イサクを捧げよ(小舘)

2025年12月7日春風学寮日曜集会

聖書 創世記22:1-13

1.解説

22:1 これらのことの後で、神はアブラハムを試された。神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、

22:2 神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」

*「これらのこと」とは、この直前の一連の出来事のことである。アブラハムとサラの間にイサクが誕生したが、その結果長男のイシュマエルとその母で女奴隷のハガルはイサクをいじめだした。怒ったサラは、ハガイとその子を家から追い出してくれとアブラハムに嘆願する。アブラハムは悩んだが神が「サラの言う通りにせよ。あの子も私は大きな国民にする」と約束したので、アブラハムは翌朝すぐさま二人を荒れ野へと追い出した。つまり、アブラハムの子はイサク一人となったのである。「これらのこと」とはまさにこれらの一連の出来事を指す。その後で神はアブラハムを「試された」のである。

・「試す」には試練を与えるという意味もあるが、ここでの意味はテストするほうである。今や神はアブラハムをテストしようとしているのである。では、神はアブラハムの何をテストしよう(試そう)というのだろうか。

・神はアブラハムに言う。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい」と。要するに、イサクを殺すことによってその命を神に捧げよと神は命じたのだ。そんな無茶な。いったいなぜ神はこのようなことをアブラハムに命じたのであろうか。もちろんアブラハムを試すためなのだが、いったい彼の何を試そうというのだろうか。

・ちなみにこの時代のこの地方、すなわちカナン地方においては、長子を殺してその命を神にささげるという宗教的儀式が行われていた。なぜかと言えば、神に戦いにおける勝利を祈願したり、あるいは戦いに勝利したことを神に感謝するためである(「世界宗教史1」エリアーデ,p.193-194)。つまりカナンの人々は明確な目的のために子供を神にささげた。このような風習と、ここでのアブラハムの行為は同じなのであろうか。

22:3 次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った。

*「次の朝早く」という一言が示すように、アブラハムには全くためらいや迷いが見られない。神がハガルとイシュマエルを家から追い出すように命じたときも「次の朝早く」という同じ言葉が用いられていた。つまり翌日の朝早々にハガルとイシュマエルを追い出しているのである。しかもそこにはアブラハムが悲しんだとか、涙を流したとかいう表現が一切ない。ここでも同じだ。アブラハムは悲しみもせずしくしくと神の命令に従っている。いったいどのような気持ちでアブラハムはこのような神の命令に従ったのであろうか。

・ちなみに甥のロトは、「自分の命を救うために逃げよ」という命令にさえなかなか従わず、ぐずぐずとためらっていた。筆者が両者を対照的に描いていることは明らかである。

22:4 三日目になって、アブラハムが目を凝らすと、遠くにその場所が見えたので、

22:5 アブラハムは若者に言った。「お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる。」

22:6 アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持った。二人は一緒に歩いて行った。

22:7 イサクは父アブラハムに、「わたしのお父さん」と呼びかけた。彼が、「ここにいる。わたしの子よ」と答えると、イサクは言った。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」

22:8 アブラハムは答えた。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」二人は一緒に歩いて行った。

*これはこの一連の箇所のクライマックスとも言うべきシーンである。イサクは、父を全く疑っていない。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか」というイサクの質問にはイサクの純真さが現れている。このように純真な子供を神は殺せと命じているのだ。いったいなぜだろうかと再び思わずにはいられない。

・この質問に対して、アブラハムは答える。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる」と。この言葉はいったい何を意味しているのであろうか。アブラハムは必ず神が代わりの子羊を準備してくださると信じていたのであろうか。それともイサクを安心させようとして嘘をついたのであろうか。

22:9 神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。

22:10 そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。

22:11 そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、

22:12 御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」

22:13 アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。

*アブラハムは完全に神の命令に従った。イサクを完全に殺すつもりであったのだ。そのことは、神の御使いの言葉「自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった」から理解できる。神は人の心を見通すことができる。神はアブラハムが本気でイサクを殺そうとしていることを見抜いたからこそ、御使いはこの言葉を語ったのだ。

