残酷な農夫たち(小舘)

残酷な農夫たち

2023年7月2日春風学寮日曜集会

聖書個所:マタイによる福音書21:33~46

 

1.解説

21:33 「もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。

*イエスは今どこにいるのか。この直前にこうある。

21:23 イエスが神殿の境内に入って教えておられると、祭司長や民の長老たちが近寄って来て言った。「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか。」

この言葉によるなら、イエスは再びエルサレムの神殿に舞い戻ってきて、神殿で教えを述べているのだ。当然、神殿の権力者はイエスを排除しに来るはずである。事実権力者の中枢である「祭司長(=大祭司)と民の長老たち(律法学者やファリサイ派の人々)」が出てきた。しかしここで疑問が生じる。果たして、権力の中枢にある人たちが自ら境内まで降りてくるなどということがあるだろうか。普通なら、衛兵か何かを使ってイエスを排除するのではないか。

・しかし、イエスのこれまでの言動をふりかえるならその理由が分かってくる。イエスは、驚くべき教えを述べ、無数の癒しの業を行い、群衆を魅了してきた。そして数日前には、群衆を引き連れて王のごとくエルサレムに入ってきた。このようなイエスの実力を目の当たりにした神殿の権力者たちは、イエスの正体を見極めざるを得なくなったのだ。果たしてイエスは、救い主なのか、それともただの反乱者なのか。

・こうして彼らは、イエスに問う。「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか。」しかしイエスは例によって、この問いには直接答えず、逆に問い返したり、たとえ話を述べたりするのである。

・というわけで、今日のたとえ話は、イエスが神殿の権力者たちに行ったものというのがマタイの設定である。そこで一先ずは、このマタイの設定に基づいて、解説していこう。

*「主人」はもちろん神様であり、「ぶどう園」はイスラエルの民である。そして「農夫たち」とは神殿の権力者たちである。神様は、完璧な環境を整えた上で、イスラエルの民の養育を神殿の権力者たちに委ねた、とこれが「垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た」という言葉の意味である。

21:34 さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。

21:35 だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。

21:36 また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。

*「僕たち」とは旧約聖書に登場する預言者たちのことである。神様はイスラエルの民がきちんと育っていることを確認しようと、預言者を何人も神殿に遣わした。ところが神殿の権力者たちは、少しも義務を果たしていなかったから、預言者たちを殺してしまう。彼らはだ。「農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した」とはそのことである。

21:37 そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。

21:38 農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』

21:39 そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。

*「わたしの息子」とはイエスのことである。神様は独り子のイエスを送って、神殿の権力者たちを悔い改めさせようとするが、神殿の権力者たちはイエスを神の子とは認めず、イエスを十字架にかけて殺してしまう。「息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった」とはこのことである。

21:40 さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」

21:41 彼らは言った。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」

*たとえ話を終えたイエスは、神殿の権力者他たちに質問する。イエスは「ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか」と。神殿の権力者たちにはもはや「農夫たち」が自分たちのことを指していることに気付いていたであろう。にもかかわらず、イエスの誘導的な問いのゆえに「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない」と答えざるを得なかった。これは、事実上彼らの罪の告白である。イエスは彼らがこの罪の告白を心より自分のものと考え、悔い改めることを願って、敢えて彼ら自身にたとえ話の結末を答えさせたのだ。イエス独特の論法だ。

21:42 イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、/わたしたちの目には不思議に見える。』

*そこでイエスは畳みかけるように言う。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか」と。「家を建てる者」とは神殿の権力者たちのこと。「石」とはイエスのこと。「隅の親石」とは壁と壁の間に置かれる家の土台となる石であるが、これは神の国の中心という意味である。つまりイエスは、神殿の権力者たちの捨てた自分こそが神の国の中心になる、それが神の御心なのだと言っているのだ。驚くべき発言である。

21:43 だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。

*神の国の中心となるイエスを捨ててしまったのだから、神殿権力者の神殿はもはや神の国ではなくなってしまう。神の国は、イエスを受け入れる他の民族に建てられることになる。「ふさわしい実を結ぶ民族」とは、イエスのメッセージを受け入れて、悔い改める民族。神の前に立って自己中心性をふりかえり続ける民族である。

21:44 この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」

*イエスを捨ててしまう者は、命を失い、滅びの道を歩む。それは、神の前に立って悔い改めることを拒否する者であるからだ。このことを言い換えた言葉こそ、上記の言葉である。

