2024年10月27日春風学寮日曜集会
マルコによる福音書9:14-29
序 すべての福音書を学ぶ必要
マタイによる福音書を通じてイエスについて学んでいるが、マタイの記事が不十分な場合がある。そのような場合には他の福音書で補いつつ学ぶ必要がある。今日取り上げるイエスの悪霊祓いはまさにそのパターンである。これについて深く学ぶためには、マタイでは不十分なので、マルコによる福音書で学びなおさなければならない。というわけで、以下、マルコによる福音書を通じてイエスの悪霊祓いについて学んでみたい。
1.山を降る
9:14 一同がほかの弟子たちのところに来てみると、彼らは大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論していた。
9:15 群衆は皆、イエスを見つけて非常に驚き、駆け寄って来て挨拶した。
9:16 イエスが、「何を議論しているのか」とお尋ねになると、
9:17 群衆の中のある者が答えた。「先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。
9:18 霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。すると、この子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした。」
*この直前にイエスは最愛の三人の弟子たち(ペテロ、ヤコブ、ヨハネ)と共に山に登っていた。そのとき、イエスの身体は白く輝き始め、そこにモーセとエリヤが現れた。さらには、雲の中から神の声が鳴り響いた、「これは私の愛する子である」と。ペテロは感動のあまり「三人のためのここに小屋を建てましょう」と言った。しかし、イエスはそれに対しては何も答えずに、山を降りた。こうして今日の場面となる。イエスと三人の弟子たちは今や他の弟子たちと合流し、彼らが群集に取り囲まれて、律法学者たちと論争している場面と出くわすのである。
・ここにすでに一つのメッセージが込められている。それは、神と触れ合う体験をした者は、その素晴らしさを伝えるために人々の中に飛び込んでいかなければならないということである。このときの三人の弟子たちの体験はまさに神と触れ合う体験であった。イエスの身体は白く輝き、モーセとエリヤが現れ、雲の中から神の声が聞こえたのだから。三人はいつまでもこの山にいて、神と共に過ごしたいと思ったことであろう。神や仏と触れ合う究極の幸せを法悦という。三人はいつまでも法悦の中にいたいと思ったであろう。であればこそ、ペテロはここに小屋を建てましょうと言ったのだ。ところがイエスはそれに対して何も答えずに、山を降り始めた。いったいなぜだろうか。それはやはり、いつまでも法悦の中にとどまっていてはいけないということを暗黙のうちに伝えたかったからであろう。法悦を体験した者はその素晴らしさを伝えるために人々の中へ飛び込んでいかなければならない、そうすることによって神と共にあることが最高の幸せなのだということを人々に知らせ、人々の心を神中心の心に変えていかなければならない。そのことの重大さを弟子たちに伝えたかったからこそ、イエスはペテロに応えずに黙って下山したのだ。そもそも、イエス自身、天の神の元を離れてその素晴らしさを伝えるためにこの世に降りてきたのだ。そのようなイエスであれば、弟子たちにも同じことをするよう望んでいたであろう。であればこそ、イエスは三人の弟子たちに神と触れ合う体験をさせ、そしてそのあとで早々と下山して群衆の中に突入していったのである。
・私たちも同じだ。聖書を読んだり、讃美歌をきいたりして神と触れ合う法悦を体験したら、いつまでもその中にとどまっていてはいけない。その法悦を他の人々に伝えるべく、他の人々の中に飛び込んでいかなければならない。神の素晴らしさを伝えることこそが最高の愛の実践であり、世界に平和を実現する道なのだから。神の素晴らしさを知る者は、お金や権力や名声の呪縛から解き放たれるのだから。
*さて、イエスと三人の弟子たちが下山してくると、大勢の群衆の中でイエスの他の弟子たちと律法学者たちが議論していた。彼らはいったい何について話し合っていたのだろうか。群衆の証言から推測するなら、子供から悪霊を追い出すことのできなかったイエスの弟子たちを律法学者たちが非難していたのであろう。そしてその非難は当然彼らの師匠であるイエスにも向けられたであろう。「イエスが間違っているからお前たちは悪霊を追い出すことができまかったのだ」と。
