復活問答(小舘)

2023年10月8日春風学寮日曜集会

聖書個所 マタイによる福音書22:23-33

1.解説

22:23 その同じ日、復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスに近寄って来て尋ねた。

*「サドカイ派の人々」とはどういう連中か。「ヘロデ派の人々」はローマ帝国と協力することで、ユダヤ地方の政治的な権力を掌握した人々であったが、「サドカイ派の人々」もローマと妥協して自身の権力を拡大していった人々である。ただし彼らが目指したものは政治的権力の拡大ではなく、宗教的な権力の拡大であった。彼らはローマ帝国の主権を認めることによってエルサレム神殿とそこで行われる儀式をつかさどる権力を手に入れ、その権力を通じて莫大な富を手に入れた。神殿を強盗の巣にしていた張本人は彼らなのだ。

・彼らについて知っておくべきもう一つのことは、彼らが全くのリアリストであったということだ。彼らは宗教的権力を手中にしていながら、宗教的なこと(霊的なこと)は一切信じてなかった。復活だとか神の国だとか神の霊だとか救世主の到来だとか、そうした超現実的なことを全く信じていなかったのだ。

・それはそうであろう。富も権力もあり、この世の快楽をほしいままにできる人たちがどうして超現実的なことを望むであろうか。この世に満足しきっている人たちは必然的に超現実的なこととは無縁になるのである。それならそれでよいのだが、彼らの悪いところは、宗教者のふりをし、他者の宗教心を利用するところだ。彼らは自分たちでは信じていないものを民衆に信じ込ませることによって金儲けをしていた。これこそ彼らの赦しがたい点である。

*そのような彼らがなぜイエスのところにやって来たのであろうか。イエスが徹底的に超自然的だったからである。イエスは神の国の到来を説き、自分が救い主であるかのようなことを言い、霊的力によって人々の病を次から次へと直した。このような人間が活躍すれば、神殿に儀式をやりに来る人などいなくなってしまう。神殿で生け贄を捧げる人などいなくなってしまう。人々はみな神殿を素通りしてイエスのもとに集まってしまう。事実そうなりかけていた。だからこそ「サドカイ派の人々」もまたイエスを打ち倒しにやって来たのである。

22:24 「先生、モーセは言っています。『ある人が子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。

*ここで「サドカイ派の人々」が引き合いに出しているのは申命記に書かれてあるレビラート婚という制度である。

25:5 兄弟が共に暮らしていて、そのうちの一人が子供を残さずに死んだならば、死んだ者の妻は家族以外の他の者に嫁いではならない。亡夫の兄弟が彼女のところに入り、めとって妻として、兄弟の義務を果たし、

25:6 彼女の産んだ長子に死んだ兄弟の名を継がせ、その名がイスラエルの中から絶えないようにしなければならない。

 要するに夫が死んだらその妻は、夫の家名を残すために、夫の弟と再婚しなければならないということである。ここには個人の恋愛の自由など全くない。女は家名を残すための手段として扱われている。なにゆえにこのような制度が設けられたのか。

少数民族であるイスラエルにとっては民族の存続が至上命題であった。民族を存続させるためには、それぞれの氏族を存続させなければならない。それぞれの士族を存続させるにはそれぞれの家族を存続させなければならない。かくしてイスラエル(ユダヤ人)の間には個人の恋愛の自由や女の人権などは無視して家名を存続させるためのレビラート婚制度が出来上がったのだと言われている。事実ユダヤ人はこの律法をそのように解釈して、イスラエル民族の存続を至上命題として生きてきた。サドカイ派の人々もそのように解してこの掟を重視してきた。

・しかし神の思いはどうだったのであろうか。もしこの掟を定めたのが神であるなら、そこにはもっと正しい理由があるはずだ。しかし話がそれるのでここでは、この問題には深入りしないことにする。

・それよりもここで考えるべきことは、「サドカイ派の人々」がいったいなにゆえにこのような制度を引き合いに出してきたのかである。彼らはこのような質問をイエスにぶつけることによってどのようにイエスを陥れようと思っていたのであろうか。以下を読めば理解できる。

