信仰の父、アブラハムに学ぶ(小舘)

2025年11月30日春風学寮日曜集会

聖書 創世記15:1-6,16:1-6,17:1-5,17:15-17,18:9-15

 

序 復習+α

前回はロトの物語を通じて神の計画について学んだ。神は今やアブラムの子孫たち(ロトのような凡人たち)を、罪に支配されない人間に育てようとしている。その方法は信仰である。神が祝福を約束し、その約束を果たせば、アブラムとその子孫の間には神を信頼する心(信仰)が育つであろう。そして信仰が育っていけば、罪(神に背く心=自己中心性)は自ずから弱められていくであろう。このようにして罪に支配されない人間を育て、彼らを通じて神の国(助け合い協力し合う集団)を築くことこそ神の計画なのである。

 そこで今日の個所はアブラムの話である。ここにはいったいどういうメッセージが込められているのか。ともに探っていこう。

 

1.解説

15:1 これらのことの後で、主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ。「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」

*「これらのことの後」とはメソポタミアの王たちとシリア・パレスチナの王たちとが世界戦争を起こし、ロトがそれに巻き込まれ、アブラムがロトを助け出した後ということである。罪に支配される集団の行き着く先が世界戦争であることを悟った神は、いよいよアブラムを中心にして罪なき者の集団を作り出そうと乗り出したのだ。

15:2 アブラムは尋ねた。「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。」

15:3 アブラムは言葉をついだ。「御覧のとおり、あなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでしたから、家の僕が跡を継ぐことになっています。」

*これらの言葉に明らかなように、アブラムには子供ができなかった。それで彼は「家の僕」を跡継ぎにせざるを得ない状況にあった。ところが神はアブラムにこう答えた。

15:4 見よ、主の言葉があった。「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」

15:5 主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」

15:6 アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。

*神はアブラムに子を授けると約束し、その子の子孫が星の数ほどに多くなると約束したのだ。これは明らかに祝福の約束である。アブラムは神のこの祝福の約束を信じた。すると神はその信仰をもってアブラムを義と認めた。

・ここで見落としてならないのは、アブラムはすでに高齢であるということだ。神の呼びかけに従って生まれ故郷をあとにしたのが75歳のときであったから、この言葉を受けた時には少なくとも75歳以上のはずである。にもかかわらず神はアブラムに「あなたから子供が生まれる」と言い、アブラムはその言葉を信じた。そうであればこそ、神はその信仰をもってアブラムを義と認めたのだ。

*ところで、神から「義と認められる」とはどういうことであろうか。簡単に言えば、それは神から正しいと認められることなのだが、神から正しいと認められるとはいったいどういうことなのであろうか。私たちの感覚では、義というのは倫理的に正しいこと(あるいは正しい性質)を義というのであるが、聖書で言う義は関係的概念であり、神との正しい関係のことを言う。つまりここでアブラムは神と正しい関係にあることが認められたのだ。

・さらに言えば、神と正しい関係にあると認められるということは、罪なき者と認められたということであり、それはすなわち死から解放されたということである(罪=死)。これによってアブラムは天の国において永遠に生きることを許されたいうことになる。

・それでは、いったいなぜアブラムは神と正しい関係にあると認められたのであろうか。もちろんすでに述べたようにそれは、神の言葉を素直に信じたからだ。神はアブラムが75歳という高齢であるにもかかわらず彼に子供を授けると語りかけた。そしてアブラムはその言葉を信じた。これこそ神との正しい関係である。つまり神との正しい関係(義)とは、神が何かを語りかけ、その言葉(啓示)を人間が信じる関係、すなわち信仰関係のことなのだ。

16:1 アブラムの妻サライには、子供が生まれなかった。彼女には、ハガルというエジプト人の女奴隷がいた。

16:2 サライはアブラムに言った。「主はわたしに子供を授けてくださいません。どうぞ、わたしの女奴隷のところに入ってください。わたしは彼女によって、子供を与えられるかもしれません。」アブラムは、サライの願いを聞き入れた。

*驚くべき展開である。神はアブラムに子供ができると告げたのに、アブラムには全く子供が生まれなかった。そこで妻のサライは、提案をアブラムに持ちかける。「どうぞ、わたしの女奴隷のところに入ってください」と。つまり、今で言うところの代理母に子供を生んでもらおうとサライは提案したのである。他人に子供を生んでもらってそれで幸せになれるのか極めて疑問だが、それよりも問題なのは、サライが神の言葉をまるで信じていないということである。そしてそれよりもさらに問題なのは、アブラムでさえ神の言葉を信じていないらしいことである。アブラムはサライの提案を受け入れている。これは子供を授けるという神の約束をアブラムが信じきれていないということを意味する。

