イエスはなぜ悲しみ悶えたのか(小舘)

2024年7月14日春風学寮日曜集会

聖書 マタイによる福音書26:36-46

1.解説

①イエスはなぜ悲しみ悶えたのか

26:36 それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。

26:37 ペトロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。

26:38 そして、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」

26:39 少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」

*まずは言葉の問題から。「悲しみ悶える」という言葉は、原語の古代ギリシア語では、ルペオウとアデモネオウが合わさった言葉で、ルペオウはおもに死を「悲しむ」という意味であり、アデモネオウは不安に「恐れおののく」という意味である。

*それでは、いったいなぜイエスは「悲しみ、恐れおののき」始めたのであろうか。その理由を教えてくれる言葉は、39節の「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」という祈りである。「杯」とはどう見てもこれからイエスに襲い掛かろうとしている死のこと、もっと言えば十字架のことである。イエスは、十字架にかかることを免れさせてくださいと神様にお願いしているのである。なんとイエスが、十字架にかけられることを拒否しようとしているのである。だとすると、イエスが悲しみ、恐れおののいているのは十字架のためであるということになる。そうなのだ。イエスはまさしく十字架にかけられることを悲しみ、恐れおののいたのである。

・しかしここで重大な疑問が浮上する。イエスは何度も自分は復活すると言っていた。そのようなイエスが十字架をそれほどに恐れたであろうか。もし復活すると分かっていたのなら、十字架に掛けられることを悲しみ、恐れおののく必要などないではないか。いったいなぜイエスは自分が復活すると分かっていたにもかかわらず、ここで悲しみ恐れおののき始めたのであろうか。そして十字架を免れさせてくださいと祈ったのであろうか。これは、学者や聖職者たちを悩ましてきた神学上の大問題であり、いまだにそのはっきりとした答えは見出されていない。であればこそ、全ての人がこの問題について自分なりに神から答えをいただいていく必要がある。以下は、私が与えられた解釈である。

*この大問題を解明するためのヒントを与えてくれるのは、すでに学んだ十字架の意味である。イエスが進もうとしている十字架の道は、弱さによって善を実現しようとする道であった。敵をも赦す比類ない愛とすべてを神に委ねようとする神信頼によって、力を行使せずに人の心を変えていくことによって善を実現しようとする道であった。

・しかし、もしイエスがこの道を歩み、十字架に掛けられてしまうなら、残された弟子たちはいったいどうなってしまうのだろうか。自分に従って来た貧しい女たちはどうなってしまうのであろうか。自分を信じるようになった従順な弱者たちはどうなってしまうのであろうか。彼らは一切の希望を失い、あるいは律法を破ったということで自分のように殺されてしまうかもしれない。イエスはこうしたことで猛然と悩み苦しんだに違いない。

・それだけではない。このときには恐らくサタンの声が聞こえてきたであろう。「お前が十字架にかからずに、その力を発揮して戦えば、お前の弟子たちは皆死ななくても済むのだぞ。それなのになぜ十字架にかかろうなどという馬鹿げた考えを起こすのか」と。思い出してほしい。イエスは人生のスタートラインにおいて砂漠でサタンから誘惑を受けていた(マタイ伝4章)。「石をパンに変えて命を救ったらどうだ」と。「神の力を使って命を救ったらどうだ」と。「権力によって命を救ったらどうだ」と。そのサタンが、再びイエスにささやきかけてきたに違いない。「お前がその力を行使して戦い、弟子たちや女たちや弱者たちの命を救ったらどうだ」と。

・この誘惑は強烈であったに違いない。であればこそイエスは、もう一度一人きりになって神に問い直さざるを得なくなったのだ、「わたしが十字架にかかることが本当に愛の道なのでしょうか」と。そうであればこそ、十字架にかかる直前、エルサレム神殿のすぐ裏手にあるゲツセマネでイエスは最後の祈りを捧げなければならなかったのだ(地図11)。そして弟子たちや女たちや弱者たちを見捨てる悲しみと恐れを神様にぶつけ、その是非を問い直さざるを得なくなったのだ。

