2023年12月3日春風学寮日曜集会
聖書 マタイによる福音書
序 イエスとヨハネ
①裁きか愛か
イエスと黙示文学の関係を明らかにするためには、イエスと洗礼者ヨハネを比較するのが一番だ。なぜなら洗礼者ヨハネこそは黙示文学の影響を最も色濃く受けた預言者であるからだ。というわけで、以下、両者の相違点を明らかにしていこう。
ヨハネは、次のセリフをもって聖書に登場する。
3:7 ・・・「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。
3:8 悔い改めにふさわしい実を結べ。
3:9 『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。
3:10 斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」
この言葉は明らかに黙示文学の終末論に由来する言葉である。神の最後の裁きが近づいており、その裁きによれば「良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」つまり、神に従って善行を行わない者(罪人)は地獄の劫火に焼かれると言うのである。ヨハネは明らかに神の裁きを宣告する預言者である。
ところがイエスはどうか。同じようなセリフを述べている個所もあるが、基本的にイエスは罪人を含めたすべての人を無差別に愛した。イエスはより頼む者全ての病を癒した。そしてこう言った。
9:12 「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。
9:13 『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
イエスは裁くために行動してはいないし、裁きを宣告するために行動しているわけでもない。すべての人を無差別に愛するために行動しているのである。イエスも確かに人を激しく批判することがあった。しかしそれは、弱者を食い物にする支配者たちに対してであり、そのときですらイエスの言葉は相手を裁くためのものではなく、悔い改めに誘うためのものであった。
つまりヨハネは神の裁きを宣告する者であったが、イエスは神の万人への愛を知らしめようとする者であった。
②律法か自由か
両者の生活態度もかなり違っている。ヨハネは「いなごと野蜜」(3:4)だけを食する禁欲主義者であったが、イエスはときには「大食漢で大酒飲み」(11:19)となることがあった。ヨハネは律法を厳格に守ったが、イエスはときに律法を破ってまで愛を実行した。例えばイエスは安息日にも病人を癒すことがあったし、必要な場合には手を洗わずに食事をすることもあった。つまりヨハネは律法に従って義を行おうとする律法順守者であったが、イエスは律法を超えて愛を行おうとする自由人であった。
③洗礼か無洗礼か
さらにもう一つ触れておきたいのは、ヨハネは洗礼を行ったがイエスは洗礼を行わなかったということである。洗礼者ヨハネと呼ばれるくらいだからヨハネは洗礼を授けることに全力を投入した。ヨハネは神の最後の裁きが近づいていると思っていたから、一人でも多くのユダヤ人を救いたいと思った。それで、ユダヤ人に悔い改めを迫り、罪を清めるための洗礼を施した。ヨハネにとっては、悔い改めと洗礼こそは救われるための条件であったのだ。
ところがイエスは洗礼など全く行わなかった。洗礼などしなくても神の愛は罪人を包み込むと考えていたからだ。イエスも人々に悔い改めを迫った。しかしそれは、救われるために悔い改めなければならないと考えたからではなかった。神様はあなたの罪も赦すほどに愛しているのだから、感謝して悔い改めるべきだと考えていたからだ。
ここで注意すべきことは、イエスが決して律法を軽視する反律法主義者ではなかったということである。イエスは、律法の枠を乗り越えて律法の本質(正義、慈悲、誠実)を実行した真の律法順守者であった。このことを私たちは絶対に見逃してはならない。
④まとめ
総じてヨハネは、神様のことを聖なる義の神と見なしていた。聖なる義の神は、汚れた罪深い人間を赦しはしない恐るべき神である。面と向かって顔を合わせただけで人を死なせてしまう。だからこそヨハネは必死で清くなろうとし、必死で律法を守ろうとした。それだけでなく、人々を必死で清め、律法を守らせようとした。そして悔い改めを呼びかけた。
対してイエスの思い描いた神様は愛に満ちた憐みの神であった。愛の神は全ての罪人を赦し、神の国に迎えようとする。だからこそイエスはその愛を伝えるために、ありとあらゆる病人を癒し、福音を説いた。「天の国は心の貧しい人たちのものである」と。そして、神様のことを「父」と呼ぶことができたのである。
