ロシアの画家 ニコライ・ガイ(小舘)

2024年1月26日春風学寮日曜集会

 

聖書 ヨハネによる福音書

13:1 過越の祭の前に、イエスは、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時がきたことを知り、世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された。

13:2 夕食のとき、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうとする思いを入れていたが、

13:3 イエスは、父がすべてのものを自分の手にお与えになったこと、また、自分は神から出てきて、神にかえろうとしていることを思い、

13:4 夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰に巻き、

13:5 それから水をたらいに入れて、弟子たちの足を洗い、腰に巻いた手ぬぐいでふき始められた。

13:6 こうして、シモン・ペテロの番になった。すると彼はイエスに、「主よ、あなたがわたしの足をお洗いになるのですか」と言った。

13:7 イエスは彼に答えて言われた、「わたしのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう」。

13:8 ペテロはイエスに言った、「わたしの足を決して洗わないで下さい」。イエスは彼に答えられた、「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる」。

13:9 シモン・ペテロはイエスに言った、「主よ、では、足だけではなく、どうぞ、手も頭も」。

13:10 イエスは彼に言われた、「すでにからだを洗った者は、足のほかは洗う必要がない。全身がきれいなのだから。あなたがたはきれいなのだ。しかし、みんながそうなのではない」。

13:11 イエスは自分を裏切る者を知っておられた。それで、「みんながきれいなのではない」と言われたのである。

 

1.青年期

今日は聖書の話ではなく、ニコライ・ガイ(ネットではゲー)という画家の話をしたい。

皆さんはガイという画家の名前を聞いたことなどないだろう。私もなかった。ところが、内村鑑三はこのガイという画家に心底ほれこんでいて彼のことを9ページにわたるエッセイで紹介している。そこに紹介されているガイの生涯は実に感動的なもので、私自身も彼に大いにほれ込んでしまった。というわけで、今日は特別に、聖書ではなく、ガイの生涯について話をすることに決めた。

ニコライ・ガイは1831年にロシアのヴォロネジという都市に生まれた。ウクライナのすぐそばで、現在戦闘が展開しているあたりだ。お祖母さんが熱心なキリスト教徒であったために、その影響で彼もまた熱心なキリスト教徒になった。他方、彼には特別な才能があった。絵の才能だ。小学生の時にすでに劇場の舞台装飾を任せられていたほど彼の絵の才能は優れたもので、19才のときにはペテルブルグの帝国芸術アカデミーに入学する。初めは、数学と物理専攻だったのだが。

アカデミーにいる間、当然彼は様々な人と出会い、様々な思想を知ることになる。そのようななかで、フランスの懐疑主義の思想に触れたとき、ついに彼はキリスト教信仰を失ってしまった。神など存在しないし、キリストが神の子であるなどというのは作り話だと思うようになってしまったのだ。そして、価値があるのは人間だけであり、人間の創造した芸術こそ最も価値のあるものの一つであると考えるようになった。

こうして彼は、全力で絵の修行に没頭するようになる。その結果、アカデミーで抜群の成績を収めることとなり、七年後にはイタリア留学のための奨学金を授与されることとなった。これで思う存分絵の修行ができると大喜びしたガイは、意気揚々とイタリアへ出かけて行った。

 ところがイタリアで彼は大きな壁にぶつかる。いくら高度な技術を学んでもいっこうに納得のいくような絵が描けなかったのだ。彼を苦しめたのは技術の問題ではなかった。いったい何を描いたら良いのか、そのテーマと題材がいっこうにわからなかったのだ。言い換えれば、いったい何を目的として絵を描けばよいのか、その目的が分からなかったのだ。自分はいったい何のために絵を描いているのだろう、そのような問題で悩み続けた彼は少しずつ憔悴していき、鬱状態になっていった。そしてついには毒を飲んで自殺しようと考えるようになってしまった。

そんなある日に奇跡が起こる。自殺しようとして椅子に座っていたとき、彼の目はふと傍らに置いてあった聖書にとまった。そして聖書ならこの苦しみから自分を救いだしてくれるであろうかと思い、半信半疑で聖書を手に取り、適当なページを開いてそのページを読み始めた。この時に彼が開いた箇所こそは先ほど読んでいただいたヨハネによる福音書の第13章の最後の晩餐の記事だった。