・さらに言えば、弟子たちや女たちや弱者たちを犠牲にしてまで赦そうとしている相手は、自分を裏切ったユダであり、自分を殺そうとするユダヤの支配者たちであり、ローマ帝国なのである。このような連中を愛し抜くために自分の仲間たち全員を危険にさらしてしまってよいのであろうか。イエスは猛然と悩み苦しんだに違いない。

*あえて一言でまとめるなら、仲間を犠牲にしてまで敵を愛し抜かなければならない、そのゆえにこそ、イエスは十字架にかかることを死ぬほどに悲しみ、恐れおののいたのである(ルカによる福音書22章の並行記事には「汗が血のように滴り落ちた」とある)。しかし、これほどに悲しみ恐れおののいているにもかかわらず、イエスの祈りは「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」と結ばれている。イエスの心の中では、最終的には他の何よりも神の御心が優先されていたのだ。

②敵を愛すべく祈れ

*ところでイエスはここで、弟子たちのうちの8人は少し離れた所に座らせておいて、3人だけを伴い、3人の前で悲しみ始め、3人に「ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい」と命じている。これはいったいなぜなのだろうか。

・当時の状況をよくよく考えてみれば8人については推測できる。ユダはすでにユダヤの支配者たちのもとへ駆け込み、イエスの探索を開始させていた。だとすればいつ何時彼らがイエスのもとに襲い掛かって来るかわからない。しかし、イエスは十字架を前にしてなんとしても神に祈りを捧げたかった。だからこそイエスは、八人の弟子たちを見張りにたてたのであろう。彼らを座らせたのは、目立たせないようにするためであったにちがいない。

では3人についてはどうか。共について来るように命じられた3人は、「ペトロおよびゼベダイの子二人(ヤコブとヨハネ)」であり、彼らはイエスの最愛の弟子たちであった。ここには何か特殊な理由があるに違いない。

・その理由を教えてくれるのは、「目を覚ましていなさい」という命令である。「目を覚ましている」ということは、単に起きているということではない。では、「目を覚ましている」というのは一体どういうことなのであろうか。

*「目を覚ましていなさい」という言葉が最初に使われたのは24章であった。その意味を説明してくれるたとえは、「忠実な僕と悪い僕」である。

24:45 「主人がその家の使用人たちの上に立てて、時間どおり彼らに食事を与えさせることにした忠実で賢い僕は、いったいだれであろうか。

24:46 主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。

24:47 はっきり言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。

24:48 しかし、それが悪い僕で、主人は遅いと思い、

24:49 仲間を殴り始め、酒飲みどもと一緒に食べたり飲んだりしているとする。

24:50 もしそうなら、その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、

24:51 彼を厳しく罰し、偽善者たちと同じ目に遭わせる。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」

このたとえによれば、「目を覚ましている」とは主人の言ったとおりに使用人たちを大切に扱っていることであり、言い換えればイエスの教え通りに愛を実践していることである。対して「眠っている」とは主人の言葉を守らずに使用人たちを粗末に扱うことであり、言い換えればイエスの教えに背いて愛とは反対のことを行っていることである。

・二回目に「目を覚ましていなさい」という言葉が使われたのは、以前に読んだ25章の「十人のおとめ」のたとえである。ここにおいても「目を覚ましている」とは、主人のいない間に油を切らさずランプの灯をともして続けておくことであり、すなわち愛を実践していることであった。他方、「眠っている」とは油を切らしてランプの灯を消えさせてしまうことであり、これまた愛の実践を怠っていることであった。

