裁かれるイエス(小舘)

2024年11月3日春風学寮日曜集会

マタイによる福音書26:57-68, 27:1-2

讃美歌 121,262

 

1.違法な裁判

26:57 人々はイエスを捕らえると、大祭司カイアファのところへ連れて行った。そこには、律法学者たちや長老たちが集まっていた。

26:58 ペトロは遠く離れてイエスに従い、大祭司の屋敷の中庭まで行き、事の成り行きを見ようと、中に入って、下役たちと一緒に座っていた。

26:59 さて、祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にしようとしてイエスにとって不利な偽証を求めた。

*そもそもユダヤ人の指導者たちはイエスをこっそりと暗殺しようとしていた。

26:3 そのころ、祭司長たちや民の長老たちは、カイアファという大祭司の屋敷に集まり、

26:4 計略を用いてイエスを捕らえ、殺そうと相談した。

26:5 しかし彼らは、「民衆の中に騒ぎが起こるといけないから、祭りの間はやめておこう」と言っていた。

 とある通りだ。過ぎ越し祭にはユダヤ全土からユダヤ人がエルサレム神殿に集まる。しかも彼らの多くはイエスの大ファンである。そのような中でイエスを処刑したりすれば、大暴動が起こりかねない。ユダヤ人の指導者たちはそのことを恐れて、過ぎ越し祭が終わってからこっそりイエスのことを暗殺するつもりであった。

・そのような彼らの計算を狂わしたのはユダであった。イエスの弟子の一人であるユダがイエスの居場所を教えるから即刻逮捕せよと申し出てきたのだ。指導者たちは驚いたに違いない。これは確かにイエスを殺すチャンスである。しかし、逮捕すれば、裁判を行わないわけにはいかなくなる。裁判を行えばイエスの大ファンである民衆が騒ぎ出すことは確実だ。いったいどうすればよいのか。迷った指導者たちは、裁判を早めることにした。祭りが始まって民衆が集まる前に大急ぎで裁判を行い、死刑判決を出してしまおうと。こうして指導者たちは真夜中であるにもかかわらず最高法院を招集する。だからこそ大祭司のもとには、「律法学者や長老たちが集まっていた」のである。

・ここで注目しておきたいのは、指導者たちが最高法院の裁判規定をことごとく破っているということである。その規定は以下の通り。≪①裁判は日中に行われなければならない。②死刑判決は夜中に出されてはならない。③死刑判決は翌日に出されなければならない。④証言は想像や伝聞に基づくものであってはならない。⑤神の名を口にしない限り、冒瀆罪は成立しない。冒涜者には石打ちによる死刑が執行される。≫ ユダヤ人の指導者たちはこれらの最高法院の規定をことごとく破った。つまりイエスに対する裁判は完全に違法な裁判であったのだ。

・いったいなぜ指導者たちはこのような違法な裁判を行うことに決めたのか。その第一の理由は先ほども述べた通り、ユダがイエスの居場所を垂れ込んできたからである。このチャンスを利用しようとした指導者たちは、民衆が集まる前に素早くこっそりと死刑判決を出そうとした。それで多くの裁判規定を破ることになった。

 

2.偽証の連続

26:60 偽証人は何人も現れたが、証拠は得られなかった。最後に二人の者が来て、

26:61 「この男は、『神の神殿を打ち倒し、三日あれば建てることができる』と言いました」と告げた。

26:62 そこで、大祭司は立ち上がり、イエスに言った。「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。」

*イエスが『神の神殿を打ち倒し、三日あれば建てることができる』と言ったことはない。ヨハネによる福音書の2:19には「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」というイエスの言葉が記されているが、このときイエスは決して自分で神殿を壊すとは言っていない。誰かが壊したとしても三日で建て直せると言っただけである。ところが「二人の者」はこの言葉を微妙に変えてあたかもイエスが神殿を壊そうとしたかのごとく証言している。彼らは明らかに大祭司らに雇われた偽証人なのだ。律法によれば、二人が同じ証言をすれば証拠となる。指導者たちは二人に偽証させることによってイエスに処刑判決を下すための証拠にしようとしたのだ。

