皇帝への納税(小舘)

 

2023年10月1日春風学寮日曜集会

聖書個所:マタイによる福音書22:15~22

1.解説

22:15 それから、ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。

*「ファリサイ派の人々」とは、救われるための道(神様から祝福と恵を得る道)は律法(神の定めた掟)の厳守にあると考える人々(律法主義者)である。言い換えれば、彼らは自力で律法を守るという業績を上げた者が救われると考える自力本願の業績主義者であった。ゆえに彼らは、自ら律法を実践しただけでなく、民衆に律法を教え、律法の厳守を命じ、更には律法に基づく裁きすら行った。

・さらに付け加えるなら、旧約聖書の律法の最も重要な掟は第一戒「わたしをおいてほかに神があってはならない」であるから、彼らは異教の神や外国人たちを認めなかった。彼らにとって異教の神や外国人は排除されるべき存在(滅ぼすべき存在)であった。つまり彼らは、自分たちの神と国だけを愛する国粋主義的愛国主義者であったのだ。

*対してイエスは、神様が愛によって罪人たち(律法を守れない人々)さえもお救いになると考える者(福音主義者)であった。言い換えればイエスは、神様の一方的な愛によって人は救われると考える他力本願の万人救済主義者であった。ゆえにイエスは自ら律法を破るようなことをし、民衆に律法を守れなくても救われると教え、さらには律法を守れない者たちと交際し、彼らに祝福と恵みを与えた。

・さらにイエスは、「隣人を自分のように愛しなさい」を第一戒と同等に重視し、隣人の内には外国人も含まれると考えたから、外国人とも交流し、彼らを重視した。つまりイエスは博愛的平等主義者であったのだ。

・このような両者が相容れるわけがない。ファリサイ派の人々はイエスを憎み、なんとしてもイエスの権威を失墜さえたい、できれば抹殺してしまいたいと思い、どうすればそれができるかと日々画策していた。この節もその画策場面の一つである。

22:16 そして、その弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。

*この一節についてはいろいろと考える必要がある。先ず第一に、「ファリサイ派の人々」はなぜ自らイエスのもとへ行かず、弟子たちを遣わしたのであろうか。その理由は弟子たちのセリフが教えてくれる。弟子たちは開口一番「先生」とイエスのことを呼び、イエスのことを褒めたたえるようなセリフを述べている。このようなことをファリサイ派の年長者が言えるはずがない。イエスは30歳そこそこの若造であるのに対し、ファリサイ派の年長者は民衆を指導する律法の先生なのだから。つまり、彼らはイエスを陥れるためにはいったんイエスをおだてていい気分にさせる必要があると考えたが、形の上だけでもイエスをおだてるなんてことはしたくなかった。それで、弟子たちを遣わしたのだ。

*第二に考えるべきことは、「ヘロデ派の人々」と一緒に遣わしたという点である。ヘロデ派とはヘロデ大王の一族に与する者たちであり、ヘロデ大王の一族とはローマ帝国と協力することによって自身の支配権と繁栄を築こうとする現世的欲望の集団であった。彼らには律法を重んじる精神も第一戒(他の神を崇めてはいけない)を守る意志も皆無である。このような連中とファリサイ派の人々が仲良くやっていけるわけがない。だから両者は犬猿の仲であった。ところがこの場面では、ファリサイ派とヘロデ派が協力しているのだ。これはいったいなぜであろうか。

・このような事態が起きた第一の理由は、イエスという一人の青年があまりに脅威であったからであろう。当時のイエスの人気は絶大であり、イエスが歩けばその後に何千もの人々が従った。5000人にパンを分け与えた話がその人気を物語っている。ヘロデ派の人々はそのようなイエスが民衆を扇動して暴動を起こすことを極端に恐れた。もしそのようなことが起これば、ローマ帝国から統治能力なしとみなされ、権力をはく奪さわれてしまう可能性があったからだ。他方「ファリサイ派の人々」もイエスの人気を脅威に思った。もし民衆がイエスの説く福音(神様の一方的な愛によって律法を守れない人も救われる)を受け入れるようになったなら、律法の教師である自分たちは無用の長物になってしまうからだ。

・こうして元来犬猿の仲であったはずの「ファリサイ派の人々」と「ヘロデ派の人々」は共通の脅威であるイエスに立ち向かうという点で一致した。より大きな敵に立ち向かうために今までの敵とも協力しなければならないというわけだ(堺雅人の丸紅商事のコマーシャル)。

