生物と人間(小舘)

2025年4月13日春風学寮日曜集会

創世記

1:20 神は言われた。「生き物が水の中に群がれ。鳥は地の上、天の大空の面を飛べ。」

1:21 神は水に群がるもの、すなわち大きな怪物、うごめく生き物をそれぞれに、また、翼ある鳥をそれぞれに創造された。神はこれを見て、良しとされた。

1:22 神はそれらのものを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、海の水に満ちよ。鳥は地の上に増えよ。」

1:23 夕べがあり、朝があった。第五の日である。

1:24 神は言われた。「地は、それぞれの生き物を産み出せ。家畜、這うもの、地の獣をそれぞれに産み出せ。」そのようになった。

1:25 神はそれぞれの地の獣、それぞれの家畜、それぞれの土を這うものを造られた。神はこれを見て、良しとされた。

1:26 神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」

1:27 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。

 

序 人間の知恵と神からのメッセージ

 今回は生物と人間について学ぼうと思うが、その前に一つ片づけておくべき問題がある。それは聖書の本当の作者は誰かという問題である。聖書を直接記した筆者たちはもちろん人間である。しかし彼らは、決して自分の考えを記そうと思ったわけではない。彼らは、神から啓示された神の考え、すなわち神からのメッセージを記そうと思ったのだ。だから聖書の本当の作者は、それらを直接書いた人間たちではなく、彼らにメッセージを啓示した神であるということになる。つまり聖書は、神の存在を前提として、神のメッセージを伝えようとする書物なのである。

 そこで一つ大きな問題が生じる。聖書のどこからどこまでが神からのメッセージであり、聖書のどこからどこまでがそれを直接記した人間の知恵かという問題である。聖書の中心にはもちろん神からのメッセージが横たわっているわけだが、それらを直接記したのは人間だから、聖書には彼らの人間的知恵も含まれている。そして彼らの人間的知恵は、彼らの生きた時代の限界に満ちたものであるがゆえにほとんどが間違った知恵である。つまり、聖書には真理ともいうべき神からのメッセージと、明らかに間違っている人間的知恵とが併存しているのだ。だから、聖書を読む場合には、どこからどこまでが本当の作者である神のメッセージであり、どこからどこまでが筆者の人間的知恵かを識別しながら、読む必要がある。

 それでは私たちは両者をどのように区別していけばよいのだろうか。そこで役に立つのが前回学んだ正解の出る問題と正解の出ない問題の区別である。正解の出る問題とは数的に正解を導き出せる問題であり、ざっくりと言い換えれば、科学的に正解の出る問題である。このような問題に対する答えについては、科学や数学に任せておけばよいのであり、わざわざ神がメッセージを啓示する必要がない。したがって、科学的に正解の出る問題について答えを述べている部分は全て筆者の人間的知恵であるとみなすことができる。対して、科学的に正解の出ない問題に対する答えは、それこそ神だけが確答することができる答えであり、したがって神自身が人間に伝えようとしたメッセージ(真理)であるとみなすことができる。つまり、科学的に答えの出る問題について語っている部分は人間的知恵であり、科学的に答えの出ない問題について語っている部分は神からのメッセージであるとみてほぼ間違いはないのである。

 例えば今日の個所。ここには、神は初めに水中の生物を造り、次に空の鳥を造り、その次に地上の生物を造り、最後に人間を造ったと記されている。初めにどの生物が生まれ、最後にどの生物が生まれたか、そのような順序については科学が説明できることであり、神から教えてもらう必要などないことである。したがってこのような主張は間違った人間的知恵であると判定できる。しかし今日の個所の底流を流れる中心主張についてはどうであろうか。

今日の個所の中心主張は、生命の起源は神であり、全ての生物は神によって創造されたということである。これはまさに生命の起源が何であり、全ての生物がなぜ生み出されたかという正解の出ない問題に対する答えではないか。