22:25 さて、わたしたちのところに、七人の兄弟がいました。長男は妻を迎えましたが死に、跡継ぎがなかったので、その妻を弟に残しました。

22:26 次男も三男も、ついに七人とも同じようになりました。

22:27 最後にその女も死にました。

22:28 すると復活の時、その女は七人のうちのだれの妻になるのでしょうか。皆その女を妻にしたので。」

*7人という数にこだわる必要はない。7はユダヤ文化では完全数だから、ユダヤ人は何かを強調するときに7を使うのが好きなのだ。重要なのは、レビラート婚を実践していった場合、もし復活があるならば、女はそのときには複数の夫を同時に持つことになるということである。これでは、夫たちの間で争いになるではないか。加えて、女は姦淫の罪を犯すことになる。こんなことを神様がお許しになるはずがない。神様は復活など想定していないから、レビラート婚を定めたのではないか、とこれが「サドカイ派の人々」がイエスに突き付けた難問である。

22:29 イエスはお答えになった。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。

22:30 復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。

*「神の力」は私たちの想像を超えている。このことをイエスは一貫して訴えている。それに従って、聖書に記されていることも絶えず私たちの理解を超えている。だから私たちは聖書の言葉に込められた神様の真意をなかなか見抜くことができない。それゆえに神の力や聖書の言葉を自分の常識の範囲内で理解しようとし、つまらない解釈をほどこしてしまう。自分の目の前の現実にしか目を向けない「サドカイ派の人々」は特につまらない解釈をほどこす連中であった。だからこそイエスは彼らに対して「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている」と述べて、彼らの誤解を正そうとする。いや、彼らの自分の常識に基づいて神を判定しようとする態度自体を正そうとしているのだ。

・では「神の力」はどれほどのものなのか。死んだ私たちの身体を復活させ、そして単に復活させただけでなく「めとることも嫁ぐこともない」「天使のような」体にしてしまうほどなのだ。つまり人間をして今の肉体の状態とは別の、完全な肉体へと進化させるほどなのだ。パウロはコリント人への手紙一で次のように説明している。

 15:42 死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、

15:43 蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、 強いものに復活するのです。

 15:44 つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。

 「朽ちないもの」、「輝かしいもの」、「強いもの」、「霊の身体」といろいろな表現を使っているが、要するにそれは私たちの想像を絶するほど完全な肉体である。「神の力」は私たちを復活させ、更には私たちの想像を絶するほど完全な肉体を与えるほどのものなのだ。

・イエスはここで、自分の限られた現実の知識に基づいて復活後の状態を想像しようとする「サドカイ派の人々」の態度を根本的に突き崩そうとしているのだ。

22:31 死者の復活については、神があなたたちに言われた言葉を読んだことがないのか。

22:32 『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」

22:33 群衆はこれを聞いて、イエスの教えに驚いた。

*旧約聖書には概して復活に関する記事はない。来世における神の国に関する記事もない。旧約聖書は概して現世的なのだ。神の裁きに関する記事も現世的である。旧約聖書は、神の裁きは最後の審判の日に下されるとは考えず、現世において歴史の中で下されると考える。

・ところがイエスは、思いもよらぬ旧約の個所を引用して、これこそ復活に関する記述だと言う。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』という言葉こそが、死者の復活の記述であると。いったいなぜこれが復活を示すのか。その論法はこうだ。《もしアブラハムやイサクやヤコブが死んでしまっているのなら、神様がこのように自己開示をしても何の意味もない。彼らが生きていればこそ、神はこのような自己開示をしたのだ。この言葉のアブラハムやイサクやヤコブを死者と考えるなら、それは神の力への過小評価であり、神への冒涜になる。》

・このような論法は現代の私たちを納得させることこそできないが、当時のユダヤ人には重みのあるものであった。なぜなら、神の力を過小評価することは、ユダヤ人の最も嫌うところであったから。事実「群衆はこれを聞いて、イエスの教えに驚いた」と記されている。