このように比較してみると、ヨハネとイエスは正反対のように見える。しかし何よりも重要なことはイエスとヨハネは対立し合うような存在ではないということだ。イエスは決して神の裁きの存在を否定しているわけではない。その裁きを超えた神の愛を伝えようとしているだけだ。イエスは決して律法を否定しているわけではない。その律法を超えた愛の可能性を示しただけだ。イエスは決して洗礼を否定したわけではない。洗礼を超えた人の清めの可能性を示しただけだ。つまりイエスは決して神の義を否定したわけではなく、神の義を超えた神の愛をあらわそうとしたのだ。
このようにヨハネとイエスを比較してみるならば、イエスの黙示文学に対する態度が明らかになってくる。イエスは確かに黙示文学が明らかにしたような神の最後の裁きの存在を認めていた。しかし、その裁きを超えるような神の愛の力、神の救いに力を信じていたのだ。いや信じていただけでなくそれを言葉と行動で表したのだ。
1.解説
24:15 「預言者ダニエルの言った憎むべき破壊者が、聖なる場所に立つのを見たら――読者は悟れ――、
*「読者は悟れ」の一言がここからの言葉がイエスの言葉ではないことを明示する。これは、マタイが教会の信徒に向けて書いた言葉である。
・すると「憎むべき破壊者」は誰のことか明白になる。マタイが目撃したエルサレム神殿を崩壊させたローマ軍である。事実ルカによる福音書の並行記事には、
21:20 「エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。」
とある。つまりマタイは、エルサレム神殿の崩壊を終末到来の前兆であるとみて、教会の信徒に向けてどのように終末に備えればよいかを語ろうとしているのである。
24:16 そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。
24:17 屋上にいる者は、家にある物を取り出そうとして下に降りてはならない。
24:18 畑にいる者は、上着を取りに帰ってはならない。
*ここに述べられている忠告のちぐはぐさに気付かなければならない。終末到来の前兆は世界的な天災と人災なのだから、山に逃げたり、屋上にとどまったり、上着を取りに帰らなかったりする程度のことで免れられるはずがない。これらは恐らくローマの軍隊から逃れるための対策であっただろう。エルサレムがローマの軍隊に包囲されたときの経験からマタイは終末対策を語っているのである。
24:19 それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。
24:20 逃げるのが冬や安息日にならないように、祈りなさい。
*どちらもイエスが言うはずのない言葉である。「身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ」とは、終末の前兆が起こるときには、彼女らは皆逃げ遅れるから、諦めろということである。こんなことをイエスが言うはずがない。イエスは何があろうとも「身重の女と乳飲み子を持つ女」を見捨てるようなことは言わない。
・安息日には長距離の移動は禁じられていた。だから、終末の前兆が安息日に来ると誰も逃げられないことになる。そこで「安息日にならないように、祈りなさい」という忠告が出てきたわけだ。しかしこれまたイエスの言葉とは思われない。安息日に癒しの業を行ったイエスが、どうして安息日のために逃げられなくなるからそうならないように祈れ、など言うであろうか。
・これらの言葉もやはりエルサレムがローマの軍隊に包囲された時の経験に基づいてマタイが語っていると見るのが適切であろう。
24:21 そのときには、世界の初めから今までなく、今後も決してないほどの大きな苦難が来るからである。
24:22 神がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。しかし、神は選ばれた人たちのために、その期間を縮めてくださるであろう。
*エルサレムがローマの軍隊に包囲された時、その期間は5カ月であった。わずかこれだけの間に約110万のユダヤ人がエルサレム内で死んだ。死因の多くは餓死か同士討ちであり、ローマとの戦闘で殺された者はむしろ少なかった。「世界の初めから今までなく、今後も決してないほどの大きな苦難が来る」という表現は上記のようなエルサレムの悲惨な体験に基づいている。
