2025年7月13日春風学寮日曜集会
聖書 創世記6:13-14、7:1-6、8:13-22、9:1-7
1.畏れるべき神
6:13 神はノアに言われた。「すべて肉なるものを終わらせる時がわたしの前に来ている。彼らのゆえに不法が地に満ちている。見よ、わたしは地もろとも彼らを滅ぼす。
6:14 あなたはゴフェルの木の箱舟を造りなさい。箱舟には小部屋を幾つも造り、内側にも外側にもタールを塗りなさい。・・・」
神は悪をいつまでも放置しておくことはない。神は愛である。愛ということの中には正義の執行も含まれる。神は愛のゆえにいつの日か悪に対して地球規模での裁きを下す。6:13の神の厳しい言葉はそのことを伝えようとしている。
私たちはこの言葉を受けて、罪というものの恐ろしさを知ると同時に、神への畏れを知らなければならない。恐れと畏れの違いとは何か。恐れとは自分に害をなすもの(悪)に対して抱く恐怖だが、畏れとは正義を厳格に執行するものに対する畏敬である。今を生きる私たちには神を畏れる心がない。だから、愛や正義を行おうとする意志や罪を犯さないようにしようという意志が希薄である。私たちが愛や正義を行い、罪を犯さないでいるのは、そうしなければ警察に処罰されるからであり、他者から非難されるからである。警察や他者から見られていないなら、私たちはいくらでも悪いことをするであろう。皆さんは、寮長から全く見られていない場合でも、積極的に掃除をするであろうか。しないであろう。寮長が点検しないなら掃除は行われないか、行われたとしてもいい加減に行われる。誰からも見られていないのにトイレをピカピカに掃除してやろうという人はまずいない。これこそ私たちが神を畏れていないことの証拠である。
そのような私たちに向かって神は聖書を通じて、神を畏れよ、神を畏れる心こそが愛と正義の源泉であると訴えているのである。
ところでその畏れるべき神がノアに対してだけ好意を寄せ、ノアとその家族だけを救おうとする。いったいなぜだろうか。続きを読んでみよう。
2.ノアはなぜ好意を得たのか
7:1 主はノアに言われた。「さあ、あなたとあなたの家族は皆、箱舟に入りなさい。この世代の中であなただけはわたしに従う人だと、わたしは認めている。
7:2 あなたは清い動物をすべて七つがいずつ取り、また、清くない動物をすべて一つがいずつ取りなさい。
7:3 空の鳥も七つがい取りなさい。全地の面に子孫が生き続けるように。
7:4 七日の後、わたしは四十日四十夜地上に雨を降らせ、わたしが造ったすべての生き物を地の面からぬぐい去ることにした。」
7:5 ノアは、すべて主が命じられたとおりにした。
7:6 ノアが六百歳のとき、洪水が地上に起こり、水が地の上にみなぎった。
7:1で神はこう言っている。「この世代の中であなただけはわたしに従う人だと、わたしは認めている。」そして7:5にはこうある。「ノアは、すべて主が命じられたとおりにした。」だとすれば、ノアだけが神の好意を得た理由は明らかであろう。ノアが神の言葉に全面的に従う人だったからである。
人間は善悪の知識を持ったがゆえに自分で物事を判断できるようになった。それだけならよいのだが、同時に罪をも併せ持つゆえに、その判断は絶えず自己中心的(的外れ)になる。こうして人々は、すべての事を自分自身で自己中心的に判断するようになり、神とその意志である愛を無視し始めた。こうして人間は神への畏れを完全に失ってしまったのだ。そのような中にあってノアだけは違った。神への畏れを失わず、神の言葉に忠実に従い続けたのだ。善悪の知識に基づく自分の判断よりも、神の判断を優先し続けたのだ。考えても見てほしい。今読んだ個所でも、ノアは自分の判断など全く無視して神に従い続けている。「これから洪水を起こすから、大きな箱舟を作ってその中に入れ」と神は言う。そして「清い動物も一つがいずつ箱舟に避難させよ」と神は言う。このような神の言葉に一体だれが従うであろうか。善悪の知識(二分法的認識能力)に基づいて判断すれば、これほどナンセンスな命令はあるまい。ところがこのナンセンス極まりない神の言葉に、ノアは忠実に従ったのだ。自分の判断はすべて棚上げにして神の言葉を優先させたのだ。そのような人物であればこそ、ノアは神の好意を得たのであった。
このような展開に込められた神のメッセージとはいったい何であろうか。それはやはり、答えの出ないような問題については、自分の判断よりも神の言葉を優先せよということであろう。答えの出る問題については、いくらでも善悪の知識(二分法的認識能力)を使って自分で判断してかまわない。しかし答えの出ない問題については、自分の判断は棚上げにして神の言葉に従えということである。