16:3 アブラムの妻サライは、エジプト人の女奴隷ハガルを連れて来て、夫アブラムの側女とした。アブラムがカナン地方に住んでから、十年後のことであった。

16:4 アブラムはハガルのところに入り、彼女は身ごもった。ところが、自分が身ごもったのを知ると、彼女は女主人を軽んじた。

16:5 サライはアブラムに言った。「わたしが不当な目に遭ったのは、あなたのせいです。女奴隷をあなたのふところに与えたのはわたしなのに、彼女は自分が身ごもったのを知ると、わたしを軽んじるようになりました。主がわたしとあなたとの間を裁かれますように。」

16:6 アブラムはサライに答えた。「あなたの女奴隷はあなたのものだ。好きなようにするがいい。」サライは彼女につらく当たったので、彼女はサライのもとから逃げた。

*アブラムは女奴隷ハガルを側女として迎え、ついに子供を身ごもらせた。この後、家出したハガルは、神に諭されて戻ってくる。そして無事に男の子を産み、その子をイシュマエルと名づける。時にアブラムが生まれ故郷を出てから11年後のことである。アブラムは86歳にしてようやく長子を得たのであった。

*長子を得たのはひとまずめでたいことであるが、その後の人間関係は、悲惨なものとなる。子を宿した女奴隷ハガルは正室のサライを軽んじるようになり、他方サライもそのようなハガルをいじめるようになってしまう。しかし、最も問題なのは、アブラムがそのいじめを容認したことである。「あなたの女奴隷はあなたのものだ。好きなようにするがいい。」これほど無責任な言葉があるろうか。これは明らかにいじめの容認である。このようにアブラハムとサライは、長子を得たにもかかわらず、それぞれに欠点を露呈させていき、対立的な人間関係に陥ってしまうのであった。

このような展開(不信仰>代理母>人間関係の対立)に込められた神のメッセージとは何なのであろうか。

17:1 アブラムが九十九歳になったとき、主はアブラムに現れて言われた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。

17:2 わたしは、あなたとの間にわたしの契約を立て、あなたをますます増やすであろう。」

17:3 アブラムはひれ伏した。神は更に、語りかけて言われた。

17:4 「これがあなたと結ぶわたしの契約である。あなたは多くの国民の父となる。

17:5 あなたは、もはやアブラムではなく、アブラハムと名乗りなさい。あなたを多くの国民の父とするからである。

*ここでアブラムは神によってアブラハムへと変名される。アブは古代ヘブル語で「父」を意味し、ラムは「高められた」を意味する。つまりアブラムの意味は「高められた父」である。対してハモンは「多くの」を意味する。つまりアブラハムとは「多くの者の父」という意味である。

17:15 神はアブラハムに言われた。「あなたの妻サライは、名前をサライではなく、サラと呼びなさい。

17:16 わたしは彼女を祝福し、彼女によってあなたに男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福し、諸国民の母とする。諸民族の王となる者たちが彼女から出る。」

17:17 アブラハムはひれ伏した。しかし笑って、ひそかに言った。「百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか。」

*アブラハムに続いて妻のサライもサラと変名される。サライの意味は「わたしの女王」であるが、サラの意味はただの「女王」である。これらの変名が何を意味するのかは不明であるが、少なくともアブラムよりもアブラハムの方が、サライよりもサラの方が公的であることは確かである。おそらく神は、二人がもはやただの個人ではなく、神の国という集団の代表であるということを変名によって自覚させようとしたのだ。

*しかしそんなことよりも重要なのは、アブラハムの笑いと言葉である。「百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか。」という言葉はもはやアブラハムが神の言葉を完全に信じていないことを表している。七五歳のころにはまだ神の言葉を信じることができた。しかし今やアブラハムは百歳である。百歳の男が子供を作るということなど常識的にあり得ない。神の言葉が信じられないのも当然と言えよう。アブラハムだけではない。この後、再び神とその御使いが現れて、二人に男の子が生まれることを告げるのだが、そのときにはサラも神への不信を表明する。

18:9 彼ら(神の御使い)はアブラハムに尋ねた。「あなたの妻のサラはどこにいますか。」「はい、天幕の中におります」とアブラハムが答えると、

18:10 彼らの一人が言った。「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう。」サラは、すぐ後ろの天幕の入り口で聞いていた。

