永遠の命を得るには

永遠の命を得るには 

2023年4月9日春風学寮日曜集会 


マタイによる福音書
 
19:16 さて、一人の男がイエスに近寄って来て言った。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」 
19:17 イエスは言われた。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」 
19:18 男が「どの掟ですか」と尋ねると、イエスは言われた。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、 
19:19 父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』」 
19:20 そこで、この青年は言った。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」 
19:21 イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」 
19:22 青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。 
19:23 イエスは弟子たちに言われた。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。 
19:24 重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」 
19:25 弟子たちはこれを聞いて非常に驚き、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言った。 
19:26 イエスは彼らを見つめて、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言われた。 

 
 ルカによる福音書18章には並行記事(同じ出来事を扱った個所)があり、そこに登場する「一人の男」は、青年ではなく議員である。いったいどちらが正しいのか。青年であることはあり得ない。イエスがいたころに青年が金持ちであるという可能性は少ないし、万が一親が早死にして莫大な富を相続した青年がいたとしても、そのような青年が律法をことごとく守っていたということはあり得ないからだ。だとすると「一人の男」は議員だったのか。それも正しいとは言い難い。議員と言えば、サンヘドリン(司法・行政の全てを兼ねるユダヤ人の統治機関)の議員のことであるが、サンヘドリンはエルサレムにある。この時点でイエスは19:1によれば「ヨルダン川の向こう側のユダヤ地方」にいるわけだから、ヨルダン川のこちら側のエルサレムの議員がそこにいるはずがない。だとすると、イエスのもとにやってきた「一人の男」は本当はどのような人物だったのか。議員と訳されている語の原語(古代ギリシア語)は、a;rcwn であり、その意味は指導者や管理人である。そして実生活では、議員か会堂司(シナゴーグと呼ばれるユダヤ人の教会の管理人)を指す言葉であった。だとすれば、やはりこの出来事に登場した人物は会堂司であったであろう。ヨルダン川の向こう側にも会堂(シナゴーグ)があったし、そこには会堂司がいた。当時の会堂は、地方のサンヘドリンのようなものであり、地方の司法・行政を全てになった。だから、会堂司はそこの統治者として莫大な富を手に入れることができた。「一人の男」を会堂司と考えれば、すべてのつじつまが合うのである。 
以下、「一人の男」は会堂司であったという前提で話を進めていきたい。 