例えば今の個所の神の言葉を要約するなら、それは、地球規模の裁きを行うから、あらかじめ備えておけというものであった。神の地球規模の裁きなどというものが本当にあるのかどうか、いくら善悪の知識を利用したってわかるはずがない。これはまさしく答の出ない問題なのだ。このような問題については、自分の判断よりも神の言葉を優先してそれに従えと神は言っているのだ。あるいは、神は人を復讐してはならないと言い、復讐は神がするからあなたがたは敵を愛しなさいと神は言う。神が本当に復讐してくれるのか、そんなことはいくら善悪の知識で計算しても分からない。これまた答えの出ない問題である。こういうときには、神の言葉に素直に従って、復讐せずにいろと神は言っているのだ。
私たちの周りにも答えが出ない問題がたくさんある。そういうときこそ自分の判断ではなく神の言葉に従うことが重要であると神は言うのである。
3.裁き対赦し
8:13 ノアが六百一歳のとき、最初の月の一日に、地上の水は乾いた。ノアは箱舟の覆いを取り外して眺めた。見よ、地の面は乾いていた。
8:14 第二の月の二十七日になると、地はすっかり乾いた。
8:15 神はノアに仰せになった。
8:16 「さあ、あなたもあなたの妻も、息子も嫁も、皆一緒に箱舟から出なさい。
8:17 すべて肉なるもののうちからあなたのもとに来たすべての動物、鳥も家畜も地を這うものも一緒に連れ出し、地に群がり、地上で子を産み、増えるようにしなさい。」
8:18 そこで、ノアは息子や妻や嫁と共に外へ出た。
8:19 獣、這うもの、鳥、地に群がるもの、それぞれすべて箱舟から出た。
8:20 ノアは主のために祭壇を築いた。そしてすべての清い家畜と清い鳥のうちから取り、焼き尽くす献げ物として祭壇の上にささげた。
8:21 主は宥めの香りをかいで、御心に言われた。「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。
8:22 地の続くかぎり、種蒔きも刈り入れも/寒さも暑さも、夏も冬も/昼も夜も、やむことはない。」
8:21―22で神は驚くべきことを言っている。「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。・・・地の続くかぎり、種蒔きも刈り入れも/寒さも暑さも、夏も冬も/昼も夜も、やむことはない」と。ここにおいて、アダムとエバの背き以来与えられていた自然への呪いが解かれたことになる。つまり、自然は豊かに無限に実りをもたらしてくれるものへと戻ったのだ。
ここにすでに神のメッセージが込められている。そのメッセージとは、言うまでもなく、自然は大切に保護されていく限り、人間に無限の恵みをもたらしてくれるということである。現在寮長室の前の小さな花壇では、トマトとミニトマトがまさしく無限とでも呼びたくなるほどに実っている(トマトはすでに10個以上、ミニトマトはすでに300個以上が収穫され、今後もその二倍以上の収穫が見込まれている)。化学肥料は、ほとんど使っていない。肥料の99%は、公園で拾って来た枯葉と寮の生ごみとわずかな鶏糞と米ぬかである。これだけのものを与えてやれば、わずかな土がこれほどに豊かな収穫をもたらすのだ。気づいていないかもしれない昨年には、一つのプランタから20個前後の里芋が採れ、一昨年にはやはり一つのプランターから茄子が30個以上採れた。これは私に言わせれば奇跡である。奇跡と呼びたくなるほどに、自然(土)は大切に守られる限り私たちに豊かな恵みをもたらしてくれる。このことを神はこの箇所で伝えようとしているのである。
それなのに人間はなぜ余計なことをして、自然をだめにしてしまうのであろうか。戦争をしたり、山野や農地をマンションに変えたり、汚染物質をまき散らしたり、農業を軽視したり・・・。これこそ的外れの連続である。何を仕事にしようとかまわないが、何をやるにせよ、自然保護の観点を絶対に忘れてはならない。
しかしここにはさらに驚くべき言葉がある。それはこれらの言葉の間に挿入された「人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい」という言葉である。これはまさしく目玉が飛び出るほどにびっくりする言葉である。