これらの問題に対する答えは進化論をもってしても出すことができない。進化論は、それぞれの生物は適者生存や自然淘汰の法則に従ってアメーバから進化したのだと説明する。しかし、それはあくまでもプロセスの説明であって、生命の起源は何かとか、生物はなぜ生み出されたのかいった根源的な問いに対する答えではありえない。したがってこれらはまさしく正解の出ない問いなのである。ところがこの問いに対して今日の個所は、神こそが生命の起源であり、神が何らかの目的をもってすべての生物を創造したと答えるのである。これはまさしく正解の出ない問題に対する答えであり、したがって神からのメッセージであるとみなすことができるものなのである。

このように、聖書を読むときには、浅はかな人間の知恵と深遠な神からのメッセージを区別しながら読んでいく必要がある。そして両者を区別する基準は、科学的に正解の出る問題に対する答えか科学的に正解の出ない問題に関する答えかなのである。この基準に基づいて両者を区別したうえで、人間的知恵についてはこれを無視し、神からのメッセージについてはこれと真剣に向き合う。これこそが、聖書を読むうえで最も大切なことなのである。だから、くれぐれも科学的に答えが出る問題に対して聖書に答えを求め、そのような問題に対して聖書が間違った主張を述べているからといって聖書を批判しないでほしい。それは魚屋に野菜を買い求め、野菜がないからといって魚屋に苦情を言うような行為なのだから。

 

1.生命の起源

 そこで今日の個所の提示するメッセージの吟味に入ろう。神こそが生命の起源であり、神がすべての生物を創造したという神からのメッセージを私たちは受け入れることができるだろうか。前回学んだように、正解の出ない問題に対しては価値観的思考で応答するしかないので、価値観的思考で考えてみよう。価値観的思考とは、第一には倫理的に、第二には感性的に、第三には打算的にその主張の価値を検討してみることであった。そこで先ずは倫理的にこのメッセージを検討してみよう。もし全ての生物が神(正しい目的を持った霊的存在)によって創造されたのだとすれば、すべての生物には正しい目的があり、意義があることになる。ハエだとゴキブリだとか蚊だとか、人間にしてみればおおよそ無意味としか思えないような生物にも正しい目的があり、彼らの生命活動には倫理的な意義があるということになる。つまりこのメッセージによれば、すべての生物は何らかの正当性をもって生きているのであり、正当性をもたない生物などこの世界には存在しないということになるのである。だとすればこのメッセージは、倫理的にみて受け入れてしかるべきものであると思わないであろうか。

感性的視点から考えるとどうであろうか。すべての生物の創造者が神であるとするならば、それぞれの生物の生命は本当に尊いものであると思われてくる。いや、それどころではない。すべての生物の生命には神聖な尊厳があり、敬うべきものであると思われてくる。そして彼らを下等動物と見なして殺すことなどもってのほかの罪悪であるということになる。つまり、すべての生物が神によって創造されたというメッセージは全ての生物の生命を最高に尊いものとして輝かせるものなのである。だとすれば、このメッセージは受け入れるべきものであると思わないだろうか。

打算的に考えるとどうであろうか。もし全ての生物が神の創造によるものだとすれば、彼らの全ては神の目的に役立つはずのものであり、彼らの全てに独特の役割があることになる。つまりすべての生物は相互に密接に関係し合い、助け合っているということになるのである。このように考えて他の生物を大切にしていくならば、それは、巡り巡って私たち人類に生存と繁栄をもたらすのではないだろうか。逆にもし全ての生物が神の創造によらないものだとすれば、彼らは全て偶然の産物であり、全ての生物には何ら独特の役割などないことになる。つまりいくら彼らを粗末に扱い絶滅させたってかまわないことになる。このように考えて他の生物を軽んじ絶滅させていくならば、それは、巡り巡って私たち人類に絶滅をもたらすのではないだろうか。事実、人類は今や地球に元々あった生態系では自身の生存を維持することができなくなっており、家畜であるとか遺伝子を組み替えられた植物であるとかいった人口的に作られた生物を食することでどうにか生存を維持している状況にある。このような結果は、人類が全ての生物は神によって創造されたという神からのメッセージを軽んじ、他の生物を粗末に扱ってきた結果だと思わないだろうか。ちなみに人類は今までに900種以上の動物を絶滅させ、現在もなお一日につき少なくとも50種以上の生物を絶滅させていると計算されている。これは完全な生態系の破壊である。このような私たちの態度は必ずや私たち自身にも破滅をもたらすと思われる。

