「原罪と罪」(小舘)

2024年10月13日(日)春風学寮日曜集会

創世記

1:26 神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」

1:27 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。

・・・

2:16 主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。

2:17 ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」

・・・

3:1 主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」

3:2 女は蛇に答えた。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。

3:3 でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」

3:4 蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。

3:5 それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」

3:6 女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。

3:7 二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。

3:8 その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、

3:9 主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」

3:10 彼は答えた。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」

3:11 神は言われた。「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」

3:12 アダムは答えた。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」

3:13 主なる神は女に向かって言われた。「何ということをしたのか。」女は答えた。「蛇がだましたので、食べてしまいました。」

 

1,天地創造の目的

 順序的にはイエスの十字架に向かって読み進むべきところであるけれど、その前に一度、原点に戻って原罪について学んでみたい。原罪が分からなければ十字架も理解できないであろうから。

 神は天地を創造し、様々な生物を創造し、ついには人間を創造した。いったいなぜか。神の本質は愛であるから、神は愛する対象を望んだのだ。愛する対象がなければ、神はその本質である愛を発動することもできない。だから神は天地を創造し、人間を創造した。天地と人間の創造は神が愛であることの必然的な帰結なのである。

ところで、神は人間を自身の姿に似せてお造りになった。

1:27 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。

とある通りだ。では、「神にかたどって創造された」とはいったいどういう意味であろうか。その第一の意味は、もちろん神同様に愛することのできる存在に創造されたということである。しかし、それは神同様の完璧な愛を持つ存在に創造されたということではない。その気になれば、自由意志によって愛の道(=神に従う道)を選び取ることのできる存在に創造されたということである。

いったいなぜ神は人間をそのように造ったのか。愛である神は、自身が人間を愛するだけでなく、人間から愛されることをも望んでいたからだ。神と人間が相互に愛し合う世界を神の国というのだが、神はまさにそのような神の国を建設したいと思っていた。だからこそ、自由意志によって愛の道を選び取ることのできる人間を創造したのである。

 

2.原罪とは何か

 しかし自由意志を持った人間は非常に危険な存在でもある。なぜならそのような存在は、自由意志によって愛とは異なる道(神に背く道)を選び取ることもできるのだから。

神は、自由意志を持った人間が自分(愛)に背く可能性があることを当然予測していた。だからこそ、戒めを与えて、愛の道を示し、それに反するなら滅亡へ向かうと警告したのだ。

2:16 主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。

2:17 ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」

という言葉は、そのことの隠喩である。「園のすべての木から取って食べなさい」という言葉は神が人間の欲望を決して否定していないことを表している。他方で、「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない」という言葉は、その欲望には決して踏み越えてはいけない限界があり、それを踏み越えてまで欲望を追求するなら、それは愛に反することになるという戒めである。そして、「食べると必ず死んでしまう」という言葉は、その戒めを破って愛に反する道を歩むなら、必ず滅亡することになるという神の警告を表している。

では、愛に反する道とはどんな道であろうか。それはもちろん善悪の知識を手に入れようとする道のことである。ではいったいなぜ善悪の知識を手に入れようとすることが愛に反するのであろうか。そもそもの話、善悪の知識とはいったい何なのであろうか。以前私はそれを二分法的知恵と説明した。今日はもっと簡単にそれを裁きの知恵と言いなおそう。人を裁くことは本来神だけに許されたことである。だから裁きの知恵は本来神だけが持っているべきものなのだ。もしそのような知恵を人間が持つようになるならば、人間は他者を裁くようになり、ついには神さえも裁くようになるだろう。それは人間同士が争う道であり、人間と神が争う道である。そうであればこそ、善悪の知識(裁きの知恵)を手に入れる道は、愛とは反対の道なのである。だからこそ神は、裁きの知恵だけは絶対に手に入れてはいけないと人間に命じたのだ。

ところが、人間代表のアダムとエバはこの戒めを破って善悪の知識を手に入れようとし、それを手に入れてしまう。その結果、賢くなっただけでなく、他者を裁き、神をも裁くようになる。

3:12 アダムは答えた。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」

この言葉こそは、人間が他者(自分の妻)を裁き、神をも裁く言葉である。

そこで話を原罪に移そう。原罪とはいったい何か。それは裁きの知恵それ自体のことではない。神だけに許された裁きの知恵を持とうと思ってしまうこと、すなわち神のように賢くなろうと思ってしまうことこそが原罪なのだ。本質的に言えば、神のようになろうとする過剰な自己拡大欲求こそが原罪なのである。繰り返すが神は欲望それ自体を否定してはいない。食欲、性欲、睡眠欲、自己保存の本能は原罪ではないのだ。神が否定するのはその欲望が必要の範囲を超えて、無限に拡大していこうとする過度な自己拡大欲求なのである。敢えて一言で言えば、強欲を否定したのだ。そしてこの強欲こそが原罪である。この強欲こそが愛とは反対の道であり、根本的に神に背く道なのである。以前は自己中心性であると説明したが、自己中心性だと少し弱いので、今回は強欲と説明しなおそう。

