2023年11月26日春風学寮日曜集会
聖書個所 マタイによる福音書24:1-14
序 黙示文学について
①黙示文学とは
ヘブライ文化圏には黙示文学と呼ばれるジャンルがある。聖書の中では、ダニエル書とヨハネの黙示録がそれに直接該当する書である。しかし、ケーゼマンという神学者に始まる近年の研究によって新約聖書のほとんどが黙示文学の濃厚な影響を受けて書かれていることが明らかになった。例えば今日扱うマタイによる福音の24章とその次の25章は黙示文学そのものであるといってよい。
そこで黙示文学について少し詳しく学んでみたい。黙示文学とはそもそも何か。黙示とは原語の古代ギリシア語ではアポカリュプシスVApoka,luyijであり、その意味は「覆いを取り除くこと」である。このことからすれば、預言者が覆いを取り除き、神の奥義(簡単に言えば神の未来の計画)を明らかにする書こそが黙示文学なのである。
では神の未来のご計画とはどのようなものであろうか。思い切り簡単に言えば、神が最終的に悪(罪と死)を滅ぼし、善(義と命)の世界を打ち建てるということである。詳しく言えば次の通りだ。≪神は悪が支配する今の世界をそのまま放置せず、やがてこれに終止符を打ち、新しい世界を創造する。このときを終末という。終末には、人の過去の全てが明らかにされ、完全に公正な裁きが行われる。その結果義と認められた者(義人)には永久の祝福が与えられ、悪と認められた者(悪人)には永劫の罰が与えられる。この終末にこそ真の希望があるけれど、終末の前には様々な前兆(天災や人災)が起こり、この世は最悪の状態になる。≫以上の内容を様々に表現したものこそが、黙示文学である。
②黙示文学の目的
それでは一体なぜこのような黙示文学が書かれるようになったのであろうか。一言で言えば、悪のもとで苦しんでいる信者たちを慰めるためである。ユダヤ人の歴史は苦難の歴史であった。古くはエジプトの奴隷であり、ダビデ王とソロモン王の時代には一時栄華を誇ったものの、その後もアッシリア、バビロニア、ギリシア、ローマから支配され続けた。このような苦難が続くにつれてユダヤ人たちは疑問に思い始める。いったいなぜ神の民であるはずの自分たちがこれほど苦しい目に遭い続けるのであろうかと。神は自分たちを見放したのであろうかと。特にギリシアとローマの支配下にあったころにはそのような疑問は大きなものとなった。ギリシアとローマがエルサレム神殿を冒涜するような仕打ちを次々に行ったからだ。そのようなユダヤ人たちに慰めを与えるために書かれたのが黙示文学である。だから黙示文学が書かれたのは全てギリシアとローマに支配されていたころ(紀元前2世紀から紀元後1世紀)である。黙示文学は疑問を抱くユダヤ人の信仰者に向かって先ほど紹介したような神の未来のご計画を語った。そしてこう呼びかけた。≪ギリシアやローマが支配するのは一時のことに過ぎない。やがて神は公正な裁きを行い、彼らを滅ぼしてくださる。だから耐え忍んで、神を信じ続けよ≫と。紀元前2世紀から紀元後1世紀の300年の間にはこのような黙示文学がたくさん書かれ、当時の人々は大いに慰められ、それらから大きな影響を受けた。新約聖書が書かれたのは、紀元後1世紀だから、そこには、黙示文学の影響が色濃く残っているのである。
③黙示文学の難解さ
ところで、黙示文学はたいて謎のような言葉で書かれており、とても難解で理解しにくい。いったいなぜか。それは、支配者たちに簡単に理解されたら困るからである。≪ギリシアやローマはやがて神に滅ぼされる≫というような内容が簡単に読み取られてしまったら、ギリシアやローマからさらなる迫害を受けてしまうであろう。であればこそ、黙示文学は彼らに理解されないように謎のような言葉で書かれたのだ。
更に理解しにくい理由がある。それは私たちと当時のユダヤ人の心境のギャップである。私たちは誰かから支配されているわけではなく、信じているものを踏みにじられたこともなく、生活は安定している。一言で言えばぬるま湯のような状況下でぬくぬくと生きている。そのような私たちが黙示文学を読んで、そのメッセージを理解できるはずがあろうか。黙示文学は迫害にあって死ぬほどの苦しみを味わっているユダヤ人を慰めるものなのだから。
しかし、逆にユダヤ人に近い極めて苦しい状況を体験したことがある者に対しては、黙示文学は非常に大きな力を発揮する。極端な場合には、死をも乗り越えるほどの力を与えてくれる。事実、いまだに黙示文学を心の支えとしているキリスト教徒がたくさんいる。アメリカの原理主義的キリスト教徒やエホバの証人などは、黙示文学のメッセージを心の支えとして生き、それに命を懸けている。イスラム教のテロリストたちが命を捨てられるのも、イスラム教に流れ込んでいる黙示文学のメッセージを信じているからだ。
④黙示文学を書いたのは誰か
では黙示文学の筆者は誰なのか。その多くは預言者であった。だから、彼らは黙示文学は自分の創作ではないと語る。これは神のお告げであり、神が苦しんでいるユダヤ人たちを慰めようとして語りかけた神の言葉なのだと。はたして黙示文学は預言者たちの創作なのか、それとも神の言葉なのか。もし創作だとしたら、これらを読む理由はほとんどない。ないどころか時間の浪費である。しかしもしそこに神の言葉が含まれているのだとすれば、これらは他のどの書物にもまして真剣に読むべきものとなる。
