2024年11月10日春風学寮日曜集会
聖書 マタイによる福音書26:69-75
讃美歌30,Ⅱ167
1.解説
26:69 ペトロは外にいて中庭に座っていた。そこへ一人の女中が近寄って来て、「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」と言った。
26:70 ペトロは皆の前でそれを打ち消して、「何のことを言っているのか、わたしには分からない」と言った。
*イエスは今大祭司から審問を受けている。前回学んだようにユダヤ人の指導者たちは偽証を重ねることによって夜が明ける前までに処刑判決を下そうとしているのである。イエスの弟子たちは全員イエスが逮捕されると同時に逃げ出してしまったが、ペトロとヨハネはその後こっそりとイエスの後を追い、裁判所である大祭司の家の中庭に忍び込んだ。マタイによる福音書はどういうわけかヨハネのことを記していないが、ヨハネによる福音書の並行記事にはヨハネも共に中庭にいたことが記されている。しかし注目すべきはやはり一番弟子のペトロである。一番弟子がどのように行動するかでイエスの弟子の真価が決まる。
・それでは一体なぜペトロは中庭までついてきたのか。イエスに完全に忠実だったからではあるまい。そうであれば、逃げ出さずにイエスとともに逮捕されたであろう。では忠実ではなかったかというと必ずしもそうと言い切ることはできない。裁判所の中庭まではいって来るという行為は、大変なリスクを伴う行為であり、ひょっとするとイエスの仲間であったことをだれかから指摘され、逮捕されてしまうかもしれないのだから。
・おそらくペトロは自分にできる限り、精一杯イエスに忠実であろうと努力しているのだ。先ずはこの点をとらえておく必要がある。
*案の定、そこへ一人の女中が近寄って来て、「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」と言った。このような指摘がなされることは、ペトロも当然予測していたはずである。ところがペトロの口から出てきた言葉は、「何のことを言っているのか、わたしには分からない」であった。
・この言葉にはペトロ自身驚いたのではないだろうか。なぜこのような言葉が自分の口から出たのかと。そして思ったに違いない。ひょっとして自分の中には自分が思い描いていた自分とは全然異なる自分が住んでいるのではないかと。
26:71 ペトロが門の方に行くと、ほかの女中が彼に目を留め、居合わせた人々に、「この人はナザレのイエスと一緒にいました」と言った。
26:72 そこで、ペトロは再び、「そんな人は知らない」と誓って打ち消した。
*女中の言葉に慌てたペトロは、大祭司の屋敷(裁判所)の門の近くまで逃げていく。しかし、外へと逃げだしはしなかった。彼は思いの限りを尽くしてイエスに忠実であろうとして、そこに踏みとどまったのだ。
・ところが、再び別の女中から指摘される。「この人はナザレのイエスと一緒にいました」と。すると再びペトロは「そんな人は知らない」と誓って打ち消した。ここで重大なのは、「誓って」の一言である。「誓って打ち消した」ということは自分の意志的判断によって否定したということである。今や彼は、自分が思い描いていた自分とは全く異なる自分のほうを自分の意志によって選び取ったのだ。
26:73 しばらくして、そこにいた人々が近寄って来てペトロに言った。「確かに、お前もあの連中の仲間だ。言葉遣いでそれが分かる。」
26:74 そのとき、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と誓い始めた。
*「確かに、お前もあの連中の仲間だ。言葉遣いでそれが分かる」という言葉は、男たちの言葉であり、完全にペトロを糾弾する言葉である。この糾弾を完全に否定しない限り、ペトロは逮捕され、処刑されてしまう。だからペトロは、強烈にイエスを否定する。強烈に否定すれば、自分はイエスの仲間ではないと証明できると思ったのだ。かくしてペトロは、呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と誓い始めたのである。呪いの言葉とはいかなる言葉か。地獄へ落ちろという言葉である。つまりペトロは、「イエスなど知るものか、あんな奴は地獄に落ちてしまえ」と叫んだのだ。