原罪は別に遺伝するわけではない。アダムと女が善悪の知識を手に入れて以来、原罪は遺伝的に全人類に行き渡っていったという説もあるが、それは真実ではあるまい。にもかかわらずすべての人間が原罪に侵されているということは否定しがたい事実であろう。なぜなら、全ての人の心に神のようになろうとする過剰な自己拡大欲求(強欲)があるからである。歴史を振り返ってみても、現代を見回してみても、誰もが必要以上に賢くなろうとし、強くなろうとし、金持ちになろうとする。そしてその欲望はとどまるところを知らない。まさに人は知らず知らずのうちに神のようになろうとしているのだ。皆さんもこの強欲に心底侵されていないだろうか。

 

3.罪の値は死

 しかしここで改めて注目しておきたいのは、「食べると必ず死んでしまう」という神の言葉である。この言葉が指し示すように、善悪の知識を欲しがる道、すなわち神のようになりたいという過剰な自己拡大欲求の道(強欲の道)は、破滅の道である。事実、この後、アダムの長男であるカインは強欲(神の愛を独占したいという思い)のゆえに弟を殺してしまう。強欲の道は、必ず争いを生むのである。他方、アダムの子孫たちは、強欲の道を歩んだ末に神から滅ぼされることになる。

6:5 主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、

6:6 地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。

6:7 主は言われた。「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する。」

こうして彼らは、ノアの家族を除いて、全員洪水によって滅ぼされてしまう。いわゆるノアの洪水である。

総じて、過剰な自己拡大の道(強欲の道)を歩む者は、必然と天罰の両方によって破滅へと向かうことになるのだ。そんなのお伽話だと言うなかれ。現在人類は強欲のゆえに本当に滅亡への道を歩もうとしているではないか。地球温暖化と核戦争が人間の強欲の必然的結果であることは明らかであろう。そして様々な自然災害は人間の強欲に対する天罰であると誰もが感じていることであろう。まさに人類は、これら(地球温暖化、核戦争、自然災害)によって滅亡へと向かっているのである。

 

4.サタンの働き

 ところで、今日の聖書個所には蛇が登場する。この蛇とはいったい何であろうか。この蛇こそはサタンと呼ばれる悪霊である。聖書はサタンの存在を認める。これは現代人には受け入れがたいことであるが、次のように理解するならば受け入れることができるであろう。サタンとは、自己拡大の欲求(強欲)を肯定する外側からのささやきであると。

 蛇は女にこうささやきかける。

  3:4 蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。

3:5 それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」

ここで蛇は、善悪の知識を手に入れたって死にはしない、神のように賢くなるだけだとささやいて、強欲の道を肯定しようとしている。これこそサタンの声である。皆さんは同様のささやきを聞くことがないであろうか。「そのくらいのことはやっても大丈夫だ、誰だってやっているじゃないか、誰にも非難できやしない」と言って強欲をそそのかす声が、しばしば心に起こってこないだろうか。

私は先日千円を拾った。するとたちまちこの声が聞こえてきた。「自分の物にしてしまえ、誰にも見られていないのだし、届けたところで持ち主なんて現れないさ」と。すんでのところで私はこの声に負けるところであった。こういう声を聖書はサタンの声という。別にサタンを認める必要はないが、こういう声が必ず人の心には聞こえてくるということ、そしてその声は意外なほどに強力であること、このことは覚えておいた方がよい。この声に負けてしまうからこそ人間は、過剰な自己拡大の欲求(強欲)を止められないのである。

 

5.戒めの意味

①第一戒~第五戒

これに対して神は過剰な自己拡大欲求を食い止めようとして語りかけてくる。「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」という言葉こそは神の声の典型であるが、そのような神の声を聖書は特に戒めと呼んでいる。戒めは原罪(過剰な自己拡大欲求)が具体的にはどのような形をとって現れるかを指し示し、その道に進もうとする人間を引き留めようとする神の愛の声である。ちなみに原罪の具体的な現れを罪という。以下、最も重要な戒めである十戒を学びつつ、原罪の具体的な現れ(罪)について学んでみよう。

十戒の第一戒から第五戒までは、過剰な自己拡大欲求が神に対してどのように現れるかを示しつつ、それに歯止めをかけようとする戒めである。

20:3 あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。(第一戒)

20:4 あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。

20:5 あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。(第二戒)・・・

20:7 あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。(第三戒)

20:8 安息日を心に留め、これを聖別せよ。

20:9 六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、

20:10 七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。(第四戒)・・・

20:12 あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。(第五戒)

