ロトに秘められた重大なメッセージ(小舘)

2025年11月9日春風学寮日曜集会

聖書 創世記

19:12 二人の客はロトに言った。「ほかに、あなたの身内の人がこの町にいますか。あなたの婿や息子や娘などを皆連れてここから逃げなさい。

19:13 実は、わたしたちはこの町を滅ぼしに来たのです。大きな叫びが主のもとに届いたので、主は、この町を滅ぼすためにわたしたちを遣わされたのです。」

19:14 ロトは嫁いだ娘たちの婿のところへ行き、「さあ早く、ここから逃げるのだ。主がこの町を滅ぼされるからだ」と促したが、婿たちは冗談だと思った。

19:15 夜が明けるころ、御使いたちはロトをせきたてて言った。「さあ早く、あなたの妻とここにいる二人の娘を連れて行きなさい。さもないと、この町に下る罰の巻き添えになって滅ぼされてしまう。」

19:16 ロトはためらっていた。主は憐れんで、二人の客にロト、妻、二人の娘の手をとらせて町の外へ避難するようにされた。

19:17 彼らがロトたちを町外れへ連れ出したとき、主は言われた。「命がけで逃れよ。後ろを振り返ってはいけない。低地のどこにもとどまるな。山へ逃げなさい。さもないと、滅びることになる。」

19:18 ロトは言った。「主よ、できません。

19:19 あなたは僕に目を留め、慈しみを豊かに示し、命を救おうとしてくださいます。しかし、わたしは山まで逃げ延びることはできません。恐らく、災害に巻き込まれて、死んでしまうでしょう。

19:20 御覧ください、あの町を。あそこなら近いので、逃げて行けると思います。あれは小さな町です。あそこへ逃げさせてください。あれはほんの小さな町です。どうか、そこでわたしの命を救ってください。」

19:21 主は言われた。「よろしい。そのこともあなたの願いを聞き届け、あなたの言うその町は滅ぼさないことにしよう。

19:22 急いで逃げなさい。あなたがあの町に着くまでは、わたしは何も行わないから。」そこで、その町はツォアル(小さい)と名付けられた。

19:23 太陽が地上に昇ったとき、ロトはツォアルに着いた。

19:24 主はソドムとゴモラの上に天から、主のもとから硫黄の火を降らせ、

19:25 これらの町と低地一帯を、町の全住民、地の草木もろとも滅ぼした。

19:26 ロトの妻は後ろを振り向いたので、塩の柱になった。

19:27 アブラハムは、その朝早く起きて、さきに主と対面した場所へ行き、

19:28 ソドムとゴモラ、および低地一帯を見下ろすと、炉の煙のように地面から煙が立ち上っていた。

19:29 こうして、ロトの住んでいた低地の町々は滅ぼされたが、神はアブラハムを御心に留め、ロトを破滅のただ中から救い出された。

 

序 復習+α

前回は、罪に支配された自己中心的な人間たちが集団的に協力することによって最終的に行き着く先が何であるかを学んだ。その行き着く先は、一つは戦争であり、もう一つは果てしない快楽の追求であった。そうであればこそ神は人間が集団的に協力することに否定的なのだ。しかし、神は愛の神であるから本当は人々が助け合い、協力し合って暮らしていくことを望んでいる。そこで神はアブラムを中心として、罪に支配されない人たちを育て、そのような人たちが協力しあう集団、すなわち神の国を立てようと決意した。18章にはそのような神のゆるぎない決意を表す言葉があるのでそれを引用しよう。

18:17 主は言われた。「わたしが行おうとしていることをアブラハムに隠す必要があろうか。

18:18 アブラハムは大きな強い国民になり、世界のすべての国民は彼によって祝福に入る。

18:19 わたしがアブラハムを選んだのは、彼が息子たちとその子孫に、主の道を守り、主に従って正義を行うよう命じて、主がアブラハムに約束したことを成就するためである。」

今や神はアブラハムの子孫を「主に従って正義を行う」自己中心的ではない(罪に支配されない)人間に育て、彼らを「大きな強い国民」にしようとしているのである。(アブラムの名がアブラハムに代わっている理由については次回扱う。)