私は、もちろん神の言葉が含まれているという立場で読もうと思っている。しかし、すべてがすべて神の言葉であるという立場はとらない。黙示文学には虐げられていたユダヤ人たちの復讐願望や利己心が含まれている。その覆いを取り去り、その底に沈む神の言葉を取り出していくというのが私の姿勢である。以下、そのようにして今日の個所を読んでいこう。
1.解説
24:1 イエスが神殿の境内を出て行かれると、弟子たちが近寄って来て、イエスに神殿の建物を指さした。
24:2 そこで、イエスは言われた。「これらすべての物を見ないのか。はっきり言っておく。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」
*ここで弟子たちは何も語っていないが、「マルコによる福音書」の並行記事では彼らの一人が次のように語っている。
13:1「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」
つまり弟子たちは、エルサレム神殿を見て途方もなく感動したのだ。先ずはこの感動を理解しなければならない。ユダヤ人にとっては、エルサレム神殿は神の住む場所、少なくとも神と人が出会う場所であった。人間をはるかに超えた天に住む存在が人と交わってくださる、そのような場所であった。だからユダヤ人はエルサレム神殿を見て感動に打ち震えた。ユダヤ人にとってエルサレム神殿を見ることは、神と交わる経験に等しいものであったのだ。
・だから、旧約聖書の預言者たちも神殿を否定するようなことはほとんど言わなかった。堕落した神殿の支配者にたいしては激烈な批判を展開したが、神殿そのものを否定するような預言はほとんどおこなわなかった(エレミヤとミカが一言ずつ崩壊を示唆する言葉を述べているが、それらは支配者批判の付け足しに過ぎない)。それほどまでにユダヤ人はエルサレム神殿を愛していたのだ。
*ところがイエスは言うのである。「はっきり言っておく。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」と。石が二つ重なり合うことがないという表現は、徹底的な崩壊を表す。つまりイエスは、エルサレム神殿の完全な崩壊を予言したのだ。これは神殿そのものの否定である。これを聞いたユダヤ人が怒らないはずがあろうか。弟子たちでさえこの言葉には反感を感じたであろう。繰り返すが、ユダヤ人はエルサレム神殿を心から愛していたのだから。恐らくイエスはユダヤ人全員から憎まれ、殺されるのを覚悟のうえで、敢えてこの言葉を語った。
・いったいなぜか。神殿の支配者たちが悔い改めなかったからである。この前の23章で、イエスは彼らのことを激しく批判していた。≪欲望を満たし、人に見せるために律法を行い、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしている≫と。この本質的な批判に神殿の支配者たちは少しも応答せず、相変わらず正義、慈悲、誠実をないがしろにしながら生きた。だからこそイエスは、そのようなことを続けていれば、神は天罰として神殿を崩壊させるであろうと述べたのだ。
・そして実際この言葉の40年後の紀元後70年、エルサレム神殿はローマによって崩壊させられる。そして今日に至るまで再建されていない。この事実は、イエスの予言が神の御心と一致していたことを示す。
・神は悔い改めるように呼び掛ける。しかし、いつまでも悔い改めない者には裁きを下す。イエスがこの言葉に込めたメッセージはこれであろう。
24:3 イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちがやって来て、ひそかに言った。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか。」
*ここから、トーンががらりと変わる。黙示文学的なトーンになってしまうのである。「そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか」という弟子の言葉は紛れもない黙示文学の言葉である。
・イエスの神殿崩壊予言は終末の前兆を語ろうとしたものではない。単にいつまでも悔い改めない者を神は裁くということを伝えようとしたものである。驚くべきことに、イエスは当時流行していた黙示文学の影響をほとんど受けなかったのだ。
・ところがマタイは並の人間だから黙示文学の影響をもろに受けていた。だから、イエスの神殿崩壊予言を聞き、そして実際に紀元後70年に神殿が崩壊するのを目の当たりにしたとき、それを終末の前兆であるととらえた。こうして彼は、イエスの神殿崩壊予言に、終末を表す黙示文学的な言葉を付け足したのである。
・だから、ここからの黙示文学的言葉はイエスの言葉ではない。イエスの言葉が伝承される過程で、当時の黙示文学が入り込んで出来上がったものとみてよい。しかし、その底にはやはりイエスの言葉が埋まっている。以下、それを探り出しつつ読み進んでいこう。