*もう一つ考えるべきことがある。それは、「ファリサイ派の人々」が弟子たちにイエスを褒めさせた理由である。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています」という言葉は、イエスに対する最高の賛辞である。なぜなら、この言葉は、神様のみに忠実であるというユダヤ人の最高の理想(第一戒の帰結)を表す言葉だからだ。いったいなぜ「ファリサイ派の人々」はこれほどの賛辞をイエスの送ったのであろうか。

・もちろん本気でイエスのことを褒めたたえたわけではない。彼らは律法をないがしろにするイエスのことを軽蔑していたのだから。では彼らがイエスを褒めたたえた真の理由は何であろうか。それはイエスをローマに背かざるを得ない方向へと縛り付けるためである。あらかじめ「あなたは神のみに忠実な方である」と民衆の前で確認しておけば、イエスは絶対に神のみに忠実であらざるをえない。言い換えれば、ローマ帝国に膝を屈するような言動は行えない。つまり、この讃辞の言葉はイエスをローマ帝国に背かざるを得ない方向へと縛り付けるための罠なのだ。

22:17 ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」

*この質問の悪辣さを理解するためには、二つのことを知っておく必要がある。一つは、当時のローマ帝国支配下の地域においては、納税拒否者は反乱者とみなされ、処刑されることすらあったということである。だから、当時においてローマへの納税を拒否することは事実上不可能であり、納税拒否は逮捕に直結していた。「ファリサイ派の人々」がわざわざ「ヘロデ派の人々」を同行させた真の理由はここにある。イエスが納税を否定するようなことを言った場合には、即刻反乱者としてローマ人の手先である「ヘロデ派の人々」にイエスを逮捕させるつもりだったのだ。

*もう一つ知っておくべきことは、税金を納めるための貨幣(ローマデナリオン銀貨)には、皇帝ティベリウスの顔が彫り込まれており、更には「神聖なるアウグストゥスの子、崇高なる皇帝ティベリウス」と書かれていたことだ。これは、言うまでもなく皇帝を神とみなす思想の現れであり、このような銀貨を税として納めるならば、それは皇帝を神と崇めることに相当し、第一戒違反となる。だから、イエスがローマ帝国への税金を肯定することは、律法上不可能なのである。ここで、最初の誉め言葉が効いてくる。イエスは、人の顔色をうかがわない、神様のみに忠実な人と称賛されていた。もしイエスが税金を肯定するなら、この賛辞を裏切ることになり、すかさず彼らは言うであろう。「なんだ、イエスも皇帝が怖いのだ。神様のみに忠実だなんて嘘っぱちだな」と。そしてイエスは第一戒を破ったと触れ回るであろう。

*つまりこの質問は、税金を肯定しても否定しても陥れられるという悪辣な質問なのである。税金を否定するなら反逆者としてローマ帝国に逮捕され、税金を肯定するなら第一戒違反でユダヤ人から告発されるのである。

22:18 イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。

*イエスはすぐにこの質問に秘められた悪辣な罠に気付いた。質問者たちは表向きにはイエスを褒めたたえているが、実はイエスを陥れようとしていることに気付いたのだ。だからこそイエスは、「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか」と強烈な言葉で答えた。

・しかし、イエスの偉大なところは、単に相手を批判するのではなく、自ら悔い改める方向へと導こうとするところだ。では、イエスはどのようにして彼らを悔い改めへ導こうとしたのであろうか。

22:19 税金に納めるお金を見せなさい。」彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、

22:20 イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。

22:21 彼らは、「皇帝のものです」と言った。

*このさりげないやり取りの中に、すでにイエスの導きが含まれている。「税金を納めるお金を見せなさい」という言葉がそれである。なぜこの言葉が導きなのか。それは、ローマのデナリオン銀貨を持ち歩いて使用しているということ自体がすでに第一戒違反だからだ。この言葉に従ってデナリオン銀貨を差し出したことで、彼らは自分たちもローマの銀貨を使用していることを明らかにしてしまった。つまり彼らもまた第一戒を破っていることを示してしまったのだ。

