2023年1月14日春風学寮日曜集会
聖書 マタイによる福音書25:1-13
1.解説
25:1 「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。
*この一節より、「婚宴」は「天の国」の象徴であるとわかる。「天の国」は他の福音書では「神の国」と呼ばれ、神の支配が全面にいきわたる状態のことである。現在の世においては、神の支配は全面にいきわたってはいない。神は必要最低限なときに介入するだけで、それ以外のときのこの世の命運は人間の意志と自然に委ねられている。だからこそ無情にも大地震が起こるのである。
*「10人のおとめ」とは、マタイとその教会の人々(キリスト教徒)のことである。「花婿」とは再臨のキリストである。再臨とは、最後の裁きを行うために再びこの世に遣わされるということである。再臨のキリストはしばしば「花婿」にたとえられる。
・彼女らは「ともし火」をもって「花婿」を「迎えに出て行く」のだが、「迎えに出て行く」とは実際に「迎えに出て行った」ということではなく、「迎えに出て行くことになっている」ということであろう。5節を読めば、彼女らは一歩も外へ出ていないことがわかる。
・「花婿を迎えに出て行く」とは、再臨のキリストを歓迎することである。
25:2 そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。
25:3 愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。
25:4 賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。
*「賢いおとめたち」と「愚かなおとめたち」の違いは、頭の良し悪しではない。「油」をきちんと用意していたかどうかの違いである。頭の良し悪しは、聖書では一切問われない。
*では「油」とは何か。さらには、それによってともされる「ともし火」とは何か。
・この解釈は、カトリック教会とプロテスタント教会とで真っ二つに割れている。カトリック教会は、「油」を善行ととり、「ともし火」を信仰ととる。したがってカトリック教会は、最も重要なのは善行であり、「賢いおとめたち」とは日ごろから善行を積んでいるキリスト教徒であるという結論を導き出す。
・対してプロテスタント教会の解釈はその真逆である。彼らは「油」を信仰ととり、「ともし火」を善行ととる。だから彼らの結論によれば、最も重要なものは信仰であり、「賢いおとめたち」とは日ごろからきちんと信仰を持っている者たち、キリストを本気で信じている者たちであるということになる。
・ではマタイの真意はどちらであったのか。恐らく前者(カトリックの立場)に近かったであろう。この後に続く「タラントン」のたとえも「すべての民族を裁く」という記事も行いを裁きの基準に据える話であるし、7章には「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」(21節)という言葉がある。この言葉もまた行いこそ裁きの基準であるということである。
25:5 ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。
25:6 真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。
*「花婿」の到来の遅れは、キリストの再臨の遅れのことである。キリストは近い将来に再臨して人類をことごとく裁くとキリスト教徒は信じていたが、実際にはなかなか再臨しなかった。それでキリスト教徒たちは再臨に対する期待や緊張が保てなくなっていった。そのことを示す言葉こそ、「皆眠気がさして眠り込んでしまった」である。
・ここで注目すべきことは、眠り込んだこと(再臨への期待と緊張が薄れていくこと)は何ら非難されていないことである。再臨への期待や緊張が薄れても、裁きには何の影響もないのだ。
*そのようにしてキリスト教徒たちの期待と緊張が薄れているところに、突然キリストが再臨する。「真夜中」にという言葉は、文字通りの意味ではなく、思いがけない時にという意味である。期待と緊張が失われた思いがけない時にキリストは再臨するのである。13節にあるように「あなたがたは、その日、その時を知らない」のである。
25:7 そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。
25:8 愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』
25:9 賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』
*「油」が善行を表すとすれば、それを人から譲り受けることはできない。他人の善行を自分のものにすることなど現実的にはできないのだから。ましてや善行を店に行って買ってくることなどできるはずがない。だとすれば、「賢いおとめたち」はここでは愚かな助言をしているということになる。
・つまりキリストによる裁きは、あくまでその人自身の「油」(善行)を基準として下されるのである。人はそれぞれ自身の善行を携えて裁きのキリストの前に立たなければならない。
25:10 愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。
*「花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた」とは、「賢いおとめたち」は天の国に迎えられたということ、言い換えれば裁きにおいて義と認められ、救われた(命を得た)ということである。
25:11 その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。
25:12 しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。
*『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』とは強烈な裁きの言葉であり、天の国から締め出すということ、言い換えれば罪人として処罰する(命を奪う)ということ。