・今やペトロは今までの自分を捨て、もう一人の自分と完全に同化してしまった。今やペトロは、自分が助かるためにイエスに呪いの言葉さえ浴びせる者となってしまった。
・もう一人の自分とは何であろうか。それは、自分のために平気で他者を犠牲にする自分であり、つまり自己中心性(罪)に支配された自分である。以前に学んだ言葉を使えば、過剰な自己拡大欲求に支配された自分である。
26:74するとすぐ、鶏が鳴いた。
26:75 ペトロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。
*ペトロがイエスに対して呪いの言葉を吐いたとき、間髪入れず「鶏が鳴いた。」ここに私たちは驚かなければならない。これは全ての福音書に記されている記事であり、恐らくは事実である。イエスは確かに「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」とペトロに言い、そしてその通りにペトロがイエスを三度「知らない」と否定したところで鶏が鳴いたのである。イエスの言葉通りに神が鶏を鳴かせたのか、鶏がこのときに鳴くことをイエスが予知していたのかはわからない。いずれにせよこれは驚くべき事実である。しかも、鶏が鳴くのは、夜明けの到来の徴である。イエスの一番弟子であるペテロがイエスを見捨てたときに夜明けが到来するとは、なんと意味深い現実の展開であろうか。
・おそらくここには、人間の心の奥底に潜む罪が露呈するときにこそ真の希望が始まるという神のメッセージが込められているのであろう。
*さて、鶏が鳴いたときにペトロはイエスの言葉を思い出して、号泣している。一体なぜペテロは号泣したのであろうか。自分の罪深さが情けなくて号泣したのであろうか。自分の命を守るために師匠を見捨ててののしる自分の自己中心性が悲しくて号泣したのであろうか。それもあるだろう。今までペトロは、自分のことを死んでもイエスに忠実であり続けるイエスの一番弟子であると信じていた。思い出してほしい。イエスが「あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」と告げた後ペテロはいったい何と言っていたであろうか。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」(マタイ26:35)と言ったのだ。これほどのことを言ったにもかかわらず、ペトロは今自分が助かるために、イエスに対して呪いの言葉を吐いているのだ。ペトロはこのときはじめて、自分が心の奥底で罪に支配されるどうしようもない罪人であるということを思い知った。だからこそ号泣したと解釈することもできる。
・しかし、ペトロの号泣の理由はそれだけではない。ここにはもっと深い理由がある。その理由とは、本当のイエスと出会ったことである。もっと言えばイエスの深い愛に触れたことである。イエスは「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」というペトロの言葉が嘘であることを知っていた。自分が逮捕されれば、ペトロは裏切り、イエスを知らないと言い、更には呪いの言葉さえ吐くであろうことを知っていた。イエスは本当のペトロが自分のために他者を犠牲にする罪人であることを知っていたのだ。それなのにイエスは、自分を責めもせず愛し続けていてくれていた。裸になって自分の足を洗ってくれたことさえあった(ヨハネ13章)。そして今、自分のことを責めもせず、黙って殺されようとしている。何という深い愛だろうか。ペトロは、鶏が鳴いた時にイエスの言葉を思い出し、それをきっかけとしてはじめてイエスの愛の深さを思い知った。その愛に自分が包まれていたし、今も包まれていることを知った。であればこそペトロは号泣したのである。
2.メッセージ
①自分を支配するもの
ペトロは、善人であろう(イエスに忠実であろう)と必死に努力し、自分なりにそれに命を懸けた。イエスの死刑判決を聞いて一端は逃げ出したものの、裁判所の中庭までこっそり戻ってきた。これは、相当に勇気のある行動である。ペトロは彼なりに善人であろうと命がけで努力しているのである。そのペトロにして、自分の命が危険にさらされたときにはイエスを裏切ってしまった。だとすれば私たちなら、簡単にイエスを裏切るであろう。