・本来ならこの包囲はもっと長くなるはずであったが、ローマの内部事情のために(恐らく新任の司令官ティトスの寛大さのゆえに)短縮された。この短縮のお陰でユダヤ人は全滅を免れた。そして生き残った者の中に恐らくマタイらのキリスト教徒がいた。このような経験に基づいてマタイは「神がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。しかし、神は選ばれた人たちのために、その期間を縮めてくださるであろう」と書いた。つまり、終末にどれほど大きな苦難があろうとも、神様はキリスト者のためにその期間を縮めてくださるから、最後まで耐え抜けというわけだ。
・これまた実におかしな話である。終末の脈絡からすれば、本当に重要なことは最後の裁きで救われるかどうかなのに、この言説は裁きの前の前兆となる戦争でいかに生きながらえるかということに集中している。なぜこうなるのか。この言説がやはりローマ軍に対する対処法に基づいて書かれているからであろう。
24:23 そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『いや、ここだ』と言う者がいても、信じてはならない。
24:24 偽メシアや偽預言者が現れて、大きなしるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちをも惑わそうとするからである。
24:25 あなたがたには前もって言っておく。
24:26 だから、人が『見よ、メシアは荒れ野にいる』と言っても、行ってはならない。また、『見よ、奥の部屋にいる』と言っても、信じてはならない。
24:27 稲妻が東から西へひらめき渡るように、人の子も来るからである。
24:28 死体のある所には、はげ鷹が集まるものだ。」
*偽メシアや偽預言者がたくさん現れるのもエルサレム神殿の崩壊前後には多発した事態であるから、これもそのときの経験に基づく記述であろう。「死体のある所には、はげ鷹が集まるものだ」とは、戦争や災害が起こって死者がたくさん出ると、偽メシアや偽預言者がたくさん出てくるということ。今日でも似たようなことはよく起こる。そしてそのような偽物はたいてい「荒れ野」や「奥の部屋」のような人目につかないところで、不思議な業(占いや癒しの業)を行い、人々を惑わす。
・しかし、本物のメシアは全く異なる。本物は「稲妻が東から西へひらめき渡るように」に明々白々に登場する。その登場は世界中にとどろくようなものであるとマタイは語る。
・ここの最後の二行(27-28節)はイエスにさかのぼるのではないかと私は考えている。これらの言葉遣いはイエス独特のものであるし、これほどに大胆なことはイエス以外の誰にも言えないであろう。つまりイエスの再臨はマタイの教会のフィクションではなく、イエスのメッセージであるということだ。
24:29 「その苦難の日々の後、たちまち/太陽は暗くなり、/月は光を放たず、/星は空から落ち、/天体は揺り動かされる。
24:30 そのとき、人の子の徴が天に現れる。そして、そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。
24:31 人の子は、大きなラッパの音を合図にその天使たちを遣わす。天使たちは、天の果てから果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」
*「太陽は暗くなり、/月は光を放たず、/星は空から落ち、/天体は揺り動かされる。」これはこの世、いや全宇宙の終わり(自然界の終末)を表す言葉である。宇宙といえども必ず終わりを迎える。今では常識であるこの考えも、昔は想像すらできないことであった。このことをはっきりと伝えた古典は聖書だけである。
・しかしこの箇所が真に独創的なところは、この終末をイエス・キリストの再臨と結び付けているところである。マタイを初めとする新約の筆者らは、イエスが再臨するときに、自然界も終末を迎えると考えていた。このような突拍子もない考えを人間に思いつくことができようか。このようなことを語れるのは、やはりイエスだけであろう。イエスは恐らく自身の再臨と自然界の終末を合わせて語った。そしてマタイらもそれを受け継いだのだろう。だから、ここから31節に至るまでの言葉は基本的にはイエスにさかのぼると私は考える。スケールの大きさ、発想の大胆さ、表現の親しみやすさがイエスらしいと思わないだろうか。
