ユダは悪人か(小舘)

2024年7月7日春風学寮日曜集会

讃美歌 267, 285

聖書 マタイによる福音書26:14-16, 26:47-56

1.解説

 

①ユダはなぜ裏切るのか

26:14 そのとき、十二人の一人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行き、

26:15 「あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか」と言った。そこで、彼らは銀貨三十枚を支払うことにした。

26:16 そのときから、ユダはイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。

いったいなぜユダはイエスを裏切るのだろうか。このテキストを文字通りに受け取るなら、金のために裏切ったということになる。このことを根拠としてユダ悪人説が展開されていく。ユダは悪魔の誘惑に身を委ねて金に目がくらみ、金のためにイエスを裏切り、死へと追いやった究極の悪人であると。福音書の中で最も遅く書かれたヨハネによる福音書では、ユダは「悪魔」や「滅びの子」とさえ呼ばれている。その結果ダンテの『神曲』では、ユダは絶対に赦されることのない地獄の最下層(第九圏の一番下)に居り、永遠に苦しめられ続けていると解釈されている。以下の図は『神曲』の地獄の構造を図示したものだが、ユダがいるのは、ジュデッカである。

この図は、罪のカタログとしてなかなか面白いが、ユダの裏切りの真相を解明するためには何ら参考にならない。にもかかわらず、この図に基づいてキリスト教徒はユダを蔑んできたし、今なおユダを蔑むキリスト教徒は少なくない。しかし、そのようなユダの見方は全く間違っている。

*ではユダの裏切りの真相とはいったいどのようなものだったのか。先ず言えることは、ユダの裏切りは金を目的としたものではなかったということである。そもそもユダは、家族も財産も仕事も捨ててイエスに従ってきたのだ。そのようなユダが銀貨30枚(30万円相当)程度のはした金でイエスを裏切るはずがない。事実、ユダはイエスが死刑判決を受けた後、この金を投げ捨ててしまう。そのシーンを読んでみよう。

27:3 そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、

27:4 「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。しかし彼らは、「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と言った。

27:5 そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。

ここでユダは、銀貨を神殿に投げ込んで自殺している。金などユダにとってはどうでもよかったのである。ではいったい何のためにユダはイエスを裏切ったのか。ここには重大なヒントが記されている。それは、ユダが「罪のない人」(イエス)を死へ追いやってしまったことを後悔していることである。この事実に基づくなら、ユダは良心の呵責に苦しめられていたということである。つまり、ユダは悪人でも何でもなく、自殺するほどに自身の犯した罪を後悔する善意に燃える人であったのだ。

*だとすれば、ユダの裏切りの動機は善意であったことになる。ユダは、激しく善を求めたからこそイエスを裏切ったのだ。では、ユダはどのような善を求めていたのか。それを教えてくれるのが、前回やったベタニアの女の出来事である。思い出してほしい。女がイエスの頭に高価な香油を注いだとき、弟子たちはなんと言ったであろうか。「26:8なぜ、こんな無駄遣いをするのか。26:9 高く売って、貧しい人々に施すことができたのに」であった。この言葉こそユダと弟子たち全員が抱いていた善の内容を示す決定的な言葉である。

・弟子たちは、貧しい人々を助けるためにイエスの王国を作ろうとしていた。イエスが王となり、自分たちがその家来となってローマ人やユダヤの支配者を撃退し、貧しい人々を貧困と病と罪から救い出す、そのような理想を彼らは抱いていた。このような理想こそがイエスの弟子たちが抱く善であって、この善を実現するためにこそ、弟子たちは何もかも捨ててイエスに従ってきたのだ。そしてその善を最も激しく目指していた者こそはユダであった。ユダは弟子たちの中では最も有能であり、現実的であったために、どうすればそのようなイエスの王国を実現できるか真剣に考えていた。ユダこそは、現代で言うところの革命家であったのだ。

・ここが理解できるなら、なぜユダがイエスを裏切ったのか、その最も深い理由が見えてくる。ユダはイエスを敢えて追い詰めることによって、イエスが王を目指して戦い始めることを期待していたのだ。もしローマ人やユダヤの支配者に追い詰められるなら、イエスは必ずや反旗を翻して戦うであろう。そしてあの超自然的な力をもって、敵を撃退するであろう。死者をも甦らせたイエスが打ち負かされて殺されるはずがない。イエスが勝ち続けるなら、やがて民衆はイエスのもとに糾合し、一気にイエスの王国が成立するであろう。これこそがユダの抱いていた革命構想であった。この革命構想を実現するためにこそ、ユダは敢えてイエスを裏切ったのだ。