いったいなぜ人は善を貫けないのであろうか。それは弱さのためであろうか。もし私たちに自分の命を捨ててまで意志を貫徹する強さが備わっていたならば、私たちは善を貫くことができるのであろうか。そうではあるまい。たとえ鋼鉄のごとき意志を持っていたとして、悪い考えに取りつかれるなら、私たちは悪を行ってしまう。例えばユダは、自分を殺せるほどの強い意志を持っていながら、イエスを裏切ってしまった。だから、弱さが善を貫けないことの根本的原因ではない。弱さはきっかけに過ぎないのだ。
では人はなぜ善を貫けないのか。それはやはり私たちの心が最も奥深いところで罪に支配されているからだ。以前説明したとおり、罪(原罪)とは自己中心性であり、過剰な自己拡大欲求である。人の心の奥底にはそのような罪が隠れ潜んでいる。私たちは普段この罪に気付きはしない。自分は罪とは無縁な人間だと思い込んで生きている。しかし、そうではない。そのような罪はきっかけさえあれば、唐突に表に飛び出してきて、私たちの意志を支配してしまう。特に、自分の生活や命が危険にさらされるような事態になると、完全に私たちを支配してしまう。弱さは罪の力を発動させる最大のきっかけなのである。
私たちは強くなることによって善を実現しようと努力する。私たちの日常生活はそのような営みである。しかし強くなることには必ず限界がある。その限界に突き当たるとき、私たちの心から、善を目指す自分とは全く異なる自分、罪に支配された自分が飛び出してくる。今日の個所から受け取るべき第一のメッセージは、これである。(トランプを支持するキリスト教徒たち)
②希望の到来
しかし、そのようにして罪が露わになるとき、初めて希望が立ち現れる。なぜなら、そのときに初めて私たちは自分ではどうにもならない罪の恐ろしさを自覚し、同時に本当のイエスと出会うことができるからである。
ペトロは、限界ぎりぎりまで善人であろうと努力したことで自分の強さの限界に突き当たり、自分の罪と出会った。自分の心の奥深くで自分を支配する罪と出会ったのだ。しかし、そのとき彼はイエスの言葉を思い出し、そのように罪深い自分をもイエスが愛してくれていたことを知った。これはどんなに深い喜びだったことであろう。彼の号泣の最も深い理由はこの喜びにある。
同じことは私たち自身にも起こる。最大限の努力をしても善人になれないという自分の弱さを体験するとき、私たちは自分のどうしようもない自己中心性(罪)に気づく。しかしそのときにイエスの言葉を思い出すならば、イエスがそのような私たちの罪を見抜いていたことを知り、それでも私たちを愛し続けていることに気付くことができる。このとき私たちは初めて本当のイエスと出会うのである。
まとめれば、弱さのゆえに自分が罪に支配されていることを知るとき、私たちは本当のイエスに出会うことができる。これが今日の個所から受け取るべき二つ目のメッセージである。
③最高の恵み
もしイエスと出会い、イエスの深い愛に触れることができるなら、私たちの心は深い喜びで満たされる。ペトロの号泣が示す通りだ。しかし話はそれだけに終わらない。もし本当のイエスと出会うならば、もし本当のイエスの愛に触れるならば、イエスの愛が私たちに伝わってくるという現象が起こってくる。つまり、イエスのように命がけの愛が実践できるようになってくるという現象が起こってくるのだ。
実際この後ペトロは、イエスと同様に十字架に掛けられることになる。ローマ帝国の皇帝ネロによってキリスト教徒の大迫害が行われたとき、ペトロはもはや逃げなかった。イエスと同様に黙って十字架についたのである。つまり命がけで善を貫徹できる人間となったのである。(『クオ・バディス』)。
もしこのような現象が最終的に起こるのだとすれば、弱さは唾棄すべきものではなく、むしろ恵みであるということになる。弱さゆえに、私たちは自分の罪を知り、イエスと出会い、イエスの愛をもらうことができるのだから。強さを礼賛するこの世のメッセージとはなんと異なっていることか。というわけで、今日の最後のメッセージは、弱さは恵みであるということだ。
このメッセージを言い表したパウロの言葉を引用して終わるとしよう。
