2023年10月15日春風学寮日曜礼拝
聖書個所 マタイによる福音書22:34-40
序
今日の個所は、寮の講話では何度も取り上げられる個所であり、もう耳タコである者もいるだろう。しかし、聖書は知恵の湧きだす無限の泉である。この耳慣れた個所も、少し角度を変えて学べば、新しい知恵を学ぶことができる。
1.解説
22:34 ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。
*サドカイ派が復活問答で言い込められたと聞いたファリサイ派の人々は再び集まってイエスを陥れようと画策する。彼らは、民衆がイエスになびいて律法をないがしろにすることを恐れ、いよいよ全精力を注いでイエスに難問をぶつけようとしている。イエスが十字架にかけられるのはこの数日後である。だとすれば今日の問答は、ファリサイ派の人々にイエス殺害を決意させるほど重大なものだったのだ。今日の問答はなぜファリサイ派の人々をそれほどに怒らせたのか。以下探っていこう。
22:35 そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。
22:36 「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」
*「律法の専門家」と呼ばれているからには、彼は律法学者の中でも格上だったのであろう。その彼が「先生」とイエスを呼んでいる。この呼びかけは、前にも述べたように、イエスに恥をかかせるための布石である。「先生」と呼ばれた以上、イエスは完璧な応答をしなければならない。つまりこの言葉はイエスを完璧な応答をせざるを得ない状況に追い込むための常とう手段なのである。
・さて彼の尋ねた質問は「律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」というものであった。この質問のどこが悪辣な罠なのであろうか。実はこの質問の悪辣さについて見抜いている聖書学者はほとんどいない。聖書の記事自体が多様だからである。マルコによる福音書の並行記事(12:28-34)では、この律法の専門家とイエスは和解してしまっているし、ルカによる福音書の並行記事(20:27-40)ではこの問いに答えたのは律法の専門家自身になっている。しかし、この問答を通じてイエスと律法の専門家が和解することなどありえまい。イエスの答えは、律法の専門家の考えを踏みにじるものであったからだ。また、律法の専門家自身がこの問いに答えるということもありえまい。この答えは律法の専門家の考えでは及びもつかない境地のものであるからだ。つまりマタイによる福音書の今日の記事こそが史実に近いのである。それでは、イエスの答えはいったいどれほど律法の専門家の考えを踏みにじり、かつどれほどそれとかけ離れたものだったのか。以下、ある学者の仮説に基づいて解説していこうと思う。
・彼は律法の専門家であるから、当然この質問(どの掟が最も重要か)の答えはわかっていた。その答えとはもちろんモーセの十戒の第一戒「わたしをおいてほかに神があってはならない」である。恐らくイエスがそう答えるのは間違いないだろう。しかし問題は二番目に重要な掟である。イエスがそう答えた後に彼は、「それでは二番目に重要な掟は何でしょうか」と尋ねるつもりであった。この質問にイエスが何と答えるか、これこそがこの質問の奥に潜む悪辣な罠だったのである。
・では二番目に重要な掟とは何か。これについてもファリサイ派の人々の間では、答えが決まっていた。モーセの十戒の第四戒「安息日を心に留め、これを聖別せよ」なのである。第二戒「あなたはいかなる像も造ってはならない」と第三戒「主の名をみだりに唱えてはならない」は第一戒の補足でしかない。しかし第四戒はそうではない。これこそは、第一戒を具体的に実行していくための中心基盤になるものだからだ。ユダヤ人は少数民族であり、しかもバビロン捕囚などであちこちに離散させられていた。だから、民族的アイデンティティを意識的に保つ必要があった。そのための中心手段こそが第四戒「安息日を心に留め、これを聖別せよ」だったのである。だから、ファリサイ派の人々はおろか、全ユダヤ人にとって第四戒は文句なく二番目に重要な戒であった。であればこそ、第四戒を破った者には死刑という厳罰が課されたのである。(出エジプト記31:15「だれでも安息日に仕事をする者は必ず死刑に処せられる。」)
