2025年4月6日春風学寮日曜集会
聖書:創世記
1:1 初めに、神は天地を創造された。
1.二つの問題
この世界には正解の出る問題と出ない問題がある。正解の出る問題とはどのような問題か。それは数的に測定や証明が可能な問題である。このビルの高さは何メートルかとか、患者の血圧はどのくらいかとか、音や光の速度はどれくらいか・・・。こういう問題は数的に測定したり証明したりすることができるから正解が出る。化学や物理学や生物学といったいわゆる自然科学はこういう問題に対して正解を出そうとする学問である。
しかし、私たちが人生で出くわす問題のほとんどは、実はこのような正解の出る問題ではない、正解の出ない問題である。例えば君たちの内の新入寮生諸君は数ある住居の中から春風学寮を選び、そこで暮らすことを選択したわけであるが、はたしてこの選択は正しかったのか、はたして春風学寮は良い寮なのか、この問題には正解がない。その良さを数的に測定することができないからだ。その寮が良いかどうかはたいていその寮の運営者寮長次第である。すると今度はこの寮の寮長ははたして良い寮長かどうかという問題を考えなければならない。しかしこの問題も正解の出る類の問題ではない。寮長の良し悪しを数的に判断することはできないからである。そもそも良い寮長とはどういう寮長なのか。倫理的に厳しい寮長か、寛大で優しい寮長か、知的で有能な寮長か、他者の気持ちを理解してくれる弱さを持った寮長か、それとも寮生活をきちんと管理してくれる生活力のある寮長か、経営能力があり寮を黒字にさせる寮長か、寮生と仲良くやっていける人柄の良い寮長か…。ざっと並べただけでも寮長の良し悪しを評価する基準はたくさんある。しかもそれらの基準はいずれも数値化できないものである。ならば寮生に評価してもらえばよいという意見があろう。しかしその評価が100点満点だったとしても、そんな評価は寮長の良し悪しを正確に表してはいない。すべては寮生の主観的な評価であり、寮長を良しとした寮生の基準はバラバラであいまいなものだからだ。
ところが、私たちが人生において出くわす実際の問題のほとんどは、このように正解の出ない問題ばかりである。これは実に厄介なことである。
2.正解の出ない問題
人生において正解の出ない問題の方が多いというのは実に厄介である。しかし、さらに厄介なことにはこの正解の出ない問題の多くから私たちは逃れることができないということだ。私たちは正解が出ないにもかかわらずこれらの問題に対して自分なりの答えを選ばなければならない。例えば、新入寮生たちは大学に入ったらどこで暮らすか選ばなければならなかったはずである。一人暮らしがよいのか、寮がよいのか、あるいは親戚のうちから通うのか、寮だとすればどこの寮がよいのか、大学の寮か、企業で経営している学生会館か、この寮のような教育理念を持った寮か。正解はない。にもかかわらずどれかを選ばなければならない。正解の出ない問題の多くはこのように、正解が出ないにもかかわらず私たちに自分なりの答えを選ぶことを強いる。思えば君たちの人生もこのような選択の連続であったはずである。どの高校に進むか、どの部活を選ぶか、どのような友達を選ぶか、どのような恋人を選ぶか、どのような職業を選ぶか・・・。これらすべてにおいて正解はない。にもかかわらず君たちはそこに何らかの自分なりの答えを選び取らなければならない。この世界で生きている以上その選択から逃れるということはできないのだ。
それと関連してもう一つ。正解の出ない問題は正解の出る問題よりもしばしば重要である。例えば先に挙げたこの寮は良い寮か悪い寮か、この寮の寮長は良い人か悪い人かという問題は、君たちにはきわめて重要な問題であろう。もし自分の入寮した寮が悪い寮であり、そこの寮長がハラスメントを繰り返すような寮長であったなら、君たちは目も当てられない。君たちは暗黒の青春時代を過ごすことになるだろう。逆に寮長が素晴らしい寮長であったならば、君たちは充実した青春を過ごすことになる。先に挙げた他の例、どの高校に進むか、どの部活を選ぶか、どのような友達を選ぶか、どのような恋人を選ぶか、どのような職業を選ぶか・・・これらもすべて同様に重要な問題である。それに対してどんな答えを選ぶかによってその後の君たちの人生はほぼ決定されてしまうからだ。
というわけで、まとめれば、正解の出ない問題は無数にあり、しかもそれらは正解がないにもかかわらず私たちに自分なりの答えを出すことを強いる。さらにそれらは極めて重要であり、私たちの人生に多大な影響を与える。
3.正解の出ない問題に答える方法