第一戒は真の神だけを崇めよということであり、第二戒は偶像を初めとする神以外のものを崇めてはいけないということである。過剰な自己拡大欲求(強欲)は、何よりもまず真の神の否定と偽の神の崇拝となって現れる。真の神を否定する精神こそは自分を世界の中心と考える強欲の究極の現れであり、自分の利益を増大させるために偽の神を崇拝する偶像崇拝(ご利益宗教)もまたそれに次ぐ強欲の現れである。他方、真の神を崇める精神(偽の神を否定する精神)は真の神の前にへりくだる精神であり、この精神を持つことは過剰な自己拡大欲求の決定的な歯止めとなる。であればこそ、神は何よりもまず真の神を崇めよと命じ、偽の神(偶像)を崇めるなと命じるのである。人間は真の神を否定するが、ご利益宗教には簡単に騙される。これこそ人間が原罪に侵されていることの決定的な証拠である。

第三戒は、神と人間の間が近くなりすぎ、神の権威を見失うことへの警告である。過剰な自己拡大の欲求は、神の権威を見失うという形で現れるのである。神の名を繰り返し唱え続けるなら、神はその人の心の中で友達か何かのような低いものへと変貌してしまい、神の権威は失われていくであろう。そうなると再び人間はへりくだる心を忘れ、自己拡大へと向かい始める。だから、神を引き下げすぎてはいけないとこの戒めは警告する。人間と神との隔たりを意識し続け、神の権威を見失わないことこそが、人間の自己拡大に歯止めをかけるのだ。現代はあらゆる権威が失われた時代である。父親の権威、偉人の権威、国家の権威、神の権威…。あらゆる権威が現代では失われている。この現象も人間が原罪に侵されていることの現れなのである。

第四戒が過剰な自己拡大欲求(強欲)に対する歯止めであることは明らかであろう。過剰な自己拡大欲求(強欲)は働き過ぎとなって現れる。強欲のゆえに人間は放っておけば、休みなく働き続け、あるいは人を働かせ続ける。こうして人は労働の奴隷となり、神のことなど忘れてしまう。であればこそ神は、七日に一度は仕事を休めと神の名において命じる。ところが、神の権威が失われつつある現代では、再び無限に働き続ける傾向が出てきている。月月火水木金金と歌って休みなしで働き、無限に残業する日本人の姿勢が今や欧米にまで広がりつつある。これまた人間が原罪に侵されている動かしがたい証拠である。

第五戒がなぜ自己拡大への歯止めとなるのかは、一見すると理解しにくい。しかし、父母を敬うことが神を崇めることの初めであるという心理的な事実を思い出すなら、その理由は理解できるであろう。父母は人間が最初に出会う目上の者であり、自分を生み、育て、守ってくれる者である。そのような父母を敬ってこそ人は神を敬う気持ちを養うことができる。神を敬う気持ちが育まれればこそ、へりくだる心が生まれる。このようにして父母を敬う心は、過剰な自己拡大欲求への歯止めとなるのである。逆に言えば、父母を敬わないことこそは過剰な自己拡大欲求の最初の現れ(罪)なのである。父母を敬うことを通じて、神を敬う心が養われ、過剰な自己拡大欲求が抑えられるなら、人間は破滅を免れることができるだろう。だからこそこの第五戒は、「そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる」と結ばれるのである。

②第六戒~第十戒

第六戒から第十戒は、人間の過剰な自己拡大欲求が他者(他の人間)に対してどのように現れるかを示しつつそれに歯止めをかけようとする戒めである。

20:13 殺してはならない。(第六戒)

20:14 姦淫してはならない。(第七戒)

20:15 盗んではならない。(第八戒)

20:16 隣人に関して偽証してはならない。(第九戒)

20:17 隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。(第十戒)

いったいなぜ人は姦淫するのであろうか。いったいなぜ人は盗みを働くのであろうか。すべては他者の権利よりも自分の欲望を優先する自己拡大欲求の現れではないか。なぜ人は他者を殺すのであろうか。なぜ人は偽証するのであろうか。すべては他者を裁こうとする過剰な自己拡大の現れではないか。殺人、姦淫、窃盗、偽証。これらは皆、神のようになろうとする過剰な自己拡大欲求(強欲)の現れであり、それゆえに罪なのである。だからこそ神は、そのような方へ向かってはいけないと呼びかける。

しかしこの中で最も重要なのは、以外にも第十戒である。隣人の家を欲する、隣人の妻を欲する、隣人の奴隷やろばを欲する、これらは要するにすべてを支配しようという欲求であり、神のようになろうとする過剰な自己拡大欲求(原罪)そのものではないか。神は最後の戒めである第十戒において、原罪の本質を直接的に表現し、それに歯止めをかけることが最も重要であることを明らかにしたのだ。

 