*ユダがこのような構想を抱いていたことを示す決定的な証拠はない。しかし、ユダの裏切りの背後にイエス王国建設の理想があったことは確実である。それに加えて、この理想に基づく革命構想をユダが抱いていたと仮定したときにのみ、ユダの不可解な行動の全てが解明される。だから、ユダの裏切りの真の理由が上記のような革命構想であることにほぼ間違いはないであろう。

 

②イエスのユダへの愛

26:47 イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダがやって来た。祭司長たちや民の長老たちの遣わした大勢の群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。

*ユダヤの支配者たちは、「剣や棒を持って」イエスを捕まえに来た。たった一人の無防備な男を捕まえるために武装してきたのだ。彼らがいかにイエスを恐れていたかがわかる。彼らはイエスの持つ超自然的な力と、それ以上に民衆を動かすことのできる魅力(カリスマ性)を恐れたのだ。そしてこうなることをユダは十分予測していたであろう。ひょっとすると、「イエスは不思議な力を持っているから、武器を整えて行った方がよい」と忠告したかもしれない。武器を持った人々に取り囲まれるなら、イエスは確実に戦わざるを得なくなるのだから、彼がこう忠告した可能性は高い。

26:48 イエスを裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。それを捕まえろ」と、前もって合図を決めていた。

26:49 ユダはすぐイエスに近寄り、「先生、こんばんは」と言って接吻した。

*いったいなぜユダは、接吻によってイエスを指し示したのであろうか。注解書には、暗かったから、イエスが誰であるかをはっきりと示す必要があったためだと記されている。しかし、暗いだけなら別に、接吻する必要はあるまい。

・ここで「接吻」と訳されている語の原語カタフィレオウは、ただの接吻(フィレオウ)ではなく、強烈な(長いか、複数回にわたる)接吻である。それは本当に愛し合っている者の間でだけなされる特別な接吻である。だとすれば、この接吻にはユダからイエスへの深いメッセージが込められているとみるべきだろう。そのメッセージとは何か。恐らくこうである。「さあ、準備は整いましたよ。後のことはお任せしますから、あなたの王国を作るためにお戦い下さい」である。ユダはこの熱い口づけによって、イエス王国建設の熱い理想の全てをイエスに託したのだ。

26:50 イエスは、「友よ、しようとしていることをするがよい」と言われた。すると人々は進み寄り、イエスに手をかけて捕らえた。

*「友よ」の一言をイエスはどのような気持ちで語ったのであろうか。注解書の多くは、皮肉であると解釈する。しかし、それはとんでもない間違いである。ここに現れているものは、自分を裏切ったユダをも包み込もうとするイエスの比類ない愛である。イエスはユダが裏切る本当の理由が悪意ではないことを恐らくは理解していただろう。しかしユダの道(イエス王国建設の道)はイエスが進もうとする道とは全く正反対の道である。だからこそイエスはユダのことが可哀そうでならなかった。そのようなユダへの愛のゆえにこそ、イエスは呼びかけたのだ。「友よ」と。

*そしてイエスは言う。「しようとしていることをするがよい」と。何と悲しい言葉であろうか。イエスは本当ならばユダを引き留めたいのだ。「そんなことをしてはならない」と。しかし、イエスにはそれを言うことができない。自分が十字架にかかり、ユダの道とは決定的に異なる道を示すことこそが神から託されたイエスの使命だからである。だからこそイエスは、言わざるを得ないのである。「しようとしていることをするがよい」と。私は涙なくしてこの言葉を読むことはできない。

・では、イエスが示そうとする道とはいったいどのような道か。次の個所でそれが明らかになる。

 

③ユダの道とイエスの道

26:51 そのとき、イエスと一緒にいた者の一人が、手を伸ばして剣を抜き、大祭司の手下に打ちかかって、片方の耳を切り落とした。

*これこそユダが待ちかねた瞬間である。この瞬間にユダの胸は高鳴ったであろう。いよいよイエスが本領を発揮すると。今こそ、イエスがその超自然的な力を以てユダヤとローマの支配者たちを打ち滅ぼす時が来たと。