・イサクを本気で殺そうとしたことによってアブラハムは神が課したテストに合格した。それでは、改めて問おう。いったいこのテストはアブラハムの何を試す試験だったのであろうか。御使いは、「あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ」と述べている。ということは、アブラハムに神を畏れる心があるかどうかを試すテストであったと理解できる。それでは、神を畏れる心とはどのような心なのであろうか。

*最後には、「アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた」とある。神はアブラハムの言葉「焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる」の通り、神はイサクの代わりの「献げ物」を備えてくださったのだ。この神の行為(代わりの献げ物を備える行為)はいったい何を意味しているのであろうか。

 

2.話し合い①(メッセージを探る)

Ryo「イサクは晩年に神から授かった子。これより大切なものはアブラハムにはないでしょう。つまりこれは一番大切なものを神のために捧げられるかというテストなのだと思います。そして神の目的は、以降はそのような犠牲を払う必要はない、羊のような動物を捧げればよいと示すことにあった。」

寮長「そういう解釈も確かにあり得、実際そのように解釈する人もたくさんいます。しかし私はそうではないと思います。前半は良いと思います。確かにこれは、自分の最も大切なものを神のために捧げられるかというテストです。しかしその目的は、もはやそうする必要はないと示すことにはないと思います。神はやはり、一番大切なものを神のために捧げることを私たちに望んでいるのだと思います。ましてや動物を捧げればそれでよいなどと神が考えているなどとは到底思えません。」

Ok「アブラハムはやはり初めからイサクを殺す気などなかった、神が本当に代わりの物を備えてくれると思っていたのではないでしょうか。」

寮長「そうだとすると、『あなたが神を畏れる者であることが、今、分かった』という言葉が無意味化してしまいます。アブラハムには神への畏れなどは全くなかったことになり、この言葉も嘘であるということになってしまう。君のように読みたくなるのも理解できるのですが、テキストは先ほど示したようにそう語っていません。」

Ho「畏れる心は、強制力によって従うような心です。高齢でイサクを授かったという体験によって、アブラハムは神の圧倒的な力を知った。それでアブラハムにも畏れる心が生じた。その神を畏れる心が確固たるものかどうか、神は試そうとしているのではないでしょうか。」

寮長「その通りです。ただ畏れる心の意味は、単に力に従うような心ではありません。そこにはもっと積極的な意味もある。」

Ue「カナン地方の風習は確固たる目的があるご利益宗教だったと思います。それに対してアブラハムの行為には目的がない、その目的が何かも分かっていない。だから、彼の行為は、カナン地方の風習とは全然違うものだったと思います。」

寮長「その通り。」

Ko「かつてアブラハムは神を笑いました。今回神は再チャンスを与えたのだと思うのです。つまり僕は、試しの意味はテストではなく試練だと思うのです。はたして神を信じ切れるかという。」

寮長「試しを試練だととらえる読み方もできるかもしれません。間違いでない読み方はみんなありです。その通り神が示していると思われるなら。聖書の読解は正解のない探求です。」

Ka「畏れは、AIで調べると力に屈する意味を含むそうです。しかし神はそういう畏れを期待したわけではないと思います。やはり神への思いは自発的で、前向きでなければ。」

寮長「するどい。古代ヘブライ語の畏れは、日本語の畏れと少し違うのですね。神の力を恐れるという意味もありますが、そこには信仰や経験という積極的な意味も含まれています。神は確かにもっと積極的な心をアブラハムに求めていました。」

Ku「僕は、畏れる心とは自分を超えた、この世の価値観や常識を超えたものへの畏敬であると思います。神はアブラハムにそういう心を求めていたのだと思います。」

寮長「するどい。まさしくその通りです。」

 

3.メッセージ

①神はアブラハムの何を試そうとしたのか

 いったい神はアブラハムの何を試そうとしたのであろうか。これまでの脈絡からすればその答えは明らかである。アブラハムの信仰を試そうとしたのだ。神はアブラハムに確固たる信仰を与えようとして、彼が百歳の時に彼に子供を授けた。その結果果たしてアブラハムの心に確固たる信仰が育っているか、それをここで神は試そうとしたのだ。

