原罪と堕落(小舘)

2024年6月17日春風学寮日曜集会

聖書:創世記

3:14 主なる神は、蛇に向かって言われた。「このようなことをしたお前は/あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で/呪われるものとなった。お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。

3:15 お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に/わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き/お前は彼のかかとを砕く。」

3:16 神は女に向かって言われた。「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む。お前は男を求め/彼はお前を支配する。」

3:17 神はアダムに向かって言われた。「お前は女の声に従い/取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。

3:18 お前に対して/土は茨とあざみを生えいでさせる/野の草を食べようとするお前に。

3:19 お前は顔に汗を流してパンを得る/土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」

3:20 アダムは女をエバ(命)と名付けた。彼女がすべて命あるものの母となったからである。

3:21 主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。

3:22 主なる神は言われた。「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。」

3:23 主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼に、自分がそこから取られた土を耕させることにされた。

3:24 こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。

 

序.罪の復習

前回私は、罪の本質は「的外れ」であると書いた。人間は「善悪の知識」に基づいて神の意志である愛とは常に異なることを思い、判断してしまうこの性質が罪の本質だと。しかし、これは辞書的で不十分な言い方であったと反省している。これは厳密に言えば、本質というよりは罪の現れである。そこで改めて罪の本質をピンポイントしてみたい。

この物語においてアダムと女の間に最初に罪が宿ったのはどこであろうか。通説では、木の実を食べた瞬間であると考えられている。この瞬間こそは、神の命令に彼らが背いた決定的瞬間であるからだ。そこで通説では、罪とは神の意志に背くことであるという罪の定義がなされる。このような通説の背後には、罪とは行為であり、心の中で考えたことは罪ではないとする旧約聖書の伝統がある。

しかし新約聖書にイエスが登場し、心の中で思っただけでも罪であるということを主張し、さらにはパウロが罪は心の中の一つの傾向であると主張し始めたところから事態は一変する。罪は単に神の意志に背く行為ではない。人の心に宿るある傾向こそが罪なのだと。だとすれば、男女に罪が宿ったのは、実際に木の実を食べるという背きの行為を犯す前であることになる。では二人にそのような心の傾向としての罪が生じたのはいつか。一つしかない。それは、「蛇」から「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ」(3:4-5)と言われた瞬間である。この瞬間こそ二人に心の傾向としての罪が生まれた瞬間である。ではその罪とはいったいいかなるものか。物語の言葉で言えば、まさしく「神のようになりたい」という過剰な自己拡大欲求のことである。もっと普遍的に表現するならば、自分を神とする自己中心性ということになろう。

そうなのだ。これこそが罪の本質である。罪とは神の意志(愛と義)に背く性質であるという定義は、このような罪の本質を裏側から現した言葉に過ぎない。罪の本質を正面から表現するならば、それは自分を神とする自己中心性であるということになる。

ところで、この物語において語られている男と女の罪は、後にキリスト教徒によって原罪と見なされるようになった。すなわち、遺伝的に全ての人間に受け継がれていくとみなされるようになったのである。だから、カトリックを初めとするキリスト教徒の多くは、人間は生まれながらにして罪人である、受精によって生を受けた瞬間から、人間は罪を宿していると考えるのである。

しかし私は、このような教義を敢えて否定する。その理由は以下の通りである。①罪が遺伝するなどということは今日の物語には描かれていない。②罪の遺伝について合理的な説明が不可能である。そもそも初めに原罪説を明確化したのはアウグスチヌス(354-430)であり、彼は性交の瞬間に原罪が胎児に伝わっていくと説いた(ここから性欲全般がすでに罪に汚されたものであるという悲劇的な見方が拡散されてしまった)。しかし、罪(自己中心性)という人格的傾向が生物学的受精を通じて胎児に受け継がれていくということなどありえない。③もし原罪を認めるとすれば、人間は限りなく堕落してしまう。仮に遺伝的に罪が受け継がれていくのだとして、その場合罪の責任は人間には全くないことになる。その結果人間はまったく罪の意識のない人間となってしまう。「生まれつき罪人なのだから、悪いことをしたって私のせいではない」という考えがまかり通ることになり、人は自分の罪のことを少しも反省しなくなってしまう。事実、自分の罪をまじめに反省しないキリスト教徒はたくさんいる。