・このときイエスは、「お前たちだって毎日ローマの銀貨を使うことで、第一戒を破っているではないか」と糾弾することもできた。しかし、イエスはそのような批判はせずに「これは、だれの肖像と銘か」と問いかけるだけだ。あくまで自分から皇帝の銀貨を使用していることの罪に気付くように促しているのだ。このような導きはイエスの独壇場である。

・しかし彼らは自身の罪には目を向けない。「ファリサイ派の人々」の目は他人の罪にしか向けられないのである。

すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」

*そこでイエスは、最高の導きの言葉を語る。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と。

*「皇帝のものは皇帝に返しなさい」とはどういうことか。端的には、税金を払いなさいという意味だが、もちろんそのように狭い便宜的なメッセージだけを伝えようとする言葉ではない。ではこの言葉に込められた真のメッセージは何か。

・思うに、この言葉の真のメッセージは、「ローマ帝国の貨幣に依存するような生き方全体を根本的に見直せ」というものではないだろうか。ぶっちゃけて言えば、「ローマの銀貨は全部皇帝に返してしまえ、そうすることこそが、真に第一戒を守る道である」と言いたいのではないだろうか。事実イエスはそのように生きた。放浪のラディカリズムといわれるように、経済的なことはすべて神様に預けて、空の鳥や野の花のように生きた。イエスはこの言葉によってそのように生きる方へと導いているのであろう。そうすることで、空の鳥や野の花のように生きた方が、自由で幸せであると呼びかけているのであろう。

*「神のものは神に返しなさい」とはどういうことであろうか。そもそも「神のもの」とは、何であろうか。言うまでもなく、神がお造りになったものはすべて神のものである。自然環境、生物、そして人間。これらこそが神のものである。これらすべてを神様に返せとイエスは言っている。それでは、神様に返せとはどういうことであろうか。

・思うに、その第一の意味は私有化を止めろということであろう。野や山や海などの自然環境を私有化するなとイエスは言っている。動物や植物を私有化するなとイエスは言っている。そして何よりも、人間存在自体を私有化するなと言っている。人間は自然環境も生物も人間自身も自分のものであると思い込んで、自分勝手に利用している。そんな態度は根本的に間違っているとイエスは言っているのではないだろうか。

・しかし、神様に返せとは単に私有化を止めろということではあるまい。すべてを神様のものとして大切に扱えということでもあろう。自然環境、すべての生物、自分も含めたすべての人間を大切に扱うこと、これこそ「神のものを神に返す」ということである。そうしろとイエスは呼びかけているのではあるまいか。そして私有化を止めてすべてを神様のものとして大切にする方が自由で幸せになれると呼びかけているのではあるまいか。

・イエスは何かをしろと強制的に命じているわけではない。文法的には命令形を用いているが、その真意は強制的命令ではなく、真の自由への勧誘なのである。このような導きこそイエスの真骨頂である。

22:22 彼らはこれを聞いて驚き、イエスをその場に残して立ち去った。

*なぜ聴衆は、驚いて逃げ出したのか。一言で言えば自由からの逃走であろう。イエスの言葉は聞くものに正しい道を自ら選び取るようにと促す。しかしそれは、言い換えるなら自ら自分の罪に目を向けて悔い改めることを意味する。

・しかし、自ら自分の罪に目を向ける先にこそ本当の自由、罪からの解放がある。このことの素晴らしさに人々は気づかない。だからこそ人々は最終的にはイエスから離れていくのである。

 

2.メッセージ

①貨幣経済に頼るな

「皇帝のものは皇帝に返しなさい」という言葉でイエスは、貨幣経済に依存するような生き方を止めよと呼びかけている。貨幣経済に依存して生きるなら、人はお金の奴隷になってしまうことを早々に見抜いたからであろう。事実、現在の私たちはまさしくお金の奴隷になっている。人類の心を占拠する最大の問題は、要するにどうすればお金が稼げるかである。そして社会は、お金なしでは生きられないような構造になっている。加えて、人々は全ての価値を金銭で測るようになってしまっている(『資本主義リアリズム』)。さらには、お金儲けのために自然が破壊され、人間関係が破壊されるということすら日常化している。イエスの言葉は、具体的な対処方法こそ示さないものの、このような人類の在り方がいかに異常であるかを指摘している。そして、お金にこだわらない方が、実は自由で幸せなんじゃないのと問いかけてくるのだ。

