真の平和

2023年5月14日春風学寮感謝祭講話

マタイによる福音書
10:34 「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。
10:35 わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、/娘を母に、/嫁をしゅうとめに。
10:36 こうして、自分の家族の者が敵となる。
10:37 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。
10:38 また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。
10:39 自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」


 イエスの言葉の中には、衝撃的な言葉が少なくない。今回私が選んだ箇所は特に衝撃的である。なぜこのように衝撃的な言葉を選んだのか。もちろん、ロシアがウクライナに侵攻したからである。この侵攻は、第三次世界大戦へと発展し、ついには核戦争へと発展しかねない危険性をはらむものである。あれほどに虐待され続けたウクライナ国民が強力な武器を手にしたとき、いったい何が起こるのか、想像することすら恐ろしい。いったいなぜこれほどの事態に陥ったのか。今日の個所はその理由の一端を明らかにしてくれるとともに、平和を築く道を示唆してくれるものと私は信じる。

1.剣とは何か
「わたしは剣をもたらすために来た」とはいったい何事だろうか。イエス・キリストは、平和をもたらす救い主ではなかったのか。旧約聖書には、救い主が平和をもたらすという預言がいくつもある。「剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする」(イザヤ書2:4)のが救い主ではなかったのか。
 この疑問を解き明かすカギは、「剣」という言葉にある。イエスのもたらす「剣」とはいったい何なのであろうか。エフェソ書6:17には、神の言葉こそが霊の剣であると書いてある。このことからすれば、恐らくイエスがもたらす剣とは、神の言葉であろう。しかし、イエスのもたらす剣は、ただの神の言葉ではない。イエス自身が受肉した神の言葉なのだから。神の言葉を何の掛け値もなく生きたのがイエスなのだから。
 だとするとイエスのもたらす剣の正体は一つである。それはイエスの生きざまそのものである。神を愛し、隣人を愛しなさいという神の言葉を実行するために自分の全てを捨てた生きざま、それがイエスのもたらす剣なのである。イエスはまさしく神の言葉を生きた。心を尽くして神を愛しなさいという言葉と自分のように隣人を愛しなさいという言葉を生き、これらの言葉を実行するために自分を捨てた。このようなイエスの生き様こそがイエスのもたらす剣なのである。イエスはそのような剣ともいうべき生き様を私たちに突き付けるために、この世に生まれたのだ。
 
2.剣が引き起こすこと
 では、そのような生き様を突き付けられると私たちはどうなるか。先ず引き起こされることは、自分の罪に気づくことである。自分を捨てて神と隣人を愛したイエスの生き様が心に突き付けられるなら、当然私たちは自身の罪に気づかされることになる。イエスに比べて自分は何と自己中心的なのかと。何と自分は自分の欲望にまみれて生きていることかと。少なくとも誠実に生きようとしている人になら、この気づきが必ず湧いてくることであろう。
 次に引き起こされることは何か。そのような自身の罪との戦いである。一方では、自分は果たして欲望にまみれたままでよいのか、自己中心的なままでよいのかという良心の声が起こってくる。他方では、今までの自分を肯定しようという声が起こってくる。自分を捨ててまで神と隣人を愛することなどできるはずがない、これはただの理想論だ、人は生まれつき自己中心的にできている、自己中心的に生きることが人の本来の生き方なのだという声が。この声は罪の声と言ってもよいでしょう。そうなのだ。イエスのもたらした剣は本質的には、物質的な戦い引き起こすわけではない。心の中での良心と罪との戦いを引き起こすのだ。イエスが神と隣人を愛するために全てを捨てたように、自分もすべてを捨てなければならないという良心と自分を守ろうとする罪との内的な戦いを引き起こすのだ。
 そしてもし良心が罪に打ち勝ったならば、どうなるか。自分もイエスのように生きよう、自己中心的な生き方はやめて、自分を捨ててまで、神と隣人を愛そうと決意してそれを実行したらどうなるか。当然自分の家族や民族と敵対することになるのである。自分とは何であろうか。それは自分自身であると同時に自分が愛するものである。自分の財産、自分の家族、自分の故郷、自分の民族、これらの全てが自分である。だから、もしイエスのように生きようとする道を選ぶなら、これらの全てを捨ててまで、神と隣人を愛さなければならない。そのようなことを実践すれば、当然自分の家族や民族と敵対することになる。彼らは言うであろう。自分の家族と見ず知らずの隣人とどちらが大切なのかと。自分の民族と神とどちらが大切なのかと。「こうして、自分の家族の者が敵となる」のである。
 以上がイエスの剣によって引き起こされることである。まとめるなら、罪の自覚、罪との戦い、イエスの道の選び、そして自分の家族や民族との対立、イエスがその剣をもたらすならこれらすべての事が起こりうる。これらの全ては極めてつらいことである。罪の自覚もつらいし、それと戦うのもつらい、イエスの道を選び取るのもつらいし、家族と対立するのは一番つらい。にもかかわらず、イエスはそうしたつらさを乗り越えて、自分の家族や民族を捨てでも神と隣人を愛せと呼びかけるのである。「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない」と。「わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない」と。「自分の十字架を担ってわたしに従いなさい」と。