*もし旧約で神様ご自身が復活に言及しているとなると、復活を否定する「サドカイ派の人々」は窮地に立たされることになる。復活を否定することによってまさしく神の力を過小評価していることになるからである。イエスはあくまで彼らの現実本位の神観を突き崩そうとしているのだ。

2.メッセージ

今回の個所で考えるべきことは、復活ははたしてあったのか、復活とはいかなるものか、イエスは自分が復活すると知っていたかの三点である。

①イエスの復活はあったのか

 証明することは不可能だが、これについてはあったと判定せざるを得ない。コリント人への手紙一でパウロはこう書いている。

15:3 最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、

 15:4 葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、

 15:5 ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。

15:6 次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。

この言葉は伝承ではない。直接的な証言である。この証言を作り話であると片づけることには無理がある。

 しかしこの証言よりもさらに確かなことは、イエスの弟子たちが大変身を遂げたことである。イエスが十字架にかけられたときには、全員が十字架にかけられることを恐れて逃げ出してしまった。ところが、復活があったとされる日の後には、彼ら全員が十字架刑をも恐れぬ勇者たちに変身している。彼らが復活のイエスに実際に出会わなかったとしたら、このような変身は起こり得まい。

②復活とはいかなるものか

 新約聖書に書かれている復活には二種類の復活がある。一つはこの世における生前の姿での復活。これはイエス・キリストから最後の審判を受けるために全人類に引き起こされる仮の一時的な復活である。もう一つは先に引用したような完全な肉体を与えられる復活。これは、イエス・キリストの最後の審判によって無罪とされた者が与えられる恒久的な真の復活である。

 真の復活を許された者は、それぞれの個性をとどめたまま肉体は完全となり、それぞれの個性をとどめたまま、人格も完成させられると言われる。人格の完成とは、イエス・キリストのような徳(愛と義)が人格に備わることである。

 現代人の私たちの感性からすれば、すべてはおとぎ話のような話である。だから無理して信じる必要は全くないのだが、先にも述べたように神様の力が私たちの常識を超えているという視点から考えることが重要である。私たちの命を創造した神様であれば、その命をさらに進化させていく可能性は十分にある。自分の常識や感性を重んじつつも、それがすべてではないということを「サドカイ派の人々」の過ちから学んでおくべきであろう。

③イエスは自分が復活すると知っていたか

 現在聖書学で最も熱く議論が交わされているのはこの問題であるかもしれない。

イエスは聖書の中で何回も自分が復活すると述べている。今日の個所でもイエスは完全に自身の復活を知っている者として発言している。「ヨハネによる福音書」に至っては、自分は永遠の命の泉であり、永遠の命の光であるとまで言っている。これらの記事をそのまま受け入れるなら、イエスが自分の復活を知っていたと考えざるを得ない。

 他方、イエスは十字架上では「わが神わが神なぜ私を見捨てたのですか」と述べ、絶望を表明している。また十字架にかかる直前のゲッセマネの祈りにおいては、死の恐怖のあまり滴るほどの汗を流している。もし自分が復活すると知っていたなら、イエスはこれほどに苦しまなかったであろう。これらの記事を重視するならば、イエスは自身が復活することを知らなかったと考えざるを得ない。

 いったいどちらが真実なのであろうか。最近の研究では後者が優勢である。その理由は以下の三つ。①イエスの「自分は復活する」という言葉はすべて後のキリスト教徒による挿入である可能性が高い。②イエスは人間として生きたのだから、未来のことを全て知っていたはずがない。③自分が復活すると知っていたとすれば、十字架の苦しみもゲッセマネでの苦しみもすべて茶番になる。

