原罪の露呈(小舘)

2024年12月8日春風学寮日曜集会

聖書 マタイによる福音書27:27-44

讃美歌 98、262

 

1.解説

①ローマ兵の憎しみ

27:27 それから、総督の兵士たちは、イエスを総督官邸に連れて行き、部隊の全員をイエスの周りに集めた。

27:28 そして、イエスの着ている物をはぎ取り、赤い外套を着せ、

27:29 茨で冠を編んで頭に載せ、また、右手に葦の棒を持たせて、その前にひざまずき、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、侮辱した。

27:30 また、唾を吐きかけ、葦の棒を取り上げて頭をたたき続けた。

27:31 このようにイエスを侮辱したあげく、外套を脱がせて元の服を着せ、十字架につけるために引いて行った。

*ローマ総督ピラトによる審問は彼の官邸に隣接するエルサレム神殿の広場で行われたが、イエスの十字架刑が決定すると、「総督の兵士たちは」イエスを総督官邸に連れて行った。いったいなぜか。イエスをリンチ(私刑)にかけるためである。神殿にはユダヤ人が大勢いる。そのような場所でイエスをリンチにかけたりすれば、さすがに暴動が起きかねない。イエスに死刑判決を下したのはユダヤ人であるけれど、さすがにユダヤ人の前でユダヤ人をリンチにしたら、彼らが騒ぎ出すであろう。そこで彼らは、イエスをこっそりリンチにかけようとして総督の官邸に連れて行った。

・官邸に到着すると兵士たちは部隊の全員を集めた。当時官邸にいた部隊の全員とは、600人であるといわれている。つまりこの時イエスは、600人のローマ兵に取り囲まれてリンチを受けたのだ。想像を絶する恐怖が彼を襲ったであろう。

いったいなぜローマ兵はイエスをリンチにかけようとしたのか。それは彼らがユダヤ人の反乱の首謀者たちを心より憎んでいたからだ。ローマ人は寛容で知られる。一番重要な点さえ譲ってくれるなら、ローマ人はいくらでも外国人の自由を許した。だから、ローマ帝国はほとんどの異民族と仲良くやっていくことができた。いわゆるパックスロマーナはかくして成立したのだ。ところがそのような中にあって、ユダヤ人だけは頑として言うことを聞こうとしなかった。ローマ帝国がいくら譲歩しても、しばらくたつと必ず反乱を引き起こす。その反乱を鎮圧するためにローマ帝国は大きな犠牲を強いられた。だからローマ兵は偏狭で頑迷なユダヤ人のことが大嫌いであり、特に反乱の首謀者たちに対しては、並々ならぬ憎しみを抱いていた。

・そのようなところへ、ユダヤ人の王と言われる反乱の首謀者らしき男が逮捕され、死刑判決を受け、その身柄が彼らにゆだねられたのだ。彼らはこのときとばかりに日ごろからの恨みを晴らそうと思ったにちがいない。であればこそ、ローマ兵たちはありとあらゆる工夫を凝らしてイエスを辱めるリンチを敢行したのだ。

*ではそのリンチはどのようなものであったか。「赤い外套」というのは、王の服装に似せるための工夫である。王の衣装は本来紫であるが、都合よく紫の服があろうはずがない。だから、紫に近いありあわせの赤い外套をイエスに着せたのだ。いったいなぜか。イエスをユダヤ人の王に見立てて侮辱するためである。だからこそイエスは、いばらの冠をかぶせられ、王笏(scepter)に見立てた「葦の棒」を与えられた。「ユダヤ人の王、万歳」という言葉はイエスに向けられたものというよりは、ユダヤ人全体に対する侮辱である。彼らはイエスのことを反乱の首謀者であると思い込んでいるから、ユダヤ人への憎しみのすべてをイエスにぶつけているのだ。

・精神的虐待がひとしきり終わると肉体的虐待へと移った。「唾を吐きかけ、葦の棒を取り上げて頭をたたき続けた」のである。

・それでもイエスは逆らわない。じっと黙ってリンチに耐えている。イエスの言葉なき声が聞こえてくるようではないか。「なぜあなたは私を痛めつけるのか、なぜあなたは私を十字架にかけようとするのか」と。