・神殿は律法と並んでユダヤ人が最も大切にするものであり、ユダヤ人にとっては神そのものであると言ってよい。その神殿を壊すと言ったのであれば、これはまぎれもない冒瀆罪であり、石打ちの刑に値する。この偽証によってイエスは窮地に立たされた。

 

3.沈黙と宣言

26:63 イエスは黙り続けておられた。大祭司は言った。「生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか。」

26:64 イエスは言われた。「それは、あなたが言ったことです。しかし、わたしは言っておく。あなたたちはやがて、/人の子が全能の神の右に座り、/天の雲に乗って来るのを見る。」

26:65 そこで、大祭司は服を引き裂きながら言った。「神を冒涜した。これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は今、冒涜の言葉を聞いた。

26:66 どう思うか。」人々は、「死刑にすべきだ」と答えた。

*ところがイエスは告発に対して一切反論はしなかった。ひたすら沈黙を続けたのだ。いったいなぜか。自ら自分の罪に気付かせる(悔い改めさせる)ためである。悪事を働こうとする者に反論しても無駄である。反論は反論を呼び、果てしない論争へと向かっていく。たとえ彼らを論破したとしても彼らは決して悔い改めはしない。ではどうすれば彼らを悔い改めに導くことができるのか。彼らの思うままにさせることである。右のほほを打たれたら左のほほを差し出すことである。その時初めて彼らの怒りや憎しみはなだめられ、悔い改めの機会が与えられる。そのためにこそイエスは沈黙した。イエスはひたすら沈黙し、彼らの怒りと憎しみに身を委ねた。この沈黙を形にしたものこそが十字架である。イエスの十字架は黙って敵に身を委ねた結果であり、敵の憎しみと怒りを告発しつつ、それらを慰める。「あなたはなぜわたしを殺すのか」と告発しつつ、「わたしはあなたを赦す」と慰めるのである。

・ところがこのときの大祭司にはイエスの沈黙のメッセージを受け取る余裕などない。民衆が集まる前に一刻も早く死刑判決を出さなければならないのだから。だからこそ彼は核心的な問いをイエスにぶつけて一気にかたをつけようとした。「生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか」と。

*この問いに対してイエスは初めて口を開く。「それは、あなたが言ったことです。しかし、わたしは言っておく。あなたたちはやがて、/人の子が全能の神の右に座り、/天の雲に乗って来るのを見る」と。マルコによる福音書ではイエスは、ずばり「そうです」と答えている。いずれにせよ、イエスはここで自分が神の子、メシアであることを肯定したのである。沈黙を破ったイエスの口から出た言葉は自分が神の子であることを肯定する言葉であった。端的に言えば、自分は神の子であり、メシアであるという宣言であった。この宣言を形にしたものが復活である。イエスの復活はイエスが神の子であることの現れであり、イエスが神の子と認めるかどうかを人々に迫るのである。

・復活はさておき、この宣言もまた大祭司にイエスを神の子と認めるかどうかを迫るものであった。イエスが神の子であるとすれば、イエスを裁判にかけて殺そうとしている大祭司は神の子を殺そうとする究極の悪人であり、究極の罪人であるということになってしまう。大祭司としては、そんなこと、絶対に認められない。だからこそ彼は、イエスのこの宣言を神を冒涜する言葉と見なした。そして大祭司は自分の服を引き裂きながら叫ぶのである。「神を冒涜した。これでもまだ証人が必要だろうか」と。

・そして大祭司は最高法院の律法学者や長老たちに尋ねる。「諸君は今、冒涜の言葉を聞いた。どう思うか」と。この問いに対して彼らは答える。「死刑にすべきだ」と。律法学者や長老たちも大祭司同様、自分たちを究極の罪人と認めたくないためにイエスを神の冒涜者に仕立て上げざるを得なかったのだ。こうしてイエスの処刑は確定的なものとなった。