21:45 祭司長たちやファリサイ派の人々はこのたとえを聞いて、イエスが自分たちのことを言っておられると気づき、

21:46 イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者だと思っていたからである。

*神殿の権力者たちは、もはや冷静な判断力を失っている。彼らは、イエスが救い主であるかどうかを見極めるためにわざわざ境内まで降りてきたのに、イエスから強烈な批判を浴びせられたために、怒りと憎しみにのみ込まれてしまったのだ。

・にもかかわらず彼らはイエスを捕らえはしなかった。「群衆を恐れた」からだ。このことは、彼らの根本的動機が真理追求にはなく、自己保身にあることを雄弁に物語っている。

 

2.全く別の解釈

 以上は、マタイの設定に基づく解釈である。ところが、イエスのこのたとえはこのような脈絡で語られたのではないとする有力な解釈が現れ、その解釈が多くの人に受け入れられつつある。以下、その解釈を紹介しよう。

 そもそも、この農夫たちはなぜこれほどまでに残虐で、道理が分からないのであろうか。農夫たちが主人の僕を皆殺しにする動機はいったい何なのであろうか。そんなことをするより、素直に収穫を渡し、賃金をもらった方がよほど得である。さらに彼らは主人の息子までも殺してしまう。そのようなことをしても相続権を得ることは不可能である。ところが彼らは、『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう』と非現実的なことを言っている。エルサレムの神殿権力者たちはそれほどに愚かだったのであろうか。彼らは神殿の権力者というよりは、殺人鬼かテロリストに近い。

加えて「主人」の行動も不可解である。いったいなぜ彼は突然旅に出てしまうのだろうか。なぜ自ら戻ってきて事態を収拾しようとせず、僕や息子に処理を委ねるのであろうか。旅に出たまま帰ってこずに大問題の処理を僕や息子まかせにしてしまう態度は神にふさわしくない。

 ところが、これらの疑問も、当時ガリラヤ地方で起こっていたある出来事を背景にして別の解釈を施すなら、ことごとく氷解するのである。その出来事とは、熱心党の反乱である。

 当時のガリラヤ湖周辺の土地のほとんどは外国人の所有下にあった。ローマの支配下にあるのだからそれも当然だろう。外国人の地主は普段は自国にいて、ガリラヤの領地の管理は地元の者に任せ、収益だけを受け取る。このたとえの「主人」が旅に出るのは、彼が外国人の地主だからなのだ。

 そこに、熱心党と呼ばれる集団が現れた。この集団がいつ結成されたのかは不明だが、ユダヤ地方がローマ帝国の支配下にはいるとともに勢力を拡大していったことは確かである。彼らは自分たちユダヤ人こそを神に選ばれた選民であると考える排他的国粋主義的信仰の持ち主である。だから彼らは、暴力を用いて外国人をユダヤ地方から排除しようとする。事実、彼らはあらゆる手段を用いて外国人地主から土地を奪い返そうとした。かくしてガリラヤ地方には、紀元6年、いわゆる熱心党の反乱が勃発することになるのである。今日の個所に登場する残酷な農夫たちとは、実は、外国人地主から土地を奪い返そうとする熱心党の人々のことなのである。こうした視点からこのたとえを読み直すならば、すべての疑問が氷解する。農夫たちはなぜこれほどまでに残酷なのか、なぜこれほど道理が分からないのか、なぜ息子を殺しても土地が手に入ると思っているのか、なぜ主人は領地をいつまでも留守にするのか。これらの不思議な事態は、このたとえが外国人地主を追い出して土地を取り戻そうとする熱心党の人々を描写したものであるがゆえに生じたことであったのだ。

 だとすると、このたとえはいったい誰に対してどのような目的で話されたものか、改めて疑問に思えてくる。いったいイエスはこのたとえを通じてだれに何を伝えたかったのであろうか。しかしこの疑問も、イエスの教えや行動をふりかえってみるならば、理解できる。イエスは復讐してはならないと教え、敵を愛しなさいと教えた。イエスは力で支配しようとせず、神にすべてを委ねることによって勝利しようとした。これらの教えと、行動からすれば、このたとえ話のメッセージは明らかであろう。暴力によって神の国を作り上げようとしても無駄だと伝えたかったのだ。それどころか、暴力で神の国を作ろうとするなら、天罰が降ると伝えたかったのだ。そのことを、熱心党を支持する愛国的ユダヤ人たちに伝えたかったのだ。