3.なぜ剣をもたらしたのか。
 それでは、いったいなぜイエスはそこまでして私たちに剣をもたらそうとするのか。いったいなぜイエスは家族や民族との対立のリスクを冒してまで自分を捨てて神と隣人を愛するよう呼び掛けるのか。その答えを示すのが39節である。そこには「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」とある。これまたインパクトに満ちていながら、わかりにくい言葉である。話はそれるがインパクトに満ちていてわかりにくい言葉こそはイエスの本領であって、史的イエスにさかのぼる真性のイエスの言葉である。イエスはこのような言葉によって、聞き手に自らその意味を考えさせようとするのだ。
 では考えてみよう。「自分の命を得ようとする者」とはどのような者であろうか。それは自分や自分の財産、家族、民族を守ろうとして必死でお金を儲け、必死で強くなろうとする者である。一言で言えば、お金や力で自分を守ろうとする者である。そのような者は、一見自分の命を守れそうに見えるけれど、結局は自分の命を失うことになる。なぜか。周囲の人に不安と不快感を与え、敵を作り、争いを呼び、神様を怒らせるからである。例えば、ある人が大金持ちになり、豪邸を建て、警備員を配置し、財産を自分のためにのみ使ったらたら、近所の人たちはどう思うであろうか。不安と不快感を抱くのではないか。あるいは、ある国が経済的に発展し、自国を守るために軍備を増大させたとすれば、どうだろうか。隣国はことごとく不安と不快感を抱き、軍備を増強させるのではないか。そしてそのような状況がエスカレートすれば、やがては争いを引き起こし、神の怒りを買うこととなるのではないか。こうしてお金と力で自分を守ろうとする者は、隣人も神様も敵に回すことになる。これこそ「自分の命を得ようとする者はそれを失う」ということである。
 対して「わたしのために命を失う者」とはどのような者であろうか。それはイエスの生き様にならって、自分を捨ててまで神と隣人を愛する者である。このような者は一見命を失いそうに見えるけれど、実は命を得る。なぜなら、そのような者は周囲の者に安心と喜びを与え、仲間を作るからである。そうすることで神様にも喜ばれ祝福される。「わたしのために命を失う者は、かえってそれを得る」とはこういうことである。
 だから、イエスの言葉を詳しく言い換えるならこうなる。「お金や力に頼って自分の命を守ろうとする者は隣人と神様を敵に回すことになるため、争いを引き起こし、かえって命を失うことになる。対して、自分の命を捨ててまで神と隣人を愛そうとする者は、隣人からも神様からも愛されるので、平和を作り出し、かえって命を得ることになる。」
 このように理解することによって、私たちは初めてイエスが自分の家族や民族と敵対してまで、神と隣人を愛せと呼びかけた真の理由を理解することができる。その理由とは、そうすることが、真の平和を作りだすからである。自分の家族や民族と敵対してまで神と隣人を愛することが、争いを回避し、命を得る道だからである。いや、もっと言えば、そうすることが、自分の家族や民族を超えて、見ず知らずの隣人や神様と家族になる道だからである。事実、イエスはこの少し後にこう言っている。
12:48 ・・・「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」
12:49 そして、弟子たちの方を指して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。
12:50 だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」
イエスは、世界中の人が神様を父と仰ぐ一つの家族になることを望んでいた。そして世界中の人がそのような家族となるところにこそ真の平和があると考えていました。イエスはそのような真の家族と平和を作るためにこそ、いったんは自分の家族や民族を捨てるように呼びかけたのである。