*もしイエスが、神の子ではないにもかかわらず自身を神の子であると宣言したのなら、それは完全な冒瀆罪である。なぜならそれは、モーセの第一戒「わたしをおいてほかに神があってはならない」に対する違反なのだから。しかしイエスが本当に神の子なのだとしたら、この宣言は冒瀆罪などではなく、救い主の到来を告げる福音(良い知らせ)であるということになる。はたしてイエスは神を冒涜した罪人か、それとも本当の救い主(神の子)か。イエスはいまだに私たちに問いかけている。

 

4.なぜユダヤ人はイエスを殺そうとしたのか

26:67 そして、イエスの顔に唾を吐きかけ、こぶしで殴り、ある者は平手で打ちながら、

26:68 「メシア、お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ」と言った。

*これらの醜悪極まりない侮辱的行為は、イエスの権威を貶め、イエスが断じて神の子ではないことを自分たちで納得し合おうとするためのものであろう。彼らは心の中で自分にこう言い聞かせていたのだ。「イエスは断じて神の子ではない、イエスこそが悪人であり、イエスを殺そうとしている自分たちは正しいのだ」と。

*ここで、ユダヤ人の指導者たち(大祭司と最高法院の律法学者と長老たち)が違法な裁判を行ってまでイエスを処刑しようとした理由をさらに掘り下げてみよう。

ユダヤ人の社会秩序は宗教的な浄・不浄の倫理によって成り立っていた。その倫理を支えていたのは、律法と神殿である。律法は何が浄であり、何が不浄であるかを事細かに規定し、その区別を人々に命じた。他方神殿はその規定の執行を担った。浄・不浄の区別がしっかりと守られているかどうかを監視し、守られていない場合にはその者を不浄な者として処罰した。そして不浄を清めるために人々にいけにえ(牛、羊、山羊、鳩)を捧げさせた。だから律法と神殿はユダヤ人の宗教原理である浄・不浄の倫理の中心であり、神聖不可侵のものであった。ところがイエスはその浄・不浄の倫理を次々に踏み越えて、律法と神殿の権威を失墜させていった。例えば、しばしば手を洗わず、罪人や徴税請負人ともに食事をした。律法によれば、手を洗わないことは不浄なことであり、罪人や徴税請負人こそは不浄な者であったのに。あるいはイエスは安息日にしばしばやってはいけないことを行った。律法によれば、安息日は神のみと過ごすべき聖なる日であったのに。あるいはイエスはらい病患者たちに触れ、死体に触れた。律法によれば、らい病患者と死者こそは最も不浄な存在であったのに。さらにイエスは、律法学者やファリサイ派の人々を「白く塗った墓に似ている・・・。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている」(23:27)と批判した。彼らこそは聖なる神殿を代表し、その意志を決定・執行する者たちであったのに。そしてイエスは神殿を強盗の巣と呼び、神殿から商人を追い出し、神殿の崩壊を預言した。神殿こそは神の臨在する最も聖なる場所であったのに。これらのイエスの行為はすべて、ユダヤ人社会の根幹である浄不浄の倫理に反するものであった。しかし反するだけならまだよい。何よりも問題なのは、そのようなイエスが救い主であり、神の子であるかのごとく見なされ、自身で神的権威を主張していることであった。もしそのようなイエスに神的権威があるのだとすれば、ユダヤ人の浄・不浄の倫理は神の前に間違っていたということになり、律法も神殿も間違いであったということになってしまう。その指導者である最高法院も大祭司も全員が神の前に間違っていたということになってしまう。そのようなことは天地が裂けても認めるわけにはいかない。であればこそ、ユダヤ人の指導者たちは総力を挙げて、違法裁判を行ってまでも、イエスを処刑しようとしたのである。

 