 では神はどのようにして自己中心的ではない(罪に支配されない)人間を育てようというのであろうか。祝福を約束し、その約束を信じさせることによって、そのような人間を育てようとしていると前回学んだ。今の個所でも神は、「世界のすべての国民は彼によって祝福に入る」と神は祝福を述べている。

それでは、「世界のすべての国民」がアブラハムによって祝福に入るとはいったいどういうことなのであろうか。これを教えてくれる個所こそ今日の個所である。

 

1.欠点だらけのロト

 男が男をレイプする、しかもそれを町中の男たちが集団でやっている。ノアの洪水以来、寛容を重んじることに決めた神も、さすがにこのような事態を見逃すわけにはいかなかった。そこで二人の御使いを遣わし、ソドムの町を滅ぼすことに決めた。先程読んだ個所は、その御使いが神の決定にしたがって、ソドムを滅ぼしにやって来たシーンである。二人は、その途中でアブラハムの甥のロトの家に立ち寄り、彼にこう告げた。

19:12 二人の客はロトに言った。「ほかに、あなたの身内の人がこの町にいますか。あなたの婿や息子や娘などを皆連れてここから逃げなさい。

19:13 実は、わたしたちはこの町を滅ぼしに来たのです。大きな叫びが主のもとに届いたので、主は、この町を滅ぼすためにわたしたちを遣わされたのです。」

神の御使いの言葉を真剣に受け止めたロトは、自分の家族たちに一刻も早く逃げるように呼び掛ける。ところが娘婿たちは真剣に取り合わない。

19:14 ロトは嫁いだ娘たちの婿のところへ行き、「さあ早く、ここから逃げるのだ。主がこの町を滅ぼされるからだ」と促したが、婿たちは冗談だと思った。

とある通りだ。彼等は神など信じていないから、神のお告げなど全く意に介さないのである。しかし問題はロトである。このような婿たちの態度に触れたロトは意外な行動に出る。逃げることをためらい始めたのだ。(16節「ロトはためらっていた」)。いったいなぜためらうのであろうか。恐らく情にほだされたのだ。娘や婿たちを残して自分だけ逃げるわけにはいかないと。ここには神を信じながらも情に流されてその言葉に従えなくなってしまう、実に人間的なロトの姿がある。

ところがここで驚くべきことが起こる。二人の御使いが彼らの手を引いて、町の外へと誘導したのだ。

  19:16 ・・・主は憐れんで、二人の客にロト、妻、二人の娘の手をとらせて町の外へ避難するようにされた。

なんという寛大さであろうか。神は情に流されるロトとその不信仰な家族を、手取り足取り救おうとしているのである。

 ところがさらに驚くべきことが起こる。続きを読んでみよう。

19:17 彼らがロトたちを町外れへ連れ出したとき、主は言われた。「命がけで逃れよ。後ろを振り返ってはいけない。低地のどこにもとどまるな。山へ逃げなさい。さもないと、滅びることになる。」

19:18 ロトは言った。「主よ、できません。

19:19 あなたは僕に目を留め、慈しみを豊かに示し、命を救おうとしてくださいます。しかし、わたしは山まで逃げ延びることはできません。恐らく、災害に巻き込まれて、死んでしまうでしょう。

19:20 御覧ください、あの町を。あそこなら近いので、逃げて行けると思います。あれは小さな町です。あそこへ逃げさせてください。あれはほんの小さな町です。どうか、そこでわたしの命を救ってください。」