・つまり、「目を覚ましている」とはイエスの教え通りに愛を実践していることであり、「眠っている」とはイエスの教えに反して愛とは反対のことをやっていることなのだ。

・これらの言葉の意味が分かるなら、なぜ最愛の弟子たちに「目を覚ましていなさい」と命じたか、その理由が分かってくる。イエスは彼らに単に起きていることを命じただけではなく、今襲ってくるかもしれない敵と戦うという誘惑に打ち負かされず、彼らを愛するように命じたのである。そしてそのような愛を敵に対して実践できるよう、神に祈るように命じたのである。イエスは最愛の弟子たち3人なら、ひょっとするとそれができるかもしれないと思った。だからこそイエスは、最愛の三人だけをそばに置き、「目を覚ましていなさい」と命じたのだ。

③イエスと神の対決

26:40 それから、弟子たちのところへ戻って御覧になると、彼らは眠っていたので、ペトロに言われた。あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。

26:41 誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」

26:42 更に、二度目に向こうへ行って祈られた。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」

26:43 再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。

26:44 そこで、彼らを離れ、また向こうへ行って、三度目も同じ言葉で祈られた。

26:45 それから、弟子たちのところに戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。

26:46 立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」

*イエスが祈りから戻ってくると、弟子たちは眠り込んでしまっていた。「眠っている」ということは、愛を実践できるように神に祈れなかったということであり、それは本質的には愛と反対の方向に向かっているということである。実際問題として彼らは、イエスが死ぬほどに悲しみ、恐れおののいているのに、それに気づきもしていない。この事実は、彼らが愛とは違う道を進もうとしていることをはっきり示している。

・そしてこれこそがイエスの祈りに対する神の明白な応答であった。つまり、弟子たちが祈りもできずに愛とは反対の方向に向かっているという事実こそがイエスが十字架にかからなければならないという神の答えを表しているのだ。恐らくイエスは弟子たちが眠っているのを見て、これこそが神の答えであると気付いたであろう。それでもイエスは弟子たちや女たちや弱者たちのことを見捨てることができなかった。だからこそ、イエスは「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い」と命じて、再び祈りに行ったのである。この命令の意味は、やはり愛の実践命令であろう。「心は愛に燃えていても、肉体は弱いので力による戦いへと向かってしまう、だから、そのような誘惑に負けぬように神に祈りなさい」とイエスは命じたのではないだろうか。恐らくこれはイエスの渾身の命令であり、イエスの下した命令の中で最も切実な命令であったろう。この切実な命令を下してイエスは再び祈りに向かう。

・ところがイエスが祈りから戻ってみると、弟子たちは再び眠りこけていた。これはもはや決定的な神の応答である。神は弟子たちの眠りを通じて、イエスが十字架にかからざるを得ないことを今やはっきりと示したのだ。それでもイエスは諦めず、再び神に祈りに行く、「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように」と。それほどにイエスの仲間への愛は強いのである。ところが祈りから戻ってみると、弟子たちはまたもや眠りこけている。弟子たちはついに一度も目を覚まして祈り続けることができなかったのだ。

・こうしてイエスは完全に十字架につかざるを得なくなった。イエスの最愛の弟子たちですら、神に祈りつつ愛を実践するという道を歩むことができないのだとすれば、他の誰にそのような道を歩むことができようか。このさりげない出来事は、実は、人間全員が愛とは反対の道を歩み続ける罪人であることを指し示す出来事であったのだ。人間は自力で愛を実践できないどころか、そのために神に祈り続けることすらできない。だとすれば、イエスが十字架にかかる以外に人間を救う道(善を実現する道)はないではないか。イエスが十字架にかかることによって人間の心に律法を記す以外に、人間を救う道(善を実現する道)はないではないか。こうしてイエスの腹は決まった。「たとえ弟子たちや女たちや弱者たちが殺されようと、自分は十字架に掛からなければならない」と。こうしてイエスは聖書中最も悲しいセリフを言うことになるのである。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される」と。

 

2.メッセージ

①神の御心の優先

 今日の個所から受け取るべき第一のメッセージは、大事なことを決定する際には神の意志を最優先にして決定すべきだということである。私たちは普通大事なことを決定する場合には自分の意志(願い、欲望)を基準にして決定する。しかしイエスはそうではなかった。自分の願いがどのように正しく合理的にみえようとも、最終的にはそれよりも神の意志に従って物事を決定しようとした。この態度をまずは見習わなければならない。