5.なぜローマはイエスを十字架にかけたのか

27:1 夜が明けると、祭司長たちと民の長老たち一同は、イエスを殺そうと相談した。

27:2 そして、イエスを縛って引いて行き、総督ピラトに渡した。

*ところが、彼らはイエスを自分たちの手で処刑しようとしなかった。先ほども触れたようにユダヤ人は冒瀆罪に当たる罪人を石打ちの刑で死刑に処することができた。それなのに彼らは、自分たちの手でイエスを処刑せず、ローマ帝国に処刑させる道を選んだ。いったいなぜであろうか。民衆を恐れたからである。イエスは民衆の人気者であったから、自分たちの手でイエスを処刑したりすれば暴動が起きるかもしれない。そうなれば自分たちの手に負えなくなるばかりか、自分たちの統治責任をローマ帝国から追及されてしまう。しかしローマ帝国によって処刑されるなら、民衆の暴動はローマ軍によって鎮圧されるであろうし、全てはローマ帝国の責任となるから、自分たちの統治責任も回避される。だからこそ彼らは自身の手でイエスを処刑せずにその処刑をローマ帝国に委ねたのだ。狡知の極みである。

・ところで、彼らがイエスの処刑をローマ帝国に委ねたがために、イエスは十字架刑に処される危険にさらされることとなった。なぜならローマ帝国は重罪人には十字架刑を言い渡すことができたのだから。

*ここで十字架刑とはどのような刑かを解説しよう。十字架刑は、ローマ帝国の処刑法であり、ユダヤ人はその執行を許されていなかった。それは間違いなく帝国で最も残虐な刑であり、最も重大な罪を犯した者(主に帝国に反乱を企てた者)に対して科される刑であった。それは帝国に反旗を翻した者はこのようにひどい目に合うのだと見せしめにするための刑であったのだ。

・十字架刑に標準的な形はなかったようだが、しばしば以下のような形が採用された。処刑の前にはむち打ちがあり、受刑者はそのあとで自身の十字架を処刑場まで担いでいかされた。その間受刑者はありとあらゆる侮辱とあざけりを受けた。処刑場では腕を広げたまま釘で十字架に固定され、さらし者にされた。少量の出血しかないので、受刑者は十字架の上で長時間、しばしば数日間生き延び、死はゆっくりと訪れた。死後も埋葬されることを許されず、その遺体は長期にわたって放置され、腐敗してゆくか鳥獣に食われるに任せられた。これらはすべて、肉体的苦痛と精神的屈辱ができるだけ長時間続くようにという意図に従ってなされた工夫であった。

・ローマ帝国に引き渡されたイエスは、今やこの十字架刑に掛けられる危険性にさらされているわけである。

*さて、ローマ帝国は引き渡されたイエスをどう扱ったか。総督のピラトはイエスを処刑したくなかった。彼もまた民衆の間に暴動が起こるのを嫌ったからだ。ところが夜が明けると、祭りのために集まった民衆がイエスを「十字架につけろ」と叫び出した。この叫びを聞いたピラトは気を変えた。こうしてピラトは民衆の叫びに応じ、彼らに責任を押し付ける形で、イエスを十字架刑に処する決定を下すのである。

・いったいなぜピラトは気を変えたのか。ピラトもまたイエスを脅威と感じており、できることなら処刑したいと持っていたからだ。イエスは確かにローマ帝国に対して軍事的反乱を起こすようなことはしなかった。それどころかイエスは、自分を王に担ぎ上げようとする民衆や弟子たちを必死で思いとどまらせてきた。それなのになぜイエスがピラトの脅威となりえたのか。

・この理由を理解するためには、今度はローマ帝国の社会秩序に目を向ける必要がある。ローマ帝国の社会秩序は、やはり宗教的な後援者の倫理によって成り立っていた。皇帝は神ではなく、神々に奉仕する義務を負う者であった。その義務を果たすがゆえに神々は皇帝の後援者となり、皇帝に下々の者を支配する権威を与えたのだ。他方上流階級の者は今度は皇帝に奉仕する義務を負っており、その義務を果たすがゆえに皇帝は彼らの後援者となり、彼らに市民を支配する権威を与えた。さらに市民は、上流階級の者に奉仕する義務を負っており、それを果たすがゆえに市民は様々な恩恵や特権が与えられた。このような宗教的後援者の倫理は下の者が上の者に奉仕し、上の者が下の者に報いるという奉仕と報いの交換という形をとって、ローマ帝国内に網目のように張り巡らされ、ローマの社会秩序を形成していた。

