2024年12月1日春風学寮日曜集会
聖書 マタイによる福音書27:15-26
讃美歌537,107
1.解説
①バラバとピラト
27:15 ところで、祭りの度ごとに、総督は民衆の希望する囚人を一人釈放することにしていた。
27:16 そのころ、バラバ・イエスという評判の囚人がいた。
27:17 ピラトは、人々が集まって来たときに言った。「どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか。」
27:18 人々がイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。
*「評判の囚人」という言葉は重要である。原語からすれば「悪名高い囚人」とも訳せるのに、新共同訳では「評判の囚人」と好意的にも解釈できる訳を採用した。ほとんどの和訳聖書も同様の訳である。いったいなぜか。実際バラバ・イエス(イエスと同名)がユダヤ人の民衆の間で評判が良かったからである。いったいなぜ評判が良かったのか。
・そもそもバラバはどのような罪を犯したのであろうか。マルコによる福音書には、「暴動のとき人殺しをして投獄されていた」(15:7)とある。さらにヨハネによる福音書18:40には、「バラバは強盗であった」とある。つまりバラバは、強盗であり、殺人犯であり、反乱者であったのだ。表面的に見れば、バラバは極悪非道の男である。
・しかしそのような皮相な読み方をしても始まらない。私たちはなぜバラバがこのような凶悪犯になったのかというところまで読み取る必要がある。この謎を解くカギは「暴動」という言葉にある。当時ユダヤ人の間では、ローマ帝国の支配に反対する暴動が何度も起こっていた。イエスもまたその暴動の頭として何度か担ぎ上げられたことがあった。いったいなぜ彼らは「暴動」を繰り返し起こしたのか。
・いうまでもなく皇帝を神と崇めたくないからである。ローマ帝国の皇帝は、ギリシア・ローマの神々の後援を受けた神々の代理であった。そのような皇帝をユダヤ人が受け入れられるはずがない。そのような皇帝を受け入れることは、律法の第一戒「わたしのほかに神があってはならない」の完全な違反になるのだから。だから、ユダヤ人の大半はローマ帝国を憎んでいた。ローマ帝国は強大であるからその支配には服従せざるを得ないのだが、心の底では、神々の代理を僭称する皇帝とその支配下にあるローマ帝国を激しく憎んでいた。だからこそ、彼らは繰り返し暴動を越したのである。
・バラバはそのような暴動の首謀者か切り込み隊長であった。だから、暴動の過程で当然殺人も強盗も犯したに違いない。しかしユダヤ人の目から見れば、彼は決して極悪人ではなかった。神にのみ従うために命をかけて戦った英雄だったのだ。
*そのようなバラバとイエスのどちらかを釈放してやるから選べとピラトは民衆に言った。ピラトなら独断でどちらかを選ぶことができたであろう。そして彼としてはイエスを釈放したいと思っていた。ユダヤ人の指導者たちが「イエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたから」であり、イエスは無罪であると考えていたからだ。しかし彼もまた民衆を恐れていた。民衆の希望に沿わない者を釈放したりすれば、暴動が起こるかもしれない。現在エルサレムには少なくとも数十万のユダヤ人が過ぎ越し祭に集まってきている。彼らが暴動を起こしたりすれば大変なことになる。だからこそ彼は民衆の希望を満足させることを最優先し、釈放者を選ばせようとしたのだ。恐らくピラトは、民衆がイエスを選ぶと考えていた。なぜならイエスはユダヤ人指導者らにねたみを起こさせるほどに人気者であったのだから。ピラトは恐らくこう計算したのだ。人気者のイエスを民衆の希望にしたがって釈放すれば、民衆は満足して大喜びし、過ぎ越し祭も無事に終わると。
・ちなみにユダヤ人の指導者たちがイエスを引き渡したのは「ねたみ」のためではない。その裏には前回確認したような複雑な宗教的事情(神の子であると称して神殿と律法をないがしろにした)があった。しかしそのような宗教的事情はピラトにはわからない。ピラトの目から見れば、ユダヤ人の指導者たちがイエスの人気をねたんだためにイエスを死刑にしようとしているようにしか見えないのだ。
②ピラトの妻
27:19 一方、ピラトが裁判の席に着いているときに、妻から伝言があった。「あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました。」