前回受け取った神のメッセージは、神は悪を放置しておかず、全人類に地球的規模での裁きを下すというものであった。そして今日の個所の冒頭(6:13)でも神は同じようなことを言っていた。「わたしは地もろとも彼らを滅ぼす」と。ところがここで神は全く違ったことを述べている。人間は幼い時から悪いのだから、「この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい」と。つまり、人類に対して地球的規模での裁きを下すことは決してないと述べているのだ。これはこの直前の神の態度とは180度異なる態度である。いったいなぜこれほどまでに神は態度を変えたのであろうか。
その理由はもちろんノアが完全に神に従ったからである。表面的にはノアの捧げた「焼き尽くす献げ物」に神が喜んだからと解釈できるように書かれているが、そのような「献げ物」で神が喜ぶはずがない。神が本当に喜んだのは、神の言葉に忠実に従い続けたノアの態度ためである。ノアが最後まで自分の判断を捨てて神の言葉にことごとく従い続けたからこそ、神は大喜びし、人類に対して地球規模の裁きを下すことをやめることにしたのである。
だとすると、このような展開に込められた神のメッセージは二つある。一つは、神が最も喜ぶことは人間が神に従い続けることであるということ、もう一つは、たった一人でも、完全に神に従う人がいるなら、神は全ての人間の罪を赦し、地球規模での裁きを断念するということである。神は愛の方である。それゆえにその愛に人間が従い続けることを神は何よりもお喜びになる。そして愛の方であるがゆえにこそ、愛に反する行動や考えにお怒りになる。そしてそのような罪が世界中にはびこってしまったなら、人類に対して地球規模での裁きを下さざるを得なくなる。ところがここで神は驚くべきメッセージを私たちに伝えているのである。たった一人でも神に完全に従順な者がいるならば、神は全人類の罪を赦し、地球規模での裁きを思いとどまると。このメッセージの向こうにある神の思いがどのようなものであるのか、私にはもはや理解できない。しかしこれこそが、神が愛と正義を両立する方法なのだ。
私たちの罪のほとんどを神は見逃している。私たちがどれほどに自分勝手なことをしようとも神はそこに介入してくることはない。いったいなぜか。私たちが自発的に悔い改めることを待っているからだとカインのところで学んだ。しかし今日の個所はそれ以上の理由があることを伝えている。たった一人の人間の完全な従順のゆえに神は大喜びし、その故をもって神は他の人間の罪を赦しているのだと。ノアやイエス・キリストの示した完全な従順のゆえに私たちの罪を赦しているのだと。そんなバカなと思うかもしれない。しかし聖書は全体としてそのことを伝えようとする書物である。そして神ご自身も聖書全体を通じてそのことを人間に伝えたいと思っている。とても私たちには理解し難い発想である。
ところが、善悪の知識による判断を停止して、このメッセージを受け入れるとき、私たちの心には不思議な平安と生きる力が湧いてくる。恐らく罪深い自分でさえも神の愛のもとにあると感じられるからであろう。皆さんが聖書を読むことを通じてそのように感じられるなら、それこそ神は大喜びするであろう。
4.肉食の許可
9:1 神はノアと彼の息子たちを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちよ。
9:2 地のすべての獣と空のすべての鳥は、地を這うすべてのものと海のすべての魚と共に、あなたたちの前に恐れおののき、あなたたちの手にゆだねられる。
9:3 動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい。わたしはこれらすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える。
9:4 ただし、肉は命である血を含んだまま食べてはならない。
再び驚くべき言葉である。神が創造した本来の世界は、草食を基本とする世界であった。ところが、今や神は人間に肉食を許し、他の全ての動物を食糧として与えたのであった。いったいなぜ神はこのように方針を変更したのであろうか。物語的には明らかである。ノアがささげた肉の「焼き尽くす献げ物」があまりうれしかったので、その返礼として神は人間に肉食を許したのである。このような物語展開の背後には自分たちの肉食習慣や動物のいけにえを捧げる儀式を正当化しようとする筆者(祭司)の意図が感じられる。