 というわけで、価値観的思考(倫理的、感性的、打算的価値判断)によって考えるなら、神による生物の創造というメッセージを私は受け入れざるを得ない。いや受け入れないならば悲惨な結果になるとさえ考える。さて、みなさんはどう思うであろうか。

 

2.人間と生物

 ところで今日の個所には、神こそが生命の起源であり、神がすべての生物を創造したというメッセージの他にあと二つ重要なメッセージが込められている。一つは、人間は神に似た存在として創造されたというメッセージ、もう一つは神がその人間に他の生物の支配をゆだねたというメッセージである。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう」という部分にそれらのメッセージが込められている。(ちなみに神が自分を「我々」と呼んでいるのは、神が複数存在するからではなく、ヘブライ語の畏敬複数という語法のゆえである。)

人間は神に似た存在として創造されたというメッセージは「人間とは何か」という正解の出ない問題に対する答えであり、神がその人間に他の生物の支配をゆだねたというメッセージは「人間と他の生物との関係はいかにあるべきか」という正解の出ない問題に対する答えであるから、これらはいずれも神からのメッセージであるとみなしてよいだろう。したがってこれらのメッセージとはじっくりと向き合っていく必要があるのである。

というわけで今回の残りの時間は、「人間は神に似た存在として創造された」というメッセージについて深く考えてみたい。

 

3.人間は神に似た存在として創造された

 人間が神に似た存在として創造されたとはいったいどういうことであろうか。いったいどのような点で人間は神と似ているのであろうか。もちろん形が似ているのではない。神は霊的存在だから、人間が神と似た形に創造されたなどということはありえない。もし神が霊的存在であるとするならば、神に似ているということは神に霊的に似ているということである。では人間が神に霊的に似た存在として創造されたとはいったいどういうことであろうか。

人間と他の全ての生物との違いに注目すれば理解できる。人間と他の生物の決定的な違いとは何であろうか。すぐに思いつくものは言葉である。しかし言葉を発するその大元とは何であろうか。それはもちろん人格(自由意志を持つ主体)である。そうなのだ。人間と他の生物との決定的な違いは人格の有無である。他の生物たちは本能に従って生きている。彼らはいわば本能の奴隷なのである。ところが人間はそうではない。本能に反することを自由に選ぶことができる。言葉を駆使して、本能よりも尊いことについて考え、本能以外の行動を自由に選ぶことができる。このような性質を自由意志と言い、そのような自由意志の行為を選ぶ統一的な主体を人格と言う。人間が他の生物と決定的に異なるところは、自由意志を行使することができる人格を持っているということなのである。

だとすれば、人間が神に霊的に似た存在として創造されたということがどういうことかも分かってくる。それは人間が神のように自由意志を持った人格として創造されたということなのだ。

 

4.本能以外の道

 それでは、自由意志によって選び取ることができる本能以外の行為とはいったいどんなものであろうか。食欲とか性欲とか睡眠欲とか快楽欲とか保身欲とか、そういった自分を満足させるための欲望こそが本能であるから、本能以外の行為とはこの欲望の対極にある行為であるということになる。では自分を満足させるための欲望の対極にある行為とは何であろうか。それはもちろん他者のために自分を犠牲にする行為であり、すなわち愛である。そうなのだ。自由意志によって選び取ることのできる行為の最たるものは、愛なのである。それは自分の好きなものや身内を大切にする愛情のことではない。見ず知らずの者や敵でさえも大切にする真に自己犠牲的な行為である。だから、愛こそが自由意志によって選び取ることができる、本能以外の行為の最たるものなのだ。したがって、人間が自由意志を持つ人格として創造されたということのさらに深い意味は、人間は自由意志によって愛を選び取ることのできる存在として創造されたということなのである。

