメッセージが込められている。まとめるなら、以下の通りである。①愛の道は険しく困難な道なので、他者と協力し合って歩んでいく必要がある。②自分とは異なる別の人格と補い合ってこそ、愛の道を歩み続けることができる。③愛の本質は価値とはかかわりなく相手を尊重し、大切にすることであり、その第一歩は、自分とは異なる者を尊重し大切にすることである。④愛の基本的実践方法は、相手のことを自分のことのように尊重し、大切にすることである。そのような関係が成就したときには最高の喜びがあり、人はあるがままに自分をさらすことができる。
このような愛が真っ先に問題になってくるのが男女関係である。男女は愛ゆえに結ばれるのであるからそこでは愛とは何か、どうすれば愛が実践できるのかが真っ先に問題となる。であればこそ神は、男女関係を通じて愛の基本を教えようとするのである。しかしここで説かれていることはもちろん男女関係にとどまるものではなく、全ての人間関係に当てはまるものである。だからこの寮の皆さんには、今日述べられたようなメッセージに従って愛の道を歩もうと努力してほしい。
繰り返すが、愛の道は険しく困難な道である。だから他者との協力なくしてその道を歩むことはできない。さらには、神からの導きと助けなくしては歩むことができない。だから、みんなで協力し合い、聖書に学びつつ、できることなら祈りつつ愛と取り組んでもらいたい。そうすれば、その先にはあるがままを正直にさらしても、認め合える喜ばしい関係が実現する。愛と取り組むプロセスは確かに険しく困難なものではあるけれど、それが実現した人間関係は何よりも大きな幸せをもたらしてくれるのである。自分と全く異なる人間たちに対して、「これこそ/わたしの骨の骨/わたしの肉の肉」であると言うことができるなら、それこそ最高の幸せであると思わないだろうか。
話し合い
It「愛に基づいて結婚するというのは日本では非常に新しいことだと社会学から学びました。」
寮長「その通りです。日本では人格教育というのがきちんとなされないままに、いきなり恋愛結婚に突入してしまいました。だからほとんどの人は、どのような相手とどのように付き合っていけばいいのかわからない。生活を安定させたいからとか、子供が欲しいからとかいう理由で結婚してしまう。」
So「最近では、人間関係を自分の得になるかどうかで選ぶようになっています。会社を選ぶのと同じように。これはなんだか空しいです。」
寮長「社会が資本主義社会であり、とても忙しいですから、『得にならない相手と付き合っても時間の無駄だから関係を断つ』という人が必ず出てくる。寮生の中にも必ずそう言う人が出てくる。そういうことを奨励する本もたくさん出ています。しかし、それではだめだと聖書は言うのです。敢えて異なる人と付き合え、敢えて付き合っても無駄と思える人と付き合えと。難しい道ですが、そうであってこそ自分の可能性も広がっていくのだと思います。」
Ya「「骨の骨、肉の肉」という言葉の意味がよくわからなかったのですが、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉と結びつけると、よく理解できます。解き明かしに感謝です。」
Sa「異なる人を受け入れることの重要さを学ぶとともにその難しさも学びました。まったく異なる人を尊重し、大切にするなど本当に難しい。全然合わない人は、諦めてもよいのではないでしょうか。」
寮長「諦めて良いとは思いませんが、あまり無理する必要はないと思います。しかし今日の個所は、どんなに違うように見える相手でも、元は同じ人間なのだから、理解し合える可能性があるということを示しているのではないでしょうか。」
Mi「僕は最近自分が人間嫌いであることに気付きました。そういう自分の狭量さを反省させられました。他方、男は強さを売りとし、女は優しさを売りとするというのは、寮長の体験的直観に基づく判断で、客観性に欠けるように思いました。」
寮母「寮長は昭和ですからね。」
寮長「昭和ということで片付けられるのは心外ですね。」
Ma「考古学的に見れば、あるいは生物学的に見れば、寮長の見解は支持できますよ。生物学的役割からしても、狩猟採集生活における役割分担からしても、男は強くなることを強いられたし、女は子供を守ることを強いられたのですから。」
寮長「そうそう。女は子供たちを守るために一瞬にして相手の気持ちを理解する必要があった。相手が敵なのか味方なのかと。それで他者を思いやる心が発達したというのが通説ですよね。」
Ma「ジェンダー・バランスを重んじる現代の傾向も、同様の見解にたってのことだと思います。」
So「そうだとしても、女が弱いと一般論化するのは、間違っているのではないでしょうか。」
寮長「確かに。その部分は訂正しなければ。」