愛とは何か(小舘)

2024年5月26日春風学寮日曜集会

聖書個所:コリントの信徒への手紙一13:4~7

序 神は愛

 ヨハネの手紙一にはこうある。

4:7 愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。

4:8 愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。

「神は愛」であるとある。この通り、神の本質は愛である。そしてその愛を完全に体現して生きた者こそイエスである。だからこそイエスは神の子であると言われる。イエスが神の子である理由は、イエスが数々の超自然的な業(奇跡)を行ったからではない。人間にはとても実行できないような、人間の心には存在すらしないような神の愛を完全に体現して生きたからである。

 さて、今日の個所はその愛が具体的にはいかなるものかを示した箇所である。ここに示された愛の全貌は、イエスが身をもって弟子たちに示したものである。イエスはこれらの全てを心に持っており、完全に実行して生きた。この文の筆者はパウロだが、この文は決してパウロの独創によるものではなく、イエスの弟子たちがイエスから学んだ愛の全貌をパウロがまとめたものである。

 それでは、前置きはこのくらいにして、早速愛とは何かを詳しく学んでいこう。

 

1.自分の利益を求めない

 今日の個所を含むコリントの信徒への手紙一は書簡である。だから、構成が完全ではなく、思いついたままに語られている感がある。だから、愛に関する最も本質的な言葉が途中に出てくる。5節の「自分の利益を求めず」という言葉がそれである。

 愛の本質とは何であろうか。それはまさしく、自分の利益を求めず、他者の利益を求めることである。少し詳しく言い換えれば、自分のことよりも他者のことを優先的に考え、自分を犠牲にしてまで他者のために行動すること、それが愛である。一言で言えば、利他的精神、それが愛である。5節の言葉「自分の利益を求めず」は、このような愛の本質を言い表している。

 これと正反対のものこそ罪である。罪とは他者よりも自分を優先的に考え、他者を犠牲にしてまで自分のために行動することであり、すなわち利己心である。聖書は、人は皆罪人であると断定する(ローマ3:9)。このような断定を聞くと、「自分は罪人ではない」とほとんどの人は思うであろうけれど、もし罪の意味が利己心であるとするなら、この言葉を否定できる者はいないであろう。人の心の中心には、利己心があるばかりで、利他的精神などないのだから。皆さんの心の中心に利他的精神があるだろうか。いや、心の片隅にさえ利他的精神があるだろうか。心の中はほとんど利己心なのではないだろうか。

 よく反省してみればわかる通り、私たちの心には利他的精神などほとんどない。つまり私たちの心には愛などほとんどないのである。親は子供のためなら自分を捨てられるから親には愛があるという人がいるが、それは間違いである。なぜなら親が子供のために命を捨てるのは、子供が自分の子供だからであり、したがってそれは利己的行為なのだから。もし親が他人の子供のために命を捨てられるなら、それこそ愛であるが、そんな親などどこにもいない。親の子に対する心でさえ愛ではないのである。

 であればこそ、愛を完全に実行した罪なきイエスは、神の子と見なされたのだ。というわけで以下は皆、神の子イエスが示した、本来人間の持たない愛の諸相である。

 

2.ねたまず、おごり高ぶらない

 先ずは4節の「ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない」という言葉に注目しよう。要するに、愛は先ずねたまず、おごり高ぶらない態度として現れるということである。

 「ねたみ」も「おごり高ぶり」も利己心から直接に生まれてくる態度である。利己心は絶えず自分と他人を比較して、自分が他人よりも上であることを願う。そして他人が自分よりも上であると思えば不快に思ってねたみ、自分が他人より上であると思えば喜んでおごり高ぶる。挙句の果てには自分より劣っている者を蔑みばかにする。太古の昔から現代にいたるまで、人間社会にはありとあらゆる差別的な慣習や制度がある。性差別、人種差別、宗教差別、階級差別、学歴差別…。なぜこれほどまでに差別が横行するのか。それこそ人が妬みとおごり高ぶりに根深く捕らえられているからだ。男は女より優れているとおごり高ぶり、女を蔑む。ここから性差別が生まれてくる。ある人種は自分の人種は他の人種より優れているとおごり高ぶり、他の人種を蔑む。ここから人種差別が生まれてくる。ある宗教は、自分の宗教が他の宗教より優れているとおごり高ぶり、他の宗教を蔑む。ここから宗教差別が生まれてくる・・・。このようにすべての差別の原因はおごり高ぶりとねたみ、もっと言えばその奥にある自分を他人と比較して自分が上であると願う利己心なのだ。個人がこの心を抜け出せないからこそ、社会から差別はなくならない。