6.まとめ

 では、神は人間に何を期待しているのであろうか。神のようになろうとする自己拡大の道ではなくて、神を崇め、神の前にへりくだり、神と隣人に自分を捧げる道(へりくだりと奉仕・献身の道)を自由意志によって選び取るよう期待していたのだ。繰り返すがそれは自分の欲望を全て捨て去るということではない。必要な欲望を満たしたうえで、健康なその心身を神と隣人のために捧げる(神と隣人を全身全霊で愛する)ことをこそ神は人間に期待しているのである。

 

話し合い

 

Mi君「自己拡大欲求は自分にもあります。それが過剰になってしまうときがいつなのかよくわかりませんでした。」

寮長「十戒は、その過剰について教えてくれる教えだと思います。神を侮るようになること、他者に迷惑をかけてしまうことが、過剰の現れと言えるでしょう。」

Ma君「僕は善悪の知識の個所を読んで知恵自体が悪いのかと絶えず疑問に思っていました。しかしそうでないことが理解できてよかったです。」

寮長「二分法的な知恵であれ、裁きの知恵であれ、やはり知恵自体が悪いのではありません。そのような知恵を通じて、神のようになろうとしてしまうことが悪いのです。ここは今日の話の重要なポイントです。」

Go君「カードゲームが大好きなのですが、最近レアカードを手に入れて儲けることに関心を持ち始めました。これはやはりまずいのでしょうか。」

寮長「カードゲームなどのゲーム全般は自己拡大欲求の充足を目的とするものですが、それを遊びと割り切ってやる限りは良いのではないでしょうか。しかしそれでお金を儲けようとするなら、それはもう過剰な自己拡大欲求の現れでしょう。」

Go君「もう一つ。バイト先の店が最近日曜日にも営業を始めたのですが、これはやはり過剰な自己拡大欲求の現れでしょうか。」

寮長「週に一度も休まないとなると、過剰ですね。しかし企業とはそういうものです。そういう企業が支配しているからこそ世界はだめになっていくのです。」

Ok君「過剰は他人に害を及ぼす形で現れるというのが勉強になりました。」

Ka君「ぼくもそうです。ギャンブルをやり過ぎて破産したとしてもかまいませんが、それで他人に迷惑をかけるとなるとそれはもう過剰だと。」

寮長「いや、他人に害を及ぼすばかりが過剰の現れではありません。自分の欲望の暴走を止められないことも過剰の現れです。欲望の暴走を止められない人は、必然的に他人に害を及ぼすようになる。ですから、他人に害を及ぼす以前の過剰な自己拡大欲求が問題なのです。それに歯止めをかけるために神は第一~五戒を定めた。ここの重要さを理解してほしい。」

Ry君「神のようになろうとする欲求を過剰な自己拡大欲求と言い換えたのは、新しい感じがしました。これまでにいろんな注解書を読みましたが、そういう表現をしている本はありませんでした。にもかかわらず、今日の解釈は非常に説得力があり、現代の状況にふさわしいように思われました。」

寮長「ありがとうございます。しかし原罪を過剰な自己拡大欲求と解釈する人は私だけではありません。無教会の人には少なからずそう解釈する人がいます。」

Ko君「他人に迷惑をかけるなという教えはどうも好きではありません。他人に迷惑をかけないなら何をしてもよいという人が現れるからです。それよりも、向かうべき理想を示し、ここを目指して生きろと言う方がよいのではないでしょうか。」

寮長「他人に迷惑をかけるなという教えは、神という発想のない日本人の唯一の教育のよりどころでした。しかしこの教えでは、ご指摘の通り、他人に迷惑をかけなければ何をやってもよいという姿勢を生み出し、更には理想に向かって生きるというポジティブなメッセージを生み出すことができませんでした。神はその限界に気付いていましたから、第一~五戒を与え、神の前にへりくだる姿勢を育てようとし、さらにはへりくだりを基礎として、奉仕と献身というポジティブな理想を打ち出していくのです。これらの教えの鋭さに、私は驚かざるを得ません。」

Ko君「もう一つ。寮長は、原罪は遺伝的に受け継がれるものではないと言いましたが、それは普通のキリスト教の教義とは違いますよね。そのような解釈をする論拠を教えてほしいです。」

寮長「これは、難しくて大きな問題です。遺伝的に罪が受け継がれるという教義は非常に問題です。肉体的遺伝だとしたらもう変えようはないですし、精神的遺伝だとしたら、一体罪を伝える媒体は何なのでしょうか。魂なのでしょうか。生まれながらに、魂も原罪に侵されているとするなら、生まれたばかりの赤ん坊は罪人なのでしょうか。このように遺伝的に原罪が受け継がれるという教義は、いろんな疑問を巻き起こします。これはとても短時間でこたえられるような問題ではないので、別の機会にゆっくり扱いましょう。」