語りかけるイエスの沈黙

2024年11月24日春風学寮日曜集会

マタイによる福音書27:1-2, 10-14

讃美歌97, 121

 

1.解説

①二重裁判

27:1 夜が明けると、祭司長たちと民の長老たち一同は、イエスを殺そうと相談した。

27:2 そして、イエスを縛って引いて行き、総督ピラトに渡した。

*この一節は重要なのでもう一度扱いたい。ユダヤ人の最高法院における裁判によってすでにイエスの死刑は確定している。だから彼らは、彼らの権限によって即刻イエスを石打ちの刑に処することができた。それなのになぜユダヤ人の指導者たちは、改めてイエスを殺そうと相談しなければならなかったのか。「夜が明けると」の一言がその理由を教えてくれる。「夜が明けると」ユダヤ人の民衆が集まってくる。現在民衆は、過ぎ越し祭のためにユダヤ地方全域から集まっており、その数はときには三百万に達したとさえ言われている。しかもその中にはイエスに病気を癒された者が無数にいた。そのような中でイエスを死刑にしたりしたら、暴動が起き、民衆から糾弾されることになる。しかしイエスの死刑がローマ帝国によって行われるならどうであろうか。民衆の糾弾の矛先はローマ帝国に向かい、しかも彼らの暴動はローマ帝国の強大な軍隊に制圧されるであろう。

・だからこそユダヤ人の指導者たちは、相談の末イエスをローマ帝国の総督ピラトに引き渡し、彼の手でイエスの死刑が執行されるようにと仕向けたのだ。

*ではどのように仕向けたのか。ルカによる福音書には、その内容が具体的に記されている。「この男はわが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っていることが分かりました」(ルカ23:2)、「この男は、ガリラヤから始めてこの都に至るまで、ユダヤ全土で教えながら、民衆を扇動しているのです」とユダヤ人の指導者たちはピラトに告げたのだ。ここで告げられたイエスへの告発は、最高法院で審議された内容とは全く異なる。最高法院でなされたイエスへの告発は「イエスが神の子であると自称して神を冒涜した」ということであった。しかしローマ帝国の法律によれば、このような宗教的内容によってイエスを告発することはできない。ローマの法律はユダヤ人の神など認めていないのだから。そこで彼らは、ローマの法律によって告発されうるような罪をいくつかでっち上げたのである。「皇帝に税金を納めるのを禁じた」とか、「自分が王たるメシアだと言っている」とか、「民衆を扇動して」反乱を企てているとか。これらはいずれも重罪であるから、もしこれらが事実であるとすれば、ピラトもイエスを死刑にせざるを得なくなる。ユダヤ人の指導者たちはこのことを狙ってピラトに嘘の情報を告げたのだ。

・こうしてピラトの前で改めて裁判が行われることになる。ここで気づくべきは、前回も述べたように、このときにはじめてイエスが十字架につけられる可能性が出てきたということである。ユダヤ人は罪人を石打ちの刑によって死刑にする権限を持っていたが、十字架刑によって死刑にする権限を持っていなかった。罪人を十字架刑にする権限は、ローマ帝国だけが持っていたからだ。ここには、どうみても神の導きがある。

 

②公開裁判

27:11 さて、イエスは総督の前に立たれた。総督がイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と言われた。

*舞台は一転して総督ピラトの御前となる。ここで二つのことを指摘しておかなければならない。ピラトの邸宅は、エルサレム神殿の北西に隣接しており、第一回目の裁判所であった大祭司宅からピラトの邸宅までは直線距離にして一キロはある。それを歩いたのだとすれば、ピラトの邸宅に到着したときには、完全に夜が明けており、大勢の民衆が集まりだしていたにちがいない。これが一つ目。そのようにして集まった民衆は、イエスが大祭司の家からピラトの邸宅まで連れていくのを目の当たりにした。これによってイエスの裁判が行われるという噂はエルサレムじゅうに広まり、イエスのファンを中心とする民衆がピラトの邸宅前の神殿の広場に大挙して押し寄せたに違いない。これが二つ目。こうして今やイエスは、おびただしい民衆の前で二度目の裁判を受けることになるのである。