しかしもう一段読みを深めよう。神が本当に喜んだ理由がノアの従順にあり、ノアの従順のゆえに人類の罪を赦したのだとすれば、この箇所は別様に解読できる。神はノアの従順ゆえに人類の罪を赦す延長線上で、人類の肉食もしかたなく許したのだ。
であればこそ、最後には「肉は命である血を含んだまま食べてはならない」という言葉が付く。古代においては、命は血に宿るとされ、血は命と同一視されていた。だからこの言葉の意味するところは、動物の命を奪ってはならないということである。ということは、神は人間に肉食を許したが、他の動物の命を奪うことは許さなかったということである。これは矛盾である。いったいどのようにして命を奪わずに動物の肉を食べることができようか。ユダヤ人たちはこの矛盾を解消するために、血を抜いた上で肉を食べるという習慣や儀式を発展させていった。しかしそのような習慣や儀式は欺瞞(ごまかし)でしかない。この言葉は、どう見ても、動物の命を奪ってはならないという意味であり、血を抜いてなら食べてもよいという意味ではないのだから。それでは一体なぜ神は肉食を許可した後で、このような矛盾した言葉を付け加えたのか。その心はやはり、食べて良いからと言って動物の命を軽んじるな、動物の命を奪うことはやはり罪なのだとくぎを刺すことにあったであろう。神は肉食を許可しながらも、肉食という行為は他の動物を殺すことによって成り立つ罪深い行為なのだということを人間に思い出してほしいと思い、この一言を付け加えたに違いない。
だから、この箇所に基づいて、肉が食べ放題だなどと思ってはいけない。肉食はあくまでも罪であり、草食こそが神の理想なのだ。しかし神は、ノアに免じて人類の罪を赦し、その延長線上で仕方なく肉食も許した。そういう思いで慎み深く感謝をもって肉を食べる必要がある。このようなメッセージの背後にあるものは神の人間中心主義ではない。人間中心主義に陥らずにはいられない人間に対する赦しなのである。
5.赦されざる罪
9:5 また、あなたたちの命である血が流された場合、わたしは賠償を要求する。いかなる獣からも要求する。人間どうしの血については、人間から人間の命を賠償として要求する。
9:6 人の血を流す者は/人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ。
9:7 あなたたちは産めよ、増えよ/地に群がり、地に増えよ。」
最後に神は、人間の命を奪ったものは、人であれ動物であれ、その者の命を奪うと宣言する。その理由は、人間が「神にかたどって造られたからだ。」神は明らかに人間の命を他の生き物の命よりも重視している。その理由は、人間が神のように自由意志を持った人格的存在として造られたからだ。何よりも、その自由意志に従って神の意志(愛)に従うという尊い行為を選び取ることができるからだ。ノアがその完全な例を示してくれた。であればこそ、神はここで人間の命が他の動物の命よりも尊いものであることを確認し、その命を奪ったものには必ず死が与えられると宣言したのだ。
ところで、弟を殺したカインについては、神は決して死を要求しなかった。それなのに、なぜここでは殺人者に厳しく死を要求するのであろうか。また、先ほど読んだところによれば、神はノアの従順に免じて全人類の罪を赦すことにしたはずだ。それなのになぜここでは、殺人者の罪を厳しく問うのであろうか。物語的には明らかに破綻している。しかしその破綻の向こうに神のメッセージを読み取ることこそが、私たちのすべきことである。
恐らくこれらの背後に隠された神のメッセージは、人間の命の尊さを改めて人間にわからせることにあったであろう。確かに神は殺人を犯した者が悔い改めるのを気長に待つであろう。確かに神はたった一人の従順のゆえに殺人をも含めた人類の罪を赦すであろう。しかしだからと言って、神は人間の命などどうでもよいと考えているわけではない。それどころか、人間の命は自由意志によって愛を選び取る人格的主体として何よりも尊い。その尊さと命の尊厳をはっきりと確認することこそが、命を奪う者は命を奪われるという言葉に込められた神の真のメッセージであるに違いない。
そういう視点から神のメッセージをまとめるとこうなる。≪人間の罪の行為のほとんどは赦そう。わずかな人間がわたしに従順でいてくれるなら、私はそれだけで満足だ。人間の心は幼いころから罪に支配されていて悪いのだから。しかし殺人についてだけは罪を問う。殺人は、神に従うことのできる自由意志を持った人格という尊いものを破壊してしまう重罪なのだから。それゆえに私は、殺人者が自分からその罪を悔い改めることを心より望む。しかし、悔い改めないならば、私はその者の命を奪うであろう。≫