・そこへイエスが山から降りてきたものだから、群衆は「イエスを見つけて非常に驚き、駆け寄って来て挨拶した」わけである。「何というグッドタイミングで現れることか。さすがイエス様だ」と。群衆たちは今や、イエスがはたして悪霊を子供から追い出すことができるか固唾を飲んで見守ったに違いない。
・ところがイエスはまたしても意表を衝くようなことを言う。
2.信仰のない時代
9:19 イエスはお答えになった。「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」
*まさかこのような厳しい言葉をイエスが語ろうとは、誰一人予測しえなかったであろう。そもそもこの言葉はいったい誰に向けて言われた言葉であろうか。悪霊を追い出せなかった弟子たちか、批判にばかり熱中する律法学者たちか、奇跡を見たがる群衆か、それとも信仰のない子供の父親か。イエスがこれまでどこにいて何をしていたのかを思い出せばすぐに理解できる。イエスは今まで山の上にいて、神と共にいたのだ。モーセやエリヤと共に神のそばにいたのだ。そのようなイエスにしてみれば、彼らの全員が不信仰に見えたであろう。神は本当に実在していて、こんなにも素晴らしい、それなのになぜあなたがたは神を本気で信じないのだろうかと。律法学者も弟子たちも群衆も父親もなぜ本気で神のことを信じずに、くだらないことばかりにあけくれているのだろうかと。だからこそイエスは「なんと信仰のない時代なのか」という言葉で彼ら全員をしかりつけたのである。
・こうしてイエスは彼ら全員に神がどんなに素晴らしい方かを示そうとして言うのである。「その子をわたしの所に連れてきなさい」と。
3.信じれば何でもできる
9:20 人々は息子をイエスのところに連れて来た。霊は、イエスを見ると、すぐにその子を引きつけさせた。その子は地面に倒れ、転び回って泡を吹いた。
9:21 イエスは父親に、「このようになったのは、いつごろからか」とお尋ねになった。父親は言った。「幼い時からです。
9:22 霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」
9:23 イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」
*この箇所はキリスト信仰の核心に触れる極めて重要な個所なので、特に注目してもらいたい。父親は「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください」と言う。「おできになるならば」と言っているということは、彼はイエスのことも神のことも本気では信じていないということである。信仰というものは、神を完全に信じることである。大半は信じているけれど、完全には信じていないというのでは信仰とは言えない。ましてや少しだけ信じるけれど、大半は信じていないというのでは、全く信仰とは言えない。「おできになるなら」ということは、できるはずがないということが前提となっているので、ほとんど信じていないということである。父親はまさに「信仰のない時代」の人間の一人なのだ。
・だからこそイエスはこう答えるのである。「『できれば』と言うか」と。この言葉にはイエスの激しい落胆と怒りが込められている。そのように不信仰だからこそ悪霊を追い出すことができないのだと。そして驚くべき宣言をするのである。「信ずる者には何でもできる」と。これほど大胆な言葉があるだろうか。このような言葉をイエス以外のいったい誰に言うことができるだろうか。これこそはイエス以外の誰にも言えない言葉、イエスが本当に言った言葉である。
・実際、同様のイエスの言葉が聖書にはいくつも記録されている。ルカによる福音書にはこうある。
17:6 主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。
マタイによる福音書にもこうある。
21:21 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる。
さらにマルコによる福音書は今日の記事の後で再びイエスの同じような言葉を紹介する。
11:22 そこで、イエスは言われた。「神を信じなさい。
11:23 はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。
