救い主はロバに乗って(小舘)

2023年6月11日春風学寮日曜聖書集会

聖書 マタイによる福音書21:1~11

1.解説

 

21:1 一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、

21:2 言われた。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。

21:3 もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」

*ベトファゲがどこなのか正確にはわからないが、エルサレムの近くであることは確かである。今やイエスは、エルサレムに乗り込み、十字架にかかろうとしている。

*「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる」という言葉は、まるでイエスが未来を見抜いているかのような言葉であるが、そういうことではあるまい。イエスは、神の御心に沿う行動をとるなら、神様は全てを整えてくださると信じていたのだ。

*「それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる」という言葉も異様に思われる。これは泥棒行為ではないかと。しかし、この言葉も神の御心に沿う行動をとるなら、神様は全てを整えてくださるという確信に基づくと考えるなら理解できる。イエスは神様がロバの持ち主の心を寛大にしてくださると信じていたのだ。

21:4 それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。

21:5 「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、/柔和な方で、ろばに乗り、/荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」

*筆者のマタイは、ユダヤ人の読者を説得することに主眼を置いているので、イエスの行動は全て旧約聖書の預言の成就であると主張し続ける。世界一頑固なユダヤ人を説得する唯一の方法は、旧約聖書の原理に基づいてイエスを正当化することだからだ。

・このような方法がどれだけ有効であったのか疑問であるが、にもかかわらず、マタイが旧約から引用する言葉は事態の本質を的確に表すものである。王が「柔和な方」で「ろば」に乗ってくるという表現は、なんとイエスの十字架への道をよく表していることであろうか。

*と言われてもわかりにくいであろうから、その意味を説明しよう。「シオンの娘」とはエルサレムの市民たちのことである。彼らは救い主の到来を待っているわけだが、彼らの求める救い主とはローマ帝国やサンヘドリンの支配から自分たちを解放してくれる力強い、馬に乗った王である。ところがイエスはそのような王ではない。「柔和」で「ろば」に乗ってやってくる王なのだ。

・「柔和」とはどういうことか。日本語では単に穏和というほどの意味であるが、原語のヘブライ語のynI[

は、弱く貧しいゆえに神により頼む他なく、神に従順であるという意味である。つまりこの言葉は、王とは正反対の奴隷的資質を表す言葉なのだ。「ろば」とはどのような動物か。それは重い荷物を負わされても、じっと耐え忍んで働く従順な動物である。これまた奴隷的資質を表す言葉である。

・そしてイエスは、そのような奴隷的資質によってこの世界を支配しようとする者なのだ。力で支配することによってではなく、従い仕えることによって世界を支配しようとする者なのだ。だとすれば、「ろばに乗った柔和な王」という表現は、イエスの本質を見事に表現した言葉ではないか。

21:6 弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、

21:7 ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。

*「ロバ」が調達できたということは、神様がイエスに協力してくれているということである。つまりイエスのやろうとしていること(奴隷的資質によってこの世界を支配しようとする)が神の御心にかなっているということである。

*「服をかける」という行為は、王への敬意を表明する行為である。その上にイエスは乗った。イエスは今や、王になろうとしている。奴隷となることによって世界を支配するという最弱にして最強の王に。

21:8 大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。

21:9 そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」

*群衆たちも道に服を敷いた。イエスを王に担ぎ上げたいのだ。「木の枝を切って道に敷いた」というのが何を意味するのか、全く不明である。注解書の多くは、この言葉について沈黙している。これも歓迎を表すのであろうと類推されているだけだ。

*「ダビデの子」とは救い主のこと。ダビデの子孫から救い主が出ると旧約聖書では預言されている。「ホサナ」は元々は「お救い下さい」という意味だが、「栄光あれ」という賛美の意味に使われるようになった。つまり「ダビデの子にホサナ」とは、「救い主に栄光あれ」という意味である。

・「主の名によって来られる方」というのも来るべき救い主という意味。

・「いと高きところにホサナ」は「天にいらっしゃる神様に栄光あれ」という意味。救い主を遣わしてくださった神様に感謝と賛美を表明しているのだ。イエス自体を神格化せず、絶えず神様が中心であると考えるところにユダヤ人の偉大さがある。