このような神のメッセージの根底には、愛が何よりも重要であり、殺人が愛を無に帰してしまう行為であるという神の強靭な価値観がある。この価値観をこそ私たちは聖書から読み取るべきなのだ。
こうして神は再び9:7で人間に向かってのみこう祝福する。「あなたたちは産めよ、増えよ/地に群がり、地に増えよ」と。この祝福はかつてのような本能の祝福ではない。ノアのごとくに愛を選び取ることのできる自由意志を持った人間の人格の祝福である。
この祝福は果たして人間中心主義だろうか。人間中心主義とは、他の生物を人間が自由に利用してよいと考える思想である。神は決してそのようなことは言っていない。神はただ人格を持った人間の命を特に尊いと見なしているだけだ。愛を選びうる人格のゆえに人間の命をより尊いとみる価値観は、人間に他の生物への愛の発動を求めるものであり、他の生物を自由に利用してよいと考える人間中心主義とは全く異なるものである。従って神は、ここで人間の命を祝福しつつ、全生物の命を祝福しているのである。聖書に秘められた神の思いのなんと深いことであろうか。
話し合い
Ma「ノアだけがなぜ救われたのか、よく理解できました。また肉が食べ放題なのではないというところに共感しました。」
Ryo「コヘレトの最後の部分と今日のメッセージは、まったく一致していますね。神を畏れ、神の言葉に従うことこそすべてであると。」
寮長「別に狙ったわけではありませんが、自ずからそういうメッセージが与えられました。やはり聖書には何か筋が通っているのですね。」
Ok「人間は幼いころから悪いというのはどういうことですか。」
寮長「前にも話した通り、生まれ付き遺伝的に悪いということではないと思います。自意識を備え、物心ついたころに自己中心的になるということだと思います。」
Ok「もう一つ。人格を破壊してしまうのは殺人だけでしょうか。」
寮長「もちろんそれだけではないでしょう。肉の命は奪わずとも人格を破壊する心の殺人と言うのもあると思います。しかし、筆者は古代の人ですからそのようなところまでは当然目が向いていない。しかし神様の御心としては、あらゆる形における人格の破壊を赦さないということでしょう。」
Ho「神の言葉とはどのようなものでしょうか。」
寮長「旧約聖書においてはモーセの十戒、新約聖書においては山上の説教でのイエスの言葉がその主なものでしょう。そしてここで心に留めておくべきことは、心の底から愛を実行しようと思ってそれに従うことが重要だということです。打算から神の言葉に従ってもあまり神は喜ばないでしょう。」
Ue「神の言葉に忠実な人は身近な人をも救いに導くのではないでしょうか。ここでは、ノアの家族は何の功績もないのに救われていますよね。」
寮長「神の言葉に完全に忠実な人は、周囲の人と神の間のとりなしを行い、罪人と神を和解させる働きを持つというのが聖書の考えです。だから神に忠実な人が身近な人を救いに導くというのはその通りだと思います。しかしノアに込められたメッセージはそれを超えています。完全に忠実な人は見ず知らずの人をも救いに導くというのです。このようなとりなしについては大問題なのでまた改めて扱いましょう。」
Ko「菜食主義の聖書的根拠がよく分かりました。これからは胸をはって菜食主義を誇ることができます。もちろん肉食の人を非難せずにですが。」
寮長「聖書は最高に厳しいことを言いますが、よくよく読んでみると結局は寛容です。多神教のことなども旧約では、あれほど否定しておきながら、新約では赦し、認めさえする。」
Ku「それは違うでしょう。イエス様は悪魔の誘惑のシーンで神以外の何ものにも服従しませんでした。」
寮長「それが完全にできたのはイエス様だけでしたし、イエス様はそのことを他者には決して強要しませんでした。そして神に従うことができない人々を十字架において赦したのです。厳しい教えを伝えるけれども、それを守れない人を最終的には赦す。それが、神がイエスを通じて表したメッセージです。」
Ka「肉が食べ放題なのではないというところが心に残りました。節度をもって、感謝しながら、肉を食べていかなければなりませんね。」
寮長「その通り。寮では毎日のように肉が夕食に出ますが、どうぞ感謝と謝罪の祈りをもっていただいてください。」