イエスは同様の言葉を何回も語っていた。そしてその通りのことを繰り返し実行した。完全に神を信じることによって、どんなことでも成し遂げてきた。だから弟子たちはそれらを書き記さずにはいられなかったのだ。
・ここで重要なのはイエスの言う信仰が少しの疑いも抱かない完全な信仰であるということである。マタイ21:21には「あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば」とあり、マルコ11:23には「少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば」とある通りだ。
・ところがルカ17:6では「からし種一粒ほどの信仰があるなら」とある。マタイによる福音書の他の個所(17:20)でもイエスは「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる」と言っている。すると問題になるのは、「からし種一粒ほどの信仰」とはいったいどういう信仰なのかということだ。「からし種一粒ほどの信仰」というと、私たちはほんの少しの信仰であると思ってしまう。弟子たちもそう解釈してしまった。しかし「からし種一粒ほどの信仰」というのは決してほんの少しの信仰ということではない。なぜならイエスは、ほんの少しの信仰を「小さい信仰」あるいは「薄い信仰」と述べて繰り返し批判しているのだから。今の個所でも、「からし種一粒ほどの信仰」という言葉は、「薄い信仰」とは正反対の信仰をあらわすために使われている。だから「からし種一粒ほどの信仰」とは決してほんの少しの信仰という意味ではない。では「からし種一粒ほどの信仰」とはいったいどのような信仰か。
・イエスの信仰がどのような信仰かを考えてみればすぐに理解できる。イエスは神の子であるにもかかわらず、無力で小さな人間としてこの世に下り、無力で小さな人間として神だけを頼りに生きた。その信仰の本質は、マタイによる福音書の次の言葉に現れている。
6:31 だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。
6:33 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。
これこそイエスの信仰である。イエスの信仰は、神にはすべてが可能であるということを信じて、神に無力な自分を全面的に預けてしまう信仰なのだ。言い換えればそれは、自分が無力で小さい存在であることを認識して、全面的に大いなる神により頼む信仰なのである。そしてこれこそが「からし種一粒ほどの信仰」である。「からし種一粒ほどの信仰」とは、自分の小ささ、無力さをはっきりと認めて、大いなる全能の神に完全により頼む信仰のことなのだ。このような信仰を私たちが持ちさえすれば、神はその大いなる力を働かせて、どんな願いでもかなえてくださる。だからこそイエスは、「もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山にむかって『ここからあそこに移れ』と言えば、移るであろう」と繰り返し人々に断言したのだ。
・そしてイエスはこの言葉が真実であることを生涯にわたって実証し続けた。そしてここでも再びそれを実証しようとしているのである。
4.からし種一粒ほどの信仰の頂点
9:24 その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」
9:25 イエスは、群衆が走り寄って来るのを見ると、汚れた霊をお叱りになった。「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊、わたしの命令だ。この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな。」
9:26 すると、霊は叫び声をあげ、ひどく引きつけさせて出て行った。その子は死んだようになったので、多くの者が、「死んでしまった」と言った。
9:27 しかし、イエスが手を取って起こされると、立ち上がった。
*イエスが𠮟りつけると悪霊は子供から飛び出し、逃げ去っていった。いったいなぜイエスにこのようなことができたのか。イエスに「からし種一粒ほどの信仰」があったからか。もちろんそれも一つだが、ここにはもう一つ大きな理由がある。父親が「からし種一粒ほどの信仰」を与えられたというのがそのもう一つの理由である。
