湖の上を歩け

湖の上を歩け

2022年6月12日春風学寮日曜集会

マタイによる福音書

14:22 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。

14:23 群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。

14:24 ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。

14:25 夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。

14:26 弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。

14:27 イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」

14:28 すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」

14:29 イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。

14:30 しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。

14:31 イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。

14:32 そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。

14:33 舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。

 

序 ヨハネの死とパンと魚の奇跡

そもそもこの記事は事実なのであろうか。私は事実であるかどうかはあまり重要ではないと思っている。原理主義的解釈以外の人たちはみなそう考えている。なぜなら最も重要なことは、その記事が何を伝えようとしているかをとらえることであり、このことは記事が事実であろうとなかろうと同じであるからだ。仮にこの記事が事実であったとしても、その事実が何を意味するかを私たちは探らなければならないし、事実でないとしても、その物語が何を意味するかを探らねばならない。事実であろうとなかろうと、読者のやるべきことは同じなのだ。そのようなときに事実かどうかにこだわるならば、聖書を読むという行為が前に進まなくなってしまう。

そこでこの記事が何を意味するか探ってみよう。この記事の前には、パンと魚の奇跡の記事があり、さらにその前には洗礼者ヨハネの死の記事がある。このような順序に目を向けてみると、これらの記事が全体として何を語ろうとしているのかが解ってくる。

ヨハネはいったいなぜ殺されることになったのか。その根本的原因は、自治領主ヘロデの性的乱れを面と向かって批判したからであった。

14:3 実はヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアのことでヨハネを捕らえて縛り、牢に入れていた。

14:4 ヨハネが、「あの女と結婚することは律法で許されていない」とヘロデに言ったからである。

14:5 ヘロデはヨハネを殺そうと思っていた・・・。

ここにある通り、ヘロデは兄弟の妻を無理やり奪い、自分の妻としていた。そのことをヨハネは厳しく非難した。このためにヘロデはヨハネを捕らえて牢獄につなぎ、結局は殺してしまうのである。独裁者はいつの時代もわがままなものだ。

この記事はいったい何を意味しているのであろうか。ヨハネは救い主を迎える準備を整えるために自身の生涯をかけた人物であった。ヨハネが無数の人々に洗礼を授けたのも、ヘロデの性的乱れを厳しく告発したのも、すべては旧約聖書を通じて預言されている救い主到来の準備を整えるためであった。だとすれば、ヨハネが殺されたという記事はその準備の時代が終わったということを意味するのではないだろうか。

そのようなヨハネの死の記事の直後にパンと魚の奇跡の記事が載っている。だとすれば、この奇跡の記事は、その救い主の時代が始まったことを意味しているのではあるまいか。つまり、ヨハネの死の記事は、救い主を迎える準備の時代が終わったことを示し、パンと魚の奇跡の記事は救い主到来の時代が始まったことを表している。そして事実、群衆たちはこの出来事を通じてイエスこそは救い主であると確信した。なぜなら、イエスは大預言者エリシヤやモーセが行ったのとおなじような奇跡をさらに大きなスケールで行ったのだから。

さて、以上の二つの出来事を記した記事の後に今回の個所が続く。この連続を考慮に入れるなら、この箇所のメッセージがある程度推測できる。恐らくそれは救い主のもたらす救いがいかなるものかを示すであろうと。果たしてその通りか、以下探っていこう。

 

1.救いはどのようにもたらされるか

14:22 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。

14:23 群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。

・イエスはなぜ群衆を解散させたのであろうか。この集まりが暴動に発展するのを避けるためという説が有力である。確かにそうであろう。パンと魚の奇跡を目の当たりにした群衆は興奮状態に陥り、イエスを王としてかつぎあげ、ヘロデやローマに対して反乱を引き起こそうとした可能性が高い。そこでイエスは、何としても群衆から離れる必要があった。しかし弟子たちと共に行動すれば、また群衆が追ってくるであろう。そこでイエスは弟子たちだけを船に乗せて群衆から引き離し、他方で自身は群衆をなだめた。恐らくイエスは、自分には王になるつもりはないし、ローマやヘロデと戦うつもりもないと打ち明けたであろう。これを聞いた群衆はがっかりして解散したのかもしれない。(ゼレンスキーとは異なる。)