・だから、二番目に重要な掟は何かと問われるなら、イエスもまた第四戒であると答えるだろう。そのときにこそこの律法の専門家は告発するつもりだったのである。「お前は第四戒を破ったではないか。お前は死刑に処されるべき罪人なのだ」と。思い出して欲しい。イエスは12章で安息日に手の萎えた人の治療を行っていた。治療行為は緊急でない限り、労働と考えられ、安息日には禁止されていたから、イエスの行為は完全に第四戒違反である。律法の専門家はこの質問を通じて、イエスの律法違反を公に告発しようと誘導しようとしているのだ。これはいかにもファリサイ派の人々が共謀して考え付きそうな罠ではないか。
*さて、イエスはどう答えたであろうか。
22:37 イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
22:38 これが最も重要な第一の掟である。
*この答えは、第一戒(わたしの他に神があってはならない)に沿うものであったから、律法の専門家は計画通りだとほくそ笑んだであろう。
・しかし、イエスがここで第一戒を直接引用しなかったことは重要である。ここにはイエスの応答の真の意図が隠れている。イエスは律法を越えた何かを語ろうとしているのだ。
*しかし、そんなことに律法の専門家が気づくはずがない。「待ってました」とばかり、次に重要な掟は何ですかと問おうとしたとき、イエス自らが即座に二番目に重要な掟を語り始めた。恐らくイエスは、律法の専門家の罠を見抜き、機先を制したのであろう。
22:39 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』
22:40 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」
*たった二行である。このたった二行のうちにファリサイ派を激怒させ、人類の歴史をひっくり返すほどの意味が含まれている。
*まず改めて確認すべきことは、この言葉もまたモーセの十戒の内にはないということである。この言葉が出てくるのはレビ記19章18節であるが、その直前には改めてモーセの十戒が繰り返され、その結語としてこの言葉が語られる。
19:18 復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。
「わたしは主である」の一言がこの言葉がある種の結語であることを示している。
・それにしても、イエスがこのような十戒以外の個所を引用したのはなぜであろうか。それは恐らく律法(掟)の上位に属するさらに重要なこと、すなわち神様の御心そのものを提示しようとしたからであろう。この解釈の正しさは、「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」という言葉によって裏付けられる。「律法と預言者」とは旧約聖書全体のことである。それがこれら二つの掟に基づいているというのだから、この二つの掟はもはやただの掟ではない、聖書全体を統括する原理のようなものなのである。イエスはまさにこの二つの掟こそは、掟を超えた原理であり、神の御心そのものだと言おうとしているのだ。
・この言葉はいったいどれだけファリサイ派の人々を脅かしたであろうか。ファリサイ派の人々は律法をよりどころとする人々である。その律法より上位の原理があり、しかもそれが神の御心だとするならば、律法はその絶対性を揺さぶられる。これだけでも彼らはただならぬ危機感を抱いたであろう。
*次に注目すべきは「隣人」という言葉である。レビ記の脈絡では、この隣人は「民の人々」のことであり、すなわちイスラエルの民を指す言葉であった。しかしイエスがこの言葉を語るとき、この「隣人」の意味は変わる。イエスは「隣人」を無限に広くとらえており、そこには罪人も異邦人も含まれていた。事実イエスはそのようなあらゆる人に癒しの業を施し、そのような人々をこそ愛しなさい(敵を愛しなさい)と人々に教えていた。そのような隣人(すべての人間)を愛することが律法をも超える重要な神の御心なのだとすれば、ファリサイ派の人々は完全に間違っていたことになる。なぜなら彼らのやってきたことは、異邦人を排除することであり、罪人を裁くことであったからだ。ここにファリサイ派の人々は自分たちが完全に否定されたこと知った。これでは彼らが激怒するのも無理はない。