・ところがイエスは、驚くべきことを述べる。

26:52 そこで、イエスは言われた。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。

26:53 わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。

26:54 しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」

*この一言によって、ユダの熱い夢は完全に断たれた。ユダの予想通り、イエスには超自然的な力を発揮することによって敵を撃退することができた。ところがイエスは、そのような力を発動することは一切ないと断言したのだから。それどころかイエスは「剣を取る者は皆、剣で滅びる」と語ることによって、力によって王国を築き上げるという道が救いとは正反対の滅びの道であることを宣言している。イエスの思いはユダの理想とは全く異なるところにあったのだ。

・今やユダは、イエスの歩もうとしている道が、自分の道とは完全に異なる道であることを知った。ユダはイエスと共に革命を戦い、新しい王国を築きたかったのに、イエスはそのような戦いの一切を拒否したのだ。

*ではイエスが進もうとしている道とはどのような道か。それを明らかにしてくれるのが、54節の言葉「しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう」である。「聖書の言葉」とは何か。ほとんどの注解書には書かれていないことだが、この言葉はどう見てもエレミヤ書の新しい契約である。その契約とは次のようなものであった。

31:33 しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。

「わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。」これこそイエスがここで言う「聖書の言葉」である。もしイエスが神から「十二軍団以上の天使」を送ってもらって敵を撃退したなら、確かに王国をつくることができるだろう。しかし、神の律法を人々の心に記すことはできなくなる。人々は天使たちの力を恐れて律法に従うだけとなるからである。

・では、どうすれば神の律法は人の心に記されるのであろうか。イエスが剣を取らず、無抵抗で十字架にかけられることによってである。イエスが比類ない愛を示して自分を殺そうとする相手までも赦し、愛し抜いてこそ、その愛は人の心を打ち、人の心に神の律法を書き記す結果となるのだ。神の律法の本質は愛なのだから。

・そうなのだ。イエスが今十字架にかけられることで示そうとしている道は力で善を実現するのとは全く異なる道、敵を赦し愛し抜くことで人の心に神の律法を刻み付け、それによって善を実現しようとする道である。敢えて一言で言い換えさせていただくなら、弱さによって善を実現する道である。

26:55 またそのとき、群衆に言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。わたしは毎日、神殿の境内に座って教えていたのに、あなたたちはわたしを捕らえなかった。

26:56 このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書いたことが実現するためである。」このとき、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。

*ここでまず注目すべき点は、群衆がイエスの敵に回っていることである。今まで群衆はイエスの側についていた。ところがその同じ群衆が今やユダヤの支配者側についている。いったいなぜか。群衆は基本的には強い側につくからだ。群衆が今までイエスに従ってきたのは、イエスが超自然的な力を発揮したからであった。しかし今や強大な力を発揮しようとしているのはユダヤの支配者たちである。「剣」を持つことは、当時ユダヤ人には許されていなかった。ところがイエスを捕まえに来た者の中には剣を持つ者がいる。これは彼らの中にローマ兵がいるということである。ユダヤの指導者は、ローマ兵までも導入してイエスを捕まえに来ているのだ。このことを群衆は見逃さなかった。そうであればこそ、群衆はユダヤの支配者側についたのだ。

*しかし、ここでさらに注目すべきことは、弟子たちまでもがイエスを見捨てて逃げ去ってしまったことである。いったいなぜか。彼らも結局はユダと同じことを考えていたからだ。彼らもやはり力によって貧しい人たちを救う王国の建設を夢見ていた。そしてイエスにはその力があると思い込んでいた。ところが今やイエスは、その力の行使を拒否した。それは王国建設の夢が挫折したことを意味するばかりか、敵の力が牙をむいて自分たちに襲いかかってくるということを意味する。イエスがその力で自分たちを守ってくれないなら、自分たちもまた捕らえられて死刑にされてしまう。そう思えばこそ、弟子たちは雲の子を散らすように逃げ去ったのだ。

・つまり、ユダも、群衆も、他の弟子たちも、全ての人は同じ思想に従って動いていた。力こそが善を実現する道であると。だからこそ、イエスが弱さで善を実現する道を歩み始めたとき、誰一人彼についていけなくなってしまったのだ。