27:20 しかし、祭司長たちや長老たちは、バラバを釈放して、イエスを死刑に処してもらうようにと群衆を説得した。
*そのようなピラトのもとへ妻から伝言が届く。「あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました」と。
・裁判の場に妻の伝言が届けられるなどありそうにない話だが、ローマなら大いにありうる。ローマ人の男は妻を非常に重んじ、妻の意見にしばしば従った。だからローマの高官の妻のもとにはたくさんの嘆願者が訪れた。ローマの高官の妻は、人々と高官の仲介役だったのだ。そのような背景を考えれば、裁判の場に妻の伝言が届けられるということは、大いにありうることである。
・さて、この伝言で注目すべきことは、彼女がイエスを釈放してくださいと言っていないことである。彼女は、単に「あの正しい人とは関係しないでください」と言っているに過ぎない。つまり彼女は、イエスが正しい人であることを夢で知らされながら、イエスを助けようとせず、見捨てようとしているのである。ピラトの妻もまたイエスを十字架へとつけた罪人の一人なのである。
・では、妻から伝言を受け取ったピラトはどう思ったであろうか。妻が正しい人だというのなら、イエスは本当に正しい人なのであろうと思い、ますますイエスを釈放したくなったに違いない。
*それにしても、ピラトの妻はなぜこのような夢を見たのであろうか。この脈絡からすればどう見ても神のお告げである。だとすればなぜ神はイエスの夢をピラトの妻に見せたのか。この後のユダヤ人指導者たちの行動を見れば理解できる。彼らは、この伝言のゆえにイエスが釈放されるのではないかと不安になり、群衆を必死で説得しだしている。この説得が功を奏して、イエスは十字架へつけられることになる。ということは、神はイエスを十字架へと導くためにピラトの妻にイエスの夢を見せたということになる。神は驚くべきことに、ローマ人の妻に夢を見せてまで、イエスを十字架へと導こうとしているのだ。
③なぜ群衆は寝返ったのか
27:21 そこで、総督が、「二人のうち、どちらを釈放してほしいのか」と言うと、人々は、「バラバを」と言った。
27:22 ピラトが、「では、メシアといわれているイエスの方は、どうしたらよいか」と言うと、皆は、「十字架につけろ」と言った。
27:23 ピラトは、「いったいどんな悪事を働いたというのか」と言ったが、群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び続けた。
27:24 ピラトは、それ以上言っても無駄なばかりか、かえって騒動が起こりそうなのを見て、水を持って来させ、群衆の前で手を洗って言った。「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。」
27:25 民はこぞって答えた。「その血の責任は、我々と子孫にある。」
27:26 そこで、ピラトはバラバを釈放し、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。
*妻の伝言を聞いたピラトは今やがぜんイエスを釈放したい気持ちになっている。だからこそ再び群衆に問う。「二人のうち、どちらを釈放してほしいのか」と。繰り返すが、ピラトは「イエスは人気者だから、ユダヤ人の群衆はイエスの釈放を願うだろう」と思っていた。ところが驚くべきことに、群衆が選んだのはバラバであった。しかも単にバラバを選んだだけでなく、イエスを「十字架につけろ」と積極的に叫び出した。いったい何が起こったのかピラトにはまったくわからなかったであろう。だからこそ彼は問う。「(イエスが)いったいどんな悪事を働いたというのか」と。
・しかし群衆は答えない。繰り返しイエスを「十字架につけろ」と叫ぶばかりであった。もはやイエスを釈放して全てをまるく収めるというピラトの夢は断たれた。それとは逆にイエスを処刑することによって暴動を収めなければならなくなった。しかし、無実の者を処刑するという罪は負いたくない。だからこそ、水を持って来させ、群衆の前で手を洗い、「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ」とはっきり述べたのだ。この宣言によってピラトは確かに間違った判決を下すという罪は免れた。しかし無実の者を処刑しようとする人々を見過ごしたという罪は残る。ピラトは、統治のためには正義の人を犠牲にできる人だったのだ。