*さらに注意すべきことがある。それはこの二つの掟の同格性である。ファリサイ派の人々は、第一の掟の方は全身全霊で守ろうとしてきた。つまり、『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』という掟は彼らなりには必死で守ってきたのである。それはモーセの第一戒とほぼ同内容であるのだから。しかし、もし「神である主を愛しなさい」が神の御心の半分でしかなく、その御心のもう半分が「隣人(すべての人)を自分のように愛しなさい」ということであるとするならば、再び彼らは間違いを犯していたことになる。彼らは隣人(すべての人)を愛するなどということは全く行わず、イスラエルの民以外の隣人を切り捨て来たのだから。異邦人を排除し、罪人を裁き、社会的弱者を見捨ててきたのだから。
*最後にもう一つ。わたしは先ほどモーセの第一戒と最も重要な掟はほぼ同内容であると述べた。しかし厳密に言えば両者は同じではない。第一戒は「わたしをおいてほかに神があってはならない」という否定命令であり、イエスが引用した申命記の言葉は「あなたの神である主を愛しなさい」という肯定命令であるからだ。否定命令は行動の禁止を命じ、人の行動を狭めていく。事実ユダヤ人はこの戒めを守るために何百もの掟を作り上げていき、安息日には何の行動もできない状況に陥っていた。否定命令は律法主義を促すのだ。対して肯定命令は行動を促し、人の行動を広げていく。事実イエスは、掟にとらわれずにどんどんと行動の範囲を広げ、安息日にさえ人助けを行った。肯定命令は自由を促すのだ。
・もし神の御心が基本的には否定命令ではなく肯定命令にあったのだとすれば、何百もの掟を作り、人々の行動を制限してきたファリサイ派の人々の過去は過ちだったということになる。これまた彼らとしては断じて認めえないことである。
*このように、イエスの応答は四つの本質的な次元からファリサイ派の人々を否定するものであった。そうであればこそ彼らはイエス殺害を実行せずにはいられなくなったのである。
2.メッセージ
というわけで、今日の個所がいかに豊かであるは理解できたと思う。以下、そのメッセージをまとめてみよう。
①律法ではなく御心を
一つ目はやはり、私たちのすべきことは、律法を杓子定規に守ることではなく、神の御心に従おうとすることだということである。律法は確かに重要である。それは人間の行動に秩序と指針を与えてくれる。しかし神様は人間にそれ以上のことを望んでいる。人間が律法を尊重しながらもそれを超えて愛を追求し、積極的に実行していくことを望んでいるのである。イエスはまさしくその通りに生きた。律法を尊重しながらも、それを超えて愛を追求し、実践していった。時代は変わり、状況は変わる。律法の応用が絶えず求められるのである。私たちがここで学ぶべきことは、律法を無視することではなく、律法を指針としながら、真の愛の在り方を追求し、それを実践していくことの重要さなのである。
それでは、どうすれば真の愛の在り方を知ることができるのであろうか。その道こそは信仰と祈りであろう。神様は生きた人格である。そのような神様への信仰と絶えざる祈りによって真の愛の在り方は明らかにされていく。
②神を愛し、かつ隣人を愛せ
二つ目は、神を愛しなさいという掟と隣人を愛しなさという掟が共に神の御心であり、両方を実行しようとして初めて神の御心に近づくことができるということである。片方だけではだめだということである。神を愛しなさいという掟のみを実行しようとするなら、ファリサイ派の人々がそうなったように、聖なる神にふさわしくない汚れた人々をことごとく排除していく方向に向かっていく。異邦人を排除し、罪人を裁き、弱者を切り捨てる方向へ向かっていくのである。他方、隣人を愛しなさいという掟だけを実行しようとするなら、欲望に満ちた人やエゴに満ちた人を認めることにつながっていく。そもそも人類全体が欲望とエゴに満ちた存在であるとするなら、そのような人類を愛し続けることは自滅の道を突き進むことを意味する。隣人を愛しなさいという掟だけを実行していこうとするなら、そのような自滅の道を歩むことにすらなりかねないのである。
だから、私たちは両方の掟を実行しようと努力しなければならない。神を愛し、かつ隣人を愛さなければならないのである。それでは具体的にはどうすれば両者を両立することができるのか。その第一の方法は先ほど述べたように神様にその両立を祈り求めることであるのだが、もう一つの方法はこれら二つの掟の本質をより深く知ることである。神を愛しなさいという掟の意味するところは、聖なる者を愛しなさいということであり、言い換えればそれは、神様の属性である正義を重んじ、実行しなさいということである。つまりこの掟の命じるところはつまるところ正義の実行なのだ。他方隣人を愛しなさいとは、罪深い弱い人間を愛しなさいということであり、言い換えれば赦しと憐みを重んじ実行しなさいということである。つまりこの掟の命じるところはつまるところ赦しと憐みの実行なのだ。したがって、これら両方の掟を実行していくための具体的方法とは、正義と赦し・憐みを両立していこうと努力することなのである。正義と赦し・憐みを両立させるということなら、私たちも目指していくことができるのではないか。