・本来イエスは、誰の目にも触れぬままにこっそりと暗殺されるはずであった。それがローマ帝国の軍人とユダヤの民衆が大勢で見守る中、公開裁判を受けることになった。これを神の導きと言わずして一体何であろうか。

*さて、裁判が始まると、ピラトはいきなり核心的な問いをイエスにぶつけた。「お前がユダヤ人の王なのか」と。イエスは神の子であるということは証言したが、ユダヤ人の王であるとは言っていない。それなのにいったいなぜピラトはこのような質問をしたのか。それは、先ほど引用したように、ユダヤ人指導者が嘘の情報をピラトに伝えたからである。ローマ帝国の属州であるユダヤ地方の王はローマ帝国皇帝だけである。そのような場所で自分が王であるなどと僭称すれば、これは明らかに皇帝反逆罪であり、死刑に相当する。そうなることを狙ってユダヤ人の指導者たちはピラトにイエスの言葉を微妙に変えてこう伝えたのである。「自分が王たるメシアだと言っている」(ルカ23:2)と。だからこそピラトはイエスにたいして「お前がユダヤ人の王なのか」と尋ねた。

*これに対してイエスはこう答える。「それは、あなたが言っていることです」と。これは明らかに否定の意味である。「それは、あなたが言っていることであり、私はそんなことは言っていない」とイエスは答えたのだ。イエスは神の子であるとは言った。神の子とは神の意志に完全に服従する者のことであり、そして神の意志は世の人々のために自分の命を捨てることである。だから、神の子とは本質的には世の人々に仕える者であり、世の奴隷なのだ。そのようなイエスが自分は王であるなどと言うはずがない。

 

③語りかける沈黙

27:12 祭司長たちや長老たちから訴えられている間、これには何もお答えにならなかった。

27:13 するとピラトは、「あのようにお前に不利な証言をしているのに、聞こえないのか」と言った。

27:14 それでも、どんな訴えにもお答えにならなかったので、総督は非常に不思議に思った。

*イエスが自分は王であることを否定したものだから、ユダヤ人の指導者たちは躍起になってイエスの有罪を証明しようとする。彼らは先ほど紹介したようなあることないことを述べ立ててイエスを告発したであろう。

・これに対してイエスは一切反論せずに沈黙を貫いた。いったいなぜか。一つ目の理由は、前回も述べた通り、悪事を働こうとする者に理屈で反論しても無駄だからである。悪事を働こうとする者に反論しても、ひたすら反論されるだけであり、結果は果てしない論争となる。その論争でたとえ彼らを論破したとしても彼らは決して悔い改めはしない。だからこそイエスは反論せずに沈黙した。悪人とバカに理論は通用しないのだ。

・しかし、イエスの沈黙にはもっと深い理由がある。その深い理由とは、神の意志に従って十字架にかかるということである。ゲツセマネの祈りにおいて、神はイエスに無抵抗で十字架にかけられることを命じた。そうであればこそイエスはその意志に従うために、反論せずに黙っているのである。そうなのだ。イエスは神の意志に従順に従って、十字架にかかることを決意している。だからこそ反論せずに沈黙を続けるのだ。

・ではなぜ神はイエスが十字架に無抵抗でかけられることを望んだのであろうか。そしてまたいったいなぜイエスは神の意志を受け入れて黙って十字架にかかろうとしているのか。その理由は、神もイエスも全てを十字架に託しているからだ。イエスは唯一十字架を通して語ろうとしている。だからこそイエスは沈黙を貫くのだ。だとすれば、イエスが十字架を通じて示し、語ろうとするメッセージはいったい何なのであろうか。

・イエスが十字架を通じて示そうとしていることの第一はもちろん神への全身全霊での愛である。イエスは命を捨ててまで神の意志に服従しようとしている。そのような神への全身全霊での愛を示すものこそイエスの十字架なのである。だからイエスは十字架を通じてこう語りかけてくるのである。「わたしは命を捨ててまで神を愛する」と。

イエスが十字架を通じて示そうとしていることの第二は隣人への全身全霊での愛である。イエスは自分に背き、自分を見捨て、自分を殺そうとする敵をも赦そうとしている。そのような隣人への全身全霊での愛を示すために神はイエスが敵に十字架にかけられることを命じ、そしてイエスはその意志に従って十字架にかけられた。だからイエスは十字架を通じてこう語っているのである。「わたしは命を捨ててまであなたを愛する」と。

