「タラントン」のたとえ(小舘)

2024年4月7日春風学寮日曜集会

聖書 マタイによる福音書25:14-30

 

1.解説

 

25:14 「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。

*「ある人」とは誰だろうか。「僕たち」とは誰であろうか。「旅行に出かける」とはどういうことであろうか。「ある人」はイエスである。「僕たち」とは、イエスの弟子たちである。そして「旅行に出かける」とは、イエスが天の国へと戻っていくことである。これは「昇天」と呼ばれる。

・それでは「財産」とは何であろうか。その意味は確定できないので、ひと先ずは良いものと捉えておこう。それは素晴らしい教えであるかもしれず、その教えを実践するための愛する心かもしれないし、あるいはそういう教えと心を授けられた他の弟子たちかもしれない。イエスは放浪者であったから富でないことは確かである。つまり「財産」とは富以外のあらゆる良いものである。イエスは富以外のあらゆる良いものを弟子たちに預けて天の国へと戻ろうとしている、そういう設定である。

25:15 それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。

*一タラントンは労働者6000日分の賃金といわれるから、労働者の一日の賃金が一万円だとするなら、6000万円である。これは途方もない額であるが、それくらい良いものをイエスは弟子たちに預け与えたということである。

・しかし、ここで注目すべきことは金額よりも「それぞれの力に応じて」という言葉である。つまりイエスは弟子の能力に応じて良いものを預けたのである。したがって五タラントン預けられた弟子は有能な弟子ということである。対して二タラントン預けられた弟子とはそれなりに能力のある普通の弟子ということになる。そして一タラントン預けられた弟子とは、思い切って言えば無能な弟子ということになる。

早速、

25:16 五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。

25:17 同じように、二タラントン預かった者も、ほかに二タラントンをもうけた。

25:18 しかし、一タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。

*有能な弟子と普通の弟子は預かった良いものを二倍に増やした。つまり、素晴らしい教えや愛する心を二倍の人々に広め、イエスの弟子を二倍に増やしたのである。

・対して無能な弟子は、預かった良いものを保持しておいた。つまり、素晴らしい教えや愛する心を広めず、イエスの弟子を増やしも減らしもしなかったのである。

25:19 さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。

25:20 まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』

25:21 主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』

25:22 次に、二タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、二タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに二タラントンもうけました。』

25:23 主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』

*「かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた」とはどういうことか。これはこの世の終わりの日(終末)にイエスがこの世に再びやって来て弟子たちを裁くということである。

・弟子たちは、それぞれ自分の業績を報告し、それに応じてイエスは裁きを言い渡す。有能な弟子と普通の弟子は、預かった良いものを二倍に増やしたので称賛され、「お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう」と言い渡される。つまり、天の国に迎えて、永遠の命を与えるという裁きを下されるのである。

*ここで注目すべきことは、イエスが量にはまったくこだわっておらず、良いものを十タラントン分増やした弟子にも、四タラントン分増やした弟子にも全く同じ評価を下しているということである。つまりイエスの裁きは業績(出来高)によって下されるものではないのである。当然有能か無能かもイエスの裁きの基準ではない。

・それでは何を基準として裁きが下されるのであろうか。最後の部分が教えてくれる。

25:24 ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、

25:25 恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠して/おきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』

25:26 主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。

25:27 それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。

25:28 さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。

25:29 だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。

25:30 この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」

*無能な弟子は、預けられた良いものを保管しただけであった。増やそうとして失敗することを恐れ、更にはイエスに叱られることを恐れたからだ。これに対してイエスは激怒し、次のように言い渡す。「さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。・・・この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。」つまり、彼は良いものを全て取り上げられたうえ、天の国から締め出され、永遠の命を与えられないという厳しい裁きを受けることとなったのである。

・いったいなぜイエスはここまで怒ったのであろうか。それはこの弟子が、自分の身を守るためにリスクを避け、自分の能力を少しも生かそうとしなかったからである。彼は失敗を恐れ、イエスを恐れるあまり、自己保身へと後退し、少しも自分の能力を生かして良いものを増やそうとしなかった。だからこそイエスは激しく怒ったのである。

*ここまで読めば、イエスの裁きの基準が何であるか、もはや明らかであろう。良いものを増やすために自分の能力をどれだけ生かしたか、そのためにどれだけ自分を犠牲にしたかによって最後の裁きを行うのである。

・いったいなぜこれが裁きの基準になるのか。それはイエス自身が自分の能力を生かし切り、わが身を犠牲にしてまで良いものを増やそうとした人だからだ。

 