・ところがイエスの教えはこのような宗教的後援者の倫理に真っ向から反するものであった。例えばイエスは、神の国は小さな子供のようなもののためのものであると教え、上の者が下の者に奉仕すべきことを教えた。実際彼自身も裸になって弟子たちの足を洗い、全身全霊で貧しい者たちに仕えた。あるいはイエスは、報いを期待せずに奉仕せよと教えた。実際イエスもその弟子たちも一切報酬をもらわずに無償で貧しい者たちに仕えた。このようなイエスの教えは、下の者が上の者に奉仕し、上の者がその報いるという形をとる後援者の倫理に、まっこうから反するものであった。しかし、反するだけならどうということはない。イエスは神的権威を主張し、神の救いまでも無償で与えられると主張した。ギリシア・ローマの神々はあくまで奉仕に対して恩恵をもたらす神々であったのに、イエスは無償・無条件で救いを与える神を主張したのだ。そしてイエスは、その神の意志であると称して無償・無条件で病人たちを治したのだ。もし彼が本当に神の意志を実践しているのだとすれば、ローマ帝国の基礎である奉仕と報いの交換は神の前に間違っていたということになり、すなわちローマの社会秩序の根幹である後援者の倫理も神の前に間違っていたということになってしまう。そんなこと、断じて認めるわけにはいかない。だからこそ、ピラトはユダヤ人の民衆が「十字架につけろ」と叫びをあげたとき、渡りに船とばかりに彼を十字架刑に処することを認めたのだ。

 

6.メッセージ

①宗教的社会秩序か神との直結か

今日の個所から受け取るべきメッセージの一つ目は、宗教的社会秩序の過ちと神に直結することの正しさである。

ユダヤもローマもそれぞれに宗教によって基礎づけられる社会秩序を持っていた。ユダヤの社会秩序もローマの社会秩序も要するに神の権威によって社会を統治していこうとする宗教的秩序、ぶっちゃけて言えば、神を利用して人々を従わせていこうという宗教的秩序であった。支配者たち(ユダヤの神殿やローマの皇帝)は神の権威によって自身の支配を正当化し、人々のそれぞれの地位も神の権威によって正当化された。このような社会では、最下層にいる者は神によってその存在を否定されるということになる。だからこそらい病患者、徴税請負人、娼婦、奴隷、罪人などは神の権威によってその存在を蔑まれたのだ。

このような社会に否を唱えた者こそイエスであった。イエスは神と社会秩序を切り話して考えた。≪それぞれの人間の社会的地位は神の意志とは何の関係もない、誰でもその気になりさえすれば、からし種一粒ほどの信仰を持ちさえすれば、誰でも神につながれる、神と共にあるためには最高法院も皇帝も必要ない、人は神の前に全員平等である≫と考えた。このようなイエスのメッセージは、ユダヤやローマの宗教的社会秩序を破壊するものであったが、他方では最下層の者たちを元気づけ、解放するものであった。最下層の者たちはイエスのメッセージを聞いて、神の名によって否定されていた自分が力強く肯定されるのを感じ、宗教的秩序からの解放を味わったのだ。

歴史的事実としてイエスは十字架に掛けられて敗北し、ユダヤやローマの宗教的秩序が勝利したわけであるが、この戦いの決着はいまだについていない。イエスの死後ユダヤの神殿は崩壊してしまうし、ローマ帝国もキリスト教国になってしまう。ここに目を向ければ、イエスが逆転勝利したかのようだ。ところがユダヤ人は20世紀に入り再びユダヤ教という宗教的秩序に基づく国を建国し、ローマはキリスト教という宗教的秩序に基づく国をスタートさせ、ローマに続くヨーロッパ諸国はことごとくキリスト教という宗教的秩序に基づく国家となった。そして十字架に掛けられたイエスは、死してなおこれらの宗教的秩序に基づく国々を告発し続け、これらの国々によって抑圧されている人々に元気と解放を与え続けてきた。そしてこの戦いは今も続いている。アメリカで、イスラエルで、イスラム諸国で、インドで、指導者を神格化する独裁的な国々において、宗教的秩序はまぎれもなく存続し、上流階級の支配を正当化し続けている。そしてイエスは、十字架の上からいまだにこれらの宗教的秩序を告発し続けているのである。(トランプ支持者)