・しかし、イエスが十字架を通じて示そうとしているのはそれだけではない。自分に背き、自分を見捨て、自分を殺そうとする者たちの罪に対する告発をも表している。だからイエスは十字架を通じてこう語っているのである。「いったいあなたはなぜわたしを十字架にかけるのか。わたしは何なの罪も犯していないのに」と。

・そしてこれらの三つの十字架の語りかけこそはそのままイエスの沈黙の語りかけである。イエスは唯一十字架を通じてのみ語ろうとする。だからイエスの沈黙の意味するところは、神への愛と隣人への愛と罪の告発なのである。

④第四の沈黙の語りかけ

*ところで、イエスの沈黙はもう一つ重大な語りかけを持っている。その語りかけをより広く日本に紹介したのはもちろん遠藤周作の小説『沈黙』である。この作品は、17世紀の長崎の隠れキリシタンに取材した小説であり、ロドリーゴという神父がキリストの踏み絵を踏む話である。知っている人も多いと思うが、そのあらすじをざっと紹介しよう。

・ロドリーゴは、「絶対に棄教しない、絶対にキリストを裏切らない、絶対にキリストの踏み絵を踏まない」と決意していたにもかかわらず、最後にはキリストの踏み絵を踏んでしまう。なぜなら、日本の代官たちがキリスト教徒たちを穴吊りという拷問にかけたからだ。穴吊りとは穴の上に逆さに吊られ、耳の後ろに穴を開けられ、そこから一滴一滴血が滴り落ちるようにするという究極の拷問である。出血が少ないので、受刑者は数日間生き続け、その後に死んで逝く。日本の代官らは、キリスト教徒たちを次々にこの穴吊りの刑に処し、ロドリーゴにこう迫るのである。「もしお前が踏み絵を踏むなら、全員を助けてやろう。さあ踏み絵を踏め」と。これを聞いたロドリーゴはくずおれそうになる。そして、神に向かって恨み言を言う。「神よ、いったいなぜあなたは沈黙しているのか。キリスト教徒がこれほどひどい目に合っているのになぜ何もしてくださらないのか」と。ところがそのとき、イエスの声が心に響いてくる。「踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番良く知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるためこの世に生まれ、お前の痛さを分かつため十字架を背負ったのだ。」この声を聴いたロドリーゴは感動に涙し、ついに踏み絵を踏む。踏み絵を踏んだとき、ロドリーゴはイエスにこう問いかける。「主よ、あなたがいつも沈黙しているのを恨んでいました。」するとイエスはこう答える。「私は沈黙していたのではない。一緒に苦しんでいたのだ」と。こうして踏み絵を踏んだロドリーゴは初めて心の底からイエスを信じるようになる。

・この小説によれば、イエスは十字架の上でただ沈黙しているのではない。苦しむ者たちと共に苦しんでいるのだ。そして十字架上でのイエスの沈黙は神が苦しんでいるすべての人間と共に苦しんでいることを伝えようとしているのだ。そのことを伝えるためにこそ神はイエスに十字架にかけられることを命じ、イエスはそれを受け入れた。つまりイエスは十字架を通じてこう語りかけているのである。「わたしはあなたと共に苦しんでいる」と。これこそは、イエスの沈黙の第四の語りかけである。

 

2.メッセージ

①神の支配

この世界は神が支配していると言われても、全くぴんと来ないであろう。それはこの世を動かすのが力であると思っているからだ。しかし、この世を動かしているものが弱さであり敗北であるとしたらどうであろうか。

イエスが十字架にかけられる過程はどう見ても異常な偶然の連続であり、そこに神の介入を認めざるを得ない。だとすれば、いったいなぜ神はそこまでしてイエスを十字架にかけようとしたのか。それこそまさに弱さと敗北による支配をこの世に打ち立てるためだ。神はイエスを十字架にかけることによって弱さと敗北による支配を開始したのだ。