*しかし、ここで重要なことは、群衆の誰もが救い主のことをダビデのような王であると思い込んでいることだ。ダビデは、周辺民族を戦争によってことごとく屈服させた力の王である。群衆は、イエスをダビデのごとき力の王と思い込み、ほめたたえているのだ。

21:10 イエスがエルサレムに入られると、都中の者が、「いったい、これはどういう人だ」と言って騒いだ。

21:11 そこで群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言った。

*エルサレムじゅうの人々が「いったい、これはどういう人だ」と言って騒いだとある。彼らは、イエスを救い主として受け入れるべきか否かで騒然となったのだ。ほとんどパニックになったと言ってよいだろう。なぜか。

*実はこのとき、もう一つの集団がエルサレムに向かって前進していた。ローマ帝国の総督ポンティオ・ピラトの率いるローマの騎兵隊と歩兵隊である。いったいなぜローマ帝国の軍隊がエルサレムに来るのか。

・この時期は、すでに何度か述べたように過越祭の直前であった。過越祭は基本的には、ユダヤ人がエジプトから解放された出来事を祝うための祭である。この祭りにはユダヤ人のほとんど(数百万人)が集まってくる。何百万ものユダヤ人が集まるとなると、当然反乱の機運が高まる。そこでローマ帝国は、反乱が起こるのを未然に防ぐために、過越祭の前になると大軍をエルサレムに派遣するのであった。

・そこで想像してみてほしい。東からは「ろば」に乗った柔和なる王が大勢の群衆を引き連れて入ってくる。西からは騎馬に乗ったいかめしい総督が大勢の兵士を引き連れて迫ってくる。人類の歴史を制するのは果たしてどちらか。現代人の私たちが想像しただけでも興奮せざるを得ない状況である。ましてや当時のエルサレム市民はどれほどに興奮させられたことであろうか。興奮どころではあるまい。彼らは、今即座に選択しなければならないのだ。ローマ帝国の強大な王につくべきか。それとも、イエスという群衆の柔和な王につくべきか。

 

 

2.メッセージ

 

①従い仕えることによって支配する

イエスは、ろばに乗った柔和なる王である。この王は、神に従い仕えることによって世を支配する王である。従順と奉仕がなぜ世を支配することへとつながっていくのか。第一に、神のために自分の命を捨て去るほどの従順と奉仕(純粋な愛)は人の心を動かし、悔い改めに導くからである。これについては前回述べた通りだ。しかし、それだけではない。神のために自分の命を捨て去るほどの従順と奉仕(純粋な愛)は神の力を完全に解き放つ。自分を捨てて神に従うならば、そこには必然的に神の支配が立ち現れる。すなわち、神の愛と義が行き渡り、真の命が躍動することになるのである。これこそ新約聖書が伝えようとする使信の核心であり、十字架と復活の意味するところである。十字架とは神にすべてを明け渡す自己放棄の業であり、復活とはかくて開始される神の支配(愛と義と命の行き渡り)のことなのだ。

そしてこれこそが、従い仕えることによって支配するというイエスの戦略であり、ろばに乗った柔和な王の意味するところである。皆さんにはぜひともこの神秘を体験してもらいたい。

 

②キリストの勝利

 それでは、このような戦略のもとに行動したイエスとローマ帝国の対決はどちらの勝利に終わったか。短期的にはローマ帝国の勝利に終わったが恒久的にはイエスの勝利に終わった。ローマ帝国は実力主義の気風ゆえに、つぎつぎに優秀な指導者を生み出した。シーザー、アウグスツゥス、ティベリウス、ウェスパシアヌス、トラヤヌス、ハドリアヌス、マルクス・アウレリウス・・・。彼らは法制度を整え、軍事力を増強することによって、更にはキリスト教を国教とすることによって、繁栄を維持しようとした。その手腕は見事というほかなく、現代の政治や法制度はローマ帝国に基づいていると言っても言い過ぎではないほどだ。にもかかわらず、西ローマ帝国は480年に、東ローマ帝国は1453年に事実上滅亡した。いったいなぜか。神の支配がなかったからだ。ローマ帝国はキリスト教を国教としたにもかかわらず、その本質を採用しなかった。すなわち、神への奴隷的服従を採用しなかった。ここにこそローマ帝国滅亡の原因がある。