・いったい彼女らの何がいけなかったのか。眠りこけてしまった(期待と緊張を失った)ことではない。「油」を準備していなかったこと、すなわち善行を積まなかったことがいけないのだ。最後の裁きは、善行を積んだかどうかを基準として行われる。マタイによる福音書の7章でも「父の御心」を行わなかった者は『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ』と見捨てられている。
25:13 だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」
*キリストはいつ再臨して裁きを行うかわからない、だから、日ごろから善行を積んでおく(イエスの教えを実行しておく)必要がある、とこの一節は語っている。
2.メッセージ
①マタイのメッセージ
この物語におけるマタイのメッセージは明白である。キリストがいつ再臨して最後の裁きを行うかわからないので、日ごろから善行を積んでおけ(律法を超えたイエスの教えを実行しておけ)というのである。前々回に述べた通り、当時の人々はほとんど黙示文学の影響を受けており、マタイもマタイの教会の信徒たちも本気でキリストの再臨が近づいていると信じていた。だから、彼らは再臨の裁きで義とされるように日ごろから必死で善行を積んだのである。つまりマタイは教会の信徒全員に向けて、再臨に備えて善行を積むように呼び掛けたのである。
それに付け加えることがあるとすれば、自己責任論である。人は他人の善行を自分のものとすることはできない。当然、裁きの時には自分の善行が問われる。他人の善行のおかげで救われるなどということはあり得ない。だから、他人のことなど当てにせず、しっかりと主体的に自分の善行を積み重ねていけとマタイは訴えているのである。
②イエスの本質
それでは、イエスもそう考えていたのであろうか。私はそうではないと考える。なぜならイエスは、無数の病人を無条件で癒し、多くの悪人たちを無条件で悪霊から救い出したからだ。イエスには、人をその行い(善行を積んだかどうか)によって裁くという態度が皆無であった。イエスは無条件ですべての人間を病や悪霊から救おうとした。イエスが展開したファリサイ派の人々や律法学者への厳しい非難も、決して裁きの言葉ではなく、正しい生き方への回帰(悔い改め)を促すための救いの言葉であった。イエスは人を裁きに来たのではなく、救いに来たのである。このようなイエスの本質を考えるならば、イエスが弟子たちに向かって再臨の裁きに備えて善行を積み重ねるように呼び掛けるなどということはあり得ない。このように呼びかけたのは黙示文学に影響されたマタイであり、マタイにこの言葉を伝えた初代の信徒たちである。
③イエスが語らなかった言葉
だとすれば、この物語が本当にイエスによって語られたものであるか、疑問が湧いてくる。いったいイエスは本当にこのような物語を語ったのであろうか。恐らく、イエスはこれに似た物語を語ったであろう。この物語には確かにイエスらしい素朴なリアリティがあり、大胆さがあるからだ。しかし、イエスがその物語に込めたメッセージは全く別のものであったと私は考える。
ではイエスはどのようなメッセージを語ろうとしたのであろうか。この物語において決定的にイエスの本質と相容れないのは、12節の『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』という言葉である。この言葉は、イエスからは絶対に出てこない言葉である。(当然7:23の『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ』という言葉もイエスのものではありえない。)なぜなら、繰り返すがイエスは、罪人や病人を裁くために来たのではなく、救うために来たのだから。このような裁きの言葉を語ったのは、繰り返すが、黙示文学の影響を受けた当時の人々(マタイやマタイにこの言葉を伝えた初代の信徒たち)である。
④イエスが語った言葉
ではイエスは本来どのようなメッセージをこの物語に込めたのであろうか。それを教えてくれるのはルカによる福音書15章の「放蕩息子」のたとえである。このたとえでは、家出した上に放蕩の限りを尽くして財産を使い果たした息子を父親が無条件で家に迎え入れる。そのシーンをふりかえってみよう。
15:22 しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。
15:23 それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。
15:24 この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。
これこそイエスの本質を正確に表した物語である。この物語を基準に考えるなら、イエスが本来語った言葉は「わたしはお前たちを知らない」ではありえない。そうではなくて、「よく戻ってきた。はやく婚宴の席に加わりなさい」だったであろう。
つまりこの物語は本来、善行を積み重ねられなかった人々を神様が神の国に迎え入れてくださるという話だったのだ。そしてこれこそ、イエスが本来この物語に込めたメッセージであったのだ。
⑤イエスによって義とされる
もしそうだとすれば、がぜん重要性を増してくる言葉がある。それは、9節で「賢いおとめたち」が語る『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい』という言葉である。マタイのレベルで読むならば、この言葉は他者の「油」(善行)を自分のものにすることを勧めた愚かな助言に過ぎない。しかし、イエスのレベルで読むならば、そこには重大な意味が浮かび上がってくる。すなわち、キリストの「油」(善行)は自分のものにすることができるという重大なメッセージが。