2.メッセージ

 

①全力で、自分を犠牲にしてまで良いものを増やせ

イエスは良いものを増やそうとして全力を出し切った。素晴らしい教えを広め、愛の心を広めるために、命がけで素晴らしい教えを実践し、愛を実践した。その極致が十字架にかけられても敵を赦すという行為ことであった。そのようなイエスであるから、弟子に対しても同様のことを命じる。自分のように全力で(命がけで)良いものを増やせと。そしてそのような者だけが最後の裁きにおいて永遠の命を得ると断言する。このようなイエスのメッセージを託した物語こそ、今日の「タラントン」のたとえである。

こういうイエスの言葉を読むと、多くの人がイエスから離れていく。その理由は二つある。一つ目の理由はイエスの教えが厳しすぎるということ。自分を生かし切るだけでなく、自分を犠牲にしてまで良いものを増やせという教えをきくとたいていの人はたじろぎ、腰が引けてしまうのだ。二つ目の理由は、最後の裁きなど信じられないということ。イエスが再びこの世にやってきて裁きを下すなどという話は作り話としか思えず、それゆえにイエスの教えを真剣に受け取る気になれなくなるのだ。これらの理由のためにこの箇所を読んだ多くの人がイエスを離れていく。

なるほど、理性と常識で考えれば確かにそうなるであろう。しかし、聖書を読むということは、理性と常識を超えて、魂のレベルでものごとを考えるという作業である。だからここでも理性と常識を超えた魂のレベルで考える必要がある。そのような魂のレベルで考えたとき、全力で自分を犠牲にしてまで良いものを増やせという教えは、正しいと思わないだろうか。人間はそのように生きるべきだと思わないであろうか。有能であろうと無能であろうと、自分に与えられた力の全てを生かし、出し切ってよいものを増やそうと努力する。これこそ人間の生きるべき道ではないだろうか。

城山三郎が『男子の本懐』という歴史小説を書いているが、その主役の一人である井上準之助(元大蔵大臣・実在の人物)が部下からこう問われるシーンがある。「人生の目的とは何ですか」と。すると井上は即座にこう答える。「そんなこと決まっているじゃないか。自分を生かしきることだよ。」この言葉に私が触れたのは確か中学生の頃だったが、そのときでさえこの言葉は私の心を震わせた。これこそ人間の生きるべき道だと思わずにいられなかった。今日のたとえのイエスのメッセージはこの言葉をさらに拡大したものだ。イエスは良いものを増やすために、自分を生かしきるだけでなく、そのために自分を犠牲にせよと言っている。井上の言葉の上を行く、魂を震わせるメッセージだと思わないだろうか。

②神は見ている

最後の裁きについても同様に魂のレベルで考えてみてほしい。確かにイエスが再びこの世にやって来てすべての人に裁きを下すという教えは作り話めいている。しかし、理性と常識を超えた魂のレベルで考えたとき、神様の裁きというものは本当にないと言い切れるであろうか。人間のなす全ての行為が神様から見られていて、何らかの形で裁きがなされるということはありうると思わないだろうか。

ドストエフスキーの『罪と罰』はこの問題に取り組んだ小説である。主人公のラスコーリニコフは非凡な正義感の持ち主で、キリスト教的な神の倫理(「殺してはならない」)の枠を超えて、自分の理性に従って正義を実行しようとする。そして、どう見ても殺した方がよいと思われる人間、すなわち悪事を冒してまで金儲けにいそしむ金貸しの老婆を殺害してしまう。この殺人は彼の理性からすればどう見ても正義のはずであった。ところがその直後からラスコーリニコフは異様な不快感に襲われ始める。理性によって自分の行為をどんなに正当化しようとも、それを否定するような衝動が次から次へと生まれてくるのである。こうして彼は、心の病に侵され、生きる気力を失ってしまう。この心の病は単なる良心の呵責に基づくノイローゼであろうか。ひょっとするとこれは神の裁きの結果なのではないか。彼の心の魂の部分が神の怒りに反応して不快感を引き起こしていたのではないか。

もちろん、ラスコーリニコフのような感性を持ち合わせていない人もいる。どんなに悪いことをしても何の不快も感じない人、神からの働きかけなど全然感じない人もいる。ドストエフスキーの『悪霊』の主人公スタヴローキンはそのような人物だ。彼は、神など存在しないからあらゆることが許されているという理性的確信のために、少女をレイプし、自殺に追いやる。それほど悪いことをしても何ら良心の呵責を覚えない。こうして彼は理性によって導き出された無神論的確信のゆえに、ますます悪いことをやるようになっていく。このこともまた神の裁きなのではないか。神など存在しないから何をしても良いと考え、あらゆる悪事ができてしまうということ自体地獄であり、すでに神の裁きなのではないか。