・父親はこう言っている。「信じます。信仰のないわたしをお助けください」と。これまた極めて重要な言葉であり、これこそ「からし種一粒ほどの信仰」の頂点を表す言葉である。父親は先ず「信じます」と言っている。いったい何を信じたのであろうか。もちろん、「信ずる者には、何でもできる」というイエスの言葉を信じたのである。しかしそう信じるや否や、自分には信仰など少しもないことに気が付いた。だからこそ、すぐそのあとで「信仰のないわたしをお助けください」という言葉が出てきたのだ。この言葉は、自分には信仰がないことをはっきり認識したうえで、そのような自分をも救ってくださいと神により頼む信仰を表している。もっといえば、信仰のない私に信仰をお与えくださいという信仰を表している。これはまさに「からし種一粒ほどの信仰」の不信仰バージョンではないか。
・小さくて無力なゆえに大いなる神により頼むというのが「からし種一粒ほどの信仰」であるとすれば、その行きつくところは信仰のないがゆえに神の大いなる愛により頼み、信仰をお与えくださいと願う信仰であろう。この信仰をこのとき父親は持つことができた。いやイエスによって与えられたというべきだろう。「信ずる者には何でもできる」というイエスの言葉が、父親にそのような信仰をもたらしたのだから。
・イエスは自身の「からし種一粒ほどの信仰」の最高バージョンを父親に伝えることに成功した。その結果、強力な悪霊を退散させることができたのだ。
5.諸悪の根源
9:28 家にはいられたとき、弟子たちはひそかにお尋ねした、「わたしたちは、どうして霊を追い出せなかったのですか」。
9:29 すると、イエスは言われた、「このたぐいは、祈によらなければ、どうしても追い出すことはできない」。
*いったいなぜ弟子たちには、悪霊を追い出すことができなかったのであろうか。イエスは「祈り」がなかったからだと答えている。ところがマタイによる福音書の並行記事では、イエスは「信仰が薄いからだ」と答えている。いったいどちらが真実なのであろうか。別にどちらかに決めることもあるまい。あえて言うならば両方とも正しいと言える。「からし種一粒ほどの信仰」はすべてを神に預ける信仰だから、必ず祈りとなって表れる。父親が叫んだような、「信じます。信仰のないわたしをお助けください」という祈りとなって表れる。この父親の祈りこそは「からし種一粒ほどの信仰」から出てくる祈りの典型なのである。
・弟子たちにはこのような祈りがなかった。それは彼らに「からし種一粒ほどの信仰」がなかったからだ。思い出してほしい。弟子たちは決して自分を小さな者と認めていなかった。自分たちの中で誰が一番偉いかと議論し合っていたのだから。彼らはまた神だけにより頼む者でもなかった。お金の力によってあるいはイエスの王国をつくることによって人々を救おうとしていたのだから。彼らはまさに、自分の力を信じ、神以外の力により頼む者であったのだ。であればこそ、彼らからは神に頼る祈りが出てこなかった。であればこそ、彼らは悪霊を追い出すことができなかったのである。
*そこで現代に話を移そう。現代に生きる私たちの願い事はほとんどかなえられたためしがない。その結果、現代には悪いことが充満している。戦争があり、自然破壊があり、自然災害があり、病気があり、犯罪がある。現代世界は真に悪いことだらけである。まるで世界中に悪霊が住み着いているようである。いったいなぜこういうことになるのか。イエスによれば、その答えは明らかだ。祈りがないからなのだ。何よりも祈りのもとになる「からし種一粒ほどの信仰」がないからなのだ。自分たちが無力で不信仰であることを認めて、全面的に神により頼む信仰がないからこそこうなるのだ。神により頼もうとせず、自分の力で何もかもやろうとするからこうなるのだ。神に身を預けずに自力で生きていこうとするからこうなるのだ。私たちは皆、悪霊を追い出すことのできない弟子たちの同類なのである。今日の個所を読んで私たちは、自分たちの在り方を根本的に見つめなおさなければならない。そして「からし種一粒ほどの信仰」とそこから出てくる祈りの重要さを認識しなおさなければならない。
6.塚本虎二
*ここで、今日のテーマである「からし種一粒ほどの信仰」の実例となるような人物を紹介しよう。その人の名は、塚本虎二である。塚本は内村鑑三の一番弟子ともいうべき人物であり、生涯を福音伝道に捧げた人物である。
