2025年5月25日春風学寮日曜集会
聖書 創世記1:21-30, 9:1-3
序 復習
前回は、神が人間をご自身に似せて造ったという言葉について学んだ。その意味するところは、神が人間にご自身のような人格を与えたということであった。そこには、人間の人間たるゆえんは本能の呪縛を超えて自由に愛を選ぶことのできる人格を与えられたというメッセージと、その帰結として、人間らしく生きるとは本能の呪縛を超えて愛を選び取りつつ生きることなのだというメッセージが込められていた。さらには、人格の成長とはそのような自由に基づいてそれぞれの愛の形を形成していくことなのだというメッセージも学んだ。
すると疑問が出てくる。本能ははたして否定されるべき悪であるのか。本能に従って生きる他の生物ははたして軽蔑すべき悪しき存在なのかと。今日の個所はこの問いに答えてくれる個所である。以下、詳しく学んでみよう。
1.「支配」とは
22節にはこうある。
1:22 神はそれらのものを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、海の水に満ちよ。鳥は地の上に増えよ。」
ここで神はすべての魚と鳥の存在を祝福して(力を与えて)、「産めよ、増えよ、・・・満ちよ」と言っている。さらには、28節でもこう言っている。
1:28 神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」
ここでは、人間を祝福して「産めよ、増えよ、・・・満ちよ」と言っている。「産めよ、増えよ、・・・満ちよ」、これはまさしく祝福の言葉であり、すなわち本能を肯定する言葉である。そうなのだ。神は決して本能を否定してはいない。それどころか、祝福しているのである。このことと、前回学んだ「本能の呪縛を超えて、愛を選びつつ生きよ」という呼びかけとは矛盾するのではないだろうか。
この問題を解決する鍵となるのが、「支配せよ」の一言である。そこでこの言葉の意味を正確に理解しよう。この「支配する」は、原語のヘブライ語では「ラダ」と言い、その意味はむしろ「統治する」である。つまりこれは公正な統治を意味する言葉なのである。したがって、「生き物をすべて支配せよ」という言葉の意味は、「全ての生き物を正しく管理せよ」ということであって、全ての生き物の支配権を与えるから好き勝手に利用してよいという意味ではない。
加えて、人間は人格を与えられた存在である。人格とは愛を選ぶことができる主体のことであったから、そうなると、ここでの「支配」の意味は、「愛をもっての管理」ということになる。つまり「生き物をすべて支配せよ」という言葉の厳密な意味は、「全ての生き物を、愛をもって管理せよ」ということなのである。ところで、前回、峰岸君がこの部分に関する素晴らしい解釈を教えてくれた。これを「責任を持て」と理解する解釈である。神の真意はまさしくそこにあったであろう。聖書がラダ(支配する・管理する)という語を使っているのは他にふさわしい言葉がなかったからであり、つまりは筆者の知恵の人間的限界の結果であったに違いない。だとすれば、この言葉に込められている神のメッセージはこうである。「すべての生き物に対して、愛に基づく責任を持て。」
だとすれば、「本能の呪縛を超えて、愛を選びつつ生きよ」という人間への呼びかけとすべての生物の本能への祝福とは何ら矛盾しないことになる。神は基本的に本能を祝福している。しかし本能だけでよいとは考えなかった。本能は愛によって調和させられなければならない。そこで神は、人間に愛することができる人格を与え、本能を調和へと導く役割を与えたのだ。
2.自然崇拝との相違
するとここで疑問が湧いてくる。はたして他の生き物を調和へと導く必要などあるのだろうか。人間が手を出さずに放っておいたほうが他の生き物は、自然の法則にしたがってうまく調和を取るのではないか。それどころか、人間が手を出すからこそ自然は調和を損ねてしまうのではないか。
神はそう考えない。神の目からすれば、自然の法則も本能も(自然の法則≒本能)完全なものではない。それらは愛をもって導かれてこそ調和を保ち、繁栄していくことができる。すなわち、愛を選ぶことのできる人格を持った人間に導かれてこそ、本能(自然法則)に縛られる他の生物は調和を保ち、生存していくことができると神は考えるのである。
