神の言葉の力(小舘)

2024年10月6日(日)春風学寮日曜集会

讃美歌537、新聖歌40

聖書 ルカによる福音書

10:38 一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。

10:39 彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。

10:40 マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」

10:41 主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。

10:42 しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

 

1.マリアはなぜ褒められたか

「一行」というのはもちろんイエスとその弟子たちのことである。イエスの弟子は少なくとも12人はいたであろうから、そのもてなしはてんやわんやの大騒動になったであろう。だからマルタは、「いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていた」のだ。

ところが妹のマリアはその手伝いもせずに、イエスの話に聞き入っていた。これは姉のマルタにしてみれば頭にくる話である。だからマルタはイエスに対して「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」とイエスに不平を訴えたのだ。ところがイエスの返答は意外にもマルタを批判してマリアをほめるものであった。「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

「必要なことは一つだけである」とイエスは言う。そしてその「一つ」とはイエスの言葉に耳を傾けることなのだ。イエスの言葉に耳を傾けることは、他の何よりも重要なことなのだ。もちろん、多くの弟子たちをもてなすために働くことよりも重要なことなのだ。私たちの感覚からすれば、多くの弟子たちをもてなすために働く方が、イエスの言葉に耳を傾けることよりも重要に思われてしまう。なぜならもてなすことは奉仕であり、直接人の役に立つことなのだから。ところがイエスは言う、「マリアは良い方を選んだ」と。つまり、人に奉仕することよりもイエス自身の言葉に耳を傾けることの方が重要だとイエスは言うのだ。これは一体どういうことなのであろうか。いったいなぜ奉仕の実践よりもイエスの言葉に耳を傾けることの方が重要なのであろうか。

 この謎を解き明かすためには、いくつか基本的な知識を学んでおかなければならない。その一つ目は、イエスがただの人間ではなく、神の子であるということである。もし耳を傾ける相手がただの人間なら、彼の話を聞くことよりも、奉仕することの方が重要であろう。しかし相手が神の子であるとなると話は違ってくる。神の子の言葉は、神の言葉に相当するから、それに耳を傾けることは奉仕の実践よりも重要である可能性が出てくる。

それにしても、まだ疑問は残る。イエスの言葉は神の言葉に相当するとしても、いったいなぜ神の言葉に耳を傾けることがそれほどに重要なのであろうか。たとえイエスの言葉が神の言葉に相当するとしても、それは奉仕を実践することよりも重要なことなのであろうか。神の言葉に耳を傾けることよりも、奉仕を実践する方がやはり重要なのではないだろうか。

この疑問を解き明かすためには、二つ目の基本的な知識が必要になってくる。それは神の言葉は私たちの心と神をつなぐ役割を果たすということである。もし私たちが神の言葉を聞いて、それを受け入れるなら、私たちの心は神とつながることができる。そしてもし神とつながることができるなら、私たちは神から神の霊とその様々な恵み(神の義、永遠の命、愛する心、平安、知恵・・・)をいただくことができる。だからこそ、神の言葉に耳を傾けることは、他の何よりも重要なことであり、必要なただ一つのことなのだ。

この真理についてイエスはヨハネによる福音書でこう述べている。

6:63 命を与えるのは”霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。

「わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である」とイエスは言う。つまり、イエスの言葉を聞いて受け入れるなら、人は神から神の霊とその最高の恵みである永遠の命をいただくことができるとイエスは言っているのだ。何と驚くべき言葉であろうか。さらに、マルコによる福音書でもイエスはこう言っている。

4:20 良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。

つまり、神の言葉を聞いてそれを受け入れるなら、「ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶ」とイエスは言っているのである。つまり途方もなくたくさんの恵みをいただくことできるとイエスは言っているのである。

 ここまで学ぶなら、なぜ神の言葉に耳を傾けることが奉仕を実践することよりも重要なのか、はっきり理解できるであろう。神の言葉を聞いてそれを受け入れるなら、私たちは神とつながることができ、神から神の霊とその途方もなく豊かな恵みを頂くことができる。そうなれば、さらに豊かに人に奉仕することができるようになるだろう。自己犠牲的な愛を実践することさえできるかもしれない。だからこそ、神の言葉に耳を傾けることは自分の力で奉仕を実践することよりも重要なのである。

 私たちはいったいなぜ聖書を読むのだろうか。いったいなぜ日曜集会に出て聖書の言葉に耳を傾けるのであろうか。そしていったいなぜ聖書の講習会や講演会に参加するのであろうか。すべては、神の言葉に耳を傾け、神とつながるためである。神とつながることによって、神から神の霊とその恵をいただくためである。これは他の何よりも重要なことである。だからこそ私たちは聖書を読み、日曜礼拝に出席し、聖書の講習会に参加するのだ!