だから、原罪などというものはあり得ないし、認めてもいけないと私は思っている。しかし、原罪ということを主張したくなってしまうほどに人間が自己中心的であることは確かである。アダムとエバの物語の背後に隠れている神の真のメッセージは、遺伝ではないとしても、ほとんどの人間は自分を神としてしまうほどに自己中心的な傾向(罪)を持っているということであろう。

 

1.「蛇」への罰

さて、今日の箇所では、そのような罪を宿した人間たちとそのような罪へと人間を唆したサタンに対して神が裁きを下し、罰を与える。繰り返すが、このような話は全て人間が作り出したフィクションである。しかしだからと言ってそこに神からの啓示が含まれていないわけではない。私の読解は先ずはそのフィクションの意味を明らかにし、その上でそこから啓示(神のメッセージ)を読み取っていこうというものだ。以下そのようにして物語を読解していこう。

神はまずサタンである「蛇」について二つの罰を下す。

3:14 ・・・「・・・。お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。

3:15 お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に/わたしは敵意を置く。

「生涯這いまわり、塵を食らう。」とはいったいどういうことであろうか。このことがどういうことを意味するのか、はっきりしたことは分かっていない。キリスト教徒は古来、この蛇をサタンと解し、サタンが決して天へと昇り得ない、つまりは神の国へ入りえない存在として位置付けられたことを暗示すると解釈してきた。続く「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き/お前は彼のかかとを砕く。」についてもキリスト教徒は人類とサタンが互いに敵意を抱き続け、敵対し続けるということだと解釈してきた。しかしこの物語からそこまで読み取ることは不可能であろう。なぜなら、この物語においては、「蛇」がサタンであるなどと明言されていないのだから。

では筆者(恐らく祭司)はどのような意図でこの箇所を描いたのであろうか。この問題は今日に至るまで謎である。そもそもなぜ「蛇」だけがしゃべり、人間同様の自由意志を持っているのかということ自体が謎である。

しかし、「蛇」が神と人間を引き離そうとする悪の力の象徴であるとするならば、ここに込められた神のメッセージが見えてくるように思われる。それは人間は悪の力と戦い続けなければならないが、神は決して悪の力を野放しにしておきはしないということである。この世界には確かに悪が存在する。神はその悪を撲滅しようとはしない。しかしだからと言って、神は決して悪を野放しにするわけではない。悪といえども最終的には神の支配下にある。そのことを神はこの箇所を通じて伝えようとしているのではないだろうか。

 

2.女への罰

次に女への罰に目を移そう。神は女に対してまずは次のような罰を下す。

3:16 …「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む。・・・」

ここの「はらみの苦しみ」は誤訳であると最近の研究(キャロル・マイヤーズ)はみなしている。正確には「出産と労苦」と訳すべきであるらしい。

では、ここで言う「労苦」とはどのようなものであろうか。出産とセットになっていることからすれば、出産と子育てに関する労苦である。つまり神が女に与えた罰の一つは、出産と子育てに関する労苦を増し加えることであったのだ。

さらに神はこう続ける。

3:16「…。お前は男を求め/彼はお前を支配する。」

「男」と訳されているがここは厳密には「夫」であるらしい。では「夫を求める」とはどういうことであろうか。それは原語のヘブライ語にさかのぼれば、「夫を甘え求める」ことであるそうだ。つまり、女は二つ目の罰として、夫への依頼心と夫から支配される境遇を与えられた。