③否定よりも肯定を
三つ目は、否定命令よりも肯定命令を重んじよということである。神様は命の神であり、自由の神である。ゆえに基本的には人間が生き生きと自由に生きることを望んでいる。そもそも神様が最初に作った楽園では、「善悪の知識の木からとって食べてはいけない」という否定命令が一つあっただけで、それ以外のことは一切人間の自由に任されていた。しかし人間が逆らい続けるものだから、神様はやむを得ず否定命令を授けた。否定命令の代表であるモーセの十戒は、まさしく神様がやむを得ず授けたものなのだ。
イエスは鋭くもそこを見抜き、神様の真の御心は肯定命令であることを明らかにした。あれこれをしてはいけないではなく、あれこれをしなさいというのが神様の真の御心であると。
だから私たちは積極的に行動しなければならない。積極的に神を愛そうとし(すなわち正義を実行しようとし)、積極的に隣人を愛そうとし(すなわち赦しと憐れみを実行しようとし)、その道を祈り求めていかなければならない。律法を指針として尊重しながらも、それを超え出る愛の可能性に開かれている必要があるのである。
3.話し合い
M君「同じくらい重要な掟が二つあるのを不思議に思っていました。」
寮長「そうなのです。この両方が同じくらい重要だと最初に言ったのはイエスだったそうです。」
S君「「自分のように」という言葉に興味を覚えました。まず自分を愛するということができなくては隣人も神も愛せないということでしょうか。」
寮長「これまた鋭い。今日の話ではこの点に触れませんでしたが、この点を突き詰めていっても何かメッセージが出てくるでしょう。今日の個所は表面的には、神を愛すると隣人を愛するが同格関係ですが、厳密に言えば神を愛すると隣人を愛すると自分を愛するが同格関係なのかもしれません。恐らく愛は、この三つの契機がなければ成り立たないものなのでしょう。」
Y君「隣人の中には、徴税人とか重い皮膚病患者とかも含まれるのでしょうか。」
寮長「その通りです。ファリサイ派の人々はそういう人たちを隣人とはみなさず、切り捨てていました。彼らのそういう態度をイエスは間違っていると暗に批判しているのです。」
N君「愛を実践する動機はやはり、ルールではなくて、心のうちにある愛でなければならないと思いました。」
寮長「イエスが求めていることはそれとは少し違いますね。イエスは自分の心のうちにある愛ではなく、神様の愛を動機とすべきだと言っているのです。しかし、神様を信じていない人にとっては、自分の愛を動機とするのがごく自然だと思います。」
O君「神の御心は否定命令ではなく肯定命令だということを学びましたが、果たしてこれは命令なのでしょうか。」
寮長「これまた鋭い。この点については話が複雑になるので敢えて触れなかったのですが、厳密に言えばやはり命令ではないと考えます。重要なのはこの前に復活問答が置かれていることです。その点からするとこれらの掟は、イエスを信じ、その復活を受け入れたときに守れるようになるものなのでしょう。つまり、これらの掟も「愛しなさい」ではなく「愛するはずだ」と訳すのが本当だろうと、私は考えます。
K君「今日の話は憲法9条の問題と似ていると思いました。9条では安全秩序の確保と武力放棄の両立という難しい課題を突き付けますが、今日の二つの掟も同様の両立困難な問題を突き付けるのではないでしょうか。」
寮長「その通りです。安全秩序の確保は第一の掟の正義の実行の具体例、他方で武装放棄は第二の掟の赦しと憐みの実行の具体例です。いずれにせよこれらの両立は極めて難しい。理論的には両立不可能でありましょう。しかし具体的実践において両立できる可能性はある。その具体的両立の道を神様に祈り求めながら、歩めとイエスは言っているのですね。」
T君「ファリサイ派の人々のやっていたことは今の人たちもやっていますよね。誰かを蔑んで自分を他人よりも上であると考え、心の平衡を保つ、これは本能だから、誰もがやらざるを得ないことなのではないでしょうか。だとすれば、それを乗り越えることは非常に難しいのではないでしょうか。」
寮長「難しいですね。ほぼ不可能でしょう。しかし、イエスの復活や神の国の到来を受け入れた人にはそれを乗り越える道が開かれる。あるいは神様に祈り求める者にもそれを乗り越える道が開かれる。自力で成し遂げよというのではなくて、神様に頼って乗り越えて行け、というのがイエスの真意だと思います。」