「神の愛の特質と実践」

マタイによる福音書18:10-17
2023年1月22日春風学寮日曜集会


1.解説
  今日の個所は有名な「迷い出た羊のたとえ」とそれに続く兄弟への忠告です。この二つの個所は意外なことに密接につながっています。先ずはテキストを細かく読んでいきましょう。

18:10 「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。
*「小さな者」とはどのような者であったか。それは、神により頼む以外にどうしようもなくなった者のことであった。病や貧困で苦しんでいる者、差別によって社会からはじき出された者、自身の罪や弱さのゆえに苦しんでいる者・・・、そのような神により頼むよりほかに生きる希望がない者、それこそが「小さな者」であった。その象徴は親に捨てられた(あるいは親を失った)子供である。この直前にイエスは、そのような子供を抱き上げて、この子供のように小さな者が天の国で一番偉いと言っていた。一番偉いとは、格上だという意味ではなくて、神様に一番喜んでもらえる、神様に一番愛されているというほどの意味である。神の本質はアガペーであるから、その愛はこの世で最も苦しんでいる者たちに注がれるのである。

・だからこそイエスは言う。「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい」と。イエスの弟子たる者は、神と同様に「小さな者」に最も目を注ぎ、彼らを大切にすべきだと、世の人々のように彼らを軽んじてはいけないと言っているのだ。
*ところで、後半は理解しがたい個所である。「彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいる」とイエスは言う。このようなことは事実であろうか。イエスが本当にこのようなことを言ったのであろうか。多くの学者は事実ではないと言い、これはマタイがユダヤ人に「小さな者」の大切さを教えるためにユダヤ人の天使思想を援用したに過ぎないと述べている。
ユダヤ人は、意外なことに詳細な天使論を持っており、人間にはそれぞれ守護天使が付いていると考えていた。だから、小さな者の天使たちはいつも神の「御顔を仰いでいる」(=神の御そばに仕えている)と言えば、ユダヤ人は小さな者らを大切にするであろうとマタイは考え、この語句を付け加えたと学者は推測するのである。
・おそらくその通りであろう。しかし、天使がいるかどうかなど話し合っても結論が出るわけではないので、この後半は無視すべきだと思う。
18:11 (†底本に節が欠落 異本訳)人の子は、失われたものを救うために来た。
*「失われたもの」とは「小さな者」と同じであり、次の「迷い出た羊」も「小さな者」の象徴である。これらの言葉によって、「小さな者」の意味は、神により頼む以外にどうしようもなくなった者の意味であるという解釈の正しさが確定する。

・イエスは神の愛に従って、まさしく神により頼む以外にどうしようもなくなった人々を救いにこの世に来たのである。
18:12 あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。
18:13 はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。
*九九匹の羊を放っておいて一匹を探しに行くというのは現代の常識では考えられないことだが、当時のユダヤ人には理解できることであった。その理由は以下の通り。

・ユダヤ人にとって羊はお金と同様に大事な生活の生命線であったので、たいていは村の共有財産であり、数人の羊飼いが村の羊をまとめて高原まで連れて行き草を食べさせた。ところでパレスチナの高原は南北に細長く三キロから五キロの幅で伸びていた。このために、羊はよくその両脇の崖から転落することがあった。だから、もし一匹の羊が行方不明になったなら、羊飼いの一人は他の羊のことは他の者に任せて徹底的に探しまわった。崖から転落したりしていたら一刻も早く救い出さなければならないからである。その探索はときには他の羊が村に戻った後まで続けられた。そして、もしその羊飼いが行方不明の羊を見つけ出して帰ってくるならば、村中の人が喜んで彼と羊を迎えた。つまりユダヤ人たちは、九九匹の羊のことは他者に預けて一匹の羊を探し回るということを日常的に行っていたし、一匹の羊が見つかったためにみんなで大喜びするということも日常的に体験していたのである。
・このようなことが頻繁にあったから、ユダヤ人たちは九九匹の羊をそっちのけにしておいて迷い出た一匹の羊を探しに行くというこのたとえをすぐに理解できた。それは安全を確保されている九九匹のことは放っておいて、危機にさらされている一匹を助けに行くことのたとえだと。
・つまりこのたとえは、「小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい」や「人の子は、失われたものを救うために来た」といった言葉を分かりやすく説明するためのたとえなのである。
18:14 そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」
*迷い出た羊のように小さな者でさえも神様は見放さずに救おうとしてくださる。これが神様の御心(愛)である。イエスは改めてメッセージを明確に伝える。

18:15 「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。
*一見「迷い出た羊」のたとえと全く異なる話のようであるが、実はメッセージは同じ(小さな者を大切にせよ)である。ただここでは、「小さな者」を具体的にどのように大切にすべきかというテーマが展開される。