 

2.神の掟と人間の掟の違い

 それでは、神の言葉とはいったいどんなものであろうか。神の言葉には様々な形がある。例えば、掟、記録、預言、詩、格言、たとえ話、福音…である。この中で特に重要なのは、掟と福音であるが、今日は掟について少し詳しく学んでみよう。

掟とは、「~しなさい」とか「~してはいけない」とかいう命令の言葉であるが、神は人間に対していくつか重要な掟を提示している。そしてこの神の定めた掟は人間の定めた掟とはぜんぜん異なるものである。いったい何が異なるのかと言えば、目的が全然異なる。人間の定めた掟はすべて人間の欲望を実現するために定められた命令(法律、条約、交通規則、法人の定款・・・)であるのだが、神の掟は神の御心である愛を実現するために定められたものなのである。だから、神の掟はしばしば人間に欲望を捨てまで愛を実行するように命じる。

 例えば、マタイによる福音書でイエスはこう述べている。

6:31 だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。

6:33 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。

6:34 だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」

「『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな」、「明日のことまで思い悩むな」とイエスは言う。おいしいものを飲み食いしたい、きれいな服を着たい、明日もまたおいしいものを飲み食いし、きれいな服を着たい、これらは全て人間の普通の欲望である。だから人間の定めた掟は全て、これらのことを実現するための命令である。ところがイエスは、そのようなことで思い悩むなと言う。そのようなことを目的として生きるなと言うのだ。そしてこう命じるのである。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」と。神の国と神の義を目的として生きろと。神の国とは神の御心である愛が実現される世界のことであり、神の義とは神の御心である愛を実行することである。神の御心である愛を実行する生き方をし、それが実現される世界を目指して生きる。これこそ自分の欲望を捨ててまで目指すべき人生の目標だとイエスは言うのである。これは、人間の定めた掟とはなんと異なることであろうか。

 もう一つ典型的な神の掟をあげよう。やはりマタイによる福音書でイエスはこう命じている。

5:43 「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。

5:44 しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。

「隣人を愛し、敵を憎め」、これこそは人間の定めた掟の典型である。世界中の憲法のほとんどは、自分の国の民を守るために軍隊を持ち、敵国の国民を殺すことを容認している。そして世界中の刑法は自分に危害を加えた人々を処罰することを容認している。ところが、イエスはそれらとは真逆のことを命じている。敵国の国民や自分に危害を加える者のために祈れと命じるのである。たとえ危害を加えられても、その敵を赦し、愛し続けよと命じるのである。ここには自分を守ろうという発想がない。あるのは自分を捨ててまで神の御心である愛を貫徹しようという精神だけである。これまた何と人間の定めた掟と異なっていることであろうか。

このような神の掟の総まとめが、最も重要な掟に関するイエスの教えである。やはりマタイによる福音書でイエスはこう命じている。

22:37 イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』

22:38 これが最も重要な第一の掟である。

22:39 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』

22:40 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」

最も重要な神の掟は『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』であるとイエスは言う。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして』とは全身全霊でということであり、要するに、自分の欲望を捨ててまでということである。つまり自分の欲望を捨ててまで神を愛することが最も重要な神の掟なのだ。続けてイエスは二番目に重要な神の掟は『隣人を自分のように愛しなさい』であると言う。「隣人を自分のように愛する」とは自分への愛を他者に向けるということであり、これまた要するに自分への愛を捨ててまで相手を愛するということである。

つまり、自分を捨ててまで神を愛し、自分を捨ててまで隣人を愛することが聖書全体の基本をなす最も重要な掟なのである。これまたなんと人間の定めた掟と異なっていることであろうか。

 

3.神の言葉の力

 ところが、このような神の掟のすごいところは、人間の定めた掟とかけ離れているからこそ、私たちの心に何か熱い思いを湧きたたせるということである。「『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」とイエスから言われると、そんなことできるはずがないと思いつつも、心に何か熱いものがこみ上げてこないだろうか。「しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」についても同じだ。イエスからこう言われると、そんなことできるはずがないと思いつつも、心に何か熱いものがこみ上げてこないだろうか。『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』とイエスから言われても、『隣人を自分のように愛しなさい』とイエスから言われても、同じことが起こる。そんなことできるわけがないと思いつつも、何か熱いものが心にこみ上げてくる。そして確かにこれは真理だ、そのように生きられたら最高だ、と思わされてしまう。そうなのだ。神の掟は私たちの心に確かに愛への熱い思いを湧きたたせる。私たちの肉の思いは神の掟を拒否するのだが、私たちの心の奥に潜む私たちの霊は神の掟に反応して、熱くなるのである。これこそ私たちが神の言葉を通じて、神とつながる瞬間だ。このときにこそ私たちの霊は知らず知らずのうちに神の霊をいただき、神の霊によって動かされているのだ。