19:21 主は言われた。「よろしい。そのこともあなたの願いを聞き届け、あなたの言うその町は滅ぼさないことにしよう。

19:22 急いで逃げなさい。あなたがあの町に着くまでは、わたしは何も行わないから。」

「わたしは山まで逃げ延びることはできません」とはなんという弱虫であろうか。命がかかっているのだから「命がけで」逃げるべきではないか。それなのに彼は、たやすく弱音を吐いている。ちなみにこの時のロトはそれほどの高齢ではない。この後子供産むことからして娘たちは恐らく二十代であるから、ロトは五十代である。五十代ならいくらでも走れるはずだ。それなのにロトは走れないという。ロトは弱者なのである。しかし、弱者なだけではない。彼はさらにこう言っている。「御覧ください、あの町を。あそこなら近いので、逃げて行けると思います。あれは小さな町です。あそこへ逃げさせてください。」なんという厚かましさであろうか。彼は救われる方法を教えてもらったことにひれ伏して感謝すべきなのに、あろうことかその方法に難癖をつけて、もっと楽な方法で救ってくれと要求しているのだ。にもかかわらず神はこう言っている。「よろしい。そのこともあなたの願いを聞き届け、あなたの言うその町は滅ぼさないことにしよう。急いで逃げなさい。あなたがあの町に着くまでは、わたしは何も行わないから。」驚くべき寛大さである。ここまで来るなら、寛大さを通り越して愛というべきであろう。

 ここでもう一度考えてみたいのは、なぜロトがソドムから逃げだすのをためらったかである。単に情に流されたからだけであろうか。山に逃れずに小さな町に逃げようとした理由も単に弱いからではないように思われる。ロトはひょっとすると山の暮らしが嫌だったのではないだろうか。町で楽をして暮らすのが好きだったのではないか。山まで走ることができなかったのも、町の楽な暮らしに慣れ切って、体が弱っていたからではないか。恐らくそうだと私は思う。だとすれば、ロトは、享楽的であったということもできる。いずれにせよ、ロトは信仰を持っているものの、それを貫けない欠点だらけの人間であったということができる。

 

2.なぜ神はロトを救うのか

 というわけで、ロトは情に流され、弱く、厚かましく、享楽的である。このように欠点だらけのロトを、いったいなぜ神は、助けようとしたのであろうか。普通の物語においてはこのような人物は真っ先に切り捨てられる。ところがこの物語においては、そうではない。神は欠点だらけのロトを手取り足取り救おうとするのだ。いったいなぜであろうか。その理由を教えてくれるのは、今日の個所の最後の言葉である。

19:29 こうして、ロトの住んでいた低地の町々は滅ぼされたが、神はアブラハムを御心に留め、ロトを破滅のただ中から救い出された。

ここにはっきりと書かれているように、神がロトを救ったのはアブラハムを思いやればこそであったのだ。この章の直前、神はアブラハムにソドムを滅ぼす計画を打ち明けている。この計画を知らされたアブラハムはソドム近郊に住んでいたロトのことが心配になった。そこで彼は、何としてもソドムへの裁きをやめさせようと、神に嘆願するのである。これは有名なシーンなので少し引用してみよう。

18:23 アブラハムは進み出て言った。「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。

18:24 あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。

18:25 正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか。」

18:26 主は言われた。「もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう。」

このようにしてアブラハムは、神に嘆願を続け、ついには「十人正しい者がいれば滅ぼさない」という約束を取り付ける。なんと厚かましい。いったいなぜアブラムはこのように厚かましい嘆願を神に行ったのか。アブラハムもロトと同様に厚かましい人間だったのであろうか。そうではあるまい。アブラハムは、ロトのことを救いたい一心から命がけで神に嘆願したのだ。普通王の計画に異議を申し立てたなら首をはねられる可能性がある。ましてや神の計画に異議をもうしたたりすれば、瞬殺されてしまうかもしれない。その危険を冒してまでアブラハムは神の計画に異議を唱えて嘆願したのだ。いったいなぜであろか。それはひとえに甥のロトを救いたいがためである。ここには自分の弱さと享楽趣味のゆえに小さな町を要求したロトの厚かましさとは、正反対の純粋な愛がある。自分の命を犠牲にしてまでも甥を救おうとする命がけの愛がある。であればこそ、神はアブラハムに「御心を留め」、不承不承ロトを救出したのである。

 誤解してはならない。神は決してロトが正しいから助けたのではない。もしロトが正しい人間であったなら、神はソドムを滅ぼすのを取りやめていたはずである。ところが神は、ソドムを滅ぼすことを取りやめなかった。このことはとりもなおさずソドムにはロトも含めて一人の義人もいなかったことを証している。