すでに述べたように、普通人は他者の善行を自分のものにすることなどできない。だから人は自分の行いによって裁かれるという自己責任論に帰着するのである。ところが、キリストについてはこの原理が全く当てはまらない。キリストの善行に限っては、人はそれを自分のものとすることができるのである。たとえ善行を積んでいなくとも、キリストにつながっているなら、人はキリストの善行を自分のものとすることができる。キリストの善行(愛の業=十字架)によって義と認められ、救われるのだ。これこそ、イエス・キリストが生涯をかけて示そうとした神様からのメッセージであり、聖書の奥義(福音)である。イエスのレベルで読むならば、9節の「賢いおとめたち」の言葉はこの奥義を表す最重要の言葉となる。
だとすると、今日の物語にイエスが込めた本当のメッセージが見えてくる。イエスにつながってさえいれば、イエスの善行のゆえに、自分にはなんら善行がなくとも、義とされて救われるということである。ヨハネによる福音書にある「わたしにつながっていなさい」という言葉がこの物語に込められたイエスの真のメッセージなのである。そこでもう一度ヨハネによる福音書のその一節を引用しよう。
15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。
「豊かに実を結ぶ」とは、義とされて救われる(命を得る)ということである。
⑥イエスの十字架
しかし、イエスにつながるとはどういうことであろうか。単に聖書を読んでイエスについて学んでいくことであろうか。あるいはイエスを通じて神様に祈り続けることであろうか。確かにそれらの両方であるのだが、更に考えるべきは、イエスの何につながるかである。私たちは果たしてどのようなイエスにつながるべきなのであろうか。病人や貧困者に仕えた愛のイエスであろうか、数々の奇跡を行い復活した超人的イエスであろうか、それとも最後に正しい裁きを行う正義のイエスであろうか。思うにそのどれでもない。もしそのどれかのイエスにつながろうとするなら、私たちとイエスはすれ違わざるを得ない。なぜなら私たちはイエスのような愛の人にも正義の人にも超自然的な人にもなれないのだから。過去のキリスト者の過ちは、これらのどれかにつながろうとし、本質的なイエスとすれ違ってしまったところにある。
ではイエス・キリストの本質的な姿とは何か。思うにそれは、十字架上のイエス・キリストである。十字架上のイエス・キリストこそはイエス・キリストの本当の本質を表すものであり、ここにつながってこそ、人は「イエスの善行のゆえに、自分にはなんら善行がなくとも、義とされて救われる」という事態を体験することができる。なぜなら、十字架上のイエスとつながり続けるなら、私たちはいつの日か絶望的な苦しみに陥ったときにイエスと一つになることができるからである。十字架上のイエスと一つになるとき、私たちは初めてイエスのものを全て自分のものとすることができる。イエス・キリストの善行を自分のものとすることができるのである。
ここにこそ聖書の奥義である福音の奥義〈究極の奥義〉がある。これについては、次回更に詳しく学んでいこう。
3.話し合い
M君「初めはいつものパターンかなと思って聞いていましたが、後半に行くにつれて話が深くなっていき、苦しみにおいてイエスと一つになるというところはよくわかりませんでした。」
寮長「今日の説明だけではわからなくても当然でしょう。実際いくら言葉で説明しても、説明しきれないところがあります。苦しみにおいてイエスと一つになるということを理解するには、自身が大きな苦しみを体験する以外に道はありません。不幸にして幸いなことに、この世界は苦しみに満ち溢れています。だからこの世界で誠実に生きて行けば、自分も必ずその苦しみに巻き込まれる。そのときに十字架上のイエスが助けとなるでしょう。」
G君「油が間に合わなくて、天の国の門が閉じられたというシーンは自分のことかと思って読みました。自分はいつも時間に間に合わなくて、失敗してしまうので。卒論も締め切りに間に合わず、提出できませんでした。今年こそはきちんと時間を守れるようになりたいと思います。」全員爆笑。
寮長「春風学寮がマタイのメッセージに従う寮だったら、「わたしはお前など知らない」と言われて追い出されているところです。この寮がマタイのメッセージに従わない寮でよかったですね。」
O君「聞きながら、これはG君のためにある話かと思い、笑ってしまいました。まじめな話、一つ気になることがありました。もし愛の実行が救いの要件でないのでしたら、なぜイエスはあれほど強く互いに愛しなさいと命じたのでしょうか。またイエスのそのような言葉や行いを学ぶことに何の意味があるのでしょうか。愛の行いがなくても救われるなら、別に愛し合わなくたってよいではありませんか。」
寮長「これは鋭い質問です。ここを理解できるかどうかがイエスを理解できるかどうかの要であると言ってよいでしょう。これについては次回に詳しく説明する予定ですが、さしあたって言っておきたいことは、イエスのこういう厳しい愛の教えや旧約の厳しい律法があればこそ、イエスの無条件の愛の素晴らしさが本当にわかるということです。厳しい教えが何もないならば、そもそも裁かれる必要がないのですから、無条件の愛が示されても、「なんだそれは」ということになる。厳しい掟があって、それが守れないところに、守れなくてもよいのだと言ってくれるからこそ、イエスの無条件の愛は尊いのです。」
B君「悪いことばかりしていた人が、年を取って病気をしたときに、悔い改めることがよくあります。十字架上のイエスと一つになるとはそういうことでしょうか。」
寮長「似ていますが、やはり違うでしょう。十字架上のイエスと一つになるということは、神様とつながるということであり、そこからは癒しや清めが起こってきます。単に悔い改めても、あまり癒しや清めは生じないでしょう。」
N君「イエスのメッセージを聞いてすっきりしました。イエスは今までさんざんファリサイ派の律法主義(業績主義)を批判してきたのになぜこのたとえでは業績主義に戻っているのか疑問に思っていました。寮長のように解釈してこそ筋が通るというものです。マタイやマタイの教会の信徒たちは、自分の努力の代償の結果として救われたかったのであって、無条件の救いに耐えられないのですね。いつになっても人は同じですね。」
寮長「その通り。それこそが罪というものであり、パウロが回心において神様から示されたことです。」