 神は私たち自身よりも私たちのことをご存じである。だから、神の意志は私たちから見ればおかしいように思われるが、実を言えば神の意志に従うことこそが、私たちにとって最善の道なのである。

②神との真剣なぶつかり合い

次に学ぶべきメッセージは神との真剣なぶつかり合いの必要ということである。神の意志を最優先すべきだと言っても、神の意志が何かなど簡単にわかるわけではないし、神の意志が仮に示されたとしても、安易にそれに従うのが最善であるわけではない。神の意志を最優先するためには、自分の意志を神に告白し、神と真剣に対話する〈ぶつかり合う〉必要があるのだ。イエスは自分が十字架に掛けられることが本当に神の意志であるのか繰り返し神に問い続け、自分の仲間を苦しませたくないという自分の願いを繰り返し神にぶつけた。悲しみ恐れおののきながら。このような神との真剣な対話の末に、イエスは心から納得して神の意志に従ったのだ。

私たちも同じだ。神の意志を最優先する場合にはそれに心から納得していなければならない。そのためには神に自分の願いをぶつけ、神と真剣に対話する必要があるのである。自分の願いをぶつける神との真剣な対話こそは、本当の祈りである。

③自分の仲間を犠牲にする道が果たして正しいのか

最後に受け取るべきメッセージは、自分の仲間を犠牲にする可能性がある道を取ることが果たして正しい道なのか、問い続けよということである(疑問がメッセージ)。

神はイエスが十字架にかかるべきことを示し、イエスはそれを受け入れて十字架への道を選んだ。しかしその道は多くの仲間を犠牲にする道であった。このような道を取ることが果たして正しい選択なのであろうか。イエスの場合には、それはやむを得ぬ正しい選択であったけれど、私たちの場合には必ずしもそうとは限らない。例えば、仕事を突然やめて何か別のことをやり始めるという決断を下すなら、それは家族や周囲の人に大きな犠牲を強いることになるであろう。果たしてそれが正しい道であるのかはよくよく考えてみなければならない。そしてそれこそ神との真剣な対話を重ねたうえで判断されなければならない。

あるいは、憲法九条の問題。憲法九条に従って戦争を拒否し、非武装中立を貫く道を選んだとすれば、その道は国民に少なからぬ犠牲を強いるであろう。少なくとも国境で暮らす国民は侵略の危機にさらされるのは明らかである。このような道をイエスの十字架に倣って選び取ってよいものであろうか。この問題はよくよく神と語り合わないでは決して判断できない問題である。

 いずれにせよ、私たちがなすべき重大な決断には、しばしば多くの人々がかかわっている。その多くの人々のことを真剣に考え、自分がやろうとしていることはその人たちを犠牲にしてまでなされるべきことなのかを真剣に考える必要がある。イエスは敵を愛する以前に、仲間のために悲しみ、恐れおののくほどに仲間を愛した人であった。このことを今日の個所からは絶対に受け止めなければならない。

④神の答え

 それでは、神はどのように祈りに答えてくれるのであろうか。良心への声なき語り掛けにおいて答えてくれるのが普通であるが、直接的な事実を通じて答えてくれる場合もある。今日の個所では弟子たちの眠りがそれにあたる。イエスが弟子たちのもとに帰ると、その度に弟子たちは眠りこけているわけだが、これこそがイエスの祈りに対するか神からの明白な応答であった。このように神は事実を通じて、しばしば繰り返される事実を通じて、私たちに意志を伝えようとする。繰り返される事実がある場合には、そこには神の意志が込められているかもしれないので、よくよく注意を払いその意味を考えてみるべきであろう。

 

3.話し合い

Ma君「イエスは神に祈るうちに、仲間のために戦うことが必ずしも仲間のためになるわけではない、肉の命を守ることが必ずしも仲間の幸せにはつながらないと思いいたったのではないでしょうか。」