 では、このようなロト救出の物語を通じて聖書が伝えようとするメッセージとは何であろうか。その第一はやはり、神は義人の命がけの愛に基づく願いには応えてくださるということであろう。神がこの世界を創造した目的はこの世界を愛で満たすことである。だから、神は人間が愛を実行することを最もお喜びになる。であれば、愛に基づく命がけの願いを神は聞き入れてくださるはずではないか。ましてアブラハムは神を重んじ、愛を重んじる義人であった。そのような義人が自分の命をも犠牲にする覚悟でロトを救ってくれと願ったのである。どうして愛の神がその願いを聞き入れないはずがあろう。神は義人の命がけの愛に基づく願いに応えてくださる。これこそがこのロトの物語が伝えようとする第一のメッセージである。

近代以降ほとんどの人は、神は願いを聞いてくれないものと諦めてしまっている。しかし果たして本当に神は願いを聞いてくれないのであろうか。確かに、自己中心的な人間が自分の利益を願ったところで聞いてくれはしないだろう。しかし、本当に神と愛を重んじる義人が、命がけの愛に基づいて願うなら、どうであろうか。ひょっとすると聞いてもらえるのではないだろうか。聖書は、神が義人の命がけの愛に基づく願いを聞いたという記事をいくつも紹介している。いや聖書だけではない。その様な物語は世界中に散らばっている。そして現代においても、義人の命がけの祈りが聞かれたという事実は少ないながらも存在する(政池仁)。だから皆さんは、神は願いを聞いてくれないなどと簡単に諦めないでいただきたい。もちろん神が簡単に願いを聞いてくださるなどと誤解してはいけないが、神の本質は愛である。だとすれば、愛を重んじて生きる人間が愛に基づく願いを命がけでぶつけるなら、神は何らかの形で必ずお応えになるはずである。

 

3.秘められたメッセージ

 ところで、神は義人の命がけの愛に基づく願いに応えてくださるということは、逆に言えば、罪人は義人の命がけの愛の願いのゆえに救われるということである。欠点だらけのロトは、本来ならソドムと共に滅ぼされるべき罪人であった。その彼が救われた理由はひとえに義人アブラハムの命がけの愛の願いのゆえであった。この事実を罪人の側から眺めるなら、ここには次のようなメッセージが込められていると理解できる。すなわち、罪人は義人の命がけの愛に基づく願いのゆえに罪を赦され、救われるというメッセージが。

 皆さんはロトの物語を読みながら、ロトは自分のようだと思わなかったであろうか。そうなのだ。欠点だらけのロトこそは私たち凡人の代表なのである。私たちは決してアブラハムのような義人ではない。そのようになろうと思ってもなれないし、そのようになろうと思いもしない。それほどの罪人なのだ。そのような私たちでさえ、救われる道がある。それは、他の義人に命がけの愛で神に願ってもらうことである。欠点だらけの罪深い凡人は、他の義人に命がけで願ってもらうことによってようやく神から罪を赦され、救われることができる。これこそ、このロトの物語が伝えようとする重大なメッセージである。

 では、そのような義人はどこにいるであろうか。私たちのために命がけで願ってくれるアブラハムのような義人がいったいどこにいるだろうか。私たちの周りには誰もいない。しかし、全ての歴史をさかのぼるなら、どうであろうか。たった一人だけ存在するではないか。その義人の名は、もちろんイエス・キリストである。イエス・キリストは実際に自分を殺そうとする罪人たちや自分を見捨てた罪人たちを赦してくれるよう神に祈った。ルカによる福音書には次のようなイエスの祈りの言葉が記されている。

23:34 〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕

これはまさしく正真正銘の命がけの愛に基づく嘆願である。これほどの嘆願を神が聞き入れないはずがあろうか。このイエス・キリストの命がけの愛の嘆願ゆえに神はすべての人間の罪を赦したと新約聖書は伝える。これは神が聖書を通じて伝えようとする究極の祝福の約束であり、聖書の伝えようとする最も重大なメッセージである。

そして驚くべきことにこの究極の祝福の約束を信じるならば、人の罪(自己中心性)は牙を抜かれていく。いったいなぜか。以前にも述べたように、神の祝福の約束を信じられるなら、自己中心的である理由がなくなってしまうからである。人はいったいなぜ自己中心的になるのだろうか。その根本的理由は、自分以外のものは当てにならない、自分の力で自分を守らなければならないと思うからである。しかし、もし神の祝福の約束を信じることができるなら、自分の力で自分を守ろうとする理由がなくなってしまう。であればこそ、神の祝福の約束を信じること(信仰)は自己中心性の牙を抜き去るのである。