以上のことをあえて一言でまとめれば、神は罰として女を家庭に閉じ込めたということである。そしてこのことが何を意味するかと言えば、それはジェンダーの差が置かれたということである。今まで男と女の違いは単なる生物学的性別に過ぎなかった。ところが、女の出産と子育ての労苦が増し加えられ、女に依頼心支配されざるを得ない境遇が与えられた今、女は女というジェンダー(社会的性別)を生きることとなったのだ。前回からの脈絡で言えば、本来対等に補い合い、助け合うために生み出された男女が今や甘えと支配という構造のもとに互いに対立するものとなってしまったのだ。

神が女を罰として家庭に閉じ込め、ジェンダーを作り出したというこの物語は、なんとも納得しかねる。神が本当にそんなことをしたのであろうかと。もちろん神がジェンダーを作り出したなんてフィクションだ。この物語は、女性が家庭に閉じ込められ、出産と子育てに関する膨大な労苦を負わされ、男性に支配されるという理不尽な現状を神の罰という視点から説明し、その現状を女性に受け入れさせるという筆者(祭司)の人間的意図のもとに書かれたものである。だから間違ってもここからジェンダーが神の意図に基づくものだなどという解釈を導き出してはいけない。

それではこの物語はただの人間が作り出したフィクションなのか。そうではあるまい。ここには確かに神からの啓示(メッセージ)が隠されている。そのメッセージとは何か。それを教えてくれるのが「善悪の知識」である。「善悪の知識」とは、二分法的認識能力のことであった。だとすれば、ジェンダーの出現が「善悪の知識」と関連していることは確実である。恐らく、ジェンダーが作り出される真の原因は神の罰などではない。神のようになろうとして「善悪の知識」〈二分法的認識能力〉を手に入れた二人の罪こそが、ジェンダーを生み出すのだ。そして恐らくここにこそこの物語に隠された深い神からのメッセージがある。神はこの箇所を通じて恐らくこう呼びかけているのだ。人間社会ではジェンダーが生み出され、女が家庭に閉じ込められているが、そのような結果が生じた根本的な原因は、人間の罪であると。すなわち、「善悪の知識」(二分法的認識能力)を駆使して神のようになろうとする自己中心性がジェンダー生み出し、女を家庭に閉じ込めるのだと。確かにジェンダーは、人間が二分法的認識能力によって作り出した虚構であると私には思われてしまう。

 

3.男への罰

続いて男に対する罰を見てみよう。神は男に対してはこう言う。

3:17「・・・お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。

3:18 お前に対して/土は茨とあざみを生えいでさせる/野の草を食べようとするお前に。

3:19 お前は顔に汗を流してパンを得る/土に返るときまで。

「生涯食べ物を得ようと苦しむ」という言葉に端的に現れているように、食べ物を得るため苦労して働かなければならないこと、これが神の男に対する罰である。「食べてはいけない」という命令に背いた罰として、食べ物が得難くなるというのはごく正当な罰であるように思われる。食べ物を得ることは本来難しいことではなかった。エデンの園においては「見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木」(2:9)が生えており、男女は自由にそれらを取って食べて生きていくことができた。ところが今や、「土は呪われるものとなった。」つまり自然は、簡単には食べ物をもたらさない、厳しいものとなったのだ。

 このことはいったい何を意味するのか。もちろん一つ目にはジェンダーの差の出現を意味する。今や男は食べ物を得るために苦労して働かなければならない。ということは、子育てや家庭のことは全て女に任せきりにしなければならない。自然が食べ物を容易にもたらさない厳しいものとなることによって、男も今や男というジェンダーを生きなければならなくなったのだ。

 しかし、ここにはそれよりも重大な意味がある。それは、自然と人間が敵対するものとなってしまったということである。今まで自然はありとあらゆる食べ物をもたらす優しい存在であった。しかし今や、なかなか食べ物をもたらさない、手ごわい敵となってしまったのだ。