これは仏教徒や環境保護論者の間に根強い自然崇拝の思想とは全く異なる考え方である。自然崇拝の思想は、自然法則、すなわち本能を万能であると考える。すなわち自然法則(本能)に任せておけば、万物は調和に導かれると(仏教は本質的にはそうは考えない、そう考えるのはその一部の信徒である)。
しかしはたしてそれは本当であろうか。自然法則(本能)に任せておけば、万物は自から調和に導かれるのであろうか。そんなことはありえない、と私は思う。以下、その理由を語ろう。本能とはそもそも何か。その本質は自分を守ろうとする性質である。食欲、性欲、睡眠欲、快楽欲…。本能的欲求には様々な欲求があるが、それら全てに共通する本質的欲求は自分を守ろうとする自己保存の欲求である。この性質は確かに大切である。この性質があればこそ生物は活力を持ち、いろいろなことを学んでいくことができる。他人を愛することも自分を愛する心があればこそ可能となる。であればこそ神は本能を祝福したのだ。しかしこの性質だけで生きていくとき、そこに現出する世界はどのような世界であろうか。それは、完全な実力主義の世界であり、万物が闘争しあう弱肉強食の世界ではないか。事実、人間以外のほとんどの生物は、そのような弱肉強食の世界に生きており、強いものだけが生き延び、弱いものは滅びていく。ほとんどの生物の世界には、弱いものに対する思いやりなどというものはないのである。障害を負った仲間を助けようとする動物がいるだろうか。えさが取れなかった仲間にエサを分けてやろうとする動物がいるだろうか。ごく少数の例外はあるものの、ほとんどの動物にそのような意志はない。自然崇拝者たちは、自然(本能)に即して生きていけば、自然に調和した世界が生み出されるというが、動物たちが生きている自然界は本当に調和した世界なのであろうか。外から見ていれば調和的に見えるかもしれないが、そこは本当に調和的な世界なのであろうか。
内村鑑三は、こう述べている。「天然は美なれども、それは表面だけのことである。一歩深くそのうちに入れば、醜怪、混乱、残虐、闘争である。百花うるわしく咲きそろう草むらの中に、恐ろしき生存の戦い、殺伐なる弱肉強食が行われている。彼らは全ておのれより弱きものを虐げて、おのれより強きものに虐げられる悲惨な有様にある。地の上のいたるところにこれが行われると共に、水中のいたるところに同じくこれが行われている。しかもこれは単に自己の生存に必要な範囲にとどまらずして、ただ他の生命を断ちて快とする残虐にまで達している。」(「ロマ書の研究」300頁)。自然界とはかくのごとき世界である。そこは、自分の命を守るために平気で他者を害する世界なのだ。このような世界を野放しにしておいて、本当に調和が保たれるのであろうか。
神は、このような本能に支配される世界の限界を見抜いていた。であればこそ、本能のままに生きる生き物たちは愛を選ぶことができる人格を持った人間によって導かれなければならないと考え、「海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物」に愛に基づく責任を持てと命じたのである。
だから、神は私たちに本能を捨て去れと命じているのではない。本能は基本的には肯定されているのである。私たちは基本的には本能に従って生きていて良いのである。ただし、神は本能だけで生きていくことを良しとはされない、本能は愛によって導かれなければならないと考えるのである。本能を上回る素晴らしさを持つ愛によって導かれなければならないと考えるのである。
3.神が理想とする世界
そこでさらに、もう少し深く掘り下げてみよう。1:29-30には次のような言葉があった。
1:29 神は言われた。「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。
1:30 地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」そのようになった。
つまり聖書は、神は動物たちが生きていくための食糧として植物を創造したと伝える。つまり、菜食主義の世界こそが神の造った世界であったと伝えるのだ。