・塚本は明治四十三年に東大法学部を出て、農商務省の官僚となった秀才であった。ところが彼は9年後、わずか34歳で退職してしまい、以降は聖書研究と福音伝道に専念するようになる。こうして38才のときには聖書研究のためにドイツ留学を計画するのだが、その矢先に関東大震災が発生する。塚本の家は鎌倉にあったので、その影響をもろに受けた。これは塚本にとって大事件であったので、以下この事件について詳しく記そう。以下は塚本の言の要約である。
・≪大音響とともに地面が大きく揺れ、やがて家がぺちゃんこにつぶれた。部屋にいた私は長女を抱いて外に出ようとしたが、出るよりも先に家がつぶれ、屋根の下敷きになってしまった。他方妻は、地震が起きときには庭にいたにもかかわらず、子供たちを助けようとして家の中に戻ってしまい、やはり屋根の下敷きになってしまった。二人とも屋根の下敷きになったわけだ。しかし私の方は、たまたま近くにあった乳母車が支えとなり、屋根と床との間にわずかに空間ができたため、その空間のお陰で生き延びることができた。しかし、妻の方は大きな梁の直撃を受け、その場で即死してしまった。≫
・このときの気持ちを塚本はこう書いている。「神は理不尽にも残酷にも、私から最愛のものをもぎ取りたもうた。私には神が分からなくなった。世の終わりかと思われたあの凄惨な、無慈悲な神の仕打ちを見て、誰が神を信じ得よう。私は神を呪うた。神は愛ではない。残酷だ。」こう思うのも当然であろう。このとき同じような経験をした無数の人が、そう思った。そして神などいない、仏などいないと結論した。多くの人が信仰を失ったのだ。
・ところが塚本はそうならなかった。この文の後はなんとこう続いている。「しかし、炎々たる紅焔、もうもうたる黒煙を仰ぎ見ながら、ぺちゃんこになった家の前に思い悩みつつあったとき、たちまち一つの静かな、細い、しかし、強い声が響いた――神は愛なり!目から鱗のようなものが落ちた。両肩から大きな重荷が地響きして地上に落ちるのを感じた。私に始めて神がわかった。初めて神の愛がわかった。神が愛でありたもうのは、人が神を愛と認めるからではない、神が(元々)愛でありたもうからである。」
*以上が塚本の上に起こった大事件である。いったい塚本には何が起こったのであろうか。このような悲惨な体験をしたにもかかわらず、塚本はなぜ神は愛であるという確信を持つことができたのであろうか。それこそ、今日お話しした「からし種一粒ほどの信仰」のお陰である。塚本は、自分の家がぺちゃんこになり、最愛の妻が死んだとき、自分には何の信仰もないことを思い知った。今まで自分には信仰があると思い込んでいたが、そんなのは嘘っぱちだと思い知った。自分は神など全く信じていないと思い知ったのだ。ところが、非常に不思議なことに、そのような絶望的な状況の中から、神よ、どうかこのような自分をお救い下さいという思いが込み上がってきた。このような不信仰な私に信仰をお与えくださいという思いが込み上がってきたのだ。そうなのだ。先ほど聖書で読んだ父親の「信じます。不信仰なわたしをお助け下さい」という気持ちと同じ気持ちが込み上がってきたのだ。「妻を殺された私にはまったくあなたが信じられません」と思いつつも、「このような私をお助け下さい」という気持ちが込み上がってきたのだ。これこそは「からし種一粒ほどの信仰」ではないか。そのときに初めて塚本の中に神の愛が入って来た。だからこそ塚本には、「神は愛なり」という言葉が聞こえてきたのである。
*塚本は、この後全く新しく生まれ変わった。どんな絶望に出くわそうとも神の愛を信じて歩めるようになった。第二次世界大戦という最大の難局においても塚本は一切絶望せず、ひたすら神の愛の福音を説き続けた。そして「からし種一粒ほどの信仰」を不信仰の信仰、無信仰の信仰と呼んで人々に伝え続けた。
・塚本は、今日の聖書個所についてこう言っている。『「信じます。不信仰なわたしを、お助けください」という信仰がある限り、人生に絶望する口実無し』と。まさにその通りである。皆さんには、この言葉をはっきりと記憶していただきたい。そして不幸な出来事に出会うたびに、この言葉を唱えてみていただきたい。そうすれば皆さんにも、「からし種一粒ほどの信仰」が、不信仰の信仰が、与えられていくことであろう。
話し合い
It君「自分は人を信頼できず、自分しか信用できないので、神を信頼することには程遠いです。でも、形だけでも学んでおくことが信じることにつながるのかなあと思いました。」