 しかし、愛は妬みとおごり高ぶりから全く解放されている。利他的精神は自分よりも他人が上だからといって不快には思わないし、他人よりも自分が上だからといって喜ばないのだから。むしろ利他的精神は他人が自分より上である場合にはそれを素直に喜び、自分が他人よりも上である場合にはそのことによって他者のために働く義務感を感じる。もし他人の優秀さに喜ぶことができ、自分の優秀さに義務感を感じられるなら、それこそ愛である。

 さて、みなさんはそのように感じることができるであろうか。とてもできないのではないだろうか。どんなに頑張っても妬みやおごり高ぶりが生まれてきてしまうのではないだろうか。このこと一つをとっても、私たちがいかに深く利己心(罪)に捕らえられているかがわかるであろう。そして同時に私たちの心にいかに愛がないかがわかるであろう。

 

3.礼を失せず

 次に注目したいのは、5節の「礼を失せず」である。要するに愛は、第二に礼儀正しさとして現れるのである。

 礼儀の本質とは何であろうか。礼儀作法は社会や文化によって異なるが、その本質は同じ、他者を一個の人格として尊重する態度である。言い換えれば相手を物扱いにしない態度である。愛は利他的精神であるから、そもそもの話、相手を物と見なすようなことはしない。全ての人を一個の人格として尊重するのである。

 では、礼儀には具体的にはどのようなものがあるであろうか。

 先ずは挨拶であろう。どこの国でも、挨拶をするのが礼儀作法であるが、挨拶こそは相手を人格として尊重する精神の第一の現れである。誰が物に挨拶するであろうか。誰が机やいすや花瓶に挨拶するだろうか。挨拶をするのは相手が人格のある人間であるからだ。逆に言えば、挨拶をしないということは、相手を物と見なしていることである。かつては世界中に奴隷がおり、主人は奴隷には挨拶しなかった。奴隷は人格を認められない物同然の存在だったからだ。

 挨拶と並んで普遍的な礼儀作法の一つがお礼をするということである。他の人から好意を受けたなら、感謝して何らかの形でお礼をする。少なくともありがとうと感謝を表明する。これもまた相手を人格として尊重する行為である。好意を受けて何らお礼をしないなら、それは相手を奴隷か何かのようにと見なしているということであり、すなわち物扱いしているということである。

 その延長線上で、もう一つ重要な礼儀作法は、他者の話をきちんと聞いて、それに応答することである。他人の話を聞かずに、応答しないということはまさしく相手を人格と見なさずに物扱いにする行為であり、無礼不作法の極みと言えよう。

これくらい礼儀は重要なことである。ところが、現代ではなんと多くの人が礼儀を重んじないことか。挨拶をきちんとする人がどこにいるだろうか。きちんとお礼をする人がどこにいるだろうか。きちんと他者の話を聞言いて応答する人がどこにいるだろうか。滅多にいない。ほとんどの現代人にとって他者は、傍らに転がっている石ころも同然なのである。これもまた人間が深く利己性(罪)に捕らえられているということの証拠である。さて、みなさんはどうであろうか。皆さんは礼儀正しくあるだろうか。

 

4.愛は寛容であり、情け深い

 次に注目したいのは、4節の「愛は忍耐強い。愛は情け深い」という言葉である。新共同訳では「忍耐強い」と訳されているが、古代ギリシア語原文のマクロスメオウは「猶予する」という意味なので、ここは「寛容である」と訳した方がよいだろう。事実、口語訳・新改訳・岩波訳では「寛容である」と訳されている。