1.解説 
19:16 さて、一人の男がイエスに近寄って来て言った。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」 
*ここでは、「一人の男」(会堂司)がイエスのもとに近寄り、突然「永遠の命」を得るため   にはどんな善いことをしたらよいかと尋ねているわけだが、ここで知っておくべきことは旧約聖書を中心として生きるユダヤ人の間には、「永遠の命」などという発想はなかったということである。旧約聖書は現世的な書物であり、現世において律法(=掟・戒め)を守れば、神の恵みを得て、現世で繁栄するというのが旧約聖書の教えるところであった。だからそこには「永遠の命」という発想はほとんどない。事実、「永遠の命」という言葉が出てくるのは、たった2回だけである(申命記とダニエル書)。 
・それなのに、いったいなぜこの会堂司はイエスにこのような質問をしたのだろうか。その正確な理由はわからない。ただ言えることは、イエスのガリラヤにおける活動と言葉がその周辺に伝わっていたということである。イエスはガリラヤで無数の病人を癒し、永遠の命について語っていた。そのようなイエスの噂は、会堂司の耳に確実に届いていたであろう。その噂を聞いた会堂司が、現世における繁栄だけでは満足できなくなり、永遠の命を望んだのではないだろうか。 
19:17 イエスは言われた。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」 
*「善い方」とは神様のことである。だとすると、ここでイエスが言おうとしているのはこういうことである。「そんなこと私に尋ねなくてもすでに神様が教えているだろう。命を得たいのなら、掟を守りなさいと。命を得るための善いこととは、掟を守ることなのだ。」 
19:18 男が「どの掟ですか」と尋ねると、イエスは言われた。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、 
19:19 父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』」 
*会堂司は、「どの掟ですか」と尋ねているが、それも当然である。旧約聖書には無数の掟があり、それ以外にも言い伝えによる掟がたくさんあった。その中のどれを守れば、永遠の命を得ることができるのか、彼は真剣に問うたに違いない。 
*これに対してイエスは答える。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』」と。モーセの十戒とその総括である「隣人を自分のように愛しなさい」がそれであると。 
・ここで注目すべきはその順序である。「殺すな」は第六戒、「姦淫するな」は第七戒、「盗むな」は第八戒、「偽証するな」は第九戒、そして「父母を敬え」は第四戒である。いったいなぜこのように順序を入れ替えてイエスは語ったのであろうか。 
・その理由は恐らく機械的に義務として掟を守ることではなく、心から掟を守ろうとすることが重要なのだと教えるためである。「父母を敬え」は単に義務的に親を大切にすればよいという戒ではない。心から父母を敬わなければ意味がない。他の戒も同じだ。心から神に従おうとし、心から隣人のことを大切に思って守るのでなければ意味がない。このことを伝えるためにこそイエスは、「父母を敬え」を敢えて最後に置いた。そしてその後に律法の総まとめである「隣人を自分のように愛しなさい」を付け加えたのだ。 
19:20 そこで、この青年は言った。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」 
*金持ちの青年が十戒を皆守るなどということはあり得ない。であればこそ、この男は会堂司であるという結論になるのである。会堂司は、地方の司法・行政の長であるから、十戒をことごとく守っていなければならなかった。もし守っていなければ、会堂司といえども、いや会堂司であるからこそ、裁判にかけられ、処罰された。だから、会堂司は律法を必死で守った。だからこそ、「そういうことはみな守ってきました」と自信をもって言うことができるのだ。 
・しかし、ここで考えるべきことは、彼がどのようにして掟を守ったかである。彼は恐らく心から掟を守ったのではなかった。会堂司の義務として、体面を保つために、機械的に掟を守っていた。イエスは恐らくそのことを見抜いた。だからこそ、次のように語りかけるのである。 
19:21 イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」 
*「もし完全になりたいのなら」とは、もし完全に掟を守りたいなら、という意味である。 
*では、完全に掟を守るためにはどうすればよいのか。「行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。…それから、わたしに従いなさい。」これがイエスの答えである。この言葉によってイエスはいったい何を言おうとしているのであろうか。文字通りに、財産を売り払い、貧しい人に施せと言っているのであろうか。 
・そうではあるまい。この言葉は、まさしく心から掟を守ろうとすることの大切さを教えようとする言葉なのだ。心に神への愛があり、隣人への愛があり、その愛から掟を守ろうとしているなら、単に掟を守るだけでなく、それ以上のこともやるはずだ。持ち物を売り払い、貧しい人に施すことはその一例に過ぎない。あなたは掟を超えてまで隣人を愛そうとしているか。あなたの心には本当に愛があるのか。あなたは本当に愛する心から掟を守ろうとしているのか。このことを問いかける言葉こそ、「行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。…それから、わたしに従いなさい」なのだ。 
・そこで改めて考えたいのが「わたしに従いなさい」という言葉の意味である。これは、文字通りにイエスについて来いという意味ではない。その意味はまさしく、自分の意志を捨てイエスの意志に従って生きろということなのだ。言い換えれば、それはイエスの意志であるところの神への愛と隣人への愛を心の中心において、それらに従って生きろということなのだ。 
・そこで永遠の命に話を戻すなら、この話全体のメッセージは、イエスの意志であるところの愛を心の中心に置いて生きることが永遠の命を得る道であるということになる。 
19:22 青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。 
*会堂司は、イエスの言葉を聞くと「悲しみながら立ち去った」とある。この言葉は、単に会堂司が自分の財産を売り払うことを拒否したということではない。その真意は、自分の意志ではなく、イエスの意志に従って生きることを拒否したということなのだ。心の中心に愛を置いて生きることを拒否したということなのだ。 
19:23 イエスは弟子たちに言われた。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。 
19:24 重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」 
*「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」とは、金持ちが永遠の命を受けることは極めて難しいということだが、それはいったいなぜだろうか。これまでの解説からもう明らかであろう。金持ちが心の中心にイエスの意志(愛)を置いて生きることは極めて難しいということである。 
・なぜか。金持ちは必然的に自分のたくさんの富に束縛される。その心の中心に置かれるのは自身のたくさんの富となり、別のものをそこに置くことはできなくなる。しばしば金持ちは自分の財産を守るために非道なことをする。いやどんな悪いことでもする。金持ちが他人に寄付したり、親切にしたりすることはあるが、それはあくまで自分の富が守られる範囲においてであって、それを超えて彼らが他人に優しくすることはまずない。このような現実を踏まえて、イエスは「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と述べたのである。 
19:25 弟子たちはこれを聞いて非常に驚き、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言った。 
19:26 イエスは彼らを見つめて、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言われた。 
*イエスの言葉を聞いて弟子たちは問う。「それでは、だれが救われるのだろうか」と(救われる=永遠の命を得る)。この疑問は現代人にはいささか理解しがたい疑問である。当時金持ちはほとんどいなかった。サンヘドリンの議員や会堂司、あるいは聖職者たちや王侯貴族だけが金持ちだったのだから。だから、イエスの言葉に基づくなら、彼ら以外の大半の者が救われると考えるのが順当であろう。ところが弟子たちは、ユダヤ人はほとんど救われないと考えた。つまり永遠の命を得られないと考えた。いったいなぜか。 
・それは、旧約聖書が金持ちになることを全く否定していなかったからである。すでに述べた通り、旧約聖書の教えるところは、神の掟を守っていれば、現世において繫栄するというものであった。現世における繁栄とは、財産を増やし、たくさんの子孫を残すことである。この教えに従ってすべてのユダヤ人たちは生きていた。たとえ金持ちは少数であるとしても、ユダヤ人のほとんどが金持ちを目指して生きていたのである。言い換えるなら、ユダヤ人の心の中心には、律法を守ることと金持ちになることの両方が置かれていたのである。だとすれば、ユダヤ人のほぼ全員が永遠の命を与えられないことになる。だからこそ弟子たちは、「それでは、だれが救われるのだろうか」という疑問を発したのだ。 
*この疑問に対してイエスは驚くべき言葉で応答する。「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と。これはいったいどういうことであろうか。もちろん、神様なら金持ちの心の中心にイエスの意志である愛を置くことができるということである。金持ちは自力ではそのようなことはできない。しかし、神様にはそういうこともお出来になる。たとえ金持ちの心の中心に掟と富があろうとも、神様なら、それらを追い出して心の中心に愛を置くことができると言っているのだ。 
・ではどうやって神様はそのことを成し遂げるのであろうか。前回の集会で話したように、聖霊を人の心に送り込むことによってである。聖霊の働きがあればこそ、金持ちは心から掟と富へのこだわりを追い払い、愛を心の中心に置くことができるのである。 