 かつてのアブラハムの信仰は、常識の範囲内での、周囲の状況によって左右されてしまう、利己心と結びついた信仰であった。それがはたして、常識を超えた、周囲の状況に左右されない、利己心を超えた信仰になっているか、それを試すためにこそ、イサクの命を捧げよという理不尽極まりない命令を神は敢えて下したのだ。

②いったいどのような気持ちでアブラハムはこのような神の命令に従ったのか

アブラハムは理不尽極まりない神の命令にしくしくと従う。そこには一切のためらいも悩みもない。いったいなぜこのような理不尽な命令にアブラハムはしくしくと従うことができたのか。もちろんアブラハムの心の中に不動の神信頼が築かれていたからだ。アブラハムはかつて常識に基づいて神のことを笑い侮った。しかしイサクが生まれることによって、アブラハムはそのような自分の不信仰と侮りがどんなに誤ったものであったかを思い知った。神は自分の常識をはるかに超えて信頼できる方であると思い知ったのだ。だから今やアブラハムは神を絶対的に信頼している。神がどんなに非常識な、どんなに理不尽な、どんなに非人間的な命令を下そうと、最後の最後には神は必ず最善の結果に導いてくださると信頼することができたのだ。であればこそ、子供を殺せと言う理不尽な命令にも彼はしくしくと従うことができたのだ。

子供を殺すというのはつらいことだ。心は激しく痛んだであろう。しかし彼の心にはその痛みを打ち消してあまりある、絶対的な神信頼が築かれていたのだ。

③アブラハムの行為はカナンの長子を捧げる風習と同じか

だとすると、アブラハムの行為はカナンの宗教的風習とは異なることがわかる。カナンの風習は、勝利の祈願とか勝利へ感謝とか言った確固たる目的に沿うものであった。つまり彼らはご利益を得ようとして、長子を神にささげたのだ。ところがアブラハムの行為は、自分に利益があろうとなかろうと、自分に害が与えられようとも、神は最善のことをなしてくださると信じた結果の行為だからである。アブラハムがここで示している信仰はそのような絶対的な神信頼の信仰であり、カナンの信仰とは全く異なる。

④神を畏れる心とは

すると神を畏れる心がどのようなものかもわかってくる。神を畏れる心とはこのような絶対的神信頼のことなのである。神の命令は自分に害を与え、自分に犠牲を強いるかもしれない。しかしたとえそうだとしても神は最後には最善をなしてくださると信じてしくしくと神に従う、これが神を畏れる心である。ちなみに畏れは古代ヘブル語ではイラーであり、それには信仰や敬虔という意味も含まれている。

「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる」ということばもそこから理解することができる。これは文字通りに受け取ってはいけないセリフである。アブラハムは断じて神が代わりの献げ物をそなえてくださるから大丈夫だと安心していたわけではない。この言葉は、たとえイサクを殺すことになったとしても、神様は最後には最善を実現してくださるという絶対的神信頼を表す言葉なのだ。

そして最後の神の行為(代わりの献げ物を備えるという行為)もそこから理解できる。これこそ神に従った末の最善である。この「雄羊」は神が導く最善の象徴である。

⑤まとめ

最後に「あなたの愛する独り子イサク」という言葉について考えてみたい。イサクはアブラハムが百歳にしてようやく得たたった一人の跡継ぎ息子であった。このことは何を意味するであろうか。それは、アブラハムにとってイサクが自分の命よりも大切な最愛の存在であったことを意味する。その自分の命よりも大切な存在であるイサクを神は自分のために「焼き尽くす献げ物」として捧げよと命じた。これは自分の命を捧げるよりもつらいこと、究極の自己犠牲をなせという命令ではないか。そうなのだ。神はここでアブラハムに究極の自己犠牲を命じているのだ。言い換えれば、究極の神愛を命じているのだ。