 つまり、愛は第三に寛容さ、情け深さとして現れるのだ。寛容と情け深さは密接に関係している。情け深いとは、相手に同情できるということであり、もっと言えば相手の立場に立ってものを考えられる、相手を理解できるということである。相手を理解できてこそ人は、相手を認め、受け入れることができる、すなわち寛容になることができる。つまり、情け深さの結果が寛容なのである。

愛という側面から説明するなら、愛は利他性であるから、自分に固執せずに、相手の立場になって考える情け深さとなって現れ、その情け深さは異なる相手を認め受け入れる寛容となって現れるというわけである。

現代は世界中で戦争や内乱が起こる時代だが、戦争や内乱を主導する指導者たちには、情け深さも寛容も皆無である。彼らは自分たちの利権を守るために、ひたすら相手を裁き、ひたすら相手を責める。しかし、指導者ばかりではない。庶民にさえも自分と異なる相手を理解しようとせず、受け入れようとしない人が多い。そもそもそういう人たちは他者の話を聞かないほどに無礼なのだから、他者を理解できるはずもない。そしてそういう人たちはこう言い訳するのである。「他者を理解することなど不可能だ」と。確かに他者を完全に理解することなど不可能だ。しかし、その気になれば大半は理解できるはずだ。相手も同じ人間なのだから。もし他者を理解することが不可能であるなら、もはや言葉を交わす必要はなく、一切のコミュニケーションの意味がなくなる。すなわち人格を持った人間である意味すらなくなってしまうのである。

さて、みなさんはどれだけ他者を理解しようとし、他者を受け入れようと頑張っているであろうか。

 

5.怒らず、恨まない

 次に注目したいのは、5節後半の「いらだたず、恨みを抱かない」という言葉である。要するに愛は第四に怒らず、恨まない態度として現れるのである。いったいどのようなときに私たちは怒り、恨むのであろうか。大きく分けて二つの場合がある。一つは自分が正しいと思っていることに反する悪いことを他者が行うときである。例えば、民主主義こそ正しいと思っている場合には、民主主義に反する独裁制を敷こうとするプーチンや習近平は間違っていると思い、彼らに対し怒りと恨みが湧いてくる。もう一つの理由は、自分の利益を侵害するようなことを他者が行ったときである。例えば、誰かが自分の物を盗んだり、自分に暴力を振るってきたりしたら、私たちは相手に怒り、恨みを抱く。これは当然のことと言える。

しかし愛は利他性であるから、誰かが自分の正義に反することを行っても怒らないし、誰かが自分の利益を害しても恨まない。もちろんそのようなことをされても喜ぶというのではない。そのような相手を憐れみ、心から赦すのである。つまり、怒らず恨まない態度とは、憐み赦す態度であると言い換えることができるのだ。これは寛容のはるかに上を行く態度であり、愛の最高点と言ってよい境地である。なぜなら寛容は、異なる相手を認め受け入れるとしても、それは忍耐の上の無理やりのことであるからだ。異なる相手を認め、受け入れるということは、つらいことであり、忍耐を要することなのである。だからこそ寛容の原語であるマクロスメオウは「忍耐強い」とも訳されるのである。ところが怒らず恨まないという態度は忍耐を伴わない。怒りもしないし恨みもしないという態度は、忍耐の上に無理やり出てくる態度ではないのだから。寛容は忍耐をもって異なる相手を無理に受け入れる義務的態度だが、怒らず恨まない態度は心から異なる相手を憐れみ、赦す自発的な態度である。だからこそ、この態度は、寛容のはるかに上を行く、愛の最高点なのである。

イエスはこの最高点を心に持っており、それを実行した。イエスは自分を十字架にかけて殺そうとする相手を心から憐れみ、赦して彼らのために神に祈ったのである。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と(ルカ23:34)。これこそ、怒らず恨まない心の完全な表現である。