 そこで話を神の国に戻そう。今や神はアブラハムを中心にして神の国を造ろうとしている。その国は、罪に支配されない人々が助け合い協力し合っていく理想の集団である。ではそのような集団を神はどのようにして造っていこうというのであろうか。もはや明らかであろう。信仰に基づいて造っていこうとしているのである。「あなた方の罪はアブラハムとその子孫イエスの命がけの愛の嘆願ゆえに赦された。」この祝福の約束を信じさせることによって人々の自己中心性を弱め、罪に支配されない人々の国を造っていこうとしているのである。一言で言えば、信仰で人の罪を清めることによって神の国を作っていこうとしているのである。

 

4.ロトの妻の運命

最後にもう一つ、どうしても見逃せない部分があるのでそれに触れよう。それはロトの妻に関する記述である。

19:24 主はソドムとゴモラの上に天から、主のもとから硫黄の火を降らせ、

19:25 これらの町と低地一帯を、町の全住民、地の草木もろとも滅ぼした。

19:26 ロトの妻は後ろを振り向いたので、塩の柱になった。

神は、「逃げる時には命がけで逃れよ。後ろを振り返ってはいけない」と言った。ところが、ロトの妻は振り返ってしまった。それで彼女は「塩の柱」になってしまった。この柱はいまだにパレスチナの死海のほとりに残っている。

 本当にこの塩の柱がロトの妻のものなのか、私は知らない。そのようなことはどうでもよいことである。繰り返すが、聖書は史的事実を伝えようとすることを主題とする書物ではないのだから。重要なのはこの物語が何を伝えようとしているかである。

そもそも神はいったいなぜ「逃げる時には命がけで逃れよ。後ろを振り返ってはいけない」と命じたのであろうか。表面的な理由は明らかである。ソドムの享楽的な生活への未練を一切断ち切れということである。振り返るということは未練を表す。ゆえに、ソドムの方を振り返るということは、ソドムの生活に未練を残していることを意味する。つまり神は「振り返ってはならない」と命じることによって、ソドムの生活への未練を一切断ち切れと命じたのである。さもなければその人はソドムと共に滅ぼされると。

しかし、この物語の深いメッセージが信仰にあるとすれば、「振り返ってはいけない」という命令にはもう一段深い意味があることになる。それは、神の祝福の約束を決して疑ってはならないということである。「振り返る」ことのもう一つの意味は、確認することである。妻は恐らく神が本当にソドムを滅ぼしてしまうのか確認するためにこそ振り返った。このことは本質的に言えば神の言葉を疑ったということである。神の御使いの言葉を完全に信じているなら、彼女はわき目もふらずにまっしぐらに逃げたであろう。しかしそうせずに振り返ったということは、彼女が神の御使いの言葉を疑っていたということを表すのである。だとすれば、「振り返ってはならない」という言葉に込められた真の意味は明らかである。それは、神の言葉(ひいては神の祝福の約束)を決して疑うなということであり、すなわちそれを純粋に信じろということなのである。そして振り返ったために塩の柱になってしまったという物語は、神の言葉を信じないなら罪(自己中心性)の支配へ逆行してしまうというメッセージを伝えているのである。

 

5.まとめ

 というわけで、今日学んだメッセージは三つ。①神は義人の命がけの愛に基づく願いに応えてくださる。②罪人は義人の命がけの愛に基づく願いによって救われる。③この祝福の約束を信じる者は実際に罪を清められれていく(自己中心性を弱められていく)。④逆に疑うなら罪の支配へと逆戻りしてしまう。

そして神は、今これらのプロセスを通じて神の国(罪に支配されない人々が助け合い、協力し合う集団)を造ろうとしている。その構成員は、決して義人ではない。義人のおかげで清められていく過程にある凡人たちである。

 