②キレネ人シモン

27:32 兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた。

*心行くまでリンチを行ったローマ兵たちは、イエスを総督邸宅から引き出し、死刑場であるゴルゴタの丘へと向かわせた。ゴルゴタへの道のりでは、受刑者に自身の十字架を担がせ、歩かせるのが習わしであった。しかし、このときのイエスに一人で十字架を担ぐ力はない。彼はすでに鞭うたれ、素手や棒で殴られるなどして体をぼろぼろにされていたのだから。そこでローマ兵たちは、たまたま通りかかったキレネ人のシモンという男に十字架担ぎを手伝うよう命じた。

・シモンにしてみればいい迷惑である。キレネと言えば、北アフリカのリビア東岸である。そこには多くのユダヤ人が移住していたらしい。シモンはその一人であった。そのような遠方から、彼は過ぎ越し祭を祝うためにはるばるやってきたのだ。それなのにイエスと出会ったばっかりに十字架を担がされる羽目になってしまった。この不運を彼は呪ったことであろう。「神よ、なぜ私をこのような目にあわせるのですか」と。

・ここで注目すべきことは、シモンが単にイエスの十字架を担っただけでなく、イエスと共に侮辱を受けたということである。イエスは十字架を担いで歩く間中すべての人々から侮辱された。しかもその侮辱のほとんどはいわれのない侮辱である。その侮辱をシモンはともに受けたのである。

・そしてぜひとも指摘しておかなければならないのは、この体験のゆえにシモンは後にキリスト者になったということである。マルコによる福音書(15:21)には、シモンは「アレクサンドロとルフォスの父」であったと記されており、ローマ人への手紙(16:13)にはルフォスは熱心なキリスト者であったと記されている。つまりシモンはこの後キリスト者となり、その信仰をルフォスに伝えたのだ。

いったいなぜシモンはこのような体験をしながらキリスト者になったのだろうか。イエスとともに十字架を担ぎ、その苦しみを担い、その侮辱をと身に受けたがゆえに、イエスと一つになることができたからだ。そうすることによって十字架にかかることの意味が分かったからだ。ボロボロのイエスのうちにただの弱さと敗北ではなく、その向こうにある神の愛の光を見ることができたからだ。

③罪を背負うイエス

27:33 そして、ゴルゴタという所、すなわち「されこうべの場所」に着くと、

27:34 苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとされなかった。

27:35 彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、

27:36 そこに座って見張りをしていた。

27:37 イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。

27:38 折から、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた。

*いったいなぜローマ兵たちはイエスに「苦いものを混ぜたぶどう酒」を飲ませようとしたのか。十字架にかけられる者には何らかの理由で(恐らく十字架刑の痛みと苦しみをいくらかなりとも軽減させるために)ぶどう酒を飲ませる習慣があった。しかし兵士はそれに「苦いもの」を加えて、飲みにくくした。だからこそイエスは、「なめただけで、飲もうとされなかった」のである。ローマ兵たちは、イエスに一瞬たりとも苦痛からの解放を与えたくなかったのだ。

*その後ローマ兵たちは「くじを引いてその服を」分け合った。受刑者の所有物をもらうのは、刑執行者の役得であったからだ。「見張り」をしたのは、反乱者たちがイエスを助けに来るかもしれないと危惧したからである。

*しかし、ここで最も重要なのは、イエスの頭の上に「これはユダヤ人の王イエスである」という罪状書きが掲げられたことだ。これに応じてイエスの両脇には強盗二人がイエスと同じように十字架につけられた。いったいなぜか。イエスはユダヤ人の王であり、左右の強盗はその左大臣と右大臣であると見立てるためである。つまり、ローマ兵はユダヤ人を侮辱するためにこのような構図で十字架刑を行ったのだ。この侮辱をイエスは、自分のものとして背負い、受けている。もしこれが実際に反乱を首謀したバラバであったなら、正当な報いである言うこともできよう。しかし、イエスは反乱など一切企てていないのだ。ということは、まさにイエスはバラバと彼を支持したユダヤ人の代わりにローマ人の憎しみを受け止めているのだ。言い換えればイエスは力によって自分の要望を満たそうとする民衆とバラバの罪の結果をわが身に引き受けているのだ

④ののしりの意味

27:39 そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、

27:40 言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」

27:41 同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。

27:42 「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。

27:43 神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」

27:44 一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。

*「そこを通りかかった人々」とはもちろんユダヤ人の民衆たちである。彼らは、ローマ人によってイエスが十字架につけられているのは自分たちの罪(反乱罪)のゆえであるということを少しも理解していない。彼らにとってイエスは、あくまでも神の冒瀆者なのであり、偽の救世主(メシア)なのである。