 ここまで学ぶなら、人間は神に似た存在として創造されたというメッセージの奥に隠されいているさらに深いメッセージが分かってくる。神は人間に対して自由意志によって愛を選び取りつつ生きよと訴えているのである。人間は神と同じように自由意志を行使できる人格として造られた。だとすれば人間は自由意志によって本能以外の行為を選び取りながら生きるべきである、いやそれどころか、本能の対極である愛を選び取りながら生きるべきである。それこそが人間らしい生き方であり、本能の奴隷としてき続けることは決して人間らしい生き方ではない!と神はこの箇所を通じて訴えているのである。

 このように言うと、神は人間に極めて困難なことを要求しているように思われるが、決してそうではない。そもそも愛の行為は別に特殊な行為ではない。私たちが日常的に行っている様々な行為も、他者のために自分を犠牲にするような行為であるならば、それは愛の行為なのである。例えば、世の中には様々な行為がある。ビジネス、学問、芸術、スポーツ、教育、料理、掃除、洗濯・・・。どんな行為であれ、もしそれを自分のために行っているならば(自分の名誉や金儲けや修行のためにやっているとするならば)、その行為は依然として本能に束縛された行為である。しかしもしそれを他者のために、他者の幸せを目的として行っているのなら、その行為はもはや本能から解き放たれた、愛の行為である。つまり、愛を行う機会は私たちの日常生活のいたるところに転がっており、私たちはさまざまな形でそれを実践することができるのである。

ついでながら、自由ということについても理解を深めておこう。人は一般に好き勝手に振舞うことが自由であると考えている。好きなように食べ、好きなように遊び、好きな所へ行くことができる・・・そのようなことを自由と考えている。しかし、聖書によればそれらは単に本能に束縛される行為でしかない。聖書の説く真の自由とはまさしく今述べたようなこと、すなわち本能の束縛から解き放たれて、愛を選ぶということなのだ。この違いを皆さんには、よくよく認識しておいてもらいたい。

そこで人格に話を戻すなら、人格とは、自由意志によって愛を選ぶことができる主体であるということができる。思い切り簡単に公式化すれば、人格=自由=愛である。聖書の冒頭で神は、このような途方もないメッセージ(真理)を開示し、自由意志を持つ人格として創造されたのだから、本能ではなく愛を選び取って生きよと呼びかけているのである。

 

5.人格の個性と成長

 すると一つ疑問が生じる。人格が自由意志によって愛を選ぶことのできる主体であるとするならば、人の人格は全て同じなのであろうか。確かに、自由意志によって愛を選び取る主体という意味においては全ての人の人格は同じである。ところが、愛に無数の形があるように、愛を選び取る人格の形も無数にある。つまり人格は、自由意志によって愛を選び取る主体という意味においては皆同じだが、その具体的な形においては千差万別であり、個性的なのである。例えば、Aさんは病気を治すという愛の形を選んで医者になり、Bさんは食糧を供給するという愛の形を選び農家になったとしよう。この場合どちらの人格も自由意志によって愛を選び取った主体であるという意味においては同じである。ところがその人格の形は、全く異なるものとなっていく。Aさんの人格の形は医者らしいものとなっていき、Bさんの人格の形は農家らしいものとなっていくのである。これこそ人格の個性である。

だとすると人格の成長と呼ばれるものがどういうことかも分かってくる。それは、簡単に言えば、自分なりの愛の人格の形を確立していくことである。自分なりの愛の形を選び取り、自分なりの愛の人格の形を確立していく、これこそが人格的に成長するということである。

 そこで聖書に話を戻しつつまとめるならば、神は自分に似せて人間を創造したというメッセージの意味は、神は自由意志によって愛を選び取る主体として人間を創造したということであるのだが、そこにはさらに深いメッセージが込められている。すなわち、自分なりの愛の形を選び取り、自分なりの愛の人格の形を育んでいけという神のメッセージが込められているのである。これこそが人間が目指すべき人間らしい生き方であるという神のメッセージが込められているのである。

 さて皆さんはこのメッセージを受け入れることができるだろうか。再び価値観的思考で考えてみてほしい。

 