 そこで春風学寮が皆さんに望むことは、神の掟に真剣に耳を傾けることによって神とつながり、神から神の霊をいただきながら、神の掟に促されて、神の御心(愛)の実現を目指して生きることなのだ。自分の欲望を目指すことを目的として造られた人間の掟にいくら耳を傾けても、何も起こらない。ところが、純粋に神の御心である愛を目指すことを目的として定められた神の掟に真剣に耳を傾けるなら、私たちは神とつながることができる、神とつながり神から神の霊をいただくことができる。このようにして神の霊を受けつつ、それに促されて愛の実現を目指して生きていこうとする。これこそ、春風学寮が皆さんに望むことである。

 

4.神の言葉と実存的に向き合う

 ところで、神の言葉に真剣に耳を傾けるとはどういうことであろうか。その第一は、先日読書会で学んだ「センス・オブ・ワンダー」(驚きの感覚)をもって神の言葉に耳を傾けることである。神の言葉は驚きに満ちている。私たちの常識を破壊するようなことを神は絶えず語りかける。私たちの常識を破壊するような神の言葉に驚くこと、これこそ神の言葉を読むときに最も重要な態度である。今日引用した言葉の数々も驚きの連続であるはずだ。それらの言葉に驚くことこそが神の言葉を通じて神とつながるための第一歩であると言えよう。

しかし驚いているだけでは、神とつながるところまで到達しない。そこで次に重要になるのは、実存的態度で耳を傾けるということだ。皆さんは実存という言葉を知っているだろうか。キュルケゴールやサルトルが実存主義を唱えたということくらいは高校の倫理の授業で習ったであろうが、それでは実存とはどういうことかとなると、ほとんどわからないのではなかろうか。

 この言葉をきちんと理解するためには、先ずは観照という言葉を理解する必要がある。観照とは、真理を外側から客観的に捉えようとする態度のことであり、簡単に言えば観察者的態度(批評家的・研究者的態度)のことである。アリストテレスが人間の最も高度な活動は観照であると述べて以来ヘーゲルに至るまで、西洋哲学は観照すなわち観察者的態度(批評家的研究者的態度)によって客観的に客観的真理を追究してきた。これによって学問や科学の基礎が固まったのだから、観照(観察者的態度)が重要であることに間違いはない。

しかし、このような西洋哲学の流れに反旗を翻したのがキュルケゴールであった。キュルケゴールは、≪客観的真理なんて自分には何の意味もないし、真理を客観的に捉えようとする観照(観察者的態度)もまた自分には何の役にも立たない。なぜなら、いくら客観的真理を追究したところで、自分の悩みは解決しないし、自分が幸せになるわけでもないのだから≫と主張した。そして、≪自分にとって意味があるのは自分にとっての真理(主体的真理)であり、それを示してくれるのは自身の主体的な選択に基づく実体験だけである≫と主張したのだ。このようなキュルケゴールの態度、つまり≪自身の主体的選択に基づく実体験によって確かめられる主体的真理を追究する態度≫こそが実存的態度である。この実存的態度によって人間は客観的真理という呪縛から解き放たれ、自身の真実を自由に追求していけるようになった。つまりそれぞれの個性をのびのびと伸ばせるようになったのだ。だから、実存的態度もまた観察者的態度と同じくらい重要なのである。

それでは、神の言葉に耳を傾ける場合、どちらの態度で耳を傾けるのが重要なのであろうか。学術的な文献や雑誌を読む場合にはもちろん観察者的態度(観照)が重要だ。しかし聖書を読み神の言葉に耳を傾ける場合には、観察者的態度でそれと向き合ってもほとんど意味がない。こと神の言葉については、実存的態度で向き合うことが重要なのである。つまり、その言葉が自分にとってどういう意味があるのか、自分の実体験に照らし合わせながら自分にとっての真実(主体的真理)を追究しながら読んでいってこそ神とつながるという驚くべき体験を味わうことができるのだ。

 と言われてもよくわからないであろうから、実例を示そう。イエスは「敵を愛しなさい」と述べたがこの言葉に観察者的態度で向き合うとどうなるか。「はたして敵を愛するということは倫理的に正しいであろうか。このようなことを述べた聖人も哲学者も他にはいない。だとすれば、これはイエスの自分勝手な教えなのではないか。それとは別に、敵を愛するということは現実的に可能であろうか。現在の状況からしてとてもできそうにない。そんなことを今実行すれば個人も国家も崩壊するであろう。では過去にはどうだったのであろうか。今まで敵を愛した人や国はあったのであろうか。あったとすれば、彼らは一体どういう運命をたどったであろうか。歴史的に見て敵を愛した個人や集団が繁栄したためしはほとんどない。だとすれば、敵を愛するなどというのはただの理想論だ。」これぞ観照(観察者的態度)である。ここには自分はどうなのか、自分ならどうするかという体験的問いかけが全くない。あるのは外的な情報に基づく分析ばかりである。