・では、彼らにとっての本当の救い主とはどのような人物か。もちろん神の力を行使して十字架刑を免れることができるような強い救い主である。だからこそ彼らは、「神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」と弱いイエスをばかにするのである。このようなユダヤ人の民衆の姿は、強者をしたい弱者を蔑む全民衆の縮図ではないか。もっと言えば、自分の欲望を実現するために力ある指導者を望む世界中の民衆の縮図ではないか。

*他方「祭司長たちも律法学者たちや長老たち」も民衆と同じことを言う。「今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう」と。ユダヤ人の指導者たちは実際に力によって民衆を支配してきたし、力こそが世を動かす現実であると信じている。だからこそ弱いイエスをののしり、ばかにするのである。十字架から降りてくることもできないくせ何が神の子だと。

・立場は異なるものの、民衆もユダヤ人の指導者も結局は同じ原理に基づいて思考している。すなわち力による支配という原理に基づいて。だからこそ両者ともに同じ言葉をイエスに投げつけるのである。もしこの言葉に応じてイエスが十字架から降りてきたなら、その瞬間にイエスの十字架は無意味化する。なぜならそれは、イエスも力による支配に乗り出したということであり、弱さと敗北による支配を打ち立てるという神の計画の頓挫を意味するからである。そのことをイエスははっきり理解していた。だからこそ彼らの言葉に対して何の応答もせず、ひたすら黙って耐えるのである。そのようなイエスの姿はすでに目に見えない輝きを放っているではないか。

*続いてユダヤ人の指導者たちは「神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから」という言葉をイエスに浴びせかける。この言葉には、彼らの信仰の本質がよく現れている。彼らにとって神とは力ある神であり、自分の子らを力によって救い出し、利してくださる神なのだ。彼らの信仰もまた力の原理によって貫かれているのだ。そのような信仰を持つ彼らにしてみれば、十字架にかけられて死んでいくしかない敗北のイエスは、神から見捨てられた存在以外の何者でもなく、ましてや神の子であろうはずがない。だからこそ彼らは言うのである。神の子なら神に救ってもらえと言い、神が救ってくれないならお前は神の子でも何でもないと言外に宣言するのである。

・もしここで神が彼らの言葉に応じてイエスを救ったとすれば、彼らの信仰が正しかったということになる。つまり神は自分の子を力によって救う力の神であるということになる。確かに神は力の神である。しかし、それは神の半面でしかない。神は今それとは全く違う性質をあらわそうとしている。つまり弱さと敗北によって人を導くという人間の常識を超えた性質を現そうとしている。だからこそ神は、敢えてイエスのことを救わない。イエスの苦しみを黙ってじっと見守るだけなのだ。イエスの沈黙の背後には、さらに大きな神の沈黙がある。神は今イエスと共に弱さと敗北に甘んじて沈黙しているのである。

*最後には「一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった」とある。これで、強盗、民衆、最高法院の指導者たちと言ったユダヤ人の全員がイエスをののしったことになる。つまりユダヤ人の世界で最も悪いとされる犯罪者から最も正しいとされる最高法院の聖職者まで、全員がイエスをののしったのだ。いったいなぜか。全員が同じ原理に立っていたからである。すなわち力による支配という原理に。

 

2.メッセージ

①イエスとの出会い

 まず注目すべきは、キレネ人のシモンである。彼はイエスと出会ったばかりにイエスの十字架を担がされる羽目になってしまった。これは他人事ではない。イエスと出会うなら、人はみなその十字架をともに担ぐことを迫られる。イエスは出会った者全てに「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(16:24)と呼びかける。この呼びかけを私たちは拒否することもできるわけだが、この呼びかけを拒否するとどうにも気持ちが悪くなる。そこで私たちは少しずつ自分の十字架を担ぎ始めることになる。

では十字架を背負うとは一体どういうことか。もちろん自分を犠牲にして隣人を愛するということなのだが、今日の個所はさらに深くその意味を示してくれる。つまり、十字架を背負うとは、隣人の罪(欠点)の結果を背負ってまで隣人を愛することであると。イエスの十字架担ぎはまさしくユダヤ人の罪の結果を背負う行為であった。だから、十字架を背負って自分に従えというイエスの呼びかけは、隣人の罪の結果を背負ってまで隣人を愛せよという呼びかけなのだ。