話し合い

Ku:僕が洗礼を受けた教会はバプテスト派であり、寮長と全く反対のことを教えていました。聖書の言葉は全部正しいのであって、間違っているところなどないと。

寮長:それだと随分無理して解釈しなければならなくなるでしょう。聖書には、科学的にどう見て間違っている個所たくさんあり、聖書内でも相対立する矛盾したことをたくさん言っているのですから。

Ku:それでも聖書に書いてあることを全て信じることが重要だと思います。

寮長:明らかに科学的に間違っていたり、相互に矛盾していたりすることを信じるということには、そもそも無理があるように思われるのですが、それを信じられているということはやはり神の働きであり、素晴らしいことだと思います。私のような無教会キリスト者とバプテスト派のような原理主義キリスト者の話をともに聞いて、信仰を養っていってください。

It:「神が人間を自由意志を持った人格として創造し、愛を選び取るように呼び掛けている」というメッセージは、受け入れることができます。しかし、神が人間に他の生物の支配を委ねたというところは、どうも受け入れられません。

寮長:これは大問題なので、次回に改めて扱うことにしましょう。ただ今ひとつだけ言っておきたいことは、ここに支配という言葉を用いたのは筆者の人間的知恵だと思います。神様はもっと別のことを伝えたかったのだと思います。

Ry:だから最近の聖書では、「支配する」ではなく「治める」とか「管理する」とかいう言葉で訳しています。

寮長:いささか苦しい訳ですが、よりよい訳だと思います。

It:それから僕は、人間や今の生物が生まれたり、生き残ったりしているのはただの偶然だと思っています。

寮長:科学だけで考えるとそうなります。しかし聖書を通じて神様はそれとは異なるメッセージを伝えて、そのような生物間を持っていたら破滅に向かってしまうよと警告しているわけです。しかしどちらを取るかは、もちろん君の自由です。もともとこれは正解のない問題に対する答えなのですから。

So:人格=自由=愛というメッセージは受け入れることができました。しかし、愛と本能をきっぱり分けてしまうところがどうも納得できません。現実にはほとんどの人が、愛と本能を両立させて、Win Winを追求しようとしています。僕もそうなのですが、それではだめなのでしょうか。

寮長:一般社会ではそれでよいのですが、聖書はどうもそれをよしとしていないようです。自分のために生きる本能は罪と密接に関係していますから。しかしこれもまた大問題ですので、罪の問題が出てきたときに深く検討しましょう。

Ya:僕は遺伝子組み換えを研究しているので、今日のメッセージには心を揺さぶられました。本当は、このようなテクノロジーに頼るべきではないのだという視点を持ち続けたいと思います。また自由についても心を揺さぶられました。大学では、自由とは他者に迷惑をかけない範囲で好きなように振舞うことだと習いました。しかしこれにはどうも納得がいきませんでした。しかし今日の自由の解釈は本当に納得できました。

寮長:大学で習う自由の解釈は主に法学的視点からなされるものです。当然それは法的権利の射程しか含んでいないので自由の本質にまでは踏み込んでいない。自由をこのように本質的に論じられるのは霊的射程までも含む聖書だけですね。

Sa:愛と本能を切り離して、愛だけを実践していくことは、現実社会では難しいのではないでしょうか。現実社会は、人間の本能的欲望に根差す資本主義の原理で動いていますから。

寮長:その通りです。会社に就職してしまえば、愛の実践を目指すような人は、ばかにされるか解雇されてしまうでしょう。にもかかわらず、いやだからこそそこに神様は敢えて現実社会とは異なるメッセージを伝え、このままでは破滅してしまうぞと警告しているのです。

Mi:僕も支配という語が気になりました。上智大学では、そこを「責任を持つ」と解釈していました。僕はこの解釈が非常に気に入っています。

寮長:それはいい解釈ですね。それこそが元々の神様のメッセージだったかもしれません。

Ko:「森と人間」というドキュメンタリーで、マタギが森と人間の仲介役になって、共生に役立っているのを見ました。人間が他の動物に対して責任を持つということの実例を見た気がします。

寮長:神様はきっとそういうことの大切さを伝えたいと思い、今日の個所のような言葉を残したのだと思います。