もちろん本当のところはわからない。しかし一つだけ確かなことがある。ラスコーリニコフもスタヴローキンも神の存在を前提として、神の倫理に従っていれば、このような事態には陥らなかったということである。神の存在は常識や理性ではとらえられない。とらえられないどころか否定したくなってくる。しかし理性や常識によって神の存在を否定してしまうなら、人の心は少しずつ病んでいくか、泥沼にはまっていく。

 

3.むすび

 

 だから、心の病の陥らないように、泥沼にはまらないように、できることなら神の存在を前提として生活してほしい。そして人から見られていなくとも、神から見られているという思いで、行動してほしい。神が信じられないなら、自分の魂が見ているという思いで行動してほしい。寮ではいつも寮長が見張っているわけではない。だから、寮則を破ることはたやすいし、当番をさぼることもたやすい。しかし、そういうことを繰り返していると、どこからともなく不快感が押し寄せてきて、生活は乱れていく。そうならないように、神(もしくは魂)から見られているということを大切にして暮らしてほしい。

 そしてできることなら、自分を生かし切り、自分を犠牲にしてまで良いものを増やそうと努力してほしい。有能であろうと無能であろうと、人には何かしら良いところがあるものだ。その良いところを見つけ、それを最大限に生かして良いものを増やそうとする。そのような暮らしをしてほしい。神は私たちがそのように生きることをお喜びになるのだから。神が存在しないとしても、私たちの魂はそのような生き方に満足を覚えるのだから。

 以上二つのメッセージに従って皆さんが健康で充実した学生生活を送ることを祈る。

 

4.話し合い

 

Y君「ぼくはこういうメッセージを読み取りました。お金とか財産とかいうものは、すぐになくなったり取り上げられたりするものだから、そのような虚しいもののため生きるのではなく、神様のために自分を捧げるような生き方をするのが良いのだと。」

寮長「途中の解釈は、ちょっとおかしいように思えますが、結論的な部分は、全く正しいと思います。聖書は別に厳密に読めなくても、大筋をとらえて、メッセージが引き出せれば、それでよいのです。もっとも、個所によっては厳密に読まないと、メッセージが読み取れないところもありますが。」

Mi君「ここでは、タラントンという大金がテーマになっていますが、自分を犠牲にするということは、日常生活のあらゆる場面で生じることだと思いました。」

寮長「そのとおり。これは寮生活と直結する問題です。掃除をするのも、当番をやるのも、寮則を守るのも、皆自己犠牲を含んでいますよね。そういう犠牲をきちんと払うということを神様(もしくは魂)が喜ぶというのが今日のメッセージの半分です。」

Ma君「一タラントン預かった人が可哀そうだと思いました。彼が預かったお金を隠しておいたのは、主人が怖いからであって、その責任は元をたどれば主人にあるのではないでしょうか。」

寮長「これは鋭い。さすが四年生。そうなんです。この話の主人がイエス様だとすると、なんだか変ですよね。イエス様はこんなに怖い人だったのかしらと疑問が湧いてくる。実を言えば、イエス様の本質はどんな罪人でも赦すという愛にあるのであって、こういう怖くて厳しい態度はイエス様の本質ではありません。にもかかわらず、イエス様がまったく怒らない人か、全く怖くない人かというとそうではありません。イエス様には確かに悪を憎む、裁きの部分があるのです。その裁きを他人に向けず、自分に向けるところがイエス様の本当にすごいところです。次回はイエス様のそういう部分を表わした物語を読むつもりです。」

G君「自分は一タラントン預けられた人と同じで、失敗を恐れて行動を控えてしまうタイプなのです。だからか知らないけれど、占い師に占ってもらうと、何度も思い切って行動しなさいと言われてしまう。だから、勇気をもっていろいろなことをやってみようと思っています。」

寮長「現実は厳しいし、その上にイエス様や神様も厳しいとなると、恐ろしくて行動できなくなるのも当然ですね。しかし、先ほども言いましたようにイエス様は実は優しい方であり、聖書は総じて神様は愛の方であるということを伝えようとする書物です。そのような神様やイエス様を信じられるようになれば、恐れなどなくなっていきますよ。」