寮生活はそのような機会に満ち満ちている。大勢の隣人と暮らしているわけだから、隣人の罪(欠点)と接触する機会がたくさんあり、その迷惑をこうむることがたくさんある。そのようなとき、相手を怒り、裁き、見捨てるのではなく、その罪(欠点)を補い、相手を助けようとする。これこそ十字架を背負うということだ。

 そして、そのような道を歩み続けるなら、イエスとの一体感を味わえるようになる。そうなると、イエスの十字架の意味が分かってくる。十字架におけるイエスの弱さと敗北が目に見えない愛の輝きを放っていることに気付くようになる。つまり弱さのゆえに敗北しようとも相手を愛することにこそ世を変える希望があるのだと分かってくる。このことの素晴らしさをキレネ人シモンは教えてくれるのである。

②原罪と力への欲求

 次に注目すべきは、民衆、ユダヤ人指導者、強盗のののしり言葉である。彼らは「神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」と言い、「神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ」と言う。これらの言葉には、明らかに彼らの力への欲求が投影されている。彼らにとって救い主とは、彼らを力によって救い出すことのできる力ある救い主であり、神もまた力によって彼らを救い出すことのできる力ある神なのだ。実際に救い出してくれない救い主や神など軽蔑の対象でしかない。だからこそ彼らはこのような言葉で弱いイエスをののしり、同時にイエスを助けに来ない沈黙する神をののしるのだ。いったいなぜ彼らはそれほどに力を求めるのか。

その理由はもちろん原罪にある。原罪とは自己中心性であり、過剰な自己拡大欲求であると学んだ。これに支配されているがゆえに人は力を欲する。力があればどんどん自分を拡大していくことができる、そしてついには王にも神にもとってかわることができる、だからこそ人は力を望むのである。

 この原罪に基づく力への欲求が最悪の形で現れるのが弱者への蔑視である。イエスへのののしり言葉は、この弱者への蔑視の究極の現れと言えよう。神の子であると自称するイエスが現れたとき、民衆はイエスに力を期待した。実際イエスは途中まで力を発揮し続けた。ところがそのイエスが土壇場に来て完全に無力になった。敵への赦しを説き、弱さと敗北に徹する道を歩み始めた。すると何が起こったか。すべての人が弱いイエスをののしり始めたのだ。これこそ、弱者への蔑視であり、力への欲求の裏返しではないか。

 この弱さへの蔑視という原罪の現れは、現在も様々な差別の形をとって人を支配している。ジェンダーによる差別、人種と民族による差別、障害者への差別、経済格差による差別、宗教による差別、家柄や階級や身分による差別、・・・。何と多くの差別がいまだに人を支配していることか。すべての差別は弱さへの軽蔑に端を発するものであり、その根源には過剰な自己拡大欲求(原罪)がある。このことこそ今日の個所から受け取るべき第二のメッセージであろう。強さにあこがれるのは自然なことだ。しかしその裏には必ず弱さへの蔑視があり、更にはその奥には過剰な自己拡大欲求があるということを覚えておこう。

③十字架の役割

 イエスはそのような弱者への蔑視を黙って受け止める。神もそのような弱者への蔑視を黙って見逃す。いったいなぜか。もちろん弱者を蔑視する人々を愛するためだ。ではいったいどうして弱者への蔑視を黙って受け入れることが彼らを愛することになるのであろうか。

この沈黙の受け入れによって前回学んだ聖なる交換が起こるからである。十字架における沈黙の受け入れは罪人たちの罪と死がイエスに与えられ、イエスの義と命が罪人に与えられるという聖なる交換を引き起こす。このことのためにこそ神もイエスも沈黙するのである。理屈では説明できないが、イエスの十字架上での沈黙は確かに人の過剰な自己拡大欲求を鎮静化し、力への欲求を失わせ、弱者への蔑視を取り除く。イエスの十字架上での沈黙は確かに人の原罪を吸収し、その人のうちに義を引き起こすのである。このことをイザヤ書はこう記している。

53:5 彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。

53:6 わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。

「彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」これこそ聖なる交換の本質である。イエスの受けた罰と苦しみによって、イエスを十字架へと追いやった者が義の平安を得、心を癒されるのである。このことを実現するためにこそ、イエスと神は十字架において沈黙し続ける。