イザヤ書にも次のような記事がある
11:6 狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち/小さい子供がそれらを導く。
11:7 牛も熊も共に草をはみ/その子らは共に伏し/獅子も牛もひとしく干し草を食らう。
11:8 乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ/幼子は蝮の巣に手を入れる。
11:9 わたしの聖なる山においては/何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように/大地は主を知る知識で満たされる。
全ての動物が植物だけを食べ、互いに争い合わない。神に忠実な人間の導きによってすべての動物に「主を知る知識」(神の御心である愛)が行き渡り、すべての動物が平和のうちに暮らす。これこそ神が良しとした神の理想とする世界であり、神が本来創造した世界(神の国)であるとイザヤ書は伝えるのである。
これはとても信じがたいことであり、この世界の実際の歴史とも異なる。すべての生物は誕生したときから弱肉強食の世界に生きており、すべての生き物が草を食べて平和に暮らしていた時代などこれまでに一度もなかったのだから。したがって、これらの記事は全てフィクションであるとみなして良いだろう。
しかし、だからと言って、ここに神からのメッセージが含まれていないわけではない。というのも、少なくとも人間が他の動物をできる限り害さず、菜食主義のうちに暮らしていくということは、神の愛の理想に沿っており、また現実的にもすべての生物を繁栄させる共生の道であると考えられるからだ。恐らく神はこれらの記事を通じて、人間にできる限り菜食主義の道を選び、他の動物たちを殺さないように訴えかけているに違いない。
それでは植物の命は軽視してもよいのか。植物は食糧として与えられたものだからと言って植物を粗末に扱ってよいのか。もちろんそうではない。植物にも神の命が分け与えられているわけだから、植物を軽視してよいはずがない。また、愛という視点からしても、植物は大切に扱われるべきであろう。神は私たちにただ必要な限りにおいて植物を食べることを許したのである。
4.神の寛容
ところが、この後人間は堕落する。自由意志をもって愛を選ぶ道ではなく、自由意志をもって他者に害をなしてまで自分を利そうとする罪を選ぶ道に向かってしまう。その結果肉食を初め、神にさえ、動物のいけにえを捧げるようになる。
そしてそのような人間に対して神はついに肉食を認める。
9:1 神はノアと彼の息子たちを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちよ。
9:2 地のすべての獣と空のすべての鳥は、地を這うすべてのものと海のすべての魚と共に、あなたたちの前に恐れおののき、あなたたちの手にゆだねられる。
9:3 動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい。わたしはこれらすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える。」
驚くべきことに、ここで神は他の全ての動物を食べてもよいと肉食の許可を与えている。いったいなぜこのような方針転換を神は打ち出したのであろうか。それは、ノアというたった一人の人間だけが、神に忠実に従い、神を愛し続けたからだと聖書は伝える。彼一人の功績のゆえに神は、その子孫である人間のあらゆる罪を見逃し、肉食も認めることにしたのだと。この方針転換の直前には次のような記事がある。
8:20 ノアは主のために祭壇を築いた。そしてすべての清い家畜と清い鳥のうちから取り、焼き尽くす献げ物として祭壇の上にささげた。
8:21 主は宥めの香りをかいで、御心に言われた。「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。」