・しかし、「このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書いたことが実現するため」であった。つまり、神の律法が人の心に刻みつかれるという預言が実現するためには、イエスが弱さに徹して、力を頼みとするすべての人たちから見捨てられる道を歩まなければならなかったのだ。

 

2.メッセージ

 

①ユダと私たち

 今日のようにユダについて学んでみると、ユダは善意の人であり、悪い人ではなかったかのように思われてくる。ユダは私たちと同じ、普通の人間ではないかと。そうなのだ。今日の個所を読んで最初に気付くべきことは、自分とユダが同類であるということである。キリスト教の過去の教義や注解書はユダを悪人に仕立て上げ、自分たちとはかかわりのない人間として切り捨ててきた。そうすることで自分はユダとは違う正しい人間なのだと自己満足するためである。そのような読み方で聖書を読んでも全く意味がない。そのような聖書の読み方を乗り越えて、ユダと自分の同質性に気付き、ユダの問題を自分の問題と捉えてこそ、私たちは有意義な聖書の読み方ができる。

では、ユダと自分とはどこが同じなのか。問題を力で解決しようとする性質である。この世は弱肉強食の世界であり、ニーチェはこの世の本質は力であるとさえ述べた。この指摘はある程度当たっている。私たちはみな力にあこがれ、力を目指し、力によって支配し、力ある者をしたい、力ある者に従う。たとえ他のもの(真・善・美)を目指していたとしても、それを力によって実現しようとする。このような私たちの性質こそはユダと私たちとを結び付けるものである。問題を力で解決しようとする性質において私たちはユダと同類である。これこそ今日の個所から受け取るべき第一のメッセージである。

 

②力で問題が解決できるか

次に考えるべきことは力で問題が解決できるかということである。一見すると力さえあればどんな問題でも解決できそうな気がする。確かに物質的なレベルの問題ならほとんどは力で解決することができるだろう。しかし、心の問題はどうであろうか。私たちは力によって幸せになれるだろうか。私たちは力によって恋愛したり結婚したりできるであろうか。力があれば私たちの心の悩みや苦しみは解決されるのだろうか。無理でしょう!

社会問題はどうだろうか。貧困格差を力によって解決できるだろうか。エネルギー問題を力によって解決できるだろうか。力によって戦争を終わらせ、平和を築くことができるであろうか。この寮において生じている様々な問題を力によって解決できるだろうか。例えば、食器を洗わずに出しっぱなしにする人に刑罰を科したり、罰金を科したりしたら、問題は解決すのだろうか。財力を行使して皿洗いの人を雇えば、問題は全て解決するのだろうか。無理でしょう!

力に頼れば、心の問題も社会問題も一時的には解決したような状態になる。しかしその状態は何ら本質的な解決がもたらされた状態ではなく、問題を先送りにしているだけの状態だ。だから、時間が経つとその問題は再びぶり返し、後々には一層ひどい形で現れてくる。だから、力に頼っても心の問題や社会問題は本質的には解決しない。この真実こそ今日の個所から学ぶべき第二のメッセージである。

 

③力で問題を解決する道の問題点

 力で問題を解決する道の問題点はそれだけではない。この道は自分を神とする自己中心性の道でもあるのだ。人はいったいなぜ力を求めるのであろうか。神のごとく自由自在に行動し、支配したいからであろう。たとえ真・善・美を達成するために力を求めていたとしても、その真・善・美は所詮自分の目指すところの理想でしかない。そのような理想を実現するために力を求めるというのは、やはり自分を神とする自己中心的な所業と言わざるを得ない。さらに、力で問題を解決する道は神不要の道でもある。力ですべてが解決できるなら、人は力だけを求めればよいことになり、神など不要になってくる。その結果神の前にへりくだるという態度は失われ、人は自身の力をおごり高ぶるようになる。力で問題を解決しようとする態度の奥底には必ず以上のような自己中心性が隠れているのである。