このようなイエスのメッセージに対する強烈な反論は、お金の奴隷になることを防ぐ最高の方法はお金持ちになることだという考え方である。お金持ちは確かにお金の奴隷にならず、自由に悠々と暮らしているように見える。好きな時に好きな所へ出かけ、好きな事をやっているように見える。だからみんながお金持ちになろうとする。

しかしお金持ちになるためにはお金をたくさん稼がなければならない。そしてお金をたくさん稼ぐためにはお金儲けの方法を考え、人一倍の努力をしなければならない。投資やネットビジネスで楽にお金を儲けられる道があるという人もいるが、そういう話はたいてい嘘であり、楽にお金を儲けられる人はほんの一握りでしかない。しかも楽に儲けているように見える人たちも実は結構情報集めに努力し、不安を抱えつつ生きている。つまりお金持ちになるまではお金の奴隷に甘んじなければならないのだ。

お金持ちになってからも自由でいられるとは限らない。自分のお金を守らなければならず、いろいろと財産を守る手段を講じなければならなくなり、気苦労が増える。加えて欲望にはきりがないので、もっとたくさんのお金が欲しいと思うようになり、また稼がなければならなくなる。これはまさしくお金の奴隷への逆戻りである。このように考えてみると、お金の奴隷になることを防ぐ最高の方法はお金持ちになることだという説は極めて怪しい。

やはり、お金の奴隷にならないための最高の方法は、イエスが実践したように、できるだけ貨幣経済に依存しない生活形態を築き上げることにあるのではないか。西表島で出会った石原さんご一家はそれに近い暮らしをしていた。半分自給自足で暮らし、自分でとった魚やイノシシの肉、自分で作った野菜を食べて暮らしている。必要最低限のお金は、農業と小さなお店と一棟だけある民宿の宿泊料で賄っている。宿泊客に出される食事も石原さん自前の野菜、肉、魚であり、その食事のときに宿泊客は改めて自分たちのお金に縛られた暮らしを反省させられる。こんな生き方もあるのかと。ここにあるのは本当の自由。儲けたお金で好き勝手に暮らす自由ではなく、働くこと自体が喜びであるところの自由。これこそ人間の正しい生き方であると思わずにはいられない。「皇帝のものは皇帝に返しなさい」というイエスの言葉は、この方向を指し示しているように思えてならない。

②私有化を止めろ

 「神のものは神に返しなさい」という言葉でイエスは、私有化を止めろと呼びかける。すべては本来、それらを創造した神様の物であるからだ。人類は自然環境(土地)、他の生物、人間自身さえも私有化してきたし、その流れは近年いっそうエスカレートしている。このままいけば、万物のほとんどが誰かのものとなってしまうであろう。このような事態がいかに異常であるかをイエスの言葉は思い起こさせてくれる。そして私有化を止めた方が実は自由で幸せなのではないかと呼びかける。

 人間は私物化によって二つの決定的に間違った態度を身に着けるようになってしまった。一つは、自分のものは大切にするが、それ以外のものは粗末に扱うという態度。自然破壊や戦争や人種差別といった最悪の悪はここから生まれてくる。

 もう一つは、自分のものなら自分の勝手にしてよいという態度。自分の土地だから自分の自由にしてよいとか、自分の子供だから自分の自由に扱ってよいとか、自分の身体だから自分の自由に扱ってよいとか、こういう態度が種々の自然破壊やDVなどの人権侵害や生物の改造を生み出す。

 これら二つの態度はどうしようもなく間違っているのだが、その起源は万物の私物化にあるのである。本来全てのものは神の創造物であり、神聖な神の物として大切に扱われなければならない。この精神が失われたからこそ、どうしようもない二つの態度が広まってしまったのだ。これらの態度の先にあるのは、滅亡の道であろう。

③旧約聖書の間違い

 最後に、この精神を失わせた原因の一つは旧約聖書自体にあることを指摘したい。創世記には、神様がカナンの土地をイスラエルの民に嗣業の土地として与え、これを聖別するという記事がある。この記事こそ、土地の私有化を促し、自分の土地だけを聖なるものとして大切にするという誤った態度を促した原因の一つである。このような旧約聖書の記事は、神の子イエスのパースペクティブから訂正されなければならない。