動物のいけにえを捧げることは、明らかに神の意志に反することである。しかしそれでも神はそこにノアの神への精一杯の愛を読み取った。これまでノアが神の言葉に命を懸けてまで忠実に従ってきたからだ。そのような彼の愛に免じて、神はやむを得ず、その子孫の全ての罪を見逃し、肉食を許すことにしたと聖書は伝えるのである。これまたなんとも信じがたい話である。これは恐らく自分たちの肉食文化を肯定し、いけにえを捧げる宗教を肯定するために作り出されたフィクションであろう。
しかしこのようなフィクションにもやはり神のメッセージが込められていると思う。そのメッセージはやはり、肉を食べることは罪であり、愛に反するということであろう。神が肉食の許可を与えたと言ってもそれは、あくまでも神の寛容の結果である。神はノアのようなわずかな義人の存在のゆえに人間の悪に目をつむり、その延長線上で肉食を許可したのである。だとすれば、肉食は根本的には罪なのである。肉食を無理やり肯定しようとする物語は、逆説的にも神が根本的に肉食を罪と見なしているという真実をあぶり出す結果となったのだ。
だから、私たちはできるだけ肉を食べないようにしなければならない。食べたとしても、それは他の動物を犠牲にする行為であることを自覚し、犠牲となった動物に謝罪と感謝を表明しつつ頂かなければならない。日本では食事のときに必ず「頂きます」「ごちそうさま」と言うが、これこそ神の御心に完全に沿う言葉であろう。
ところが、この箇所を読んだユダヤ教徒やキリスト教徒の多くは、そこまで深くメッセージを受け取ることができずに、神が許可してくれたのだから、いくら肉を食べてもよいものだと思い込み、肉食の道を突き進んでしまった。ユダヤ教徒に至っては、肉のいけにえを捧げることが神を喜ばせる最高の方法であると思い込み、いけにえを捧げるための制度を整え、神殿を作り、大々的に神にいけにえを捧げるようになってしまった。ある歴史学者はユダヤ教のエルサレム神殿についてこう述べている。≪そこは、食肉処理場とバーベキュウ店が合体したようなところであった。牛、羊、山羊といったあらゆる家畜が次から次へと殺され、焼かれ、配られ、食べられる。ユダヤ教の儀式は、宗教的儀式というよりはバーベキューパーティのようなものであった。≫なんという神の御心の誤解であろうか。
話を戻しつつメッセージをまとめるなら、神は全ての生物が神の愛に基づいて、本能を調和させ、平和に暮らしていくことを望んでいる。そしてそのためには菜食主義を生活の基礎とすべきであると考えている。しかし、そのようにできない人間は別に肉を食べてよいとも思っている。但しその場合には、犠牲になった動物たちに謝罪と感謝を忘れてはいけないと。そしてそのことをきっかけとして罪を犯さずには生きていけない自分のことを反省せよと。
であればこそ、私たちは食事の前にはお祈りをささげるのである。本当は食事の後にもお祈りを捧げるべきであろう。
5.人類と生物の歴史
今回の話を抽象的なレベルで終わらせないために、人間が他の動物たちをどんなにひどく扱って来たか、振り返ってみるのも無駄ではないだろう。
人類が農業を始めるようになった(農業革命と呼ばれる)のは、紀元前9500年ほど前であると言われている。すでにそれ以前の狩猟採集生活の時代に、数万年にわたって人類は体重が50キロ以上の大型動物の200属のうちの半分を絶滅させてしまっていた。種ではない。属である。種の数にすれば、1000種くらいであろうか。
その絶滅が農業革命以降さらに加速する。人類は自分に役立つ動物(山羊、羊、豚、牛、鶏…)を偏愛し、家畜化し始め、家畜を守るために、他の動物たちを軽視したり、殺害したりし始めたからだ。やがては遊びや趣味のために家畜以外の動物たちを殺すようになる。その結果、今日の世界には10億頭の羊とブタと牛がおり、250億羽の鶏がいる一方で、野生のライオンは4万頭、オオカミは20万頭、サイは2万7千頭、トラに至っては4000頭しかいないというような異常な状況に陥ってしまった(すべて概数)。種の数で言えば、1500年以降だけで、人類は680種の脊髄動物を絶滅させたそうだ。人類は言わば動物種の殺し屋である。