そして先週話したように、もし私たちが十字架を仰ぎ続けるなら、私たちも実際にこの交換を体験することができる。私たちの罪がイエスによって吸収され、イエスの義が私たちの心に流れこんで来るのを体験することができるのである。それと共に心の傷が癒され、真の命を感じることができるのである。

 いったいなぜか。その究極の理由は、やはり十字架におけるイエスと神の沈黙が愛の輝きを放っているからであろう。十字架においてイエスは自分を無実の罪で殺そうとする力の支配を望む人々を赦そうとしている。ここには確かに人間を超えた途方もない神の愛がある。この途方もない神の愛を十字架を通じて私たちは感じてしまう。だからからこそ、私たちの罪がイエスによって吸収され、イエスの義が私たちの心に流れこんで来るという不思議な交換が起こるのだ。

皆さんが十字架に途方もない神の愛を見出すことを願う。これはメッセージというよりは祈りである。

 

3.話し合い

Ry「寮生はシモンに似ていますね。イエスと何の関係もないのに寮に来て、イエスと出会わされ、十字架を担がされる。」

寮長「本当にそうですね。」

Ue「シモンは偶然イエスと出会い、十字架を担がされてしまった。この不条理と向き合うときに信仰が生まれてくるのかもしれません。」

寮長「そうかもしれません。だからこそキリスト教徒たちは、シモンは神によって選ばれたと解釈してきたのでしょう。」

Ko「僕は自分が独りで苦労しているときにその苦労を共に背負ってくださるのがイエス様だと思っていたので、自分がイエス様の十字架を共に背負うと十字架の意味が分かるという今日の話にはどうにも違和感があります。そもそも僕たちに十字架を背負うことができるのでしょうか。」

寮長「背負うことはできないけれど、背負おうとすることはできるでしょう。十字架を背負うことが自分を犠牲にして隣人を愛することだとすれば、少なくともそうしようと努力することはできる。しかしいくらそうしようと努力しても、できないことに気付きますよね。そういうときにイエス様の十字架の意味が分かってくる。そういう自分を神様が赦してくれているのだと。これが十字架を背負うとイエスの十字架が分かってくるということの意味の一つです。」

Ko「そういうことならわかります。僕は自分で十字架を背負うという行いの結果十字架の意味が分かるというふうに解釈してしまいました。」

寮長「確かにそういう響きでしたね。配慮が足りませんでした。」

Ka「サッカーをやっていると、まずいプレイをした人をあからさまに馬鹿にする人たちとよく出くわします。ああいう人たちが僕は大嫌いなのですが、彼らは本当は弱い人たちなのではないでしょうか。」

寮長「そうかもしれません。弱いからこそ力を求め、弱い人を蔑むようになるのかもしれない。だとすると、そうであればこそイエスはそういう人たちを憐れみ、赦そうとして十字架についたということになります。これは当たりかもしれません。」

It「シモンがイエスの十字架を担がされることを通じてキリスト教徒になったというところがよくわかりません。僕ならイエスを軽蔑するだけに終わると思います。」

寮長「それが普通の理性的な反応です。しかし、ともに十字架を担ぐという体験はきっと理性以上のものに訴えかけるのだと思います。マルコによる福音書では、あるローマ兵が、イエスがボロボロになって死んでいく様を目撃し、「この人は本当に神の子だった」と告白しています。これもまた理性では考えられないような言葉です。イエスの十字架はやはり理性を超えて訴えかけるのだと思います。」

So「僕は神の沈黙というところが印象に残りました。神様は今の様々な理不尽な出来事に対しても沈黙しています。恐らく自分が力で解決しない道、人に自ら反省させる道を選んでいるのだと思います。「デスノート」という漫画を読んだのですが、そこでは主人公がデスノートに名前を書き込むことによって悪人を次々に殺していきます。その結果何が起こるかというと恐怖の支配と社会分断が起こるのです。神様はこうなることを避けているのではないでしょうか。」

寮長「たしか、「デスノート」では果差別も生まれていましたよね。正しく生きられない者を蔑み、糾弾するという差別が。」

Ya「今日の話を聞いていて、そしてその後の話し合いを聞いていて、つくづく寮という環境はイエス様の十字架を学ぶのに最適な場所だと思いました。」

寮長「全くその通りですね。この寮に来たばっかりに、皆自身の十字架を担ぐことになり、互いの欠点を補いつつ生きていかざるを得なくなる。これこそ十字架について学ぶ最高の環境です。」