24:4 イエスはお答えになった。「人に惑わされないように気をつけなさい。
24:5 わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。
*メシアとは救い主という意味である。神殿が崩壊するなら、神殿に代わって宗教的に人々を支配する偽預言者や偽メシアがたくさん現れるであろう。事実エルサレム神殿が崩壊した後にはそういう者がたくさん現れた。
・そういう事態を見越して、イエスは自分こそがメシアであると吹聴して回る者は、必ず偽物であるから気をつけなさいとイエスは言った。
・しかし、それを終末の前兆だとは言わなかったのではないだろうか。
24:6 戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。
24:7 民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。
24:8 しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。
*戦争が起こる、飢饉が起こる、地震が起こる・・・これらも黙示文学の典型尾的なパターンである。「まだ世の終わりではない」という言葉と「これらはすべて産みの苦しみの始まりである」という言葉はどちらも、これらの事象がすべて終末の前兆であるということを意味している。
・これはもはや黙示文学そのものであり、イエスの言葉ではありえない。ただ、「産みの苦しみ」という言葉はイエスにさかのぼる可能性がある。何か良いものが生まれ出ようとするときには、必ず苦しみが生じる。だから、苦しみに対して前向きであるようにとイエスは本来語ったのではあるまいか。
24:9 そのとき、あなたがたは苦しみを受け、殺される。また、わたしの名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる。
24:10 そのとき、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。
*「そのとき、あなたがたは苦しみを受け、殺される」とはどういうことか。天災や人災が起こり、世が混乱すると、不法がはびこり、正論を口にするイエスの弟子たちはいじめられ、殺されるということである。正義が通らない世界で正義を口にする者は、いじめられて殺される。
・ましてや、敵を愛しなさいと命じるイエスに従おうとする者はユダヤ人を初めとする多くの人々から憎まれる。それが「わたしの名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる」ということ。
*そうなると多くのキリスト者は信仰を捨て、裏切り合い、憎み合うようになってしまう。それが、「多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる」ということ。
*これらの言葉はイエス昇天後の教会の状況を反映したものであり、明らかにイエスの言葉ではない。イエスが本来言った言葉は、他者からどのような批判を受けようとも、正義、慈悲、誠実に忠実であれということだったのではあるまいか。
24:11 偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。
24:12 不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。
24:13 しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。
*11節は4~5節の繰り返し。
*「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える」とは、不法がはびこるので、悪人が増え、人を愛する気がなくなってしまうということ。
*「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」とは、イエスを信じ続け、隣人を愛し続ける者は、救われるということ。
・これらもまたイエス昇天後の教会の状況を反映した言葉である。イエスは人の救いに条件を付けたりしない。だから「最後まで耐え忍ぶものは救われる」などとは決して言わなかった。
24:14 そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。」
*「御国のこの福音」とは何か。イエスを通じて神の愛が表され、すべての人が罪を赦されて神の国に迎えられるという使信である。この使信が世界中に述べ伝えられた後で、終末の裁きが行われると、この一節は語る。
・つまり、終末の前には福音が世界中の人々に知らされるという前兆が起こるということである。
・この言葉も、イエス昇天後の状況(パウロによって地中海諸国に福音が述べ伝えられた状況)を反映するものであり、イエスの言葉とは考えられない。
・にもかかわらず、この一節は、イエスの思いと一致していると思われる。イエスは確かに世界中の人々が神の国の福音を信じることを望んでいた。だからこそ次のように言って弟子たちを人々のもとに遣わしたのである。