寮長「その通りだと思います。しかしそれは簡単に至った結論ではないでしょう。」

Go君「弟子がずいぶん不甲斐ないと思いました。」

寮長「確かにそうですが、私たちもきっと同じことをするでしょうから、彼らのことは責められません。」

Ue君「死への恐れ、死んで見捨てられることへの恐れもあったのではないでしょうか。」

寮長「あったと思います。しかしイエスが復活することを知っていたのだとすると、それが恐れの中心であったとは思われません。」

Ko君「僕は、イエスが悲しみもだえるのは、やはり死への恐れであると思っています。イエスも私たちと同じ死を恐れる弱い人間であった。そのように解釈すればこそ、イエスが私たちの弱さを分かち合ってくれると思い、イエスに慰められるのです。だから、今日の寮長の解釈はどうもしっくりきません。」

寮長「イエスが自分の復活を知らなかったのだとすれば、その解釈が妥当です。しかし、知っていたとするなら、その解釈は成り立たなくなる。復活を知っていた場合、イエスの死への恐れは私たちへの死への恐れと比べて、軽いものとなりますから。」

Ku君「イエスが自分の仲間たちを深く愛していたがゆえに、彼らを犠牲にすることを恐れたという解釈は新鮮で、説得力がありました。『レミゼラブル』のジャン・バルジャンが、元囚人であることを告白して市長を辞めたら、市民に犠牲が出ると考え、告白を躊躇しましたが、それとよく似ている気がしました。」

寮長「確かによく似ていますね。ユーゴーはゲツセマネでのイエスの苦しみを見抜いていたのかもしれません。」

It君「眠りこけてしまう弟子たちのことを読みながら、現代の若者のことを思い出しました。現代の若者はスマホのせいで、ほとんど人の話を聞かなくなっていますが、そのような若者の姿と眠りこける弟子たちが僕にはどうしてもダブってきてしまいます。」

寮長「なるほど。」

So君「寮長の解釈は、これまでの聖書の流れに沿っているように思われ、説得力がありました。イエスの王国を夢見てイエスについてきた人たち全員をイエスは裏切らなければならない。これはイエスにはとてもつらいことだったのではないでしょうか。」

寮長「そうだと思います。だからこのゲツセマネこそイエスの生涯のクライマックスであったと考える人もいます。十字架にかかることはこのゲツセマネで決定されたことの実行に過ぎないと。確かに霊的にはこのゲツセマネでイエスはすでに十字架につけられていたと言うことができます。」

Ya君「今までゲツセマネのシーンはずっと謎でしたが、今日の話はとても理解しやすく、頭にすっと入ってきました。仲間のことをあれだけ思いながらも、最後には御心に従うイエスが改めてすごいと思いました。」

寮長「そうなんです。その点を理解してほしかった。」

Mi君「イエスがただの人間であるなら、死が怖いと思ったでしょうけれど、神の子だとすればそれ以外のことを恐れたでしょう。要するにイエスをどう見るかですね。」

寮長「すごい。問題の核心に話が入ってきました。私の意見では、両方を考慮に入れつつ読む必要があると思います。イエスがただの人間だとするなら、それはそれで一貫した解釈ができるでしょうし、神の子であるとして読むならば、それも一貫した解釈を生み出すでしょう。しかし、そのようにして生み出された解釈は結構浅薄で面白くない。やはり両面を考慮しつつ読んだときに、初めて深く心を打つ解釈が与えられるのではないでしょうか。」

Ko君「イエスが本当に恐れていたのは肉体の死ではなく神から捨てられることだったのではないでしょうか。」

寮長「これまた話が深いところに入ってきました。これまでの通説はまさにそれであったと言ってよいでしょう。しかし、この強力な通説すらも、イエスが復活を知っていたとするなら、採用できなくなります。復活するということは神から見捨てられていないということになりますから。今日の私の解釈はそういう通説の限界を乗り越えようとして生まれてきたものです。しかしこれが結論というわけではありません。やはり最後は、納得できる解釈を各自が祈り求めていくべきでしょう。」