彼は魅せられたかのように13章を一気に通読した。そして読み終わったとき、電撃のようなひらめきが彼を襲った。これだ、これこそ私が求めていたものだと。これこそ私が描くべき絵のテーマであり、私の絵の目的であると。ガイが何よりも心打たれたのは、イエスの人格であった。師匠でありながら、弟子に仕え、弟子の一人一人の足を洗う、そのうちの一人は裏切りを計画しているユダである。そのことを知りつつ、心を込めて彼の足をも洗う。これほどの愛があるだろうか。ガイは思った。≪これこそ人間の理想の姿ではないか。これから私は生涯イエスのことを描き続けよう。イエスこそは私が描くべき究極のテーマ、私の絵の目的だ。ひょっとすると自分は、イエスを描くために絵の才能を与えられたのかもしれない≫(小舘による要約)。

こうしてガイは猛然と筆を取り、キャンバスに向かい、絵を描き始めた。下書きなんか必要なかった。まるで他の何かに突き動かされたかのように自由自在に筆を走らせ、思うままに絵の具を塗りつけていくことができた。こうして彼は、実に半年にわたり、ヨハネによる福音書13章のイエスを描き続けた。そしてこの絵を描き上げたとき、ガイは思った。これこそ自分の最高傑作だ。そしてこのような絵がかけたのは、自分の力だけによるものではない。神の霊の助けがあって初めて私はこの絵を描けたのだと。この絵の完成とともに彼はキリスト教信仰を取り戻したのであった。

このようにして描き上げた傑作をガイは『最後の晩餐』というタイトルで、ロシアの絵画コンテストに出品した。出品されるやいなや、この絵は大反響を巻き起こし、見に来た全ての人から絶賛され、彼の名は一気に全ヨーロッパにまで知れわたった。ロシア政府も彼の絵の素晴らしさを認め、彼に永久の給与と帝国芸術アカデミー教授の地位を与えることに決定した。まるで絵に描いたような成功物語である。

以上が彼の青年期のあらましであり、続いて成人期の話に移るわけだが、その前にここで一つだけメッセージをいただいておこう。それは、最高の芸術は神の働きを描こうとするものだということである。音楽であれ、絵画であれ、詩であれ、最高の芸実はすべて何らかの形で神の働きを描こうとしたものである。ではどうすれば神の働きを描けるのか。最も簡単な方法は、聖書の世界を描くことだ。特に聖書の中のイエスを描くことだ。聖書の世界を描けば、おのずからそれは神の働きを描くことになる。だからそのような芸術には傑作が多い。音楽で言えば、バッハ、ヘンデル、モーツアルト、ベートーヴェン、ヴェルディ、シューベルトらのミサ曲、レクイエム、受難曲・・・。美術で言えば、ミケランジェロが描いたシスティナ礼拝堂の『最後の審判』、ダビンチの描いた『最後の晩餐』、ラファエロの描いた『キリストの変容』、エル・グレコの描いた『十字架を担うキリスト』・・・。文学で言えば、ダンテの『神曲』、ミルトンの『失楽園』、ドストエフスキーの『罪と罰』『悪霊』『カラマーゾフの兄弟』・・・。これらは全て聖書とイエスをテーマに据えたがゆえの最高の芸術である。しかし、別に聖書に頼らなくても、神の働きを描く方法はいくらでもある。様々な生物の中に、大地や海や空といった大自然の中に、そして素晴らしい人々の心の中に、私たちはいくらでも素晴らしい神の働きを見出すことができる。日本の芸能や工芸作品、特に能と能面は聖書なくして神の働きを捕らえた、最高の芸術であると言ってよい。人間の心には神の働きを捕らえる性質が宿っているのだ(sense of wonder)。そしてそのような神の働きを言い換えた言葉こそ、深い意味での美であろう。もし私たちが何らかの現象のうちにそのような神の働きであるかのごとき美を発見し、それを懸命に描いていくなら、私たちでも最高の芸術を作り出すことができるはずである。

 