それだけではない。自分の役に立つ動物たち(家畜)にも人類は過酷な運命を背負わせてきた。できるだけ生産性を高めるために、ありとあらゆる残虐な仕打ちを彼らに行ってきたのである。例えば、オスの鶏や牛は生まれたときから箱の中に閉じ込め、箱のサイズまで成長したら即座に殺して肉にしてしまう。鶏なら数週間、牛なら数カ月で殺してしまう。メスはメスで同じくらいひどい目にあわせる。例えば牝牛は、子供を産んだ直後の授乳期にしか乳を出さないので、次々に妊娠させられる。生まれた子供に乳をのまれてはまずいので、子牛はすぐに引き離される。こうして牝牛はひたすら妊娠と搾乳を繰り返され、子牛と触れ合うことなど全くないままに、乳牛マシーンとして生涯を終えるのである。これらの例は氷山の一角に過ぎず、言うに堪えないようなひどいことを人類は家畜に対して無数に行ってきた。
いったいなぜこれほどに残虐なことを人類はするようになっていったのか。食べるため、本能のためということだけでは解読しえない。聖書はその根本的な原因を罪であると考える。ただの本能ではなくて、本能を超えて、自由意志によって自分を利する道を選び取ろうとする性質であると。私もそうであろうと思う。
今や動物に感情があることは、科学的に証明されており、種によっては人格があるとみなされるものさえいることが明らかになった。例えば馬は、一瞬で人間の顔の表情を読み取り、人間を喜ばせるような行動をとる。これはもはや人格ではないか。ところが、このような事実を人類は頑なに受け入れず、引き続き動物を残虐に扱っている。また、人類が無数の動物種を絶滅させてきたという事実も頑なに認めようとしない。この事実こそ人の罪の底知れぬ深さを物語っている。
話し合い
Ryo「肉を食べるのが罪の現れだという今日の解釈は新鮮でした。確かに神様は、肉をいくら食べてもよいという思いではなく、悪い人間への寛容から肉食を許したと読むことができます。」
寮長「ですよね。」
Ok「どう答えて良いかわかりません。菜食主義の主張は正しいと思いますが、肉を食べるのは仕方がないことだとも思います。今の状況では肉の大量生産をやめることは不可能でしょう。」
寮長「本当に不可能なのでしょうか。肉を食べるのは本当に仕方のないことなのでしょうか。そこを敢えて突き詰めないところに人間の罪があると思います。」
Ho「目の前にいれば動物を大切にするのでしょうけれど、目の前にいない動物のことは簡単に無視できてしまう。目の前にいなくてもちゃんと想像力を働かせて思いやるべきなのだろうけれど、現代においては目を向けるべきことや学ぶべきことが多すぎて、とても動物のことまで気がまわらない、というのが僕の現状です。」
寮長「要するに現代は忙しすぎて、動物のことまで考える余裕も暇もない。これは一人の力ではどうにもならないことですね。」
Ma「僕は最近外来種に関心を持っています。イグアナが日本で繁殖したり、ミノカサゴが大西洋で繁殖したりして生態系を乱しています。いったいどうすればよいのでしょうか。外来種を取って食べるようにすればよいのでしょうか。」
寮長「外来種の問題も人間が他の動物を必要もないのに利用した結果ですよね。先ずは、ペット感覚で動物を扱わないというところが重要なのではないでしょうか。」
Ko「僕は菜食主義を実践しているのですが、よく友達から言われます。「聖書には肉を食べてもよいと書いてあるじゃないか」と。しかし今日の講話で菜食主義の聖書的根拠が分かりました。そこで言いたいのですが、菜食主義はやってみれば結構楽にできます。思うほどつらいことではありません。むしろ良いことがいっぱいある。ですから、ぜひともみんなにトライしてほしい。」
寮長「少なくとも野菜をたくさん食べれば身体も頭も気分もよくなりますから、意外と簡単にできるのかもしれません。」
Ka「話を聞いていて肉食が好ましいものではないと思いはじめましたが、他方で肉を食べている人を告発したり、罪人であると糾弾するのもいけないことだと思いました。ビーガンの中にはそういう人がいて、肉を食べている人をぼろくそに言うのですね。これは間違っていると思います。」
寮母「その通り。いくら自分の主張が正しいからといって、それで他者を裁くのは間違っていると私も思います。」
寮長「肉を食べる度に自分の罪に思いを寄せるのは良いことですが、肉を食べている他者を罪人呼ばわりするのは根本的に間違っています。罪を裁くことができるのは神だけですから。今日の話が肉食の人を裁いているように響いたとすれば、それは配慮が足りませんでした。」