・「兄弟」とは狭義にはイエスに従う者たち、イエスに従って神の御心(愛)を実践しようとする者たちだが、別にそのように限定して解釈する必要はない。同じ組織集団に属する仲間というほどの意味に解釈するのが良い。
・その仲間が「あなた」に罪を犯した場合には、自動的にその者は「小さな者」「失われたもの」「迷い出た羊」となる。罪を犯すことは聖書では滅びの道を歩むことであり、崖から転落するようなものなのだから。だから「あなた」は彼を全力で救わなければならないわけだ。では具体的にはどうすればよいのか。
*まずなすべきことは、皆の前でその罪を告発せずに、あるいは他の人にその罪を告げたりせずに、直接彼に伝え、忠告するということである。
・もしその忠告を相手が聞き入れ悔い改めたならば、「あなた」は「兄弟を得たことになる」。つまり「小さな者」を救い出したことになる。たとえて言えば、「迷い出た羊」を見つけ出したことになるのである。
18:16 聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。
*二人の対立は、喧嘩両成敗ということわざもあるように、両方が悪いということになりがちである。あるいは二人の個人的な争いであって他者はそれに口出しすべきではないということになりがちである。しかしこの一節は、そのように問題をあやふやにしようという態度を許さない。複数の証人を集め、事実関係を客観的に明らかにすることを求める。

・愛は決して罪をうやむやにして済ませてしまうことではないのである。罪と正面から向き合い、そのうえで悔い改めを導き、赦すことが愛なのである。
18:17 それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。
*「教会」とは直接的にはキリスト教徒の教会のことであるが、これまたそのように限定的にとらえる必要はない。組織集団一般ととらえてよいだろう。

・証人を集めても相手が罪を認めない場合には、その組織集団全員に訴えて、あるいはその組織集団のリーダーたちに訴えて、悔い改めを求めなさい、というのがこの前半の内容である。
全員でたった一人を救おうと努力することの大切さをこの前半は物語る。
*後半の「教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」という言葉は、要するに彼を組織集団から追放しなさいということである。
・ここに至り、これらの言葉が本当にイエスのものなのかが問題となってくる。そもそもイエスには、追放という発想はない。イエスは「失われたものを救うために来た」のであり、「小さな者」を大切にしろと言い続けてきたのだから。そのようなイエスが間違った者を追放しろというわけがない。
・加えて気になるのは、「教会」という言葉である。イエスの時代にキリスト教の教会はまだ成立していなかった。だからイエスが「教会に申し出なさい」という言葉を使ったとは考えられない。そう思ってみれば、「兄弟」という言葉も怪しい。イエスは確かに「兄弟」という言葉を使うがそれは神の家族の一員という意味であり、その射程はかなり広い。ところがここの「兄弟」はまるで教会内のキリスト教徒だけを指しているかのようだ。
・さらに、この後の21節からはじまるたとえでは、徹底的な赦しの必要が語られる。そこでイエスは無限に相手を赦せとペトロに説く。この言葉と16節の後半は完全に矛盾する。
・これらのことを考え合わせるなら、15~17節は後の教会の加筆であるとみて間違いない。
*だとしても、これらは教会員たちがイエスの教え「小さな者を大切にしなさい」を完全に実行しようとして奮闘し、その結果イエスの霊から与えられた言葉であろうから、決して軽んじることはできない。
 では、以上の個所にはどのようなメッセージが込められているのであろうか。(以下音声をお聞きください。

 

「神の愛の特質と実践」に関する話し合い

聖書個所:マタイによる福音書18:10-17

◆「迷い出た羊」のたとえ
18:10 「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。
18:11 (†底本に節が欠落 異本訳)人の子は、失われたものを救うために来た。
18:12 あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。
18:13 はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。
18:14 そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」

 ◆兄弟の忠告
18:15 「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。
18:16 聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。
18:17 それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。

C君「人間に見放されても神は見放さないということころに希望を感じました。」
M君「放蕩息子のたとえと似ていますよね。」
寮長「その通りです。ただ大きく違うところが一つあります。放蕩息子の父親は子供を待っているだけですが、このたとえでは羊飼いは必死で羊のことを探し回ります。このたとえには神様の愛の積極的な面が表されているのです。」
G君「自分は学年の後半になると、いつも信頼を失ってしまいます。皆から信頼されなくなるし、皆のことも信頼できなくなる。そのような自分には今日の話は身に染みました。今日のメッセージを実行して信頼関係を作り出していきたいです。」
O君「自分は先輩たちからいろいろと助けてもらったのに、同輩や後輩に対してはそういうことをしていない。特にI君に対しては見放してバカにするようなことをしてしまった。そのことを反省させられました。」
B君「社会から認められないが、個人的にはいい所を持っている人がたくさんいる。そういう人を積極的に認めていく必要があると思う。」
M君「クリスチャンは敵を愛しなさいと教えられ、そうだと認めるけれど、積極的・具体的に敵を愛そうとする人は滅多にいません。今日の個所はそういうクリスチャンに対して、具体的にどうすれば敵を愛することができるのかということへのヒントを与えてくれると思いました。ただ、最後の追放というところは、納得できませんが。」
O君「人を変えようとする以前に、自分が小さなことを誠実にこなしていくことが大切だと思います。そういう誠実さが自然に人に感化を与えていくのではないでしょうか。初めからこちらが正しくて相手が間違っているという視点に立って、人を変えようとしても何も変わらないと思います。」
寮長「それはその通りで全く正しいと思いますけれど、今日の個所からそこまで導き出せるか。16節の事実関係の確認というところに、実は自分の忠告のほうが間違っていたと忠告する側が悔い改める可能性が含まれているわけですが、しかしそこから自分の誠実さが人を変えるというところまでは導き出せないでしょう。O君が言っているのは、16節をさらに突き詰めていってはじめてあらわれてくる問題だと思います。考えを深めて先に進むことも大事ですが、先ずは聖書の言葉に近づき、そのメッセージに応答することを優先して読んでください。」