これまた納得しがたい話である。神が自然を呪い、人間と敵対するものとしたなどという話をどうして受け入れられるであろうか。これは間違いなくフィクションである。このような物語は、砂漠に代表されるような厳しい自然を完全な神がなぜ造ったのかというユダヤ人たちの疑問に答えようとする筆者(祭司)によって作り出されたものであろう。だから、間違ってもこの記事をうのみにして、神が人間を処罰するために自然を呪ったなどと考えてはいけない。

では神がこの物語を通じて伝えようとした真のメッセージは何であろうか。それを教えてくれるのもやはり「善悪の知識」である。「善悪の知識」を手に入れた自己中心的な人間は今や人間と自然を分けて考え、自分を自然の上に置くようになった。やがて人間は自然をいくら利用してもかまわないものと考え、自然を思うがまま破壊するようになるであろう。本来人間は自然を保護すべきものであった。ところが今後はは自然と対立するようになるのであろう。そして実際人間はそのように自然を扱ってきた。このことに対して警告を発することこそこの物語に込められた神のメッセージであろう。恐らく神はこの箇所を通じて私たちにこう呼びかけているのだ。自然が厳しいものとなり、人間と対立するようになったのは、人間が「善悪の知識」(二分法的認識能力)を駆使して自分と自然を区別し、自然を思うがままに支配しようとするからであると。ハラリの書いた『サピエンス全史』を通じて人間と他の生物の歴史をたどってみるとまさしくその通りであると私は納得してしまう。

 

4.楽園の追放

 ところで、男への罰の最後には、奇妙な言葉が付け加えられている。

3:19 ・・・。塵にすぎないお前は塵に返る。」

この言葉をキリスト教徒は罪に対する罰として神が人間に死を与えたものと解釈してきた。しかし、ここはそのような書き方をしていない。もしそうなら、これほど重大なことをこれほどさりげなく書きはしないだろう。そもそも人間は、この物語において元々不死に造られていたわけではない。「命の木」から取って食べたなら不死になる可能性があったというだけで、人間は元々死すべき存在として造られていたのだ。そのことを前提として、お前は死ぬまで食べ物を得るために労苦しなければならないのだと告げることこそが、この言葉の本意であろう。だから、この箇所から、神が罪に対する罰として人間に死を与えたと解釈するのは正しくない。

 しかし次の個所では、神はまさしく本当の死を人間に与える。

3:22 主なる神は言われた。「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。」

今や人間は神のように「善悪を知る者」となった。二分法的認識能力のゆえに、全てを序列化し、計算し、独自に判断できるようになったのだ。しかもこの人間は、神のようになろうとする自己中心的存在である。このような存在が、永遠に生きるようになったりすれば、この世界は愛の世界であるどころか憎しみと対立の世界になってしまうだろう。そこで神は、人間が命の木から取って食べるのを阻止するために、彼らをエデンの園から永久に追い出すことにした、つまり、このときにこそ二人に本当の死が与えられたというのがこの箇所の趣旨である。

 前回述べたように、ユダヤ人にとっては神から離れて生きることこそが本当の死である。その意味からすれば、このときにこそ神は人間に罰として死を与えたのだ。以降人間は神なき世界を、死人のように生きていくことになる。これこそ堕落(または堕罪)と呼ばれるものである。そしてこの堕落はアダム以降の全ての人間に引き継がれることとなり、エデンの園への道は永久に閉ざされる。このことを象徴的に表現した言葉こそが、

3:24 こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。

である。

 これまたフィクションである。アダムとエバというたった二人の始祖の罪のために、全人類が罰として堕落させられ、神なき世界を死人のように生きるようになってしまったなどという話をどうして神の啓示として受け入れることがでようか。