 しかし私は、イエスはやはり自分が復活することを知っていたのだと思う。その主な理由は、イエスが神の国の到来を確信していたことと、山上の垂訓の言葉がこの世のものとは思いがたいことと、そして数々の癒しの奇跡である。神の国の到来を確信していたイエスであれば復活や永遠の命を信じることはごく自然なことであろうし、山上の垂訓のような言葉(神の国はあなたがたのものだ、敵を愛しなさい)は復活を信じていなければ語れない。更に数々の奇跡を実践したイエスであれば神の力がどれほどすごいものかは思い知っていたであろう。これらのことからすればイエスはどう見ても復活を知っていた判断せざるを得ない。

 それでは復活を知っていたイエスが、なぜ十字架やゲッセマネでは絶望的な苦しみを吐露したのか。すべての問題を解く鍵はここにある。思うにイエスは、復活を確信する霊的信仰と同時に人間としての肉の弱さを持っていたのではないだろうか。いくら復活すると確信していても、十字架にかけられるのはやはり恐ろしく、苦しいことである。霊的確信とは別にある肉の弱さがイエスをしてゲッセマネで汗を滴らせ、十字架上で「なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫ばせたのではないだろうか。

 こう考えてこそイエスの真価が見えてくる。イエスの真価とは人間と神をつなぐことである。イエスが人間の弱さを超えたスーパーマンであったら私たちはイエスに何の共感も覚えないであろう。他方イエスが復活のことを知らぬただの人間であったら、これまたやはり共感を覚えないであろう。私たちと同じ弱さを持ちながら、霊的確信を持つ神の子であるからこそ、私たちはイエスに共感し、そこに人間と神の接点を見出し、救いを見出すのだ。

 イエスは神であり人であった。この矛盾が復活を知りながら絶望的に苦しんだという事態に現れたのである。このようなイエスであればこそ、絶望に陥った人々と寄り添い、かつ救うことができるのだ。

 このことの偉大さは、生活が順調に進んでいる人にはわからない。ましてや「サドカイ派の人々」のように現世で富や権力や快楽を享受している人にはまったくわからない。この世において絶望のどん底に落ちた者だけが理解できる。いや本当に体験することができる。例えば、戦争や災害や病気で家族を亡くしたとき、あるいは自分が死に直面しているとき、十字架上のイエスが傍らに寄り添ってくれることを体験することができる。そしてそのときに、初めてイエスのように私たちも復活すると思えるようになる。そのときに救いが実現するのである。

 十字架と復活、それはどんな絶望からも人を救い上げることができる神の力の究極の発動である。

3.話し合い

O君「今日の話には感動させられました。自分が復活すると知っていても、苦しみがなくなるわけではありません。弱い人間として生きている以上苦しみや悲しみがなくなるわけではない。そういうイエスの姿に心を打たれます。ゲッセマネの祈りや十字架上でのイエスの叫びの意味がより深く理解できたように思われます。」

寮長「今日のメッセージを正面から受け止めてくれたようでうれしいです。」

K君「キリスト教徒の人からよく復活を信じろと言われますが、そう言われたところでそう簡単に信じられるものではありません。今日の話にも合ったように、年齢を積み重ねて、絶望的苦しみを体験して、初めて受け入れられるのが復活だと思います。僕はまだそのような段階にはありません。」

寮長「謙虚でいいですね。自分の立ち位置がちゃんとわかっている。これでいきなり、復活を信じますと言われても怖いです。その人の常識や理性を疑ってしまいます。復活信仰は理性や常識に反するものではなく、理性や常識を超える魂の働きですから。」

B君「僕は復活を信じることができませんが、現代の人々の心にはイエスの思想や思いが流れていて、今なお人の心を突き動かしています。こういうこともイエスが復活したことの一部なのでしょうか。」

寮長「そうだと思います。キリスト教徒は、イエスの霊が人の心に宿り、その人の心を突き動かすと考えます。これはキリストの霊的復活ですね。こちらの方は断然受け入れやすし、リアルです。イエスの弟子たちが大変身したのも、イエスの霊的復活の働きですね。しかし、復活の本丸は肉体の復活です。こちらはなんとも受け入れがたい。これを受け入れられるようになるのは、やはり死の苦しみを味わった後でしょう。」