では私たちはいったいどうやって正解のない問題に答えていけばよいのか。それは自分なりの価値観を形成していくことによってである。では価値観とは具体的にはどんなものであろうか。価値観は大きく分けて三つの要素から成り立っている。第一は倫理観(善か悪か、正しいか間違っているか)、第二は感性(美しいか醜いか、面白いかつまんないか、強いか弱いか、賢いか愚かか)、第三は打算(快か不快か、損か得か、幸か不幸か)である。人の価値観はこれらの要素のうちのどれを優先させるのかに従って形成されていく。例えば、青年は普通第二の感性を最優先して答えを選びがちである。ところが大人になってくると第三の打算を最優先させて答えを選びがちになる。第一の倫理観を最優先させて答えを選ぶ人は滅多にいない。優等生か特別の信念を持っている人だけがしばしばそれを優先させる。実際人は若いときにはかっこいい人を恋人に選ぶけれど、大人になると経済力によって結婚相手を選ぶようになる。恋人や結婚相手を倫理観によって選ぶ人はあまりいない。
いずれにせよ、人は価値観によって正解の出ない問題と向き合い、答えを選んでいく。その価値観の具体的要素とは倫理観と感性と打算なのであり、そのうちのどれかを優先したり、それらを混ぜ合わせたりしながら、答えを選んでいくのである。どれを最優先し、どのくらい混ぜ合わせるかはもちろんその人の自由である。なぜなら価値観はもともと正解の出ない問題に対する答えを探すための基準なのだから。
また価値観は一度決まったら固定されていくものではなく、日々変化し成長していく。例えば、現在の私は、やはり倫理優先である。重要性の少ない問題については感性や打算で判断するけれど、重要問題についてはやはり倫理で判断する。つまり感性も打算も倫理に屈服しているのだ。昔は感性優先だった。だから最高の芸術を愛し、最高の芸術を造ろうと思っていた(映画監督になりたいと思っていた)。しかし、様々なことを学び、体験するにつれて、倫理優先に変わっていった。倫理的に正しいことが最も美しいことであり、自分の得になることであると納得したからだ。このように価値観は年齢とともに変わっていく。もちろん生涯価値観が変わらない人もいるが、そういう人は成長をあきらめた人であり、むしろ例外であろう。
4.聖書の役割
ここで話を聖書に移そう。聖書はこのような正解の出ない問題について一つの答えをズバリと提示してくれる。しかもその答えはしばしば強烈である。聖書はまるで自身の提示する答えが正解であり、真理であるかのごとくに語る。しかしその答えは、それが正しいと数的に測定したり、証明したりすることができる類のものではない。つまり聖書は、正解の出ない問題に対して、正解らしきものをずばりと提示する書物なのである。であればこそ、聖書は無数の人の人生の指針となり、無数の人を導いてきたし、今も人類の約三分の一の人々(約23億人)を導いている。
したがって聖書を読むときには、その答えに対してそれが正解であるのかどうか、自分の価値観に基づいて全人格的に判断していく必要がある。もちろん私たちの多くは聖書の言おうとするところをよく理解していないし、自分の価値観が定まっているわけではない。だから聖書の答えを簡単に吟味することはできないであろう。にもかかわらず、もし聖書を真の意味で読み解こうとするならば、それが提示する答えに対して、現在の私たちにできる精一杯の判断をぶつけていかなければならない。なぜなら、繰り返すが、聖書は正解の出ない問題に対して正解らしい答えを提示し、それを受け入れるかどうかを問う書物なのだから。
では、そのような聖書を読むことに一体どんな意義があるのか。その第一の意義はなんといっても私たちの価値観に変革を及ぼし、私たちを人格的に成長させてくれるところにある。聖書を読むという行為は、今述べたところから明らかなように聖書の主張と私たちの価値観のぶつかり合いである。聖書の主張に私たちの価値観が破壊されたり、私たちの価値観が聖書の主張を破壊したり、そのようなぶつかり合いのプロセスこそが聖書を真剣に読むという行為なのである。それはしばしば血みどろの戦いになるであろうけれど、それだけに見返りは大きい。聖書と真剣にぶつかり合った者は、心を鍛えられて、大きな成長を得ることになるのだ。それは、普通の学校教育では得られない、全人格的成長である。だから皆さんには、聖書を真剣に読むことによって、大いに成長してもらいたいと私は願っている。
5.神の存在と天地創造
抽象的な話をいくらしてもピンと来ないであろうから、具体例で考えよう。例えば、今日の聖書箇所である創世記の1:1は「初めに、神は天地を創造された」と述べる。聖書の冒頭を飾るこの一言はすでに正解の出ない問題に対する二つの重大な答えを提示している。