*「そのとき、人の子の徴が天に現れる」とあるが、この「徴」がどのようなことかはわかっていない。しかし、私は十字架であろうと考えている。であればこそ、「地上の全ての民族は悲しみ」と続くのである。ユダヤ人は、神から遣わされた救い主であったイエスを十字架にかけてしまった。ローマ人も十字架にかかったイエスを見殺しにしてしまった。彼ら以外のすべての民族も同じようなものだ。イエスを本気で救い主だと仰ぐ者はほとんどおらず、十字架にかけられたイエスにほとんど関心を払わなかった。このことは今に至るまで続いている。つまり多かれ少なかれ人類はキリスト教徒も含めて十字架にかけられたイエスのことを軽視してきたのである。そのような人類の頭上に巨大な十字架の徴が現れたらどうなるだろうか。ユダヤ人は初めてイエスを十字架にかけたことを悔いるのではないだろうか。ローマ人は初めて十字架上のイエスを見殺しにしたことを悔いるのではないだろうか。外国人は初めて十字架上のイエスに何の関心も示さなかったことを悔いるのではないだろうか。そうなのだ。天に十字架の徴が現れるなら、そのときはじめて人類は救い主イエスをなおざりにした自分たちの罪に気付く。これこそ「地上の全ての民は悲しみ」という言葉の意味するところであろう。
・そしてそのさなかに、「人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来る」のである。このときいったい人類は、どのような気持ちでイエスを迎えるであろうか。裁かれるという恐怖に恐れおののきながらイエスを迎えるのではないだろうか。
*「人の子は、大きなラッパの音を合図にその天使たちを遣わす。天使たちは、天の果てから果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める」という言葉はもちろん裁きの執行を意味する。本当に「ラッパの音」が合図になりはしないだろう。本当に天使たちが「選ばれた人たちを四方から呼び集める」というようなことはしないだろう。このあたりの描写はイエスがメッセージを分かりやすく伝えようとして施した工夫であると思われる。だから、そのような工夫に惑わされずに本質的なメッセージを捕らえなければならない。そのメッセージとは、もちろんこの選びが「彼によって」なされるということである。つまり、神の最後の公正な裁きがイエスによってなされるということである。言い換えれば、人類から十字架にかけられたイエスが人類を裁くということである。これまた人間の思考のスケールを超えた、けた外れに大きなメッセージである。ヨハネによる福音書には、このメッセージをさらにはっきりと述べた個所があるので引用しておこう。
5:28 驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、
5:29 善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。
5:30 わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。
つまり、自分こそは神の最後の公正な裁きを神に代って正確に執行する者であるとイエスは述べている。このようなことを語れるのは、狂人か神の子だけである。
*では、その裁きはいったいどのような基準によってなされるのであろうか。次回以降の個所がそれを示してくれるのであるが、今日の個所から一つだけ言えることがある。それは、裁く者こそが裁かれるということである。天に現れる「徴」は十字架であり、その後にイエスが再臨して裁きを行うのだとすれば、そこで問われる罪は当然救い主イエスを十字架にかけたこと、つまりイエスを裁いた罪である。イエスは全ての人を赦して救うためにこの世にやって来たのに、その救い主を人類は裁いて十字架にかけてしまった。この裁きの罪を裁くためにこそイエスは再臨するのだ。
・だから、再臨のイエスの裁きは裁く者に向けられる。救い主イエスを裁く者、ひいてはイエスのように優しくて弱々しい隣人を裁く者こそが裁かれる。これが再臨のイエスの裁きの基準である。
2.メッセージ
①裁きの奥義
イエス・キリストは全ての人を愛し、全ての人を赦し、全ての人を救うためにこの世に遣わされた。その救いにはどのような罪人も悪人も含まれていた。だからこそイエスはあらゆる人の病を治し、彼らに向かって天の国は心貧しい人たちのものであると述べ伝えたのである。
ところが、そのイエスをユダヤ人たちは裁いて罪人扱いし、十字架につけてしまった。ローマ人も外国人もイエスを見殺しにしてしまった。その後の人類もさしたる興味をイエスに向けていない。キリスト教徒ですら、どこまで本気でイエスを信じているか怪しいものだ。
この事態はいったい何を意味するかと言えば、全く新しいレベルの罪が生じたことを意味する。これまでの罪は主に清らかで厳しくて強い義の神に背く罪(下から上への罪)であった。しかし救い主イエスを十字架にかけた事件は、自分たちを裁かずに赦してくれる優しい弱々しい愛の救い主を裁く罪であった。これは前者の罪とはレベルの異なる一段深い罪、自分が神の位置に立ったうえで行う、上から下への罪である。