言うまでもなく、このような心は私たちにはまったくない。このことこそ私たち人間の全員が愛なき罪人であることの決定的証拠である。

 

6.愛は正義と真実を喜ぶ

続いて6節の「不義を喜ばず、真実を喜ぶ」という言葉に注目しよう。要するに愛は第五に正義と真実を喜ぶ態度として現れるのである。

正義と真実を喜ぶということは当たり前のことであり、そのようなことは別に愛でもなんでもないと思うかもしれない。しかし、果たしてそうかよく考えてほしい。人は本当に正義に喜ぶであろうか。人は本当に真実を喜ぶであろうか。そうではあるまい。人はしばしば、正義よりも悪を喜び、真実よりも嘘を喜ぶのである。例えば、ロシアの国民は正義と真実に喜んでいるだろうか。中国や北朝鮮の国民は正義や真実を喜んでいるであろうか。アメリカでトランプを支持する人々は、正義や真実を喜んでいるであろうか。全くそうではあるまい。彼らは正義や真実よりも、自分に都合の良い情報にのみ喜ぶのである。自分に都合が良ければ悪や嘘にさえ喜び、自分に都合が悪ければ正義や真実ですら否定するのである。それでは、日本人はどうであろうか。陰謀論やフェイクニュースが大流行しているところからすると、日本人が本当に正義や真実に喜んでいるかはかなり怪しい。しかし、何より決定的なことは、日本人が正義や真実に対してきわめて鈍感であるということである。日本人は何が正義であるか不正義であるかに対してほとんど関心を示さない。何が真実であり虚偽であるかにもほとんど関心を示さない。政治家が悪いことをして、嘘をついても、まあそんなものであろうと諦めてしまう。それどころか、そういう政治家を糾弾する人々を、醜い連中だと嫌ってしまう。何が正義で何が真実であるかなど自分の利益には直接関わらないどうでもよいことだからだ。これこそ日本人もまた、正義を喜ばず、真実を喜ばぬ人々であるということの証拠である。

総じて正義や真実は利己的な人間にはたいてい都合が悪い。そして人間はだれしも利己的であるからこそ自分に都合の良くない正義と真実に喜ばないのである。

さて、みなさんはどうであろうか。悪よりも正義を喜び、嘘よりも真実を喜んでいるであろうか。今日の愛の話を聞いて、うんざりするとしたら、それこそまさしく皆さんが正義と真実に喜ばない人間であるということの証拠だ。

 

7.忍耐、信頼、希望

最後に七節の「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」という一言を説明して終わるとしよう。


もし以上のような愛の全てを実践して、愛の人として生きようとするなら、いろいろな試練にさらされ、いろいろな逆境に襲われることになる。なんせ愛の人として生きるということは、自分のことだけを考えて生きる利己的な人々と正反対の道を歩むわけだから、試練と逆境に襲われ続けるのは当然の結果である。

ところが愛の人は、それらの全てから逃げずにそれらに立ち向かっていく。それこそ「すべてを忍び」「すべてに耐える」ということである。それだけではない。愛の人はそれらの逆境や試練の全てを神様の導きなのだと信じることができる。これこそ「すべてを信じ」である。さらに、である。さらに愛の人は、どんなにつらい試練や逆境に出会っても決して絶望せず、希望を失わない。最後には神様が何とかしてくださると思うことができる。これこそ「すべてを望み」である。

 というわけで、今までの話をまとめるとこうなる。愛は、利他的であり、妬みとおごりから解放されており、礼儀正しく、寛容で情け深く、怒りと恨みから解放されており、正義と真実を喜ぶ。さらには試練と逆境に耐える忍耐力と、試練と逆境を導きと捉える神への信頼と試練と逆境にあっても落ち込まない希望を持っている。これらの全てが愛である。一部ではない。これらのような様々な形で愛は現れるのである。そして愛を心の中心に置いた人は、おのずからそのすべてを合わせもつようになっていくのである。

 