一つは神の存在。神が存在するのかどうか、これは正解の出ない問題である。数的に測定することも証明することもできない問題だからである。神が存在することを私たちは数値で示すことなどできないし、逆に神が存在しないことを私たちは数値で示すこともできない。これはいくら研究し、議論しても絶対に正解の出ない問題である。ところが聖書はこの正解の出ない問題に対してはっきり神は存在すると答える。そしてこの答えを受け入れるか否かを私たちに問うてくる。したがって私たちはこの答に対して科学的方法(数式や論理)ではなくて私たち一人一人の価値観で応答しなければならない。
この箇所はもう一つ正解の出ない問題に対する答えを提示する。すなわち神が宇宙を創造したと。この宇宙はいったいいかにして始まったのか、これまた正解の出ない問題である。この宇宙はビッグバーンによって始まったと物理学者は数式によって示す。しかし、この数式が本当に宇宙の始まりを示したことになるのであろうか。なるまい。なぜならこの数式はビッグバーンの前の状態を説き明かさないからだ。もし本当に宇宙の始まりを示したいならば、ビッグバーンより前の状態をも数式で解き明かす必要がある。しかしそんなことは不可能だ。仮にそのことができたとしても、今度はさらにその前の状態はどうであったのかという疑問が生まれて来る。つまりこの問題もまた正解の出ない問題なのである。この問題に対して聖書は神が宇宙を創ったと答える。そして私たちにそれを受け入れるかどうかを問うのである。すなわち私たちの価値観による全人格的応答を求めてくるのだ。
6.価値観による応答
それでは、価値観に基づく全人格的応答とはどのようなものか。すでに述べたように価値観は、倫理観、感性、そして打算からなる。したがって価値観に基づく全人格的応答とは倫理観と感性と打算から総合的に考えることである。
例えば倫理観から考えてみよう。神がこの宇宙を創ったと考えるのとそうでないと考えるのとではどっちが倫理的だろうか。神がどのような存在かはまだ明らかにされていないが、少なくとも神はただの物質ではなく、正しい意志を持った精神的存在である。そのような存在がこの宇宙を創ったのだとすればこの宇宙には何らかの正しい目的があり、意義があることになる。逆にもし神がこの宇宙を創ったのではないとすると、この宇宙は何ら正しい目的や意義も持たないただの物質の塊りであるということになる。
次に感性で考えてみよう。神様がこの宇宙を創ったと考えるのとそうでないと考えるのとではどっちが私たちの感性に訴えるであろうか。もし神がこの宇宙を創ったのだとすれば、この世界は神秘的美しさに満ち溢れていることになる。雄大な山々、山々を駆け巡る清流、これらを飾る木々や花々、そこで遊ぶ一つ一つの小さな生命たち、その上に広がる青い空、やがてそこに沈んでいく赤い夕日…。これらのすべてのものの背後には神の働きがあるのだとすれば、私たちはそこに神秘的な美しさを見出さずにはいられない。ところが、もし神がこれらを創ったのではないとすれば、そこには大した感動はない。雄大であると思ってみる山々は、ただの石と土の塊に過ぎないことになる。私のおばあちゃんは神も仏も信じない人であったので次のような名言を残した。「山登りなんていったい何が面白いんだ。山に登ったって石ころがあって木や草が生えているだけじゃないか。」神が山を創ったのではないとするならば、実にその通りである。
最後に打算から考えてみよう。神がこの宇宙を創ったと考えるのとそうでないと考えるのとではどっちらが私たちを幸せにするであろうか。先ほど述べたように、もしこの宇宙が神によって創られたのだとすれば、そこには正しい目的と意義があることになる。だとすれば、私たちの人生にも正しい目的と意義があることになる。もし私たちがその目的に向かって意義のある人生を送れたとすれば、それはなんと幸せなことであろうか。逆にもし神が宇宙を造ったのではないとすれば、この宇宙には何ら正しい目的も意義もないことになり、私たちの人生にも何ら正しい目的も意義もないことになる。極端に言えば私たちは、「食って糞して寝て起きる」だけの存在であるということになってしまう。数年前定年を迎えて悠々自適の暮らしを送る親戚の叔父に「最近どうしてますか」と尋ねたことがある。すると叔父はこう答えてくれた。「生物学的に生きているだけです。」これもまた名言である。人生に正しい目的も意義もないとすれば、まさにそれが真実であろう。
7.私の応答
以上のように価値観的思考を展開していくと、私は聖書の答え「神は天地を創造された」を受け入れざるを得なくなってくる。神は存在し神がこの宇宙を創造したという答えを受け入れざるを得なくなる。この答を受け入れることによって、この宇宙の正しい目的と意義を認め、そこに神秘的美しさを発見し、正しい目的に向かって意義のある人生を送りたいと思ってしまう。少なくとも、宇宙がただの物質の塊りであり、そこには何の目的も意義もないという無神論の考え方は、拒否せざるを得なくなってくる。
さて、みなさんはこの聖書の答えとどう向き合うであろうか。