 他方、イエスの方はどうか。イエスの弟子たちには優秀な人物などいない。しかも彼らの間には実力主義的気風がない。元々は彼らも実力主義であった(だれが偉いかを競い合っていた)が、イエスの十字架と復活を体験して以降、彼らの実力主義はぶっ飛んでしまった。にもかかわらずイエスの弟子たちは、カトリック、プロテスタント、無教会とさまざまに形を変えつつ生き残り、今や人類の三分の一がキリスト教徒であるという状況にある。なぜこうなったのか。イエスに従う者たちの間に神の支配が生じたからである。

 このような歴史的事実より学ぶべきことは何か。人間支配のもとで生きるか、神の支配のもとで生きるかは、真の意味での死活問題だということである。

 

③天皇制

 ここでどうしても触れておかざるを得ないのは、天皇制の問題だ。現在天皇は善良な人間であり、憲法には天皇が政治的な実験を握らないような工夫が凝らされている。ところが、日本会議に参加しているような右翼的な政治家たちは大まじめに天皇制を復活させようとしている。天皇を制度的に日本の精神の中枢に据えようと改憲を画策しているのだ。これは、聖書的に言えば、愚行の極みである。なぜならそれは、まさに人間支配を実効化しようとする行為だからだ。

 彼らは、天皇制という人間支配がどんなに悲惨な結末を生み出したか、忘れてしまったのであろうか。ヒトラーやスターリンのような人間支配がどんなに狂気的な結果を引き起こしたか、忘れてしまったのだろうか。現在もプーチンや習近平や金正恩のような人間支配が、人類を絶滅に追いやろうとしている。このことになぜ彼らは気付かないのであろうか。彼らに対抗しようとして日本を天皇制に戻すなら、第三次世界大戦が起こることは確実であり、日本が滅亡の道をたどることも確実である。

 民主主義は素晴らしい。なぜならそれは、神の支配ではないにしても、少なくとも人間の支配に歯止めをかけることができるからだ。そこでは、どんなに優秀な指導者でも長期にわたって国を支配することはできない。一人の人間が長期にわたって国を支配するよりも、愚かで無能な人間たちが、知恵を出し合って話し合いで国を治めていく方がよいとされるのだ。であればこそ、そこでは部分的に神の支配が成り立つ。民主主義は、聖書の教えにどうにか沿っているのだ。

 

④日本にキリスト教徒が少ない理由

 日本のキリスト教徒の数は1%を切っており、100万に届かない。なぜ日本にはキリスト教徒が少ないのであろうか。世界の人口の三分の一がキリスト教徒であるという事実を考えると、これは実に不思議なことである。これにはいろいろな理由があるけれど、今日の個所から考えるなら、大きな理由が見えてくる。先の世界大戦の折に、天皇支配を認めてしまったからだと。

 1941年、当時の日本政府は日本のキリスト教の32教派の教会に一つにまとまるようにと命じた。一つにまとめたうえで、天皇に従うように命じれば容易にキリスト教徒を屈服させられると考えたからだ。これに対して32教派はどう応答したか。素直に要求を聞き入れ、一つの組織にまとまった。そしてなんと天皇に従うことを誓ったのだ。こうして生まれたのが、日本的キリスト教という天皇支配を認めるキリスト教であり(内村の唱えた日本的キリスト教とは全く違うもの)、それに従う日本基督教団である。日本基督教団の創立礼拝は、君が代斉唱から始められ、宮城遙拝、皇軍兵士のための黙祷、皇国臣民の誓いの順で行われ、その後にようやく聖書が朗読された。これは、日本のキリスト教界が完全に天皇制に屈したことを意味する。(島崎輝久『マタイ福音書と現代』(7)参照)

 無教会はどうであったか。内村鑑三は有名な不敬事件において、天皇崇拝を拒否したが、無教会は個人の集まりである。ゆえに中には天皇に好意的な者もいた。内村自身も天皇崇拝は拒否したが、天皇制を日本文化として尊重していた。太平洋戦争の開戦に真っ向から反対した矢内原忠雄でさえも、天皇制とキリスト教は両立できるという驚くべき考えを持っていた。