9.メッセージ

 それではこの記事を通じて、聖書はいったい何を伝えたいのであろうか。

 キリスト教会のカトリックは言う。以上のようなすべての要素を合わせ持つ完璧な愛の人になれと。そのような愛の人になることを目指し、全力で努力せよと。それが神様の命令であり、救われる道であると。単純明解、きわめてわかりやすい、行いによって救われる道である。

 他方キリスト教会のプロテスタントは言う。以上のような聖書の記事は人間が愛のない罪人であることを知らせるためのものであり、人間は自分が罪人であることを自覚して、そのような自分を愛の人に変えてくださいと神様に祈ればよいのだと。そのように祈れば、神様が私たちをそのように変えてくれ、救いへと導いてくれると。これまた結構わかりやすい、信仰によって救われる道である。

 しかし、春風学寮はそのどちらでもない無教会の寮である。だからこそ独特のメッセージを持っている。それは、いつかも伝えた通り、イエス・キリストにつながってさえいれば、神様が私たちを愛の人に変えてくれるというメッセージである。

 それでは、イエスにつながっているとはどういうことか。もう一歩深いところまで説明しよう。イエスにつながっているとはどういうことか。それは、今日学んだような重要な聖書の言葉を絶えず自分への問いかけとして心に持っていることである。

 自分は果たして愛の人であるのかどうか。愛の人を目指さなくてよいのか。愛の人であろうとすることを諦めてしまってよいのか。愛の人になるためにはどうすればよいのか。そういう疑問を持ち続けることこそ、イエスにつながっているということである。この疑問を持ち続ける限り、人は神様の力によって愛の人に変えられていく。敢えて言うならば、疑問によって救われる道、これこそが無教会である春風学寮の立場である。

 ですから、ぜひとも皆さんには、今日の言葉を自身への問いかけとして心に持ち続けてもらいたい。自分は自分の利益を求めていないか、自分は妬みとおごりに縛られていないか、自分は礼儀正しいか、自分は情け深く寛容であるか、自分はすぐに怒り恨みを抱かないか、自分は正義と真実を愛するであろうか・・・と。

 これらの疑問を持ち続けて生きる限り皆さんは必ずや愛の人へと変えられていき、救われる。これこそ春風学寮のメッセージである。

 

10.話し合い

K君「僕は最近この個所を全部逆に言ったらどうなるのかと考えました。自分の利益を求め、妬み、おごり高ぶり、無礼であり、狭量で冷たく、怒り、恨み、不義と虚偽を喜ぶと。これはもう地獄であり、滅びの道であることは確かです。とすると、この逆の愛の道は確かに命の道ですね。」

寮長「面白い。今日の個所を逆の言葉にして読むとそれはまさに地獄であり、今のこの世の状況そのものですね。」

K君「警察があって処罰されるのが怖いから、みんな秩序を保ちますが、もし警察などがなくなれば、人の世は本当に地獄になってしまうでしょう。ですから僕は、とてもこの世で愛を実践していくことなんてできないと思っています。それができるのはキリスト教徒の間だけなのではないかと。」

寮長「それでも全てに耐え、全てを信じ、全てを望んで愛をこの世で実践するのが愛の人であると7節は言います。とても人間にできることではありませんよね。だからこそ、神様の力にすがり、そういうふうに変えてくださいと祈るほかないというプロテスタントの結論が出てくるわけです。神様に変えてもらわなければ、愛の人になるなんてとても無理ですよ。」

I君「寛容にまでは何とかなれそうだけれど、怒らず恨まないというところまではとてもできないと思いました。そう考えるとやはり自分の中には愛などないのかもしれません。ところで一つ反論があります。ロシアや中国の人たちは、別に好き好んで政府の嘘や不正に喜んでいるのではないと思います。政府による洗脳的教育や言論統制によって、政府の言うことがすべて正しく、真実であると思わざるを得ない状況に追いやられているだけではないでしょうか。」