対して、実存的態度でこの言葉(敵を愛しなさい)と向き合うとどうなるか。「これはハッとさせられる言葉だ。今まで私は敵を愛したことがあるだろうか。一度もないのではないか。そう言えば自分が敵であるときに自分を愛してくれた人がいた。例えば母だ。母は自分がどんなに反抗しても自分を愛し続けてくれた。なぜ母にはそのようなことができただろうか。自分にはとてもそんなことはできない。自分は敵をひたすら憎み、切り捨ててきた。しかしこのままで自分はいいのだろうか。敵を愛するということには、自分の知らない意味があるのではないだろうか。こんな自分を愛し続けてくれた母なら少しはその意味を知っているかもしれない。今度母に会ったらそのことを聞いてみよう。」これこそ実存的態度による神の言葉との向き合いである。ここにあるのは、自分はどうなのか、自分ならどうするかという体験的問いかけのみである。外的な情報による分析は一切ない。

 さて、改めて問おう。神の言葉と向き合う場合に必要なのはどちらの態度であろうか。もちろん後者である。観察者的態度で向き合うこともある程度は必要だが、この向き合い方だけでは、決して神とつながることはできないし、神から霊的恵みをいただくこともできない。神の言葉がその真価を発揮するのは、私たちが実存的に神の言葉と対峙するときだけなのだ。

 だから皆さんにはぜひともセンス・オブ・ワンダー+実存的態度で神の言葉と向き合うよう努力してほしい。

 

話し合い

 

I君「僕は今までずっと聖書に対して観察者的態度で向き合ってきました。今も前半は、観察者的態度で向き合い、いろいろと反論を考えていました。しかし後半にきてハッとさせられました。自分は全く実存的に聖書の言葉と向き合ったことがなかったと。」

寮長「すごい。そのように反省するのは非常に難しい。自分の欠点と向き合うことですから。君がそのように思っただけでも、今日話をした甲斐があったというものです。」

K君「昨日高橋哲夫さんと話をしたのですが、高橋さんによれば、≪現代の人たちは観察的態度すら持てない、シニシズム(冷笑的態度)に陥っている、全ての社会問題から目を背けて、それを真面目に考えようとする人たちを馬鹿にするだけだ」ということでした。こういう人たちをいったいどう変えていけばよいのでしょうか。内田樹さんは、≪高橋さんの批判は現代人には酷すぎる。彼らのことをそのように批判すれば、自殺者が増える≫と言っています。いったいどうすればよいのでしょうか。」

寮長「これは難しい。しかし、今日の実存的態度が参考になると思います。観察者的態度で外側から現代人のことを批判しても、事態は悪化するだけでしょう。自分の問題として、自分の中にもシニシズムがあることを自覚して、なぜ現代人はシニシズムに陥るのだろうと考えていったときに、初めて何かが起こるのだと思います。」

K君「もう一つ質問があります。自分は原発問題にはまさに実存的態度で取り組んできましたが、他の問題には目をつぶってきたところがあります。例えばイスラエルとガザのことには少しも実存的にコミットしていません。これでよいのでしょうか。高橋さんは、≪どの問題に真剣に取り組むかは選ばなければならない。そして選ばなかった問題については、それを選ばなかった責任を引き受けていくしかない」と言っていました。それでよいのでしょうか。」

寮長「良いとは言いませんが、やむを得ないと思います。一人の人間には限界があります。あれにもこれにも実存的に取り組んでいたら、気が狂ってしまうでしょう。一人が受けもてる修羅場は一つだけという言葉を私は無教会の先輩から教わりました。ただ、他の方面にも関心は持ち続け、その方面に真剣に取り組んでいる人と連絡を取り、協力体制を築くことは必要でしょう。」

S君「自分は今まで聖書のことを遠い昔の話で、自分には対して関係がないと思っていました。だから非常に大胆なことが語られていても、少しも驚きませんでした。しかし自分もその場にいるかのように想像し、自分への語りかけとして聖書を読めば、きっと驚きの連続であることでしょう。」

寮長「そうです。それが実存的に読むということです。私は先ほど驚く方が先であるかのように説明してしまいましたが、実存的に読まなければ驚きなど生じない、実存が先で驚きは後というのが真相であるかもしれません。いや~、実に良い指摘をしてくれました。他には何か、心に残ったところはありますか。」

S君「『私たちの肉の思いは神の掟を拒否するのだが、私たちの心の奥に潜む私たちの霊は神の掟に反応して、熱くなる』というのは本当にそうだと思いました。イエスの言葉に接すると、いつもそのような体験をさせられます。」

寮長「でしょう。ところが多くの人は、肉の思いだけを残して霊的反応は切り捨ててしまう。実に残念なことです。皆さんには両方の感覚を大切にしてほしいと思っています。」