4.平和と命への道
 そこで現在の状況に目を向けてみよう。現在ロシアは力とお金で自国を守ろうとする道を突き進んでいる。そしてそれに触発されて、西側諸国も同様の道を突き進んでいる。各国が富国強兵に明け暮れ、核武装しようとしている。これは果たして命を得るための道であろうか。私にはどう見ても命を失う道、集団自殺の道に思われてしまう。個人も同じだ。みんなが自分を守ろうとして必死でお金を稼ごうとする。その結果生み出されたものは何か。一部の金持ちがこの世の富のほとんどを独占する(上位10パーセントの金持ちが75パーセントの富を独占する)格差社会である。すなわち金持ちと貧乏人の対立である。もう一つはエネルギーを無限に使い、他の生物を絶滅へと追いやる自然破壊である。すなわち、人類と他の生物との対立である。これが命を得るための道であろうか。私には破滅へ向かう道としか思えない。このように、国も個人もお金と力に頼って自分を守ろうとし、かえって命を失おうとしている、平和ではなく対立と争いを引き起こしている。これが現状である。
 だから、今こそイエスの示した道を歩み始めなければならないのだ。好むと好まざるとにかかわらず、どんなに理想的に見えようと、自分を捨ててまで神と隣人を愛する道を歩まざるを得ないのだ。そうすることによってのみ私たちは逆説的にも、命を得る。真の平和を築くことができる。そうしないなら、もはや私たちは生き残れないのである。
内村鑑三はそのようなイエスの思いを受け止めて素晴らしい平和構想を打ち建て、それを詩に書いた。その詩を引用しよう。
 世界の日本であって、日本の世界ではない。
 世界のための日本であって、日本のための世界ではない。
 日本の偉大さは、自国の利益よりも世界の利益を優先させなければならないということをど
 れくらい認識するかにかかっている。
 世界が善くなれば日本も善くなる。
 世界が悪くなれば日本も悪くなる。
 日本の福祉は世界の福祉と密接につながっている。
 ・・・
 他者への奉仕は自由をもたらすが、他者から奉仕されることは束縛をもたらす。
 高貴な人間の資質は他者への奉仕に用いられたときに高められる。だが、努力の目的が自分
 自身の利益であるときには、彼は身の縮む思いがする。
 世界への奉仕に身を捧げた国、そのような国が今までにあっただろうか。そのような国こそ
 は、真のキリスト教国と呼ばれるに値する。
               (ジャパンクリスチャンインテリジェンサー「世界と日本」)
 なんと素晴らしい文章であろうか。日本は日本のためではなく世界のために尽くす。そのことが返って日本をよくする。高貴な人間はその資質を自分のためでなく他者のために用いる。そのことが返ってその人をより高めていく。これこそ、イエス・キリストが今日の箇所に込めたメッセージそのものではないか。そしてこれこそ日本が真の平和を築き、命を得るための道ではないか。

5.春風学寮の意義
 そこで話を春風学寮に移そう。春風学寮とはいったいどのような場所か。それこそイエスの言葉を実践しようとする場所ではないか。イエスは自分や自分の家族を捨ててまで神と隣人を愛せと呼びかけているが、春風学寮に入り、そこで暮らすということは、まさにそのようなイエスの呼びかけに従うことそのものである。そこで出会う他の寮生たちは見ず知らずの他人であり、そこで語られる講話はもっぱら神様の話である。そしてその講話の内容たるや要するに、自分を捨ててまで見知らぬ隣人を愛し、神を愛しなさいということである。この呼びかけに答えて、寮生たちは自分を捨ててまで見ず知らずの他の寮生たちや神を愛するよう促される。春風学寮こそは、まさにイエスの剣が毎日のように投げ込まれる場所なのである。
 しかし、そうであればこそ、寮生たちはイエスの言葉がどんなに正しいかを思い知る。「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得る」というがどんなに正しいかを体験するのである。なぜなら、寮内では力やお金によって自分を守ることなどできないからだ。寮内で自分を守ろうと思うなら、他の寮生たちと仲良くならざるを得ず、そして他の寮生たちと仲良くなるためには、やはり自分を捨ててまで他の寮生たちを愛さなければならない。寮生たちは寮生活を通じて、いやがうえにも自分を守り平和を築くための道は、隣人を愛するしかないということを思い知らされるのだ。寮長も同じだ。寮長もまた寮内で自分を守り、平和を築くためには寮生たちを愛するしかないということを思い知らされる。寮長が権力を振りかざして寮生たちを動かそうとしたり、お金で買収して従わせようとしたりすれば、寮生たちはたちまち反旗を翻すでしょう。これは寮の崩壊を意味し、寮長の死を意味します。
 このようにして春風学寮の住人たちは真の平和を築く方法は自分を捨ててまで相手を愛することでしかないことを学んでいく。そしてそのような道を歩むことによって、いつの間にか、家族のようになっていく。見ず知らずの他人同士がまるで家族のようになっていくのである。いや、ある意味で家族よりも親しくなっていく。家族にも語りえないようなことを語り合える関係になっていくのである。そして卒寮後には、見ず知らずの後輩たちを支援するようになっていく。これほど尊いことがあるだろうか。これこそまさしく真の平和を築くための礎ではないか。
 春風学寮の存在意義はここにあります。そこでは真の平和の礎が作られる。だからこそ春風学寮は尊いのだ。

6.むすび
だから、もし春風学寮のような学生寮が日本のあちこちにできるなら、ひょっとすると、日本は真のキリスト教国となりうるかもしれない。すなわち、世界のための日本、世界の利益を自国の利益に優先する日本となることができるかもしれない。その可能性は極めて低いけれど、しかしそれこそが真の平和を築く道、大戦争や破滅に至らずに、命を得る道なのである。
というわけで、春風学寮のような学生寮が少しでも増えていくことを私は望んでいる。少なくとも、この春風学寮がとこしえに続くことを私は望んでいる。最後に、内村鑑三の有名な言葉を少し改変したものを紹介して、話を終えよう。
I for Shunpu-domitory, Shunpu-domiory for Japan, Japan for the World, the World for Crist; and All for God.
冗談のように聞こえるかもしれないが、私は大真面目である。春風学寮は、この言葉を生き続けることによってのみ、命を得るであろうし、また命を得るに値するものとなると思う。