 

3.メッセージ

①聖書の二つの読み方

 今日の個所から学ぶべき第一のことは、聖書の読み方には大きく分けて二つの読み方があるということだ。一つは直接の筆者(今日の個所の場合にはマタイ)の視点に立って読む読み方。もう一つは実際のイエス・キリスト(史的イエス)の視点に立って読む読み方。前半の解釈は直接の筆者マタイの視点に立ち、マタイが何を伝えようとしたかを解読したものだ。他方、後半の解釈は史的イエスの立場に立ち、実際のイエスが何を伝えようとしたかを解読したものだ。マタイによる福音書が書かれたのは紀元80年ころであり、イエスが実際にこれらの言葉を語ったのは紀元30年ころである。したがって両者の間には50年の開きがある。当然両者の伝えようとするメッセージも異なってくる。いったいどちらが正しい読み方か。もちろん、史的イエスの立場に立って読むべきである。

 しかし、史的イエスの立場に立って読むことは、一般の読者には難しい。当時の歴史や文化的背景、聖書の内容をよほど綿密に研究しないかぎり、史的イエスの立場に立つことなどできないからだ。では私たちはどのように聖書を読めばよいのか。たいていは、筆者(マタイ)の立場に立って読めばよい。聖書の筆者も聖霊に動かされて書いているのだから、彼らが大筋において間違うことはない。

 しかし、どう見てもおかしい場合がある。今日のたとえ話(残酷な農夫が主人の僕と息子を皆殺しにしてしまう)はどう見てもマタイが伝えようとしているメッセージ(神殿の権力者が預言者やイエスを受け入れずに殺してしまう)とちぐはぐである。そのような場合には、苦労してでも史的イエスを探り当てなければならない。もしそれに成功すれば、非常に豊かなメッセージが与えられる。では、今日の個所からはどのようなメッセージが得られるのか。

 

②力で理想の集団は作れない

 一つ目は、力によって理想の集団は作れないということである。力によるなら一時的に秩序を作り出すことができる。しかしそのようなものはすぐに崩壊してしまう。バビロニア帝国、アッシリア帝国、ペルシア帝国、そして自分たちのダビデ王朝・・・。すでにユダヤ人たちはそのことをいくつも体験していた。にもかかわらず、熱心党のユダヤ人たちは再び力によって神の国を作り上げようとした。なぜ人は歴史から学ばないのだろうか。この後、ユダヤ人のほとんどは熱心党を支持し、ローマ帝国との全面戦争に突入する。その結果エルサレムは紀元70年に滅んでしまうのである。

 国家だけではない。あらゆる集団を力で維持することは不可能である。軍隊であれ、学生寮であれ、集団は力では維持されえない。集団を維持するものは、やはり高邁な理想(価値観)と相互の信頼なのだ。この二つが目指されている限りその集団は維持される。理想の集団はこの二つを目指し続けるうちに自ずから出来上がっていくものなのだ。そして、この二つを実現していく基礎となるものこそ、神の前に立ち、悔い改める個人である。イエスは、命を懸けてこのことの大切さを伝えようとした。

 

③中心になる者

 ぶどう園の農夫のたとえが、熱心党を支持するユダヤ人を諫めようとしたものだとするなら、続く石のたとえも全く別のメッセージを伝えようとしていることになる。そのメッセージとは、神により頼むだけの無力の者こそが理想の集団を作り上げる中心となるということである。

 「家を建てる者の捨てた石」とは、イエスのことではない。イエスはまだ十字架にかけられてはいないのだから。だとすれば、それは何を表すのか。残酷な脳のたとえとの脈絡に従って読むなら、それは一切の力を行使せず、神により頼む者である。だから、そのような石が「隅の親石となった」とは、神により頼むしかない無力な者が神の国(理想の集団)の中心になるということである。

また、「この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう」とは、神により頼む無力な者を虐げる者は逆に自分が滅ぶことになり、神により頼む無力な者から支持されない者も滅びの道を歩むということである。

 だから、自分が無能で無力だからと言って嘆くべきではない。むしろそのような人間こそは、理想の集団の中心として神に用いられていくのである。使徒パウロは、「弱さを誇れ」と繰り返し言っているが、その心はまさしく神が無力な神により頼む以外にない者を用いて神の国(理想の集団)を作ろうとするからなのだ。