しかし問題はどちらが勝つかではない。どちらが正しいかである。神を利用して自己の支配を正当化しようとする宗教的秩序に根本的正義はない。一人一人が神と直接つながり、神の前に全員が平等となることこそ正しいのだ。そしてこれこそが、イエスが十字架から私たちに叫び続ける最も重要なメッセージの一つである。

 

②神の意志としての十字架

もう一つ受け止めたいのは、イエスを殺したのはまぎれもなくユダヤ人の指導者たちとローマ帝国であるが、イエスを過ぎ越し祭の日の十字架へと導いたのは神だということである。そもそもユダヤ人の指導者たちは過ぎ越し祭の日に処刑が行われることを望んでおらず、イエスをこっそり暗殺しようとしていた。ところが彼らの意図とは裏腹に、イエスの運命はどんどん過ぎ越し祭当日の十字架へと向かっていく。その第一歩を進めたのはユダである。過ぎ越し祭前日に突如としてユダが自分の欲望に基づいて裏切ったために、イエスは処刑へと歩み始めることになった。その第二歩を進めたのはユダヤ人の指導者たち自身である。彼らが民衆を恐れて夜中に裁判を行ったために、イエスは祭当日に処刑されることになってしまった。加えて彼らは民衆を恐れてイエスを処刑せず、ローマ帝国に引き渡したために、イエスは十字架刑にかけられる危険性にさらされてしまった。第三歩を進めたのは民衆である。過ぎ越し祭に集まったユダヤ人の民衆はイエスの大ファンであったにもかかわらず、死刑判決が出されるや否や体制側について「イエスを十字架につけろ」と叫んだ。最終歩を進めたのはピラトである。ピラトはイエスを十字架刑に処したくなかったにもかかわらず、ローマ帝国の社会秩序を保つために、イエスの十字架刑に合意した。ユダ、ユダヤ人指導者、民衆、ピラト。全員が別にイエスの十字架刑を望んでいたわけではない。全員はそれぞれ自身の欲望に従って行動しただけだ。にもかかわらず、それぞれの欲望が微妙に嚙み合わさってイエスを十字架に導いている。このように彼らの欲望を嚙み合わせたわせた者は、やはり神なのではないだろうか。誤解してはならない。イエスを殺したのはユダであり、ユダヤ人指導者であり、ユダヤ人の民衆であり、ピラトである。しかし、その殺人を過ぎ越し祭の十字架という形に導いたのは神ではないか、と私は言いたいのだ。

イエスを死に追いやったのは人間の罪だ。ユダ、ユダヤ人の指導者、ユダヤ人の民衆、ピラト、それぞれが自分勝手な欲望のゆえにイエスを死へと追いやった。しかしその死を十字架刑という形にしたのは神の業なのだ。そのような視点から見れば、イエスが十字架に掛けられることはやはり神の意志だったのである。

いったいなぜ神はイエスの死を十字架という形に導いたのか。人間に救いのメッセージを伝えるためだ。先ほど確認したように、十字架はイエスを十字架に掛けた者を告発しつつ、赦すというメッセージを発する。神を利用して自己の支配を正当化しようとする宗教的秩序に根本的正義はないと告発しつつ、そのように生きる人々を赦すのである。この告発と赦しのメッセージは人間に根本的な清めと元気をもたらす。

さらに言えば、十字架は最もみじめで苦しい死者と共に神はいるというメッセージを発する。これは十字架の発する二番目に重要なメッセージだ。このメッセージもまた人間に根本的な清めと元気をもたらす。

これらの重大なメッセージを人類に伝えるためにこそ、神はイエスの死を十字架という形に導いたのだ。皆さんには、十字架に込められたこれらのメッセージをきちんと覚えておいてもらいたい。なぜなら日本にも宗教的秩序は残存しており、これを復興させて国の柱にしようとする人々がたくさんいるのだから。加えて、君たちもいつかはみじめで苦しい死を迎えることになるのだから。

 