・だとするとこの後イエスが一人山に登って神に祈る理由もわかってくる。イエスは孤独であった。群衆も弟子たちもイエスを王として担ぎ上げ、ヘロデやローマを打ち倒し、この世に自分たちの国を築こうとしている。しかしイエスが築こうとしている神の国はそのように人間的なものではない。イエスの目指す神の国はたとえ話で明らかなように神の赦しと裁きによって築かれる神の愛と義が行き渡る状態なのだから。人間が支配する国ではないのだから。今、イエスを理解する者は誰もいない。であればこそイエスは神に祈る必要があった。神に助けを求める必要があった。イエスも人間の弱さを持つ存在なのだから。(イエスは人間の弱さを背負って生きる使命を負わされている。)

14:24 ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。

・弟子たちがこぎ出したのは、ガリラヤ湖であり、周囲50㎞ほど(猪苗代湖とほぼ同じ大きさ)の湖であった。1スタディオンは185メートルだから、数百メートル沖で弟子たちの船は強風に襲われたことになる。ここで注目すべきことは、舟の中にイエスがいないことである。イエスは彼らにとって安心の源泉であった。イエスがいればどんな難局も乗り切れると彼らは信じていた。ヘロデやローマにも打ち勝てると信じていた。そのイエスがいないところで、彼らの船は強風に襲われる。弟子たちは恐らく完全なパニックに陥ったことであろう。ここがこの記事の意味を理解する上での胆になる。

14:25 夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。

14:26 弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。

14:27 イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」

・強風でパニックに陥っているところに、湖の上を歩いている人を見れば、それは恐怖で叫び声をあげることになるであろう。悪霊か死者の亡霊が現れたのだと。しかしそれは、彼らを救いにやって来たイエスであった。

・この記事はいったい何を伝えようとしているのであろうか。一般には、イエスの救いは著しく困難な状況の中で、全く予想を超える形でもたらされるということを伝えようとしていると考えられている。

≪私見≫

・私もこの解釈に賛成である。イエスの救いは、私たちの予測を超える形でもたらされるので、時には恐ろしくさえ感じられる。パンと魚の奇跡といい、癒しの奇跡といい、復活といい、そのようなことが目の前で行われたならば、それは喜びと共に恐怖に襲われるであろう。いったいこのようなことをやってのけるイエスとは何者なのかと。しかしイエスの救いや恵みはそのような形でやってくる。私たちの予測をはるかに超える形でやってくる。その救いは時には恐ろしくさえ思われる。そのことをこの記事は伝えようとしているだと私も思う。(就職の体験)

 

2.信仰の力

14:28 すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」

14:29 イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。

・ペトロは言う。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」通説では、この言葉はペトロの衝動的で軽率な性格を表していると説明されている。なぜなら、それは自分もイエスのような奇跡的行為を行いたいという自己神格化衝動のあらわれだからである。

≪私見≫

・しかし、そのような説明では私は納得できない。なぜなら、イエスがこのようなペトロの申し出をしかりつけずに、むしろそれに協力しているからである。もしイエスが協力しているのだとすれば、このペトロの申し出は肯定的にとらえられるべきであろう。

・すると疑問が生じる。いったいイエスはなぜこのようなペテロの申し出に協力したのであろうか。それは恐らく、イエスのことを信じるならば、誰でも自分の力を超えることができるようになると教えたかったからではないか。イエスを信じ、その教えに忠実であろうとするなら、私たちは確かに自分の実力の数倍の仕事をすることができるようになる。逆に、イエスを信じずにその教えに逆らおうとするなら、実力に見合った仕事をすることですらできなくなる。いや、それどころか実力がマイナスの結果を生じさせることすらある。これは、真理であると私は思っている。イエスはここで、そのことを伝えようとして、ペトロの湖上歩行に協力したのではないか。

・だとすれば、ペトロの言葉は全く否定的にとらえるべきものではない。それは、イエスへの大きな信頼の結果であると見るべきであろう。ペトロは思ったのだ。イエスならきっとどんなことでもおできになると。

 