 イエスのパースペクティブに立てば、すべての土地は神のものであり、ある土地が私有化されたり、永続的にその権利が誰かに与えられたりするなどということはあり得ない。すべての土地は神のものとして神聖であり、そこに生きるすべての生物は大切に扱われなければならない。

 旧約聖書は、神様のメッセージをはらみながらも、イスラエルの民の権益を擁護する側面を持っている。この点は神の子イエスの言葉によって訂正されなければならないのだ。新約聖書があってこそ旧約聖書は輝くのだ。

 

3.話し合い

O君「一読した時には、イエスが質問に直接答えずに、煙に巻いているように感じました。」

寮長「真剣に読まないとそう感じてしまいます。というのもイエスは、直接答えを出さず、聞き手に自分で答えを見つけさせるような、導き(いわゆるコーチング)の話し方をするからです。また、イエスの語ることは、たいていビジョンの広い神の知恵です。だから質問者と回答の間に必然的にずれが出てしまうわけです。」

T君「国立公園のことを思い出しました。アメリカでは自然保護のために国立公園を全部国が管理します。対して日本では、国立公園の管理を基本的に住民に委ねる。僕は日本のやり方の方が好きですね。」

寮長「住民に管理を委ねるということは、ある程度私有化を認めることであり、それで本当にうまくいくかは疑問です。民営化されると大抵は金もうけに走ってしまうので。他方、国が一元的に管理するというのも律法主義的であまり好ましい方向ではありません。住民が自ら自然の大切さを学んでいく方向に国が導くことが大切でしょう。しかしそういう小手先のことではうまくいかないと思います。」

G君「貨幣経済に頼らない生活をするためのコツは何でしょうか。」

寮長「このような大問題を解決するコツなど一言で言えるはずがない。しかしその具体的なビジョンを持つことはできます。そのために重要なことは、そういう生活をしている人に会ってみて、共に暮らしてみることです。私も石原さんのところ泊まってみて初めて、こんな生き方もできるのか、と具体的なビジョンを与えられました。」

M君「イエスの言葉のすごさが分かりました。彼の言葉は時代が進めば進むほど当てはまっていき、現代にはぴったりとあてはまるような気がします。」

寮長「わかってくれてうれしいです。」

S君「「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」という言葉は、ロマ書の13:1 「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです」との関連で考えられ、税金はきちんと納めた上で、他方自分の身を神に捧げなさいと解釈されるのが普通ですので、今日のような解釈は新鮮でした。しかし「神のものは神に」という言葉の意味は、「皇帝のものは皇帝に」という言葉との対比で出てくるものですから、別のものを神に捧げるという解釈が出てこなければならないのではないでしょうか。」

寮長「よく勉強しましたね。しかし私の解釈(被造物の私有化を止めよ)には、すでにお金のような人工物以外のすべての被造物を神に返すという意味で捧げのメッセージが含まれています。私有財産を持たない放浪生活は事実上身も心も財産も神様に委ねる生活なのですから。それに通説の解釈は、いかにもキリスト教のマニュアル的で広がりがない。イエスはそのような行動の使い分けの知恵を語ったのではなく、もっと根本的な一つのことを語ったのではないでしょうか。つまり「皇帝のものは皇帝に」と「神のものは神に」は表裏一体のメッセージであり、両者はイエスのように神にすべてを委ねる生活へと誘う言葉なのではないでしょうか。」

Y君「聖書は人生の教科書という言葉がありますが、今日の個所では本当にそうだと思わされました。」

寮長「確かに聖書は人生の教科書であると言うことができます。書簡にそういう言葉がありますね。しかし注意すべきことは、聖書の言葉は決して生活上のマニュアル的知恵を提示してくれるものではないということです。そのようなマニュアル本は人間にいくらでも書けるものであり、本屋に行けばいくらでも手に入れられます。では聖書の言葉が提示する知恵はどのような知恵か。それは人間の知恵を超えた神様の知恵であり、人間の実生活からかけ離れているようでいて、それでも真実を指し示す知恵、本当の意味で人を生かす知恵です。被造物の私有化を止めよとか貨幣経済に頼るなとかいう知恵は、現実離れしていて人間には決して説くことができない。にもかかわらずこれらの言葉は真実を指し示し、人間が生き残る方向を示している。これが聖書の語る知恵です。このような神様の知恵と出会うことこそ聖書を読む喜びです。」