このように洞察を深めるなら、ユダの本当の悪さが見えてくる。ユダは力に頼って問題を解決しようとしたが、この態度は心や社会の問題を本質的な解決に導かないばかりか、その背後には自分を神とし、神を不要とする自己中心性が潜んでいた。この性質のゆえにこそユダは悪いのだ。従来のキリスト教の教義ではユダは神を裏切ったから悪いと考えられてきた。ダンテの『神曲』でも、裏切りが地獄の最下層に位置づけられていた。しかし裏切りなど大した罪ではない。問題なのはなぜユダが裏切ったかである。ここをとらえたときにユダの本当の悪さが見えてくる。そしてそれこそは、力によって問題を解決しようとする態度の背後にある神不要の自己中心性である。そしてこの悪い態度は、私たちも等しく共有する態度なのである。このことこそ今日の個所から学ぶべき第三の点である。

 

④イエスの道

 それでは、問題の本質的解決はどうすれば与えられるのであろうか。それを示したものこそイエスの道である。それは弱さによって問題を解決する道(弱さによって善を実現する道)であった。いったいなぜ弱さによって問題は本質的に解決されるのであろうか。

イエスの示した弱さは、ただの弱さではない。二つの重大な内容を持つ弱さである。その内容の一つは、すでに述べた通り敵を赦し愛し抜くという内容だ。敵を赦し愛し抜くためにこそ、イエスは力を行使せず、無抵抗で殺された。このように比類ない愛は人の心に変革をもたらす。だからこそ問題の本質的な解決を生み出すのである。

しかしイエスの示した弱さにはもう一つ重要な内容がある。それは神様にすべてを任せるという神信頼の態度である。十字架において示されたイエスの弱さは、自分を捨て去り、問題の解決を神に委ね、神に頼るという究極の神信頼の現れでもあった。このような究極の神信頼は神を動かす。神ご自身が力を発揮するという事態を導き出す。だからこそこそ問題の本質的な解決がもたらされるのだ。

 というわけで、まとめるなら、イエスの弱さの背後にあるものは敵をも赦す愛とすべてを神に委ねる神信頼である。この二つこそは問題を本質的に解決する唯一の道、善を実現する唯一の道なのである。このことをイエスは今自身が十字架にかかることによって示そうとしている。これこそ、今日の個所から学ぶべき第四のメッセージである。

 

⑤むすび

 聖書によってイエスの十字架を深く学べば学ぶほど、イエスを十字架にかけた張本人は、特定の誰かではないことが分かる。それはユダではなく、群衆ではなく、ユダヤの支配者ですらない。ではいったい誰がイエスを十字架にかけたのか。当時の全員の背後にあった力に頼り、力によって問題を解決しようとする態度、更にはその背後にあった神不要の自己中心性こそがイエスを十字架にかけたのだ。

すでに確認したように、同様の態度は私たちも持っている。ということは、私たち自身にもイエスを十字架にかける可能性があるということである。仮にイエスが私たちの目の前に現れ、イエスの道を歩み始めたなら、私たちもイエスを十字架にかける側に回ることであろう。

しかし、たとえそうだとしても、イエスは私たちを見放しはしない。ユダに呼びかけたように、私たちに対しても、「友よ、しようとしていることをするがよい」と呼びかけつつ、自分を十字架にかけようとする私たちを赦してくれるのだ。そしてすべてを神様に委ねるのだ。何という弱さであろうか。この弱さには、逆説的にも根本的に世界を変える力なき力が宿っている。

 

3.話し合い

 

Sa君「イエスの示した道は確かに正しいと思いますが、話し合いによって解決していくことも重要ではないでしょうか。」

寮長「話し合いによって人が変えられていくならそうです。もしそうでないなら、話し合いは対処療法や妥協策を生み出すだけです。本当は話し合いを通じて人が変わっていくのが最高なのですが、そのようにして変われる人は滅多にいません。」

Mi君「僕は法学部ですが、法律によってできることはつくづく対症療法だけだと思います。例えば、ごみの不法投棄を禁じる法律を施行しても、本質的には何も変わりません。単に別の国や場所へ行ってごみを捨てる人が増えるだけです。」

寮長「法学を学ぶ人の口から、法学は対処療法に過ぎないという言葉が出るとは驚きです。それを認められる君はすごいです。」

Ma君「弟子たちが逃げた理由がようやく分かった気がします。彼らもユダと同じ思想を抱いていたのですね。」

Go君「僕はユダが裏切った理由が良く納得できて感謝です。僕もそのようなことではないかと思っていました。」

Ok君「ヨハネ伝は、そのように善意を持っていたユダをなぜ悪魔と呼んだのでしょうか。これは言い過ぎではないでしょうか。」

寮長「ヨハネ伝の筆者は、ユダのことをよく理解していなかったのです。今日のようなユダの理解は、聖書の研究が進むことによってようやく得られたものであり、当時の人にとってはユダの思いは全くの謎でした。」