ふつうならこのような命令に従うことなどできない。ところがアブラハムにはそれができた。いったいなぜか。くりかえすがそれはアブラハムの心に絶対的な神信頼が打ち立てられていたからだ。ここに気づくなら、この物語が伝えようとする最深のメッセージが見えてくる。すなわち、神への絶対的信頼があれば、究極の自己犠牲すら(究極の愛すら)実行できるようになるということである。逆に言えば、私たちに愛が実行できないのは神を信頼しないからなのだとこの物語は訴えているのである。

それでは、いったいどうすれば神を絶対的に信頼することができるのであろうか。どうすれば神を畏れる心を養うことができるのであろうか。その第一歩は、神の言葉(啓示)を素直に受け入れる信仰である。前回学んだ箇所を思い出してほしい。アブラハムがまだアブラムだったころ、彼は神の言葉を素直に受け入れ、それをもって神から義と認められていた。

15:5 主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」

15:6 アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。

神の言葉を素直に受け入れる小さな信仰、イエスの言葉で言うところの「からし種一粒ほどの信仰」があれば、その信仰は神の導きに従って大きくなり、やがては絶対的信頼となる。

 イエスのマタイ伝の言葉を引いて終わりにしよう。

13:31 イエスは、別のたとえを持ち出して、彼らに言われた。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、

13:32 どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」

13:33 また、別のたとえをお話しになった。「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」

「天の国」と信仰と置き換えられる。信じる者は神によって義とされるのだから、その人はすでに天の国にいるのである。つまりイエスはここで、ほんの小さな信仰がやがては神を絶対的に信頼する信仰へと育っていくことを言っているのである。

 皆さんのなかに「からし種一粒ほどの信仰」が宿ることを望む。

 

4.話し合い②(感想と疑問)

It「僕は代わりにいけにえにされる雄羊が可哀そうだと思ってしまいました。」

寮長「古典は、中心主題以外のところはいい加減ですので、あまり細部にこだわる読みは的外れになることが多い。ここで雄羊にこだわるのは読みとしてはやはり的外れですが、決してばかにしえない視点です。なぜなら、たくさんの動物をいけにえにするイスラエルの宗教の在り方は決して正しいものとは言えないからです。」

So「イサクを殺そうとするアブラハムに心の痛みはあったのでしょうか。もし神への絶対的信頼があったなら、そのような痛みなどなかったのでしょうか。」

寮長「私はやはりあったと思います。神への絶対的信頼は、逆説的にも人間的な思いがあればこそ、持てるものでから。人間的な常識や感情があればこそ、それを超えたものへ目が開かれ、信仰が生まれる。絶対的神信頼も同じで、それは決して無感情人間になって機械的に神に従うということではないはずです。」

So「もう一つ。からし種一粒ほどの信仰を持つには、やはり私たちの方に人間を超えたものを感じる感性のようなものが必要なのではないでしょうか。」

寮長「そうだと思います。そうであればこそ、この寮ではセンス・オブ・ワンダーを重んじる方へと舵を切っているわけです。」

Ya「僕には、最後の雄羊の備えは、イエス・キリスト到来の予示のように思われました。」

寮長「この記事の筆者はこの雄羊をもってキリストの到来を暗示しようなどという気持ちは、一切なかったでしょう。にもかかわらずこの雄羊は明らかにイエス・キリストを指し示しています。聖書の真の筆者が神の霊であると言われるゆえんです。」

Ma「イサクの人権が踏みにじられているようにも見えますが、そうとも限らないように思われました。というのも、神が羊を備えて下さるというアブラハムの言葉通り、神は雄羊を備えてくだった。この展開を見たイサクは、心から安堵したと思います。」

寮長「これは新しい視点です。確かにそういうこともあるでしょう。父と神の間のやり取りを見て、イサクにも神への信頼が芽生えたのではないでしょうか。今日も実に充実した時間を持つことができました。皆さん、ありがとうございました。そして主の導きに感謝いたします。」