2.メッセージ 
①人は何によって満足するか 
今日の個所から受け取るべき第一のメッセージは、人は現世の繁栄によっては満足できないということである。旧約聖書は、律法を守れば、神の恵みを受け、現世で繁栄できると教えていた。しかし、人間の心はそれだけで満足できるほど低級ではない。そうであればこそ、それ以上の者を求めて会堂司はイエスのもとにやってきたのだ。先日坂本龍一が亡くなったが、彼の人生もそのことを物語っている。才能に満ちた彼は、若くして世界的名声と富を手に入れたが、かくして彼が始めた生活は音楽とアルコールに浸る生活であった。「三〇代まで自分のことしか考えていなかった」と彼は告白している。しかしその彼がだんだん変わってくる。自分の子供に目を向けるようになり、隣人に目を向けるようになり、社会問題に目を向けるようになる。こうして彼は「非戦」という本を監修するまでに至った。彼の後半の人生は、まさしく現世での繁栄以外のものを求めるものであったのだ。 
では、人間の心を本当に満足させるものとは何であろうか。新約聖書の提出する答えは、永遠の命であり、愛である。そして新約聖書は、永遠の命と愛が密接につながっていると考えていた。そして愛と永遠の命こそが人の心を本当に満足させると考えていた。私はこの答えに全面的に賛同する者である。人は神や隣人から愛されていることを感じ、そして神や隣人を愛した時に、命の躍動を感じ、最高の満足を感じる。これはそのまま私の信念でもある。皆さんもそう思わないだろうか。 