18:11 アブラハムもサラも多くの日を重ねて老人になっており、しかもサラは月のものがとうになくなっていた。

18:12 サラはひそかに笑った。自分は年をとり、もはや楽しみがあるはずもなし、主人も年老いているのに、と思ったのである。

*このようにアブラハムとサラは、夫婦そろって神に対して不信を抱き、心ひそかに神を侮った。人間の知恵で考えるならば、これは当然のことであろうが、神の側からすれば、これはとんでもない不信仰の表明である。ひょっとすると二人の信仰は、子供を授けてほしいという欲望と深く結びついていたのではないか。今や二人は神が子供を授けてくれそうもないために、神を侮っているのではあるまいか。では、このような二人に対して、神はどう応答したであろうか。

18:13 主はアブラハムに言われた。「なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。

18:14 主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはここに戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている。」

18:15 サラは恐ろしくなり、打ち消して言った。「わたしは笑いませんでした。」主は言われた。「いや、あなたは確かに笑った。」

*実に不気味な応答である。神は確実にアブラハムとサラの心を見抜いている。彼らが神を信じておらず、侮ってさえいることを完全に見抜いている。ところが神は少しも怒りを表明していない。「いや、あなたは確かに笑った」と事実を確認しただけである。なんと不気味な。いったいなぜ神は二人に対して怒りを示さないのであろうか。ひとまずは結末まで読もう。

21:1 主は、約束されたとおりサラを顧み、さきに語られたとおりサラのために行われたので、

21:2 彼女は身ごもり、年老いたアブラハムとの間に男の子を産んだ。それは、神が約束されていた時期であった。

21:3 アブラハムは、サラが産んだ自分の子をイサクと名付け、

21:4 神が命じられたとおり、八日目に、息子イサクに割礼を施した。

21:5 息子イサクが生まれたとき、アブラハムは百歳であった。

21:6 サラは言った。「神はわたしに笑いをお与えになった。聞く者は皆、わたしと笑い(イサク)を/共にしてくれるでしょう。」

21:7 サラはまた言った。「誰がアブラハムに言いえたでしょう/サラは子に乳を含ませるだろうと。しかしわたしは子を産みました/年老いた夫のために。」

21:8 やがて、子供は育って乳離れした。アブラハムはイサクの乳離れの日に盛大な祝宴を開いた。

*神は約束通り、アブラハムとサラに子を授けた。子を授けただけでなく、サラに母乳を出させ、イサクを育てることまで可能にしてくれた。神は、アブラハムとサラが不信仰であったにもかかわらず、怒りを表明せず、それどころか、二人を大いに祝福したのである。いったいなぜだろうか。

*さらに考えるべきことがある。神はその息子をイサク(笑い)と名付けるように命じた(17:19)。いったいなぜであろうか。サラは神が自分やこの話を聞いた人に笑いを与えるためだと解釈しているが、それは皮相な解釈というものだ。ここには恐らく重大な理由がある。

 

2.話し合い(メッセージを探る)

Ho「信仰を義と認められたアブラハムが悲惨な対立に陥ってしまうということは信仰と人間関係は別ということでしょうか。」

寮長「いや、そうではないでしょう。むしろ信仰の崩れが悲惨な対立を生んだとみるべきでしょう。」

Ue「人間の信仰の不完全さを示そうとした。そしてそのような人間をも神が愛してくださるということを伝えようとしたのではないでしょうか。」

寮長「大いにあり得ますね。」

Ko「イサクと名付けた理由は、悔い改めさせるためではないでしょうか。」

寮長「そうだと思います。イサクの名を呼ぶたびに自分たちの不信仰を思い出すようにと。」

Ka「信頼がないといろんな関係が乱れてくることを伝えようとしたのだと思います。」

寮長「それもありますね。神と人間の間にも、人間同士の間にも、信頼がなければ悲惨なことになると。」

Ku「アブラハムは信仰があって義とされたのではないと思います。むしろ信仰は神の恵みによって与えられる。そのことを伝えようとしているのではないでしょうか。」

寮長「その通りだと思います。」

It「神が信じられない結果、互いに責め合うようになっていったように僕には思われます。」

寮長「神が信じられない結果、自分の知恵で事態を打開しようとした。そこから、不和が生じるのですね。」

So「神様は、アブラハムの初めの信仰を義とし、それを信頼して、その信仰を育てようとしたのではないでしょうか。」

寮長「その通りでしょう。」

Ya「神様は弱い信仰のアブラハムを強い信仰のアブラハムへと育て、人々のロールモデルにしようとしているのだと思います。」

寮長「これまたその通りだと思います。」

Ma「アブラハムは一度は信仰を持ったけど、それを途中で失ってしまった。つまり信仰を忘れるなということではないでしょうか。」

寮長「鋭い。そうかもしれません。私がメッセージを示さなくても、みんなで話し合えば、メッセージが明らかになっていきますね。以下、私が受けたメッセージを聞いてください。」