話し合い

It「信仰によって神の国を築いていこうという発想は、アメリカなどの原理主義的キリスト教徒がキリスト教的グローバリズムによって神の国を造ろうとする発想と似ていて、危険な気がします。」

寮長「ある特定の宗教によって神の国を築いていこうというのは確かに危険ですが、神の救いを信じるという信仰が本質的に人の自己中心性を弱めていくということは本当だと思います。ですから、実際の宗教の動向を見ることで今日のメッセージを過小評価しないでほしいと思います。」

So「神様は正しい人がいても悪人と共に滅ぼしてしまったり、悪人がいても義人のゆえに救ったりということをよく行います。どうしてきちんと一人一人を見て裁かないのでしょうか。」

寮長「これは鋭い質問です。はっきり言ってこの問題について、私はまだ解答を得ていません。みんなで共に学んでいきたいと思います。」

Ya「僕は結構運がいいのですが、それはやはり多くの人から祈られているからなのかもしれないと思わされました。」

寮長「私は全く運が悪いので、誰も祈ってくれていないのかもしれません。奥さん、祈ってくれてますか。」

寮母「全然。」(一同爆笑)

Sa「同じ考えの人たちだけを集めて、仲良し集団を作るのは危険なのではないでしょうか。」

寮長「神様は同じ考えの人たちだけを集めようとしていたわけではありません。また罪のない人たちだけを集めようとしていたわけでもありません。むしろ様々な罪人たちを集めてその罪を清めようとしていたのだと思います。」

Mi「ロトの妻が塩の柱にされたというところは、理屈としては納得できるのですが、何か割り切れないものを感じます。」

寮長「その気持ちはわかります。アブラハムの命がけの愛に免じてロトの家族(罪人の集団)を救おうとしているのであれば、なぜそこに「振り向いてはならない」という条件を付けて、裁き直すようなことをするのか、わたしにも疑問です。」

Ko「これは、アブラハムの嘆願が真に自己犠牲的なものではなかったので、それに基づく救いも限定的だったということではないでしょうか。」

寮長「イエス・キリストの嘆願と比べれば、アブラハムの嘆願は確かにさほど自己犠牲的ではありませんが、果たしてそこまで言えるかどうか。私はむしろ、救いにこのような条件を付けてしまうことこそ旧約聖書の筆者たちの限界ではないかと思っています。新約聖書まで来ると、キリストの救いにさらに条件を付けるということは基本的になくなります。」

Ryo「ところで、死海で人が塩の柱になったということは事実であったということが、考古学的に証明されたそうです。」

寮長「私はよく聖書の物語は作り話だと言いますが、それは全部が全部作り話だということではありません。物語の根には必ずなんらかの事実が存在しているのです。ただ聖書はそれに話をたくさん盛り付けてしまう。ノアの洪水だって、実際にあった話です。しかしその洪水はせいぜい一地域のもので、世界全体を水没させるほどのものではなかった。いずれにせよ、聖書の話が事実かどうかにこだわるのは、あまり有意義な読み方につながりません。」

Ok「自分以外はあてにならない、自分は自分の力で守らなければならないという考えが自己中心性の根本的原因だと寮長は言いましたが、これは自己保存の本能こそが罪であり、自己中心性だということでしょうか。」

寮長「そうではありません。神様は基本的に本能を認めています。神様が否定する自己中心性(罪)とは、自己保存の本能の過剰な拡大であり、自分を守ろうとするがゆえに他者の危険を脅かしてしまったり、過剰に富を蓄積してしまったり、快楽を人生の目的に据えてしまったりすることです。このような自己中心性の道は、自己保存どころかむしろ自己破壊につながってしまう。聖書を読み解くにはこのような罪(自己中心性)の定義をきちんとおさえておくことが不可欠です。」

Ma「大学でセネカのことを学んでいますが、セネカの説いていることは今の話とつながります。セネカは自己保存の本能を重視しますが、本当に身を守るために節制が必要であることを繰り返し説きます。過剰に自己保存の本能を追求していくとむしろ、自分は破壊されてしまうと。聖書ではそれを罪とか自己中心性とかいうわけです。」

寮長「なるほど。今日も皆さんのおかげでいろいろと理解が深まりました。皆さんと神様に心から感謝したいと思います。」