Ko君「自分もイエスを十字架にかける一人になるかもしれないという感覚を否定するために、人はユダを悪者にしたてあげ、ユダに十字架の責任の全てを負わせようとするのではないでしょうか。」

寮長「だと思います。」

Ka君「僕の感覚では、自分の弟子を守ることを放棄して、十字架にかけられてしまうというのは愛がないのではないかと思えてしまいます。」

寮長「世の常識から考えればそうでしょう。だからこそ、国民を守るために最低限の軍隊が必要だという意見が世の主流となるのです。そしてイエスは、敢えてそれとは違う道を示そうとしている。力を使って弟子を守ったとして、それが本当に弟子を守ったことになるのかと。それは新たなる戦いへと弟子たちを追いやることにしかならないのではないかと。」

Ku君「僕には、ユダが早く死に過ぎたと思います。もう少し生きていれば、いくらでも悔い改める機会があったでしょうに。」

寮長「同感です。いったいなぜユダがこんなに早々と自殺してしまったのか、疑問です。この問題にはきっとすごいメッセージが込められているのでしょうけれど、残念ながら、私はまだそれにコメントできるほどの域に達していません。」

It君「法学は対症療法を提示することしかできないかもしれませんが、僕の学んでいる社会学はそうではありません。イエスのように、弱者に寄り添い、その立場にたって問題を本質的に解決しようとします。」

寮長「それはそうかもしれませんが、問題は社会学という学問が人を変えられるかということです。これは先ほどの話し合いで人を変えられるかという問題と同じ問題で、結局は言葉によって人が変えられるかという問題に帰着します。もし言葉によって人を変えることができるなら、イエスが十字架にかかる必要などなかったでしょう。神の言葉である律法さえも人を変えることができなかった。ましてや人間の言葉が人を変えられるはずがない。だからこそイエスは十字架にかからなければならなかったのです。」

So君「世の中には、本質的な解決を待つことのできない緊急な問題がたくさんあります。そのような問題に対しては、対症療法が必要でしょう。大切なのは、それを行うときに、これは対症療法に過ぎないという自覚を持ち続けることだと思います。」

寮長「その通りだと思います。」

Ya君「イエスを追い詰めればイエスが反撃に出るとユダはどうして思ったのでしょうか。ユダがそのように推測する根拠はあまりないと思うのですが。」

寮長「これは鋭い質問ですね。確かに今までのイエスの教え(敵を愛しなさい)からするとイエスが反撃に出るとは想定し難い。加えて、イエスは繰り返し「自分は殺される」と言っていました。つまりイエスには全く反撃に出る気がなかったのです。しかしだからこそユダは焦った。このままでは王国建設の夢は挫折してしまう、何とかしなければと。そこでユダはだめもとの賭けに出たのです。イエスをぎりぎりまで追い詰めれば、ひょっとすると反撃に出るかもしれないと。ですから、追い詰めればイエスは反撃に出るというユダの考えは、計算された合理的な構想ではなく、土壇場で思いついた賭博的な構想だった。だからこそ、そのように考えるユダの根拠は希薄なのです。」

Ue君「かりにイエスが反撃に出て、弟子たちが戦い始めたとしたら、ユダは完全に裏切り者になってしまうわけですよね。それを覚悟のうえでこのような裏切りに出たのだとすれば、ユダはすごい人だということになります。」

寮長「確かにすごい人だと思います。しかしだからこそユダは危険なのです。自分が裏切り者の汚名をかぶってまで戦争を起こそうとする、テロリスト的な要素がある。しかし、君の質問で、ユダの熱い接吻のさらに深い意味が分かったような気がします。ユダは熱い接吻によって自分の裏切りは表面的なものでしかなく、本当はあなたの王国をつくるためにやむを得ず裏切ったのだということを伝えようとしたのではないでしょうか。もしこの思いが伝わるなら、後に裏切り者として糾弾されたときに、イエスから弁護してもらえますから。きっとこれがあの接吻の真意でしょうね。」