2.成人期

さて、話を戻そう。ガイは『最後の晩餐』という絵の成功によって帝国芸術アカデミーから永久の給与と教授の地位を提供されたわけだが、驚くべきことに彼は、これらの申し出を両方とも断ってしまった。曰く、≪政府に束縛されて自由を失うようでは良い作品は描けないし、安逸な生活に慣れてしまうようでは真の芸術など創造できないでしょう。真の芸術作品を創造するためには、絶えず自由で貧乏でなければならないのです。事実、アカデミーの裕福な教授たちはみな仕事もせずに眠りこけてもいるではありませんか。私は彼らの仲間入りはしたくありません。≫

いやはや実にすごいことを言うものである。帝国芸術アカデミーの教授の地位と言い、永久の給与と言い、すべての芸術家が喉から手が出るほど欲しがっているものである。それらをきっぱりと断り、しかも他の教授たちを敵に回すようなことまで言ってのけるとは。これは自分で自分を窮地に陥れたようなものだ。

では、その後どうなったか。当然と言えば当然だが、彼は貧乏のどん底に落ちていった。絵を描くことしかできないうえに、イタリアという外国で暮らさなければならないわけだから、お金はどんどんなくなっていき、ついには、画材も日用品も食べ物さえも買えない状態になった。知人からの借金や援助で食いつないでいくしかない状態となったのだ。

ところがだ。このような貧困の中で彼は最高の喜びを体験した。貧しくなるにつれて、どんどんイエスの気持ちが分かるようになっていったのだ。イエスは、一文無しで放浪を続けた人だ。イエスを支えたものは、神への祈りだけであった。そのようなイエスの気持ちが、ガイにはだんだん分かるようになっていった。ガイ自身も祈りながら貧乏と戦う毎日を送り続けたからだ。

このようにしてイエスの気持ちが分かるようになったとき、再び彼に絵のテーマが示された。すなわち、ゲツセマネで祈るイエスの姿である。ガイは思った。ゲツセマネの祈りのイエスの姿こそは、神にすべてを委ねる最高の信仰を表す姿であり、全ての人間が模範と仰ぐべきものではないかと。こうしてガイは、再び猛然とキャンバスに向かって筆を執り、絵を描き始めたのであった。

しかし、この絵はなかなか完成しなかった。神にすべてを委ねるイエスの信仰を描き出すのはさすがに難しい仕事で、ガイは完成しかかった絵を二度までも引き裂いてしまった。こんな絵ではとてもイエス様に顔向けできないと。こうして彼は、半年以上かけてようやく納得のいくイエスの姿を描き上げる。それは、神から十字架にかかるように示された祈りから立ち上がときの、悲しげな、それでいて決意に満ちたイエスの姿であった。この作品を彼は『ゲツセマネの祈り』と名付け、ロンドンの万国博覧会で発表した。

その結果はどうであったか。もちろん大成功であった。この絵は『最後の晩餐』を上回る大反響を巻き起こし、見る人はことごとくこの絵を絶賛した。この絵のお陰で、彼は世界的名声を獲得し、故郷のロシアに帰って暮らすだけの富をも獲得することできたのであった。

こうして彼は十三年ぶりに、イタリアから祖国のロシアに帰ってくる。ところが、ロシアに帰ってみると、国は革命思想に沸き立っていた。国民は自由を求めて様々な政治運動を行い、信仰の自由や言論の自由を勝ち取ろうとしていた。ピョートル大帝の始めたロシア帝国こそは自由と進歩を実現する正義の国家であるという主張が声高に語られ、始祖のピョートル大帝は神のように崇められていた。このような主張の影響をガイはまともに受けた。自分も自由と進歩を勝ち取るために何かしなくてはという思いに取りつかれ、進歩党という政党に加わった。そして、ロシアの国民的英雄を全て絵に描きだそうという計画を思いついたのであった。生涯イエスを描き続けるという考えはどこかに吹っ飛んでしまった。

いったん思いつくと、彼は例によって猛然と仕事を始める。彼は、ピョートル大帝とその息子アレクサンドル、女帝エカテリーナ一世と次々にロシアの英雄の肖像画を描いていった。これらの肖像画は売れに売れた。貴族や大富豪たちは先を争ってこれらの肖像画を高額で買い求め、ガイは同じ絵のコピーを描かなければならないこともあった。