寮長「それはそうかもしれませんね。しかしトランプの支持者などは、自発的にトランプの言う出鱈目を正しいと信じているわけであって、これは洗脳教育の結果でも、言論統制の結果でもありません。ロシアや中国の人たちだって政府以外の出す情報に触れらないわけではなく、やはり自発的に政府の情報だけに耳を傾けているのです。しかし、積極的に政府以外の情報に耳を傾けている若者も少なからずいるわけですから、確かに私は断定し過ぎたかもしれません。」

Y君「自分は挨拶というものは、ルールだからするだけのものだと思っていました。今日初めて挨拶の本質的意義のようなものが分かり、挨拶をしようと思うようになれました。」

寮長「それはうれしいですね。」

S君「相手に良かれと思ってやっても、相手にとってはただの迷惑であることがあると思います。」

寮長「そういうことはあるでしょう。しかし、そういうのは、愛ではない。愛には、相手の立場になって考えるということが含まれるのですから。さっきそう学びましたよね。」

S君「もう一つ思うことは、愛を実践すると言っても、それはやはりそれをよしとする利己心の現れなのではないでしょうか。だから、僕はあまり愛には深入りしないようにし、他者とはフラットな関係で付き合っていこうと持っています。」

寮長「愛を実践することも利己心の現れだという意見は、どういうわけか毎年のように一~二年生の誰かから提出される疑問です。8年間同じことを言い続けて愛を否定し続けた先輩もいます。それは、確かにその通りです。人間の実践する愛にはすべて利己心が含まれています。だからこそ人はみな罪人だと聖書は言うのです。しかしこの意見を述べる人たちの意図はそのような聖書の言葉に同意することにはなく、どうも別のところにあるように思えてなりません。というのも、この意見を述べる人は決まって愛の実践には後ろ向きだからです。s君もそうですよね。ひょっとすると、愛なんてめんどうなこと実践したくないから、愛そのものを否定しようとしてこういう意見を述べるのではないでしょうか。」

F君「寮長、そこまで言っちゃうんですか。」

M君「僕の大学はカトリックの大学(上智大学)ですから、まさしく愛の実践を説いています。壁のあちこちにそういう言葉が張ってあるのです。しかし、そういう教えは全てお飾りになっていて、誰も心から愛を実践しようとしていません。その現実を思いだすと、本当に人の心には愛なんてないのだなあと思ってしまいます。しかし今日の最後のメッセージは心に染みました。疑問によって救われるというのは本当にありかもしれないと。聖書の言葉を問いかけとして持って行くならば、いくらかなりとも愛の人に変えられていくのではないでしょうか。」

寮長「そうなんです。この寮のOBにはそのようにして変わっていった人がたくさんいます。」

G君「僕は友人や先輩からさげすまれていたので、蔑む人たちを軽蔑していました。しかし軽蔑し続けるうちに自分も彼らと同類だと思うになってきました。なぜそう思うようになったかというと、寮での学びを通じて本当に大切なものは能力や頭の良さではないのだ、温かい人間関係なのだと気づかされたからです。」

寮長「これまたすごい話ですね。もし君がそのように変わったのだとすれば、それこそ聖書の言葉が君を変えたということですよ。」

F君「親の愛は、本当の愛ではないということが引っかかっています。僕の母親は僕のことも他の子どものことも等しく愛していますから。」

M君「それは君のお母さんが特別なんだよ。そんな親は現実にはほとんどいないと思う。」

U君「確かにたくさんの親は子供のことを自分の所有物のように考えていて、子供を自分の思い通り育てようとします。そういうところを見ると、親の愛は自己愛の延長線上にあると考えざるを得ません。しかしもし親が自分の子供を別人格として尊重しているなら、そこには愛に近いものがあるのではないでしょうか。」

寮長「そうですね。確かにそれは愛に近づいていると思います。そういう点から考えれば、親の子に対する愛は愛ではないというのは、言い過ぎかもしれませんね。しかし、そういう親ですら、ほかの子供よりも自分の子供を断然に愛しています。そこにはやはり、利己心があると思います。いやはや、今日は近来まれにみる充実したひと時でした。皆さんに、そしてお導きくださった神様に、心より感謝を捧げます。」