10:7 行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。
10:8 病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。
・この言葉は明らかにイエス自身が弟子たちに福音伝道を命じた言葉である。つまりイエスは確かに世界中に福音が述べ伝えられることを望んでいた。おそらくイエスは、最後の裁きがあるとすれば、すべてはこのような福音(全員が愛され、赦されている)が世界中に述べ伝えられた後であると考えていたのであろう。つまりイエスは、まず愛が徹底され、その後に裁きがあると考えていたと思われる。
2.メッセージ
①裁きを信じよう
黙示文学のメッセージの根幹は神の裁きである。神が終末には公正な裁きを行い、悪を滅ぼし、善に報いてくださる。これこそ黙示文学の根幹である。黙示文学からほとんど影響を受けなかったイエスも、この根幹には同意していた。
さて、私たちはこのメッセージ(最後には神の公正な裁きがある)を受け入れるべきであろうか。これは科学的には、真偽を判断できない問題である。知識人の多くは科学的根拠に基づいてこれはフィクションだと言って退けるが、このようなメッセージの真偽は物を基準とする科学によっては判定できない。では、私たちはこのようなメッセージとどう向き合えばよいか。
これは科学を超えた霊的な問題なのだから、自分の心によい影響を与えてくれるかどうかで決めるのが良いと私は思っている。では、最後には神の公正な裁きがあるという考えとないという考えとどちらが心によい影響を与えてくれるか。もちろん裁きがある方である。
世の中では無数の悪が行われており、その悪のために富と権力を手中にしている人がたくさんいる。他方では、全くの善人が損をしたり、傷つけられたり、殺されたりする。はっきり言ってこの世の原則は弱肉強食である。悪かろうが強ければ繁栄する。善かろうが弱ければ滅ぶ。これが世の習いというものである。もしこれがすべてであるとしたら、私の心にはとても元気が生じない。人生なんてどうでもよくなってしまう。それどころか、悪いことをして儲けてやろうとさえ思ってしまう。しかし最後に神による公正な裁きがあるとするなら、全くそうではなくなる。世の中の全ての不公平に耐え忍ぶことができる。ガザの子供たちがミサイルで殺されたとしても、絶望せずにいられる。トランプが再び大統領になり、習近平とプーチンと三人で世界を支配したとしても、戦いを挑んでいこうという気になれる。神の公正な裁きは、健全な心のエネルギーの源泉なのだ。
それだけではない。最後に神の公正な裁きがあるというメッセージは、私たちの向かうべき方向を示してくれる。私たちはこのメッセージに基づいて人生の目標を善へと定めていくことができるのだ。もし弱肉強食がこの世の原則の全てであるとしたら、人生の目標は富と力とそして快楽ということになろう。しかし、もし神の公正な裁きが最後にあるのだとすると、とてもそんなものを目指すわけにはいかなくなる。自分なりに善(愛と正義)を目指すことが人生の目標になる。神の公正な裁きは、心に正しい方向性を与えてくれるのだ。
さらに、神の公正な裁きがあるとするならば、不安から解放される。不安の根源とは何であろうか。それは言うまでもなく死である。自分の存在が消滅してしまうことこそが、不安の根源なのだ。しかし、もし最後に神の公正な裁きがあるとするならば、そして自分が自分なりに善を目指して生きているならば、不安は解消されていく。神が裁きによって死を乗り越えさせてくれるかもしれないのだから。つまり、神の公正な裁きは人の心に根源的安定性(平安)をもたらすのだ。
というわけで、神の公正な裁きをあると信じることは、私たちの心に様々な良い影響をもたらす。それはまさに命の根源であると言える。
②裁きの罠
他方、気をつけなければならないこともある。その一つはこの世の軽視である。神の公正な裁きというメッセージを重視し過ぎるとこの世を軽視し、蔑視するということになりかねない。その極端な例がテロリストである。彼らは神の公正な裁きというメッセージを重んじるあまり、この世は全て間違っていると考え、この世の破壊を試みる。こうなっては絶対にいけない。神の公正な裁きはあくまでこの世を愛すればこそなされるのであって、この世を憎んでなされるのではないということを見失ってはならない。イエスは終末の裁きを受け入れながらも、決してこの世の者を軽んじなかった。それどころかこの世の者を救うことに全力を投じた。そして全員が赦されているという福音を伝えることに全力を投じた。それもこれも、終末の裁きがこの世への愛に基づくものであると考えていたからである。