これらの肖像画の成功は、彼にかなりの富とその上に政治的影響力ももたらした。たくさんの貴族や富豪たちと知り合いになることができたからだ。今やガイは、芸術界、経済界、政治界の各界に名の知られた超大物となった。

しかし、ロシア帝国が国民に自由と進歩をもたらすという主張は全くの嘘っぱちであった。政府は国民に自由と進歩をもたらすどころか、国民をいっそう弾圧・束縛し、彼らに税金と兵役を課し、彼らをいっそう貧困へと追いやった。また、進歩と自由を主張する進歩党の政治家たちは次々に逮捕され、拷問にかけられていった。ここにいたってガイはようやく目を覚ました。ロシア帝国に期待した自分がバカだったと。そしてロシア帝国の英雄たちの肖像画を描くという仕事も間違いであったと。自分はイエスを描き続けると決めたのではなかったか、貧困と自由の中で絵を描き続けるのではなかったかと。

このようにして目を覚ましたガイは、貴族や大富豪と縁を切り、政治的活動から身を引いた。そしてウクライナの片田舎に小さな土地を買い、農業をしながら絵を描く暮らしを始めたのであった。このとき彼が残した興味深い言葉を引用しよう。「一人前の男は農業で暮らしを立てていくべきであり、芸術を売買して生きていくべきではない」。

しかし芸術を売らない暮らしは、再びガイを貧困に陥れた。自分の絵を売ればすぐに大金を手に入れられるのに、ガイはそのようなことを一切拒否し、ひたすら農業だけで生計を立てようとした。農業のプロでもないガイが農業で簡単に身を立てていけるはずがない。案の定、数年たつと財産のほとんどは底をつきてしまい、ガイは再び貧乏のどん底に突き落とされてしまった。 

そんなときである。あの帝国芸術アカデミーから再び、ガイを教授として迎えたいという通知が届く。アカデミーはこう考えたのだ。今やガイは貧困のどん底にある、今彼に教授の地位を提供すれば、彼は必ずそれを受けるであろうと。ところがガイは、またしてもこの申し出を断ってしまった。そのときの言葉を引用しよう。「貧困こそはわが姉妹である。貧しい中で働き続けてこそ、生命の宿る本当の芸術が創造できる。」ガイはかつてとほとんど同じ言葉で、教授の地位を拒否したのであった。内村は労働を重んじ、「読むより働けよ」と毛筆で書いているが、内村はこの言葉をひょっとするとガイから学んだのかもしれない。

以上がガイの人生の成人期のあらましである。このような彼の成人期から学ぶべきメッセージとはいったい何であろうか。それはやはり、最高の芸術は貧困の中から生み出されるということであろう。人は普通、毎日芸術に浸れるほどのお金があれば最高の芸術が創造できると考える。しかしそうではないのだとガイは主張する。生命の宿る本当の芸術は貧困の中から生まれてくるのだと。なぜなら貧困であればこそ、貧しい人々の心がわかり、貧しく生きたイエスの気持ちが分かるのだから。貧困であればこそ、神から与えられる自然の恵みのありがたみが分かり、神に感謝できるのだから。貧困こそは隣人とイエスとそして神とつながる最高のきっかけなのだ。であればこそ、本当の芸術は貧困の中から生まれてくるのだと。

付け加えて言うならば、人を根本的に変え、成長させるものの一つも貧困である。人は本当に食っていけなくなったとき(例えば就職活動に失敗したとき)、変わらざるを得なくなる。このままの自分ではだめなのだ、変わらなければならないのだと。このとき初めて自己肯定のマインドを抜け出し、自己否定のマインドを働かせることができる。人は生活が安定している限り、何ら自己変革の必要を感じない。このままでいいのだ、俺は正しいのだと思い込み続けてしまう。そのようなマインドを粉砕することができるものこそが、貧困である。ガイは、このことを知っていた。だからこそ彼は繰り返し教授の地位を断ったのだ。

 