3.叫びの意味

14:30 しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。

・「強い風に気付いて怖くなり、沈みかけた」とは、現実の状況が悪くなり、イエスが信じ切れなくなったために、事態が一層悪化していったことを表す。たとえイエスを信じ、イエスの教えに忠実に生きていたとしても、厳しい現実は襲い掛かってくる。厳しい現実に襲われると人はイエスが信じられなくなってしまう。例えば、コロナが長く続いたり、ロシアの侵略が長く続いたりすると、イエスのことなど信じられなくなってしまう。そのようなときにイエスを疑い、イエスの教えに反するような行動をとってしまったら、事態はますます悪化する。悪化するどころか、破局を迎えてしまうかもしれない。この言葉は、そのことを伝えようとしている。

・だとすれば、この言葉には次のようなメッセージが含まれていることになる。難局を乗り切る最高の方法は、絶えずイエスを信じ、イエスの教えに従い続けることであると。厳しい現実を見つめることは大切である。しかしそれだけに目を向けていると、人は希望も理想も失ってしまう。力こそすべてだと思うようになってしまう。そうならないためには、厳しい現実に目を向ける以上の熱心さでイエスに目を向ける必要がある。

・「主よ、助けてください」というペトロの叫びは、真の信仰を表していると言う学者が多い。イエスを信じ、イエスの教えに従おうとするのが信仰の基本であるけれど、実際にはほとんどの人間がそのような信仰を保つことができない。厳しい現実に襲われるとほとんどの人が疑いを抱いてしまう。そのようにして現実の厳しさに打ち負かされそうになったとき、「主よ、助けてください」と叫ぶ。これこそが真の信仰であると彼らは言う。

≪私見≫

・その通りだと思う。信仰とは、基本的にはイエスを信じてイエスの教えに従おうとすることであるけれど、そのもう一段深い意味は、そういう信仰が持てない自分の罪と無力さを認め、イエスに助けを求めることだからである。信仰者は自分が正しいと考える者ではない。それは宗教者である。信仰者とは、自分の罪性と無力さを全面的に認め、イエスに頼らなければ生きられないと認めた者のことである。

 

4.弱きものを赦す救い

14:31 イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。

・もし以上のような解釈が正しいとすれば、「イエスは手を伸ばして捕まえ」たという言葉は、次のことを意味する。イエスの本当の救いは、自分の罪性と無力さを全面的に認め、イエスに頼らなければ生きられないと認めた者に臨むということである。

・「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」という言葉は、基本的な信仰が薄いことへの𠮟責である。信仰の基本は、イエスを信じ、イエスの教えに従うことであった。そのような信仰を保てないことをイエスは良しとしているわけではない。そのような信仰を保てないことは、やはり悪いことであり、破滅への道であるということをきちんと伝えているのである。しかし、そのような信仰を保てない者でも、自分の罪性と無力さを認めて助けを求めるなら、イエスは救いの手を差し伸べる。これが、この箇所のメッセージである。

≪私見≫

・そこで冒頭の視点に戻り、ヨハネの死の記事とパンと奇跡の記事との連続からこの記事全体の意味を考えてみよう。ヨハネの死の記事は救い主を迎える準備の時代の終わりを表していた。対してパンと魚の奇跡の記事は救い主の時代の始まりを表していた。このような脈絡からすれば、湖上歩行の記事は、救い主のもたらす救いがどのようにもたらされるかを伝える記事であろうと推測できると冒頭に述べた。それで、記事を詳しく学んだ結果はどうであったか。まさしくその通りであったではないか。

・以下、イエスのもたらす救いについてこの記事が伝えようとすることをまとめてみよう。①イエスの救いは、極めて困難な状況の中で、全く予想を超えた形でもたらされる。②イエスの救いは信じる者に自分の実力を超える仕事をなさしめる。③イエスの救いは自分の罪と無力さを認め、助けを求める者にもたらされる。

・もちろんこれらがイエスのもたらす救いのすべてではない。しかし、その基本であることは確かである。湖上歩行の記事はまさしくイエスのもたらす救いがどのようなものか、その基本を表しているのである。

・では、読者には何が求められているのか。言うまでもなく、その救いを体験することである。