12:9 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
12:10 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。
3.話し合い
Ka君「イエスは、たとえペテロが挫折して呪いの言葉を吐いたとしてもうれしかったのではないでしょうか。なんだか江戸時代の踏み絵を思い出しました。裏切られて踏み絵で踏まれても、イエス様はうれしかったんじゃないでしょうか。」
寮長「それこそ遠藤周作の『沈黙』のテーマじゃないですか。読んだんですか。」
Ka君「いいえ。」
寮長「読んでいないのにわかるなんて、すごいな、君は。イエスの心が愛そのものだとすれば、イエスは確かにペトロの呪いの言葉を好意的に受け止めたことでしょう。さすがにうれしかったとは思わなかったでしょうけれど。」
It君「弱さが恵みというのは、僕にはどうも納得できません。僕の中にはどうしても弱いのは良くないという気持ちがあるのです。」
寮長「いや、それでいいんですよ。それでこそ自分の弱さにぶつかったときに号泣できるのです。」
Ya君「弱さが肯定されているのはあくまでイエスの愛が中心にあるからですよね。」
寮長「その通りです。弱さはあくまでイエスと共にあるということのきっかけになるから恵みなのであって、弱いこと自体が良いわけではありません。そこを理解すれば、It君も結構納得できるのではないでしょうか。」
Sa君「自己中心性は別に悪いものではなく、誰もが持っているものであり、その調和を保つために法律がある。他人に迷惑をかけなければ、自己中心的でよいのではないでしょうか。」
寮長「自己中心性という言葉を使うと必ずこういう意見が出てきてしまうので、私は前々回過剰な自己拡大欲求と言い換えました。聖書の言う自己中心性(罪)は、過剰な自己拡大欲求であり、つまり他人を犠牲にしてまで自分の利益をはかろうとする精神です。こういう精神は普段は表には出てこないで隠れているのですが、窮地に立たされるような出来事が起こると、突然表に出てきてその人を支配してしまう。こういう自己中心性はやはり悪いものであり、警戒すべき恐ろしいものです。これには法律だけではとても対処できない。思考の中心に自分があるという意味の自己中心性は、自己保存本能と同様、別に否定すべきものではありません。この違いを分かってほしいです。」
Mi君「強さを求める現代の風潮とその反動としての弱さを賛美する風潮は、どちらもおかしいと思います。自分が強くなろうとし、強くなったことを自分で評価するのは良いことですが、自分の強さを他人から認めてもらいたいとなると、それはおかしいでしょう。逆に、他人から弱いことを受け入れてもらうのは良いことですが、自分から弱くてよいと思うのはこれまたおかしなことだと思います。」
寮長「なんだか非常に鋭い気がしますが、私の中では君の意見をどう位置付ければよいのかわかりません。きっと今日の聖書のメッセージと深いところでつながっているに違いありません。」
Ko君「僕は最近、周囲のキリスト教の集まりにほとんど顔を出さなくなってしまいました。というのも、ほとんどのキリスト教徒の青年が自分の罪に絶望しておらず、赦されて当然と思っているからです。」
Mi君「そういう人たちは聖書の自分に都合のいい部分だけを見て、都合の悪い部分には目を向けないのでしょう。」
寮長「人間、自力では自分の罪に気付くことはできません。私たちはキリストについて学び、キリストと出会って、初めて自分の罪を知るのです。自分の罪に絶望しないでいる人というのは、やはりキリストをきちんと見つめていない、まさに自分に都合のいいキリストだけに目を向けているのだと思います。」
Go君「聖書を読まない人が、弱さの恵みに気付いたり、自分の罪に気付いたりすることがあるのでしょうか。」
寮長「基本的にはないでしょう。人はキリストときちんと向き合うことなしに弱さの恵みにも罪に気付くことはできません。」
Go君「だから、みんな勝ち組になりたがり、負け組になった人も、自分が負け組であることを認めたくないがために、他の誰かを差別したり、いじめたりするのですね。」
寮長「その通りだと思います。なんだか今日もまた非常に豊かな話し合いが持てたと思います。皆さんと神様にこころから感謝いたします。」