 しかしこのようなフィクションの内にも神のメッセージはあると私は思う。それは実際にほとんどの人間が神から離れて、神などいないかのごとくに生き、その結果死にも等しい人生を生きているということである。いったいどれくらいの人間が神の存在を本気で信じているであろうか。恐らくそのような人間はほとんどいまい。キリスト教徒であると自称する人たちも、本気で神を信じているか怪しいものである。その結果ほとんどの人間は肉欲を満足させるためだけに生きている。これこそまさしく死人のように生きるということではないか。神はこの箇所を通してまさしくこのことに注意を喚起しようとしているのだ。「あなたがたは実際に神から離れて神なき世界を死人のように生きているではないか」と。強烈な一撃である。

 

5.皮の衣

 最後に小さいが重大な個所に触れて終わろう。一つは、「アダムと女に皮の衣を作って着せられた」(3:21)という個所、もう一つは神が「自分がそこ(エデンの園)から取られた土を耕させることにされた」(3:21)という個所。この二つの個所は神が二人を決して怒りのゆえに楽園から追い出したのではないことを表している。罰を与え、エデンの園から追放しながらも、神はなおも二人のことを愛しているのだ。

 それでは、これらの個所に隠された神のメッセージとは何であろうか。それはおそらく、神を信じずに、神から離れて生きる私たちさえも神は愛して、救いの手を差し伸べて下さるということである。私たちの多くは確かに神を離れて肉欲の追求に明け暮れる自己中心的な生き方をしている。しかしそのような私たちでさえも神は決して見放しはしない。ことあるごとに、救いの手を差し伸べている。そのことに気付くようにと神はこれらの個所を通じて訴えているのではないだろうか。「皮の衣」とエデンの園の「土」とはそのようなさりげなく与えられる神の救いの手を表しているのではないだろうか。

少なくとも私は、自分の生涯を振り返ってみたとき、神が何度も救いの手を差し伸べて下さっていたことに気付かざるを得ない。アルバイト先でぼろくそに叱られたときも、好きになった女性にふられたときも、返済すべき奨学金が600万円を超えたときも、子供が病気で死んだときも、神は救いの手を差し伸べてくれていた。神など信じていなかった私にである。皆さんもぜひそのような神の救いの手に気付いてみてほしい。もし気付けるのなら、神から離れて肉欲だけを追求する生活から抜け出すことができるかもしれない。

 

話し合い

Ko「僕はクリスチャンホームに育ったので、原罪を否定されるとドキッとします。しかし寮長のせいで確かに原罪は変な考えだと思うようになってきました。それとは別に「皮の衣」の解釈には、心を打たれました。神から離れて肉欲を満たそうとして生きる私たちにも、神は確かに救いの手を差し伸べて下さるように思います。」

Ka「僕は環境関連のことを勉強しているので、人間が自己中心的な二分法的判断によって自然を下位に見なし、自然を思うまま破壊していくというところを聞いて、まさにその通りだと思いました。」

Ku「フィクションとフィクションでないものを分けてフィクションをだめだとするのも、自己中心的な二分法的判断なのではないでしょうか。」

寮長「わたしの話の主眼は別にフィクションを否定することにはありません。それどころか、たとえフィクションだとしても、その向こうには神のメッセージらしきものが隠れているからフィクションを馬鹿にせずにそこに隠された神のメッセージを探っていこうというものであります。聖書の言葉をそのまま真実であると受け止めると、次から次へと疑問や問題が生まれてきてとてもそこから神のメッセージらしきものが受け止められなくなってしまう。だから聖書の言葉をそのまま真実として受け止めてはいけないとは言いました。しかしそれは聖書の言葉をフィクションとして切り捨てよということでは決してありません。」

Ryo「創世記はそもそもイスラエルが国を失ったときに書かれたものです。だからそこには、祖国再建という意図が多分に含まれている。そういう意味で創世記はやはりフィクションだと思います。しかし創世記には寮長の言うとおり、確かにそれ以上のものが含まれています。それを読み取っていくことこそが聖書を読む醍醐味でしょう。」