3.クライマックス

 話を戻そう。いよいよガイの人生のクライマックスである。ウクライナの片田舎に引っ越したガイは、一つの作品を描き上げる。それは『慈悲』というタイトルの作品で、一人の貴婦人が銀の酌を使って乞食のような男性に冷水を与えようとしている瞬間をとらえた絵であった。この作品は、マタイによる福音書25:40 の『わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』という言葉を具体的に表したものだと本人が解説をつけている。この絵にキリスト教の理想を描き得たと満足したガイはペテルブルグの展示会にこの絵を出品した。

ところがしばらくすると、次のような記事がある新聞に掲載された。「冷水一杯を貧乏人にめぐんでやるというような行為は、大して賞賛すべき行為ではなく、大した善行でもない。私たちが本当にすべきことは、私たち自身が貧乏人となり、貧乏人と共に暮らし、貧乏人と助け合うことなのだ。それこそがキリストの心であり、真の愛なのだ。」この記事を読んだガイは再び雷に打たれたように衝撃を受けた。そして思った。≪自分が描いた『慈悲』という作品は少しもキリストの心を表してはいない。貧乏に恵みを施すなどということをキリストがしたであろうか。キリストが本当にやったことは、自身が貧乏人となり、貧乏人と共に歩み、貧乏人と助け合うことではなかったか。貧乏人と苦しみをかち合うことこそがキリストの本当の愛であったのだ≫と。そう思ったガイは自分の描いた『慈悲』という作品の偽善性に耐えられなくなり、なんとその作品を引き裂いてしまった。

 それだけではない。ガイは、なんとしてもこの記事を書いた人物に会いたいと思った。それで即刻新聞社に彼の所在を尋ね、彼を訪ねる旅に出かけて行った。さて、この記事を書いた人物とはいったい誰であったか。それこそ、『戦争と平和』を書いたロシアの大文豪トルストイであった。ガイは、トルストイに会うために、即刻ウクライナを発ち、彼のいるモスクワへと700キロ以上の旅に出た。そしてモスクワに到着すると休むこともなくトルストイを訪ね、その一日後、ついにトルストイと面会することに成功した。

トルストイを前にしたガイは開口一番こう言った。「わたしは画家です。南方よりはるばるやってまいりました。私は閣下と同様にキリストを信じる者です。しかし、私は信仰において閣下にとうてい及びません。ですから、何でもいいから私に命令してください。私は閣下が命じることならなんでも実行いたします。」

なんというまっすぐな言葉であろうか。これこそガイのまっすぐな性格を物語る言葉であろう。この言葉を聞いたトルストイはたちまちにしてガイを自分の親友であると感じたそうだ。こうして二人は一瞬にして親友となり、一晩中語り合った。人生の意味とは何か、芸術の目的とは何か、理想の善行とはどのようなものか、今後自分たちはそれに向けて何をなすべきかなどなど、二人の語るべきことは尽きるところを知らなかった。ガイは、後日「トルストイとの会合で重要なことは全て明らかにされた」と述べた。この会合こそは、ガイの人生のクライマックスであったと言ってよいだろう。

 

4.老年期

 ウクライナに帰ったガイは、トルストイとの会合で学んだことをさっそく実行に移した。こうして生み出されたのがガイの最高傑作『ピラトとキリスト』という作品である。この作品は、ローマ総督ピラトがイエスに「真理とは何か」と尋問するシーンを描いたものであるが、この作品で重要なのは、イエス・キリストの姿である。それまでイエスは、後光のさす優雅で美しい姿に描かれるのが慣例であった。ところがガイの描いたイエスは、みすぼらしい平民の服を着て、髪はぼさぼさ、ひげはぼうぼうという様相の、乞食のようなイエスであったのだ。そこには神々しさを表すものはほとんどない。あるのは異様な目の輝きだけであった。しかし、これこそは、ガイやトルストイにとって本当のイエスの姿だったのだ。貧乏人と共に歩み、ついには貧乏人と一つになった本当のイエスの姿であったのだ。