寮長「人が信頼できない、自分しか頼りにならないと考えるのは、ごく健全な発想で、そう考える人であればこそ信仰が与えられる可能性が高い。自己信頼は必ず行き詰りますから。だから、君の言うとおり、形だけでも信仰とはどのようなものかを学んでおくのは、非常に重要なことだと思います。」
Sa君「前半の部分を聞きながら、聖書の言う信仰はご利益信仰と何が違うのかと思いました。しかし後半部分を聞いて、少し違いが分かりました。しかしそうなると、この信仰は依存症的だなと思えてきました。」
寮長「ご利益を求めて自力で意志的に信じるのがご利益信仰。信じられないことに絶望しているところに外から与えられるのがからし種一粒ほどの信仰。そういう信仰はもはや自分の信仰ではなく、神が与えたものなので結果として大きな力を発揮する、とそういう話です。違いが分かったでしょうか。依存症というのは全く自立心がない、何かに頼らなければ生きていけない状態です。からし種一粒ほどの信仰には、確かにそういうところがある。自分に完全に絶望してしまっていることが前提ですから。ただ違うのは、依存する相手が神様なので、その結果が全くよいということです。人が依存してよいのは神(の愛)だけであり、それ以外のものに依存するなら、悪い結果となる。」
So君「絶望したときには僕にも神を信じたくなるような気持ちが生まれてきました。しかしそれはすぐになくなってしまいました。それを持続させるにはどうしたらよいのでしょうか。」
寮長「これは難しい。しかし、なくなってしまったらなくなってしまったでよいのではないでしょうか。からし種一粒ほどの信仰は、どうしても必要なときに神から与えられるもので、努力して保つものではありません。信仰がなくなったということは他に頼るべきものが見つかったということであり、それならそれでよいのではないでしょうか。」
Ko君「自分に信仰は全くないと言い切れるのはすごいことです。教会では決してそうは教えません。自分には信仰があり、そのために救われていると思っている信者さんがたくさんいるからです。」
寮長「自分には信仰があってそのゆえに救われていると考えるとなると、救われている人と救われていない人の差別が生じてきてしまいます。イエスはそんな区別などしようと思いませんでした。すべての人に信仰のない時代だからこそ、不信仰者たちを救うためにこの世にやって来たのです。そういうイエスの思いを受け取ることが大切ですね。」
Ya君「からし種一粒ほどの信仰のような神により頼む信仰を与えられるためには、神と出会うような体験をするか、すべてに絶望するような体験をするしかないのでしょうか。だとすると、これもまた絶望的なように思われます。」
寮長「これまた難しい質問ですね。しかしきっと、それら二つ以外の道もあると思います。例えば、私の師の一人である伝道者は、聖書の中のたった一言によって、そういう信仰が与えられたと言っています。からし種一粒ほどの信仰は神から与えられるものなので、思いもよらぬ形で与えられることがあると思います。」
Mi君「初めは、父親がだらしがないと思って読みましたが、どうもそうではないということに気付かされました。自分の不信仰を認められるというのは、すごいことだと思います。僕は、神社はお祈りをして願いをかなえてもらうところだと思っていました。でもそういうのはやはり信仰とは言えないとよくわかりました。」
寮長「よくわかってくれました。しかし、勢い余って神社がすべていけない、神道がすべていけないなどとは考えないでください。神道にもきっと私たちの知らない真理があるのかもしれない。」
Ka君「結局神への信頼を貫き通すことが重要なのですよね。」
寮長「そうではないのです。信頼を貫き通すというのは自力の信仰であって、そういう自力とは異なる信仰がからし種一粒ほどの信仰なのです。君は修行大好き人間だから、修行の延長線上でとらえようとするけれど、聖書が伝えようとする信仰は、修行とは全然違うものです。」
On君「この話は、奇跡がいけないと思います。イエスが悪霊を追い出さなければ、父親の態度にもっと読者が集中でき、からし種一粒ほどの信仰がもっとストレートに伝わっていくのではないでしょうか。」
寮長「そうでもないでしょう。読者や群衆が優秀な人たちならそれで伝わるかもしれませんが、やはり奇跡のようなことがあって、それを土台として真理を述べるからこそイエスの言葉は民衆に伝わっていくのだと思います。いやはや今日もすごい話し合いができました。皆さんと神様に本当に感謝です。」