イエスはこの深い罪を裁くために再臨する。神の位置に立って優しく弱々しい愛の救い主を裁く罪、ひいてはイエスのような隣人を裁く罪を裁くために再臨するのだ。だからそのときの裁きの基準は裁きそのものである。救い主と隣人を裁き続けた者こそが裁かれる。だからこそイエスはこう語った。
7:1 人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。
だから、人を裁くなということこそ、イエスの再臨が最も強く呼びかけるメッセージである。そしてこの人の中には、人の子イエスも含まれるのである。
②十字架の力
私たちは、日常的に人を裁いて生きている。あいつはあそこがいけない、こいつはここがいけないと毎日毎日隣人を裁いて生きている。特に自分の信念に反するようなことを言われたら、全力をかけて相手を否定しようとする。対人だけではない。神に対してもそうである。毎日のように神を裁いて生きている。「神は間違っている」「神などいない」「神などフィクションだ」・・・という具合に。神から罪を指摘され酔うものなら猛然と神を否定しようとする。つまり、私たちは隣人を裁き、神を裁きながら生きているのである。いったいなぜこんなことをし続けるのだろうか。自分が他者より上であることを自分に納得させたいからだ。自分が他者より下であることに耐えられないからだ。言い換えれば、自分を神の位置に置いておきたいからだ。
これこそ、一段深い罪、再臨のイエスが裁こうとする罪である。不幸なことに、私たちはこの罪の支配をなかなか抜け出すことができない。私たちは基本的に裁きの罪の奴隷なのであり、このままいけば私たちは必ず再臨のイエスに裁かれることになる。
しかし、イエスは再臨の裁きの恐ろしさをさして強く主張しなかった。それを用いて人々を震え上がらせるということをほとんどしなかった。それよりもひたすら赦しのメッセージを述べ伝え、実践した。イエスの十字架という事件も、全面的に相手を赦す行為、神の位置に立って自分を裁こうとする人間たちを赦そうとする行為の延長で起こった。それは、何としても裁きを行いたい人間がすべての裁きを否定するイエスを裁いた事件だったのだ。
いったいなぜイエスはこれ程赦しに徹したのだろうか。それは赦しに徹することが、人を裁きの罪から解放すると信じたからだ。もしイエスが栄光の座について世を支配し、人を裁く側に回っていたら、人間はいくらでもイエスを批判し、裁き続けることができたであろう。しかしイエスは無抵抗のまま十字架についてしまった。そのようなイエスを改めて批判し、裁くことなど誰にできようか。イエスはすでに裁かれているのだから。そうなのだ。十字架上のイエスは全ての裁き、全ての批判を無意味化する。人がイエスに向けるすべての批判と裁きは十字架においてすでに成就されてしまっているのだから。
それでもイエスを批判し、裁こうとすれば何が起こるか。自分の最も深い罪を思い知るということが起こるのだ。十字架上のイエスは史実においても、その後の人々の心の中においても、何の反撃もしない。ただひたすら人間の全ての批判と裁きを黙って受け止める。人間が「イエスは間違っている」と言おうが、「イエスは無力だ」と言おうが、「イエスの教えは非現実的だ」と言おうが、一切反論せずに、その批判と裁きを黙って受け止め続けるのである。このようなことが続いていくと人の心には何が起こるか。自分の最も深い罪が浮かび上がってくるのである。自分を神の位置に置いて弱くて優しい愛の救い主を裁く罪がいやがうえにも明確な形をとって現れてくるのである。十字架上のイエスと向き合った人々はこのことを体験した。恐らくこのことを最初に体験したのは弟子たちだったであろう。彼らは十字架にかかって死んだイエスを繰り返し疑い、批判し、裁いたことであろう。そして十字架上のイエスを批判しようとすればするほど、自分の罪が明確化することを体験したのだ。そして自分の罪をはっきりと認め、悔い改めざるを得なくなっていったのだ。
ここへ人間を導くために、イエスは赦しのメッセージを生き、その果てに十字架にかけられた。そして今なお十字架を通じて人々の批判と裁きを黙って受け止め続けているのである。
このように十字架は最も深い人の罪(裁きの罪)を悔い改めさせる力を持っている。だからこそキリスト教徒は十字架に向かって祈るのである。世界中の人々に福音が告げ知らされる時とは、世界中の人に十字架の力が知らされる時である。そのときには無数の人が裁きの罪から解放されるであろう。イエスが最後の裁きを行うために再臨するのはその後である。しかしそのときには裁かれるべき人などほとんどいなくなるであろう。
最後には愛が勝つのである。