②律法を守る 
 次に受け取るべきメッセージは、律法(=掟・戒)を心から守るということの大切さである。イエスは律法を無視する自由人であったと誤解する人がいるが、それはとんでもない間違いである。イエスが否定したのは、機械的に律法を守っていればそれでよしとする態度であり、律法を非人間的にとらえる態度である。律法は神の御心である愛を言葉にしたものである。だとすれば神の御心である愛に応答するように守っていく必要がある。神への愛から、隣人への愛からそれらを守っていく必要がある。だとすれば、時には、律法に書かれている以上のことをも行うことにもなるであろうし、更には律法に反することもすることにもなるであろう。イエスは実際そのように行動した。だからこそイエスは律法を無視する自由人であるかのように言われてしまうわけだが、イエスの実態はそのような自由人ではなかった。イエスの実態は本当の意味で律法を守る人であったのだ。そしてイエスは、私たちにも本当の意味で律法を守ることの大切さを訴えているのだ。 
 この教えは、そのまま寮則にも通じる。寮則もまた機械的にその通りにしていればよいというものではない。寮則を守れば助かる人がいる。寮則を破れば困る人がいる。そのような愛の心から、寮則は守られるべきなのだ。そしてそのような視点から、寮則以上のことをやろうとすべきなのだ。 

③心の中心に置かれるべきもの 
最後に受け取るべきメッセージは、心の中心にイエスの意志である愛を置くことの大切さである。イエスは、このことは金持ちには難しいと述べていたが、実際には庶民にも貧乏人にも難しい。人は皆自己中心的な存在であり、自分の好き勝手なものを心の中心に置くからである。 
ではどうすればよいのか。解説で述べた通り、神様から聖霊を送ってもらうことによってのみそのことは可能になる。ではどうすれば聖霊は与えられるのか。その第一歩は、神様を信じ、イエスを信じ、イエスの名によって神様に祈ることである。誠実な心からの祈りは、聖霊の降臨を可能にする。その第二歩は、誠実に隣人を愛そうとすることである。神の御心は愛であるから、愛そうと努力する人には聖霊を送ってくださる。いつも送ってくださるとは限らないが、少なくともその可能性は高まる。 

話し合い 
寮長「このパッセージのメッセージは何だと思いますか。」 
M君「人は自分の力では救われないということだと思います。」 
寮長「これはまいりました。その通りです。相当深くまで読まないとそこまでわかりません。」 
K君「ところで、このように金持ちを悪者扱いにしてしまう言葉は、左翼の人たちに利用されてしまうのではないでしょう。」 
寮長「その可能性は大いにあります。というか事実利用されてきたでしょう。聖書の言葉には力がありますから、それを利用して自己主張を正当化しようとする人はいくらでもいましたし、これからも出てくるでしょう。だからこそ、聖書を読むときには一切の先入観を捨てて、自分を無にして聖書の言葉の奥にある深いメッセージを探ろうとしなければなりません。そのような態度は、たとえ間違ったメッセージにたどり着くとしても、自己主張を正当化しようとして聖書の言葉を利用しようとする態度よりは、全然素晴らしい。聖書を読むことは、神様との対話なのですから。」 
O君「聖霊という言葉を使われると、なんだかせっかくいい人になろうとしているのにその言葉がそがれてしまいます。」 
寮長「聖書ははっきり説明しようと思って、キリストの霊とか聖霊とかいう言葉を使いますが、別にそういう言葉にこだわる必要はないと思います。例えば中国の聖人たちや日本の中江藤樹のような人は、自分の力で徳を実践しようと必死で努力しました。そして壁に突き当たったとき、天からの助けのようなものを得ています。聖書の世界に限らず、全力で愛を実践しようとし、壁に突き当たる人には、神様が支えてくださるということが起こる。聖書はそういうことを聖霊の助けと呼んでいるだけで、別にそういう言葉が嫌なら無視したってかまわない。あくまで本質的なメッセージを捕らえようとしてください。」 
O君「それならいくらか納得できます。」 
Y君「この世のようなひどい状態の中で永遠の命をもらってもあまりうれしいとは思わないのですが。」 
寮長「新約聖書の言う永遠の命は神の国とセットです。永遠の命と愛は、聖書ではほぼ同義ですから、神の国とは永遠の命の国であると同時に愛の国でもあります。加えて永遠の命には健康も含まれます。病気や老いを抱えながら永遠の命をもらえるというのではありません。ですから、永遠の命は、ひどい状態の中で生き続けるということではありません。」 
O君「そうだったんですか。」