It「ジェンダーが人間の罪(自己中心性)と善悪の知識(二分法的思考方法)が合わさったときに人間によって作り出されたというメッセージには感動しました。僕もその通りだと思います。ところで寮長は前に「男と女の創造」のところで、神がジェンダーを創造し、ジェンダーの異なる男女が協力し合っていくことを望んだと言ったような気がするのですけれど。」

寮長「そうは言っていません。神が異なる人格を創造し、異なる人格を持つ者同士が協力し合っていくことを神は望んでいると言ったのです。そのような協力の典型的な例が異なる人格を持った男女の結婚だと言ったのです。異なるジェンダーを神が創造したとは言わなかったし、異なるジェンダーが協力することを神が望んだとも言っていないはずです。」

It「あともう一つ。神が神を離れている人にも救いの手を差し伸べるというところに僕は感動しましたが、自分にはどうもそのような経験はないように思われます。これからあるのでしょうか。」

寮長「きっとあるでしょう。しかしそれより、君が神の差し出した救いの手に気付いていないというだけかもしれません。」

It「そうかもしれません。よく過去を振り返ってみましょう。」

So「二分法的認識からジェンダーの差が作り出されたというところが良く理解できません。もっと他の理由があるのかもしれない。」

寮長「確かに他の理由もあるでしょう。文化人類学的には、子供を育てるという女の生物学的役割からジェンダーが生まれたと説明されています。確かにそうとも言えるでしょう。しかしそういう役割分担がジェンダーとして定着してしまうのは、やはり男の自己中心性と二分法的認識が結びついた結果であるように思われます。証拠なんて何もありませんが。」

So「もう一つ疑問があります。善悪の知識(二分法的認識能力)は決して悪いものではないのではないでしょうか。それをきちんと用いて行けば、よい結果をもたらすこともできるのではないでしょうか。」

寮長「それこそ今日の個所で最も言いたかったことです。善悪の知識は神が持っている知識なのですからそれ自体が悪いものであるはずがない。それが悪い結果を生み出してしまうのは、それを自己中心的な人間が自己中心的に用いるからです。もし罪のない人がそれを用いれば、それはきっと良い結果をもたらすでしょう。しかし悲しいことに、罪のない人などこの世にはほとんどいません。だからこそ人類はどんどん悪い方へと向かってしまう。これを聖書は堕落というわけですね。」

Ya「僕もクリスチャンなので、原罪の否定にはドキッとしました。しかし、それを除けば、今日の話は全体としてとても面白く聞くことができました。」

Ko「善悪の知識は善でも悪でもないと言いますが、僕はそれがない方がずっと幸せになれると思います。それによって裁いたり比較したりするから人は不幸になると。」

寮長「確かにそうです。しかしそれは人が自己中心的であるからであって、もし自己中心的ではない人が善悪の知識を用いるなら、きっと良い結果を生み出すことができると思います。神がそうであるように。だとすれば、善悪の知識自体は悪いものではないのです。」

Ko「もう一つ。寮長は原罪を否定しましたが、人はみんな自己中心的であり、いい人なんて誰もいないと思います。例えばお年寄りに席を譲ったりするのもあくまで自分のためであって、決して愛のためではありません。ということは、人は原罪に支配されているのではないでしょうか。」

寮長「確かに、ほとんどの人は自己中心的であり、人が善を行うのも結局は自分のためでしょう。しかしだからと言って、罪が遺伝的に子供に伝わるというのはおかしいのではないでしょうか。ほとんどの人間が罪人であることの原因を一足飛びにアダムとエヴァという始祖の罪に結びつけてしまう、その発想に私はなんと危険なもの(自分の罪のごまかし)を感じてしまうのです。しかしいつかも言いましたように、聖書を通じて神が下すメッセージはいつも答の出ない問題に対する答えです。その答えが本当に正しいのかどうか私たちに確かめる術はありません。しかし、そのようなメッセージと向き合い続けることで私たちの人格は必ず成長して行きます。ですから、じっくりそれらと向き合い続けて行ってください。今日はお疲れさまでした。」