*他方民衆は、イエスの処刑責任を進んで担おうとしている。「その血の責任は、我々と子孫にある」と断言しているのだから。民衆はいったいなぜイエスを見限ったのだろうか。見限っただけでなく、なぜここまで積極的にイエスを十字架につけようとするのであろうか。
・二つの可能性が考えられる。一つはペトロがイエスを呪ったのと同じ心理である。ペトロはイエスの最愛の弟子であったにもかかわらず、イエスが逮捕されると、呪いの言葉さえも発してイエスをののしった。イエスと自分が仲間ではないことを示すことによってイエスのように逮捕されないためだ。これと同じことが民衆にも起こったのではないか。このような早朝から神殿に駆けつけている群衆はイエスに特別な関心のある群衆であり、十中八九イエスの故郷のガリラヤから来た人々である。つまり彼らは、イエスから病気を治してもらったり、悪霊を追い出してもらったりした人々である。そのような人々は、イエスと同様に糾弾される可能性がある。ユダヤ人の指導者たちは恐らくそこをとらえて、彼らを説得したのであろう。「イエスの味方をするなら、お前たちもイエスと同罪だ」と。この言葉を聞いたガリラヤ出身の民衆は震えあがったに違いない。そこで彼らは自分を守るために自分がイエスの仲間ではないことを示そうとし、イエスを「十字架につけろ」と叫び出したのではないだろうか。いわゆるスケープゴートの論理である。
・もう一つはイエスへの幻滅である。ガリラヤから来た民衆はイエスこそ救世主であると思っていた。イエスこそはローマ帝国を撃退し、偽善的なユダヤ人の指導者たちを一掃し、神の国を打ち立ててくれるものと信じていた。ところがそのイエスが、何の抵抗もしないまま、弱々しく殺されようとしている。このことに彼らは激しい幻滅を感じ、イエスに騙されたと思ったに違いない。それに比べて、バラバは命がけでローマ帝国に戦いを挑んだ。もしバラバを釈放すれば彼は再びローマ帝国に対して反旗を翻して戦ってくれるかもしれない。こうして彼らはバラバこそは自分たちの英雄であり、イエスはペテン師だと思った。だからこそ彼らはバラバを釈放し、イエスを十字架にかけろと叫んだのであろう。
・おそらく両方の思いが彼らの中にはあったであろう。だからこそ、彼らは「その血の責任は、我々と子孫にある」と強烈に断言できたのだ。
2.メッセージ
①罪の鏡
イエスは罪のない正しい人である。そのような人がその通りに生きようとすると人々と必ず衝突することになる。人々は罪と共に生きているので、イエスに近づき、イエスと交わるなら、自分の罪が明らかになっていくからだ。
例えばピラトの妻。彼女はそれなりに善人であったに違いない。しかし夢でイエスと出会い、その正しさに触れてしまったとたん自分の罪が現れてきてしまった。彼女は正しいイエスを助けようとせず、イエスと関わらないよう夫に忠告したのだから。彼女は正義を実践しようとしない、傍観者であったのだ。
ピラトも同じだ。ピラトは良識に富んだ優秀な統治者であった。ところがイエスを裁くことになったとたん罪が現れてきた。正しいイエスを犠牲にしてまで、民衆の機嫌を取ろうとしたのだから。彼は統治のためなら平気で正義の人を犠牲にする非道の人であったのだ。
ガリラヤから来た民衆もそうだ。彼らはかつて圧政に苦しむ貧しき民であった。ところがイエスと交わり続けるにつれて罪が現れてきてしまった。彼らはイエスにご利益を求め、それを実現するための王になることを求め、最後には王にならないからと言って殺してしまうのだから。彼らは自分の欲望を満たすために他者を犠牲にする利己主義者であったのだ。
このような人々の罪が折り重なってイエスを十字架に向かわせていく。イエスは正しいがゆえに人々の罪をあぶり出していき、その結果十字架につけられることになるのだ。そして驚くべきことにこれこそが神の導きであるのだ。
そこで今日の個所から受け取るべき一つ目のメッセージは「イエスを鏡にして自分の罪に気付こう」である。イエスをじっくりと見つめ、イエスについて学んでいくならば、私たちは自ずから自分の罪に気付くことができる。自分の罪に気付けばこそ、人は真の意味で成長して行くことができる。だから、皆さんにはぜひともイエスを鏡にして自分の罪に気付く道を歩んでほしい。
②聖なる交換