ガイがこの作品をペテルブルグの美術館に展示すると、大変なことが起こった。この作品を評価する人とそれを批判する人との間で争いが起こったのだ。乞食のような姿をしたイエスを見た民衆は感激のあまり涙を流したと言う。これこそ私たちと共にいて下さる本当のイエス様だと。涙を流したというのは大げさなようだが、ガイの絵は極めて写実的なので、それを見た民衆たちは本当のイエスに出会ったような心地がして涙したのであろう。ところが、ロシア正教の僧侶たちは、こう言った。「この絵はイエス様に対する冒とくである、このような絵を描いた者は、地獄で永遠の刑罰を受けるであろう」と。さらに上流階級の貴族や富豪もこの作品を批判した。この絵に描かれた肥満したピラトはまるで自分たちへの当てつけではないかと。このような対立は日を追うごとに激化していき、ついにロシア政府は介入を余儀なくされた。すなわちロシア政府は、対立を鎮静化するために、ロシアの全ての美術館に対してこの絵の展示を禁止する命令を下したのだ。

ロシアで展示できなくなったこの絵をガイはその後、ドイツの美術館に展示した。すると、ロシアでの噂を耳にしていたドイツの労働者たちが大挙して美術館を訪れ、この絵を見て拍手喝采した。これこそ本当のイエス様だと。ハンブルグの労働者に至っては、みんなでお金を出し合って4000ルーブル(1000万円)を集め、それをガイに送ってこう伝えたそうだ。いつの日かもう一度ハンブルグでこの絵を展示してほしいと。それほどにこの絵は、貧乏人たちの心をとらえたのだ。

その後、ガイは農民生活を送りながら、『ゴルゴタの丘』『十字架刑』といった傑作を次々に描いていった。しかしそのガイ自身はこう語っている。≪芸術なんてそれ自身に価値があるわけではありません。それで人を救うことができるからこそ芸術には価値があるのです。芸術は芸術のためにあるのではありません。人を幸せにするためにあるのです。もし私が絵を描いているときに、誰かが怪我をしたと聞けば、私はすぐに絵を描くことなどやめて彼を助けに行くでしょう。もし盲人が道に迷っていると聞くならば、私はすぐに絵を描くことなどやめて、盲人の道案内になるでしょう。最高の目的は人を幸せにすることです。芸術はそのための手段でしかありません。≫絵画に生涯をかけた人が、絵画の上にさらに素晴らしいものがあることを認めている。これこそ内村や私がガイには惚れこまざるを得ない理由である。

そのようなガイは、1894年63歳の若さで息を引き取る。彼は最後の最後まで聖書一冊を傍らに置き、農場で働き続けながら、余暇に絵を描いて暮らしたということだ。以上が、ニコライ・ガイの生涯である。

このようなガイの生涯から学ぶべき最も重要なメッセージとはいったい何であろうか。それはやはり、真の愛とは苦しんでいる人に寄り添い、彼と共に歩み、その苦しみを分かち合うことだということであろう。イエスは、神の子でありながら、その地位を捨てて、私たち人間に寄り添うために、共に歩み、その苦しみを分かち合うために生涯貧乏人として暮らした。高い所にいてお金を寄付するのではなく、自分も低い所に降りてきて、苦しんでいる人と一つになろうとしたのだ。ここにこそ真の愛がある。人を本当に救い、幸せにできるものとはこのような愛以外にないだろう。ガイはそのことを見抜いた。だからこそガイは生涯にわたって貧しいイエスのことを描き続け、最後には乞食のようにぼろをまとってやせこけたイエスを描いたのだ。そしてそのようなイエスのように生きようと、自身も貧乏を貫いたのだ。

世間の人は皆上を目指す。しかし上を目指すことは自分を幸せにするかもしれないが、他人を本当に幸せにすることなどできないだろう。他人を本当に幸せにすることができるのは、下に目を向け、困っている人たちと苦しみを分かち合い、彼らと共に歩むことなのだ。ガイの描いた絵を見れば、私たちはそのような愛に生きたイエスと出会うことができる。

 

# 興味のある人は『真理を求めて-ロシアの画家ニコライ・ゲー』という伝記が出ているので読まれたし。

# 残念ながら、ガイの絵のほとんどが失われてしまっている。ガイは気に入らない絵をすぐに引き裂いて捨ててしまううえ、発禁処分にされたものが多いので、闇ルートにまわってしまうのであろう。特に晩年の最高傑作と言われる「十字架刑」が行方不明であるのは残念である。