気づいていないかもしれないが、イエスが十字架にかけられて以降世界の歴史の流れが変わった。力がこの世を支配するという常識とは全く異なる流れが現れたのだ。十字架にかけられるということは普通に見れば敗北であり、弱さの現れでしかない。ところがその十字架にかけられたイエスが、無数の人間を支配し、世を動かすという流れが出来上がったのだ。イエスは決してその力によって無数の人々を支配したのではない。その弱さと敗北によって無数の人々を支配したのだ。いかなる力にも支配されなかった人々が、イエスの弱さと敗北の前に膝を屈し、イエスに従ったのだ。これによって弱い者を助け、敗北した者をも尊敬するという常識では考えられない流れが歴史に生じ、拡大していった。これこそ神の支配である。

力こそこの世を支配するという常識に捕らえられる人間は次から次へと出てくる。ニーチェの思想でその流れは論理となり、ヒトラーやスターリンなどの独裁者を生み出していく。この流れは今なお続き、世には次から次へと独裁者が現れる。しかしそうであればそうであるほどイエスの十字架の開示した弱さと敗北による支配の流れも強くなっていく。これこそ神の支配である。

先月寮に遊びに来た今野君がこう言ってきた。「そのような神の支配は永久に打ち立てられないでしょう。やはりこの世を動かすのは力ですよ。農務省に勤めていろんな世の動きを見てつくづくそう思いました。」物質だけに目を向ければ確かにそうだ。しかし心に目を向けるとどうであろうか。人々の心は独裁者に心より服従しているのだろうか。見せかけは服従しているが、心の底では嫌っているのではないだろうか。もし彼らに力がないなら、世の人は誰一人彼らに従わないのではないか。力が支配するのは表層の物質的な世界に過ぎない。霊的に人を支配するのは、真に愛をつらぬいた者なのではないだろうか。そして真に愛を貫く者は、力に力で抗せず、敢えて敗北する者なのである。

 

②沈黙の語りかけ

 イエスの沈黙ほど雄弁に語りかけてくるものはない。その向こうには十字架があるからだ。今日紹介した語りかけはその主なものに過ぎない。以下、改めて今日学んだ語りかけをまとめつつメッセージを確認しよう。

イエスの沈黙は何よりも神への愛を表す。イエスは何もかも捨てて神に従った。命さえも捨てて神に従った。その生き様の絶対的な正しさを私たちに突き付けるのである。すなわちイエスの沈黙は私たちにこう呼びかけるのだ。「わたしは命を捨ててまで神に服従し、神を愛する。これこそ正しい生き方だと思わないか」と。

 イエスの沈黙は第二に罪の告発を表す。イエスの沈黙は自分を十字架にかけようとする者の罪を告発するのである。イエスを十字架にかけようとするものとは誰か。それはユダヤ人の指導者やピラトやイエスの弟子たちやユダヤ人の民衆のようにふるまう者たち全員である。つまりは自分の身を守ろうとするために、あるいは自分の欲望を満たすために、無実の者を犠牲にし、あるいは見捨てようとする者たち全員である。この世ではなんと多くの無実の人々が殺されていることであろうか。そのような人々を死に追いやっているのは私たちであるかもしれない。少なくともそのような人たちが殺されていくのを私たちは見捨てている。そのような私たちに向かってイエスの沈黙は問いかけるのである。「あなたはなぜ何の罪もないわたしを十字架にかけようとするのか」と。

 しかし、イエスの沈黙は罪を告発するだけではない。罪を犯す者への赦しをも宣言する。イエスの沈黙は自分を十字架にかけようとする者全員への赦しと愛を表すのである。だから、イエスはその沈黙を通じてこう語りかけるのである。「わたしは命を捨ててまであなたを赦す。わたしはあなたがどんなにひどいことをしようとも、あなたを愛している」と。

 さらにイエスの沈黙は苦しみの分かち合いを表す。人間の罪はこの世にありとあらゆる悲惨を呼び込んだ。犯罪や戦争や貧困だけではない。多くの自然災害や病気という自然との裂け目さえも呼び込んだ。そのような様々な悲惨のゆえに苦しんでいるすべての人たちと共にイエスは十字架の上で苦しんでいる。だからイエスはその沈黙を通じてこう語りかけてくるのである、「わたしはあなたが苦しんでいるとき同じように苦しんでいる、私はあなたの苦しみを共に背負う」と。