③十字架と復活の問いかけ

三つ目のメッセージは、イエスの十字架と復活は今なお私たちに問いかけているということである。

自分は神の子であり、メシアであるという宣言とそれを表す復活は、今なお私たちに応答を求めている。あなたは私を神の子と認めるのか、それとも私を神の冒涜者とみなすのかと。当時のユダヤ人もローマ帝国も私を冒涜者と見なした。それでは今そこにいるあなたは一体どっちなのかと。

イエスの十字架もまた今なお私たちに問いかける。あなたは私を十字架に掛けようとしていないかと。当時のユダヤ人とローマ人は私を十字架に掛けたが、あなたもまた私を十字架に掛けようとしているのではないかと。宗教的秩序の復興に加担し、人を差別しようとしているのではないかと。神を利用して自分を肯定し、神を利用して誰かを否定しようとしていないかと。

はたして自分はどうなの、じっくりと考えてほしい。

 

 

話し合い

Ma君「なぜ民衆は寝返ったのでしょうか。」

寮長「最高法院がお金をばらまいて買収したということもありますが、やはり強い側についたのではないでしょうか。イエスなら奇跡を起こして、権力者たちをやっつけると思っていたら、ただ沈黙して抵抗する気配もない。こんなに弱い奴は救い主ではないと、民衆はイエスを見限ったのだと思います。」

Ok君「ユダヤ社会もローマ帝国も今の社会と似ていると思いました。今の日本も同様に洗脳して、国民を支配しようとしている。暴力は使わないけれど、嘘という言葉の暴力で人を支配しようとしている。」

寮長「それはどういうことですか。

Ok君「ネットの情報で知らず知らずのうちに嘘を拡散し、それを人々に信じさせるということです。」

寮長「なるほど、それは深刻だ。」

Ko君「今、反転アンチという言葉が流行っていますが、このときの民衆は反転アンチと似ていますね。」

寮長「それ何ですか。」

Ko君「アイドルのファンだった人が何かの理由で敵となり、そのアイドルを攻撃し続けるような心理です。」

寮長「なるほど。民衆の寝返りは、反転アンチと言えるかもしれませんね。」

Ue君「初めに読んだときは、ピラトは良識的だなと思いましたが、ピラトの側にもイエスを十字架に掛ける理由がちゃんとあったのですね。」

寮長「そうなんです。聖書(特にルカ伝)は結構ローマ帝国のことを加減して書いていますから、ローマ帝国にもイエスを十字架に掛ける意図があったということをはっきり理解する必要があります。」

Ko君「反論や批判は保身を生むだけで、批判に対して沈黙で応答するというのは悔い改めを促す良い方法だと思います。しかし、今日は敢えて言います。最近の寮は、無関心と裁きの寮になっています。寮則を守らない人がいる一方で、その人たちに注意せず、彼らを補おうともしない。自己責任だということで見放している。注意したり、補ってあげたりするのが愛と信頼の寮にふさわしい態度なのではないでしょうか。」

Ma君「注意しても従わないし、補ってやると甘えます。やはりある程度は放任しておいて自己責任を学ばせることが重要だと思います。」

Ko君「それではあまりに冷たい。愛と信頼の寮とは言えなくなります。思うに注意するときに、注意するだけでなく親切を混ぜたらどうでしょうか。『今回は代わりにやりますよ。次回はきちんとやってね』という感じで。」

So君「過失の時はそれでも良いけれど、常習的な場合にはそれでは甘いでしょう。」

Ma君「あまり大ごとにとらえる必要はないと思います。自己責任を基本として、それを補う形で注意や親切を時々混ぜていくということでよいのではないでしょうか。」

(この後かなりの論戦が続く。)

寮母「こんなに聖書と関係のないことばかり話していてよいのでしょうか。」

寮長「私はいいと思います。イエスは浄不浄の垣根を破った人ですから。しかし、皆さんの話は知らず知らずのうちに十字架のメッセージに近づいていたと思います。イエスの十字架のメッセージの一つは私たちを告発しながらも赦すということでした。今日の話し合いは、知らず知らずのうちにその方向に向かっていた。これも神様の導きですね。」