 

話し合い

It「苦しんでいる人と苦しみを分かち合うというところは僕の専門の社会学の基礎となるところですが、僕は貧乏にはなりたくないです。」

寮長「外からいくら観察したって人の苦しみを分かち合うことなんてできません。そこには学問の限界がある。自分は貧乏になりたくないという気持ちこそ、その限界を表すものかもしれません。」

So「自分に良いと思えることと他者がよいと思うこととの間には、ギャップがあります。芸術を創造するときには、どちらを基準にすればよいのか。今日の話を聞いて後者かもしれないと思わされました。」

寮長「その問題は、僕もよく考えるところです。で、最近得た結論は、神の働きを捕らえるsense of wonderがこの対立を超えていくのではないか、神の働きを捕らえたときには自分の感動したものが他者の感動したものと重なり合うのではないかということです。」

Ya「貧しくなること自体より、へりくだることが重要なのではないでしょうか。ガイは信仰のゆえにへりくだることができた、だからこそ神の働きをとらえることができたのではないでしょうか。」

寮長「その通りだと思います。へりくだることができるなら、別に貧しくなる必要なんてないでしょう。しかし、貧しくならずにへりくだるのは非常に難しい。それを補うものが信仰であるかもしれません。信仰があって、いつも神の前に立つという姿勢があればへりくだれるのかもしれない。」

Sa「今日の話を聞いて、芸術の視点が変わりました。現代の建物なんかは、芸術を駆使して作られていますが、ああいうのは本当に芸術なのかと疑問に思うようになりました。」

寮長「現代の建物も利用者に寄り添おうとして造られているわけですが、そのときに優先されるのは快適さとか利潤です。本当に利用者の幸せを考えているとはいいがたい。本当に居住者の幸せを考えた建物ならそれは芸術ですが、そういう建物は滅多にありません。」

Mi「ぼくが心に残ったのはクライマックスの場面です。ぼくの通っている大学は、「他者のために」をモットーとしているのですが、どうも上から目線で嫌でした。それを批判するトルストイの指摘には、すっとさせられました。」

寮長「キリスト教の歴史はけっこうその誤解の歴史でした。愛は施しをするものだと。キリストの愛が苦しんでいるものと一つになることだという解釈はようやく19世紀になって出てきたものです。」

Ma「他者の苦しみを理解することなんてできるのでしょうか。そのためにわざわざ貧乏になるというのも、結局は上から目線のように思えてしまいます。」

Ko「僕は福島で被災しましたが、被災者の間でさえ苦しみの内容は様々でとても苦しみを理解し合うことなんてできませんでした。だから他者の苦しみを理解することなんてできないと僕も思います。」

寮長「確かに理解し合うことは難しい。しかしできないと切り捨ててしまうのはどうでしょうか。まったくできないのだとすれば、言葉を交わすことなど無意味になってしまいます。芸術を創造することも無意味になってしまう。言葉や芸術は、何かしらの相互理解を達成するのではないでしょうか。また、初めは理解し合えなくても、苦しんでいる人たちと共に何年か過ごして助け合えば、何か強い絆のようなものが生まれ、相互理解のようなものを作り出していけるのではないでしょうか。そのときにいくらかなりとも一つになることができるのではないでしょうか。例えば、能登半島にボランティアで行って、そのまま住み着いて復興に協力している人などは、地域の人とほとんど一体化しています。」

So「僕の好きな星野源の『ばらばら』という歌に「理解し合えないけど、共通点を見つけ出すことができる」というような内容の歌詞があります。簡単には理解し合えないことを自覚して、そのようにして他者とつながっていくことはできると思います。」

寮長「なるほど。『ばらばら』という歌は、芸術のようですね。今日も長い時間おつきあいくださりありがとうございました。苦しみを分かち合うことを目指すことは大切だけれど、簡単にはそんなことはできないということをはっきりと自覚しておく必要があると学びました。恐らくそのような断絶を修復してくれるものこそが、イエス・キリストなのでしょう。」