 

3.メッセージ

①不信仰>代理母>人間関係の対立に込められた神のメッセージとは何か

対立軸は明らかに、人間の知恵と信仰である。アブラムもサライも神の約束を信じ切れずに自力で(自分の知恵で、善悪の知識で)事態を打開しようとした。その結果二人は、確かにそれなりの解決を得た。アブラムに長子を得ることができたのだから。しかしそれ以外のことについては、事態は悪化してしまった。三人の人間関係は全く愛のない対立関係になってしまったのである。これは神を信じなかったことの報い(天罰)なのであろうか。そういう面もあろうけれど、私はやはり神を無視して自分の力で自分の利益を図ろうとする行為には、必ずひずみが生じ、対立を生み出してしまうという必然の結果だと思う。神を信じている限り、人は自力でもって自分の利益を図ろうとする必要がなく、平安に過ごすことができる。神を信じずに自力で自分の利益を図ろうとすることから、あらゆる対立が生まれてくるのだ。

②いったいなぜ神はアブラハムとサラの不信仰に対して怒りを表明せずにむしろ祝福したのか

神は恐らく初めから彼らに完全な信仰を期待していなかったのだ。それどころか、彼らに完全な信仰がないことを重々承知の上で、アブラハムを義と認め、祝福して子を授けたのだ。いったいなぜか。神が常識や自然をも超えて絶対的に信頼できる方であるという信仰を彼らの中に打ち立てるためであろう。神は高齢の二人に子を授けることによって彼らのうちに揺るがぬ信仰を打ち立てるつもりであった。そうであればこそ、アブラハムやサラが不信仰をあらわにしても怒らずに帰って祝福したのである。

そうなると改めてなぜ神がアブラハムをその信仰によって義と認めたのかが問題になってくる。アブラハムの信仰は第一に常識の範囲内でのみ神を信じる信仰であった。第二に妻たちの主張にくずおれてしまう弱い信仰であった。そして第三に、子供が欲しいという欲望を含んだ不純な信仰であった。それでも神はそのような不十分な信仰でも良しとしてアブラハムを義と認めたのだ。いったいなぜだろうか。恐らくたとえ不十分であろうとも、アブラハムには神の言葉を素直に受け入れる信仰、神との正しい関係が成立していたからだ。神がアブラハムを義と認めたのは、アブラハムの信仰が完全であったからではなく、必要最低限を満たしていたからなのだ。

今や神は、アブラハムの不十分な信仰を基礎として、その信仰を常識を超えた、揺るがない、純粋なものへと鍛えようとしている。そうであればこそ百歳のアブラハムに神は子供を授けたのだ。

③イサク(笑い)という名の意味

そのように読み解いていくなら、神がアブラハムの息子にイサクという名を与えた理由もわかってくる。この名に込められた神の真意はアブラハムとサラがイサクの名を呼ぶたびに自分たちが常識に基づいて神をあざ笑ったこと(自身の不信仰)を思い出させることにあったのだ。そして同時にそのような不信仰にもかかわらず神が人間の常識を超えて、約束を守り通し、彼らに子供を授けたことを思い出せることにあったのだ。神は恐らく二人がイサクの名を呼ぶたびにそのようにして自身の信仰を新たにすることを望んでいたのだ。

④まとめ

 というわけで私が今日の個所から受けた啓示はこうだ。①神が常識や自然をも超えて絶対的に信頼できる方である。②そのような神を無視して自分の力で自分の利益を図ろうとする行為には、必ずひずみが生じ、対立を生み出してしまう。③にもかかわらず、私たちは絶えず神の言葉を侮り、一笑に付してしまう。神の言葉を絶えず一笑に付してしまう自分の態度(不信仰)を絶えず見つめなおし、その結果を見つめなおすことの大切さを神はアブラハムの物語を通じて訴えているのだと思う。