これらの沈黙の語りかけによって、なんと多くの人々が清められ、慰められ、そして元気を与えられてきたことか。イエスの沈黙からこれらの語りかけを受けるなら、人は根本的に変えられ、新しく生まれ変わることができるのである。イエスの沈黙の語りかけは、どんなに正しい理論も成し遂げられないかったことを過去2000年にわたって成し遂げてきた。これこそ弱さと敗北による神の支配の実態である。

だから皆さんには、イエスの十字架についてよく学び、イエスの沈黙からの語りかけに耳を澄ます時を大切にしてもらいたい。

 

3.話し合い

Sa「神の導きというのがよくわかりませんでした。それは運命のいたずらに近いのでしょうか。」

寮長「言い方を変えると神の歴史への介入です。神はここぞという重大なときには、歴史に介入して良い方へ事態を変えていきます。良い方へという目的がはっきりありますから、運命のいたずらとは違いますね。」

Ok「敗北や弱さによる支配があるというのは頭では理解できるのですが、実感としてはどうしても、この世は力によって支配されていると思ってしまいます。」

寮長「それはやはり心の世界に目を十分に向けていないからだと思います。」

Ryo「神の愛というのが言葉によらずに表されるというところが面白いと思いました。」

Ma「それが分からないところです。それならそうと言葉ではっきり言えばいいではありませんか。なぜ沈黙と十字架のような遠回りをするのでしょうか。」

寮長「自分で自発的に気づくということが必要だからです。沈黙の語りかけには自分で気づく必要があります。この自分で気づくというところを神は大切にしている。自由意思の尊重ですね。」

Ko「ぼくは、言葉では伝え得ないものが背後にあるからだと思います。単なる理屈以上のものを神は伝えたい。だから沈黙と十字架を通じて語りかけるのではないでしょうか。」

寮長「鋭い!全くその通りです。それともう一つ重要なのは、十字架が行動であるということです。人は言葉よりも行動によって動かされる。それどころか口先だけの人を嫌う。だからイエスは十字架と沈黙を通じて伝えようとするのだと思います。」

Ko「僕は弱さと敗北による支配というところに感動させられました。今まで神の支配と言えば、やはり力による支配だと思っていた。しかし、神の支配は確かに弱さと敗北による支配で、それがイエスの十字架とともに始まったというのは、とてもよく納得できます。それから、人を本当に動かすのは真の愛を貫いた人であり、そこに弱さと敗北による支配の実態があるということにも感動しました。まさにその通りだと思います。そう言えば『マギ』という漫画はそういう主題だったなあ。」

寮長「それは読んでみなければ。」

It「弱さと敗北による支配は実際にはどうやって実践していけばよいのでしょうか。政府の悪政や企業の横暴に黙って耐えていけばよいということでしょうか。」

寮長「制度のことについてはきちんと抗議し、変えていこうと努力しなければだめです。しかし、本当に人の心を変えていこうとしたら、イエスがやったように苦しみを分かち合うとか犠牲になっても相手を赦すということが必要となる。イエスのように、人の苦しみを分かち合ったり、人を赦したりして人を変えていくのが、弱さと敗北による支配の実践です。」

So「確かに隣人との関係においてイエスのように実践すれば人を変えていくことができます。でもそうした範囲は限られていますよね。」

寮長「私たちにできる範囲は本当に限られています。しかし、ほんのわずかな人でも変えられていくなら、それは大きな流れを引き起こしていきます。ここに希望がある。」

Ya「神は何も答えてくれないから神はいないと思いがちだけれど、沈黙を通じてこそ神が語りかけているというところに目を向ければ、神はまさにいらっしゃり、働いていると分かりました。感謝です。」

寮長「これはうれしいコメントですね。」

Mi「力こそ世を支配すると考えている人たちとはどう折り合いをつけていけばよいのでしょうか。」

寮長「適当に折り合いをつけるなんて無理でしょう。弱さと敗北による支配ということを本気で実践していくと、強者志向の会社に就職できなくなってしまうかもしれず、強者志向の人たちからいじめられることになるかもしれません。そして、驚くべきことに、そのようになってまで相手を赦すことが強者志向の人たちに対する対処方法だとイエスは伝えているのです。『わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい』とある通りです。」