 というわけで、概して日本のキリスト教徒は天皇制に甘かった。平和主義に徹した人たちでさえ、天皇制には甘かった。人間の支配か神の支配かが真の生死を決する最重要問題であることをあまり分かっていなかったのだ。そのようなところに神の支配が成立するはずがない。神の愛と義が行き渡り、真の命の躍動が始まるはずがない。これこそ日本にキリスト教徒が生まれなくなった理由である。

 対して、朝鮮のキリスト教徒はそうではなかった。天皇崇拝を強要されたとき、当時の朝鮮人キリスト教徒は全力で拒否した。2000人以上が、公然と神社参拝を拒否して投獄された。その中で残酷な拷問を受け、50人以上が命を失った。彼らは命がけで人間の支配を拒否したのだ。

 だからこそ、朝鮮のキリスト教徒の間では神の支配が働いた。このことが朝鮮におけるキリスト教徒の多さと関係している、と私は考える。ちなみに2015年における韓国のキリスト教徒数は約1400万人であり、全人口の三分の一である。

 

⑤神の支配の始まるとき

 それではどうすれば神の支配が始まるのであろうか。その道は、神に従い、仕えることであり、すなわち神の命令である、隣人を自分のように愛しなさいを実践することなのであるが、隣人を愛する道は自分を捨てる道である。自分に何かこだわることがあっては隣人を愛することなどできない。例えば他の人間に支配されたり、何かの欲望に支配されていたら、隣人を愛することなどできない。それでは、どうすればそのような支配を抜け出して、隣人を愛する道を歩むことができるのであろうか。

 そこで必要となるのが信仰であり、祈りである。本気で祈るならば、聖霊が働いて支配を乗り越えさせてくれる。その時神の支配が始まる。人は、信仰によって義とされるのである。

 

 

話し合い

 

M君「人間支配の限界についてはよくわかりましたが、天皇制がその例であるというところに疑問を感じます。天皇制は本当にそんなに悪いのでしょうか。」

寮長「天皇が象徴にとどまるならそれほどに害にはならないでしょうけれど、戦前のように神格化されるようになるともうどうしようもなく悪いです。そのひどい結末を戦争のときに体験したではありませんか。」

B君「自分を捨てるということは難しいと思います。二人の人がいてパンが一つしかないときに、それを相手にあげてしまうことは、できないでしょう。」

寮長「それこそ自分を捨てるということの具体例ですね。それは人間にはできないことです。でも、神に祈り、聖霊が働くならそういうこともできるようになる。胡散臭いけれど、それが聖書の伝えるところです。」

K君「ロバに乗ってくるというのは、どうにもかっこうわるい。そのような人を本当に群集は歓呼して迎えたのでしょうか。」

寮長「普通の感覚ならそうはならないでしょう。しかし旧約聖書には、救い主がロバに乗ってやってくるというような記事があり、ユダヤ人はみなそれを知っていたでしょうから、こういう事態が生じたのです。」

K君「今日の話とは関係ないのですが、渋谷である女性が「信じないと地獄に落ちる」と言って伝道していました。こういう押しつけがましいところがキリスト教の嫌なところです。」

寮長「その話は今日の個所と関係しています。地獄に落ちないように信じろというのは、力による威嚇ですね。そんな方法をイエスがとるでしょうか。従い仕えることに徹するイエスが。力による威嚇で伝道を進めようとする人たちは、キリスト教とは名ばかりの、キリストとは正反対の人たちです。」

O君「僕は、ろばに乗ってくるイエスはかっこいいと思う。本当の王はこうでなければとおもってしまう。」

寮長「わたしもそう思う。けれど、そう思うのは君や私のように、少しひねくれたタイプの人でしょう。」

O君「そうかもしれませんね。ところで寮長は、よく人類の三分の一がキリスト教徒であるという言葉を使いますが、この人たちの間では本当に神の支配が働いているのでしょうか。ローマ帝国の人たちなどは、国の政策によってキリスト教徒にされてしまったわけですよね。そういう人たちの間に神の支配が働くなどとは思えません。」

寮長「するどい。人類の三分の一のキリスト教徒の中には、先ほどのような名ばかりキリスト教徒がたくさんいるわけで、そのような人たちの間には神の支配などありません。にもかかわらず、本当にキリストのように生きようとする人たちもたくさんおり、その人たちの間では神の支配が働いていると思います。そうでなければ、キリスト教というある種異常な教えが世界を席巻するという事態にはならなかったでしょう。」