 逆に、有能で力ある者は決してそのことでおごり高ぶるべきではない。彼らが生かされる唯一の道は、無力無能な者と共に絶えずあることなのであり、さもなければ滅びの道を歩むことになるのだから。

 

④神の意志と理の必然

 無力無能な者が理想の集団の中心になるということは、実に不思議なことである。だからこそ、イエスは「これは、主がなさったことで、/わたしたちの目には不思議に見える」という詩篇118篇23節の言葉を引用した。

 ここにこそもう一つ学んでおくべきメッセージがある。それは、神が理の必然と意志的介入の二つの方法を用いて人類を導くということだ。神により頼むしかない無力な者が理想の集団の中心になるということは、ある意味で理の必然である。力ある有能な者はごく少数派であり、彼らは必然的に多数の無力な者に頼らずには存続しえないからだ。ヘーゲルが明らかにしたように、いかなる権力者も結局は無力な民衆に依存しているのである。そしてこのような、見た目と異なる理の必然は、神が人類を導く際の方法の一方である(理神論はこの立場からのみ神を見る)。

 しかし神は理の必然のみよって人類を導くわけではない。必然を超えた特別な介入によっても人類を導くのである。だから、神により頼むしかない無力な者が理想の集団の中心になるということは、単に理の必然によってそうなるだけでなく、神が意志的介入によってそれを実現していくのである。例えば、神にひたすらより頼むことによって死んだイエスは、復活して弟子たちの前に現れた。これは理の必然ではない。神の意志的介入に基づく特別な出来事である。この特別な介入があればこそ、神により頼むしかない無力な者が理想の集団の中心になるということが加速していったのである。

 このように、神は理の必然と意志的介入の両方によって人類を導いていく。だから、歴史の展開をある程度予測するためには、理の必然と神の意志の両方を学ぶ必要がある。そして理の必然を学ぼうと思うならヘーゲルが、神の意志を学ぼうと思うなら聖書が一番である。

 

 

話し合い

K君「『カラマーゾフの兄弟』の大審問官のところを思い出しました。大審問官は、自分たちはきちんと民衆のことを指導してきたのに、今更やってきて秩序を乱すなとイエスのことを批判するのですが、その大審問官にイエスはキスをします。今日の個所でもイエスは、神殿の権力者たちを単に批判するだけでなく、自ら悔い改めへと導こうとしている。」

寮長「大審問官は民衆に諦めを教え、彼らの心に安定を保っていると思い込んでいる。だから、民衆の心に希望を宿らせるイエスが現れると困るわけです。それで、イエスのことを激しく批判する。そんな大審問官をイエスは大きな愛で包み込む。本当のイエスは、きっと神殿権力者たちをも大きな愛で包み込んだことでしょう。」

O君「イエスは少なくとも自分が殺されることを知っていたでしょうから、自分が殺されることがたとえ話に含まれている可能性は大いにあります。だから、殺された息子や捨てられた石をイエス自身とみる解釈も成り立つのではないでしょうか。」

寮長「成り立つでしょう。しかし問題なのは、そう解釈すると、今日の個所はユダヤ人の神殿権力者たちを否定して、イエスを受け入れたキリスト教徒を肯定する話になってしまうということです。これは確かにマタイの言いたかったことでしょうけれど、イエスがそういうことを言ったかったかとは思えません。だから、私は史的イエスを念頭に入れた新解釈を取るのです。」

S君「もし、主人が神様で、農夫たちが神殿権力者たちであったとすると、神殿権力者はイエスが神の子であると知っていて殺したことになります。『これは跡取りだ』と言っているのですから。」

寮長「その通りです。この農夫たちが神殿の権力者だとすると、彼らは神の子であると承知で、イエスを殺したことになる。そんなことがありうるのでしょうか。ありえないでしょう。だとすると、このたとえはやはり、神殿権力者たちを描いたものではないと考えるべきでしょう。」

G君「僕には、熱心党の人たちをベースにした解釈の方が腑に落ちました。高校の剣道部の時にとても強い人がいて、その人は剣道ができるから何をやってもよいと思っていました。そうなると、強い人が部を支配するという風潮が出来上がり、弱い人や後輩たちは奴隷のようにこき使われました。力で支配しようとする集団は、本当に死の集団です。」

寮長「この寮も同じです。力で問題を解決しようとするなら、どんどん事態は悪化していきます。そうならないように互いに気をつけ、力以外で解決する方法を模索し合っていきましょう。」