しかし、今日の個所から受け取るべき最も重要なメッセージはバラバが与えてくれる。バラバは何の言葉も発しない。ただイエスが十字架につけられることになったお陰で釈放されるだけである。しかしそのことの中に新約聖書中最大のメッセージが込められている。すなわち聖なる交換というメッセージが。
そもそもバラバとはいったい何者か。バラバは力によって神の国を築こうとした人物であり、つまり弱さと敗北による支配を打ち立てようとするイエスとは正反対の人物である。だからこそ彼は暴動を起こし、殺人も強盗も行った。彼にとって暴動も殺人も強盗も決して悪ではなかった。それらは全て力によって神の国を築こうとする正義の行為なのだ。ユダヤ人の民衆は彼を支持した。ということは、彼らもバラバと同様の考えを持っていたということだ。
これと同じことが現在も繰り返されている。力によって自分の国を築いていこうとする独裁者が次々に現れ、そのような独裁者を民衆は歓呼をもって支持している。トランプを支持し、ハリスを見捨てたアメリカ人は、バラバを支持し、イエスを見捨てたユダヤ人とそっくりではないか。今も昔も人は強いものを愛し、力こそ世を変える手段であると信じている。そして力によって自分の国を築こうとし、力によって敵を滅ぼそうとする。ということは、バラバは全人類の代表なのである。
そして重要なことは、そのバラバが十字架を免れ、イエスが十字架にかけられたということである。これはバラバが正しく、イエスが間違っているということではない。間違っているのは自分の目的の実現のためなら間違ったこともするバラバの方であり、正しいのは愛するために自分を捨てるイエスの方である。にもかかわらず、間違っている者が釈放され、正しい者が殺されるという判決を人々は出した。ここには、力によって自分の欲望を実現しようとする全人類の罪が現れている。
それでは、この間違った判決になぜ神もイエスも甘んじたのであろうか。その理由の第一は、前回学んだように、弱さと敗北による支配を打ち立てるためである。イエスの十字架は愛と正義を貫くために弱さと敗北に徹した者の栄光を人々の心に刻み付ける。他方力で自分の欲望を満たそうとする人々の闇を人々の心に刻み付ける。これら二つのことを通じて神とイエスは敗北と弱さによる支配を打ち立てようとしている。だからこそ神もイエスも人々の間違った判決に甘んじたのだ。
しかし、今日の個所はそれ以上の意味がイエスの十字架にあることを教えてくれる。イエスの十字架は、人類の罪を神が実際に赦し、その罪と死をイエスが代わりに背負う行為であったということを。本来バラバは罪人として処刑されるはずであった。ところがそのバラバが赦されて命を得、代わりに正しいイエスが罪人として処刑されている。つまりイエスはバラバに命と義を与え、代わりにバラバの死と罪をもらったのだ。もしバラバが人類の代表であるとするならば、イエスは人類に自分の命と義を与え、代わりに人類の罪と死を引き受けたということになる。自分の命と義を相手の死と罪と交換する。これがイエスの十字架において起こったことであり、これが聖なる交換と呼ばれるものである。
この聖なる交換のゆえに、人類の罪は赦され、死は克服されたと今日の個所は宣言する。この宣言こそが今日の個所の最大のメッセージである。このメッセージを私たちは無理に受け入れる必要はない。私たちが受け入れようが受け入れまいが、この聖なる交換は事実として成立していると聖書は主張するのである。
しかし、もしこのメッセージを受け入れるなら、人は霊的に新たに生まれ変わることができる。イエスのように相手の罪を背負い、相手の死を背負えるものとなるのだ。その典型的な例としてコルベ神父のアウシュビッツでの出来事を紹介しよう。
第二次世界大戦の末期、コルベ神父はアウシュビッツの捕虜収容所に収監される。そこでは、もし一人の脱走者が出れば、彼と同じ部屋にいる20人の他の者が独房に入れられ、餓死させられる決まりになっていた。餓死刑は、死が訪れるまでに何週間もかかるので、収容所で行われていた最も残酷な刑であった。ある日、コルベ神父の収容所から脱走者が出た。決まりに従って、同部屋の者は全員呼び出され、そのうちの10人が一先ず餓死刑に処されることになった。幸いコルベ神父はその10人に選ばれなかった。ところが選ばれた10人が独房へと連れ去られていこうとしたとき、コルベ神父は所長の元へ走り出した。所長は言った。「止まれ、ポーランドの豚め」と。コルベ神父は所長の前に立つと、顔に笑みさえ浮かべてこう言ったのだ。「私は受刑者の一人に代わって死にたいのです。」