もう一つ注意すべきことは、自己正当化への利用である。神の公正な裁きというメッセージを使えば、今自分が不幸なのは世間が間違っているからだと簡単に自己を正当化し、他者を否定することができてしまう。新興宗教にはそのような考えの人が集まり、新興宗教の指導者も神の公正な裁きという思想を利用して、信者を増やそうとする。あなたが不幸なのは世間が間違っているからだ、裁かれるべきはあなたではなく世間のほうなのだと。こうして彼らは信者を反社会的な行為へと誘う。キリスト教の歴史をたどれば、同様の教派がたくさん現れたという事実を見つけることができる。神の裁きというメッセージにはこのような危険性もあるのだ。そのような誤解に陥ってはならない。神の公正な裁きは、全員に対して下されるものであり、そこには自分も含まれているということを、そこでは自分だけが正当化されることなどあり得ないということを肝に銘じておく必要があるのである。
3.話し合い
O君「今日の個所から突然宗教的になるので変だなと思っていました。それにしても、メッセージの真偽を見抜く方法が心に良い影響を与えるかどうかだという寮長の意見は、新興宗教的だと感じました。彼らも同じようなことを言いますから。」
寮長「確かにそうですね。しかし、私の言った良い影響とは、愛や正義の方へ向かっていくという良い影響であって、ご利益があるということではありません。ここは新興宗教とは違うところです。愛と正義に向かう心を育むかどうかは、やはりメッセージの真偽を判断する良い方法だと思います。イエスも木の良し悪しは実で分かると言っていますし。」
B君「テロリストがテロを起こす理由がよくわからなかったのですが。」
寮長「テロを起こす理由は、やはり復讐心だと思いますよ。自分の家族が殺されたり、信仰対象が冒涜されたりすると、復讐したくなる。その復讐心を肯定してくれるのが裁きの思想です。この世は、間違っているから、破壊してもいいと。この破壊は神の裁きの先駆けなのだと。」
B君「なるほど。」
M君「日曜学校では、良いことをした人は天国に行き、悪いことをした人は地獄へ行くと教わりました。しかし大人になって聖書を読むとそれほど単純ではないことが分かる。特にイエスは、罪人も赦して救うということを学びます。そうなるといったいどのメッセージが正しいのかわからなくなってきます。何か真偽を見抜く基準があると良いのですが。」
寮長「これ難しい質問ですね。M君には何か考えがありますか。」
M君「体験ですね。体験を重ねていくうちにメッセージは正しか間違っているか示されて行くように思います。」
寮母「本当にそうだと思います。」
寮長「寮母さんはよくそう言ってますね。私がいつも行っているのは、生きたイエス様を思い浮かべて、イエス様ならどう言ったであろうかと想像することです。そうするとたいていのメッセージはイエス様が本当に語った正しいメッセージかそうでないかわかると私は信じています。例えば、「蝮の子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか」などという言葉をイエス様が語ったかどうか想像してみてください。こんな新興宗教みたいなことを言う人なら、私はイエス様など信じませんね。だとすると、このメッセージはイエスのものではない、間違ったメッセージと分かります。」
N君「僕が最近学んだことは、自分のために生きていくとどんどん苦しい状況になり、他人のために生きていると良い状況になってくるということです。隣人を愛すること自体が、最高の道であり、愛の力自体によって人は善へと導かれていくのではないでしょうか。」
寮長「良い経験と学びをしているようですね。イエス様が伝えようとしたこと(福音)の本質はまさにそれです。しかし今日の話との関連からすると、神の最後の裁きというのは不要ということでしょうか。」
N君「そうではないと思います。やはり締めるべきところはないと。それで僕は、最後の裁きがどういうものか知りたいのです。裁きというからには神の怒りですよね。やはり地獄の劫火に焼かれるのでしょうか。」
寮長「聖書にはたくさんその言葉が出てきますね。しかし、それこそ黙示文学の流入です。この表現はあくまでも比喩であって、本質的にどのような裁きなのかはわかりません。読み進んでいけば明らかになるかもしれませんが、今はあまり先走らないようにしたいと思います。2~3回くらい後に語りますのでお楽しみに。」
S君のお母さん「私はよく子供の頃におてんとうさまが見ているぞと教わり、結構悪いことをするのを思いとどまった経験があります。それと似た話だなあと思いながら聞きました。」
寮長「なるほど。きっと、真の神様が私たちを見ているという信仰が発展して黙示文学ができたという面もあるでしょう。いや、こちらの方が本質かもしれません。」
S君「黙示文学はどうも後付けのように思われてしまう。ユダヤ人を慰めるのが目的だとすると、やはり人間が作り出したフィクションのように思われてしまうのです。」
寮長「私たち日本人にはそう思われてしまいますよね。だから無理に信じる必要など全くありません。いろいろ経験を積んで、つらい思いをして、神様から言葉が与えられるというようなことを体験して、初めて黙示文学に表されたメッセージを受け入れることができるのです。今は、黙示文学のメッセージはうまく受け入れれば、とても良い影響を心に及ぼすということを覚えておいて気宇ださい。今日も話し合いを通じて非常に学びが深まりました。皆さんとお導き下さった神様に感謝です。」