所長は狼狽して言った。「一体どういうわけなんだ。」コルベ神父は答えた。「私は年寄りで生きていてもあまり役に立ちません。どうぞあの妻子のいる男性の代わりに私を独房に入れてください。」所長はどう対応してよいかわからなくなった。彼の頭の中にあるあらゆる常識に反することをコルベ神父が行おうとしていたからだ。無限に近いと思われるほどの長い沈黙が続いた。全員が所長を見つめた。そしてついに所長が口を開いた。「よし、あいつの代わりにお前が死ぬとよい。」なぜ所長が素直にコルベ神父の申し出を受け入れたのか全く分からない。以降彼は科目になってしまった。いずれにせよ、コルベ神父は別の囚人の身代わりとなって餓死刑に処せられた。独房に入れられるとコルベ神父は他の9人を慰め、彼らのため祈りをささげ、共に讃美歌を歌おうと呼びかけた。彼に応じて全員が讃美歌を歌出した。独房は、聖なる礼拝堂へと変わった。ドイツ兵は独房から聞こえてくる讃美歌に耳をふさいだ。彼らは明らかに怯えていた。力では勝利しているのに、心の中では圧倒的な敗北を感じていた。こうしてコルベ神父は、9人全員を独房で看取り、最後に穏やかになくなっていった。彼は自分の食べ物を周囲の人たちに分け与えていたから最も飢えていたはずなのに。
以上の全体はコルベ神父がイエスの聖なる交換を信じ、その通りに生きようと願ったがゆえに起こったことである。聖なる交換のメッセージを受け入れるなら、皆さんにも同様のことが起こる。
3.話し合い
Ko「イエスと向き合うと自分の罪がどんどん見えてきて、自分が嫌になることがあります。自分はピラトの妻であり、ピラトであり、群衆であると思ってしまうのです。」
寮長「自分の罪がわかると相手の尊厳を傷つけるようなことは言わなくなるのではないでしょうか。」
Ko「全く逆です。最近僕は他者を裁きまくっています。」
寮長「自分の罪がわかると他者の罪も見えてくるのですね。」
寮母「だからこそ聖なる交換を信じる必要があるのではないでしょうか。聖なる交換によって自分が赦されているということを信じられれば、他の人も赦せるようになると思います。」
寮長「なるほど。」
Ka「群衆は完全に冷静な判断力を失っていると思いました。」
寮長「これは鋭い。個人では善人である人も、集団になると悪人になる。イエスの処刑には集団ヒステリーのような側面もあったでしょう。」
Ka「それから、ドイツ兵はコルベ神父の行動によって何かを打ち崩されたのではないでしょうか。」
寮長「その通りだと思います。彼らは力こそ世を支配するという価値観を打ち崩される気がしたのだと思います。だから怯えた。」
Ya「僕はピラトやピラトの妻はいい人なのだと思って読んできました。しかしそうではないということが今回分かりました。ところで寮長は、前々回ローマの総督はイエスのことを殺したいと思っていたという話をしたと思いますが、今日はそれとは違うことを言っていたように思うのですが。」
寮長「これまた鋭い。ピラトはイエスは無実なので、死刑にしたくないと思っていました。しかし、だからと言ってその思いを通そうとはしなかった。統治者としての責任を全うする方を選び、イエスの処刑を認可したのです。この視点から見れば、ピラトも結局はイエスの死刑に賛成だったと言うことができます。しかしピラトがイエスを殺したがっていたというのは間違いです。そう言ったのだとしたら、訂正します。」
Mi「コルベ神父の話は子供の頃に何かで読みました。そのときには、結局殺されてしまう悲しい話だと思っただけです。しかし今日の話を聞いて、決して悲しいだけの話ではないと分かりました。そこにはもっと大きな意味があると。」
寮長「わかってくれてうれしいです。」
Ma「僕は自分には罪がないと思っていました。だから、イエスと向き合うと自分の罪がわかるという今日の話には心を動かされました。僕もまじめにイエスと向き合って自分の罪を発見していこうと。」
寮長「いいですねえ。」
Go「他者は自身の鏡ということを誰かから教わりましたが、それとイエスは罪の鏡というのは同じことですか。」
寮長「違います。他者は自身の鏡というのは、他者の罪を見て自分の罪を知るということですよね。しかしイエスは罪の鏡というのは、イエスの正しさを見て自分の罪に気付くということです。しかし、両方大切なことですね。他者を裁いているとき、よくよく振り返ってみれば、自分もその人と同じことをしていると気付ける。イエスと他者の両方と真剣に向き合えば、最高ですね。」