メシア(救い主)とは何か(小舘)

2023年10月29日春風学寮日曜集会

聖書個所 マタイによる福音書22:41-46

イザヤ書53章

 


 この直前の個所は、最も重要な掟について述べた個所であった。全身全霊で神を愛しなさい(正義の実行)、自分のように隣人を愛しなさい(赦しと憐みの実行)、この二つの掟こそ神の御心であり、これらに基づいて聖書は書かれていると。

 しかし、これら二つの掟を守ることは難しい。誰が全身全霊で神様を愛することができようか。誰が自分のように隣人を愛することができようか。そのようなことを志す人はごくまれであり、仮に志したとしても、これらを実行することは極めて困難である。

 だからメシア(以下救い主)が必要なのである。救い主が助けて下さって、初めて私たちにはこれらの掟の実行が可能になる。このことを知らしめるためにこそ、最も重要な掟の記事の後に今度はイエスがファリサイ派の人々に「救い主」について問いかけるのである。これはイエスによるファイリサイ派への反撃ではない。彼らに対する救いへの誘いである。

 

1.解説

22:41 ファリサイ派の人々が集まっていたとき、イエスはお尋ねになった。

22:42 「あなたたちはメシアのことをどう思うか。だれの子だろうか。」彼らが、「ダビデの子です」と言うと、

*メシア(救い主)がダビデの子孫から生まれるという預言は、旧約聖書にいくつかある。いや、読み方によっては、旧約聖書のいたるところにその痕跡を見つけ出すことができる。だから、「あなたたちはメシアのことをどう思うか。だれの子だろうか」というイエスの問いにファリサイ派の人々は当然ごとく「ダビデの子です」と答えた。

・ダビデの子孫から「救い主」が生まれるという預言の中から代表的なものを二つあげよう。一つ目はイザヤ書からの引用だ。

9:5 ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」と唱えられる。

9:6 ダビデの王座とその王国に権威は増し/平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって/今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。

「生まれた」「与えられた」と過去形に訳されているが、原文では預言的完了形と言われる時制が使われており、この時制は確実に未来に実現することを意味する。だからこれらの言葉は、「必ず生まれる」「必ず与えられる」とでも訳されるべき言葉である。つまり、この一節はまぎれもないダビデの子孫から「救い主」が生まれるという預言なのだ。

・ここで注目すべきことは、その救い主は「驚くべき指導者」であり、「力ある神」であるということである。つまり彼は、神のごとき知恵と力を以てユダヤ人を統治する現世の支配者なのである。

*次にエレミヤ書からメシア預言を引いてみよう。

33:14 見よ、わたしが、イスラエルの家とユダの家に恵みの約束を果たす日が来る、と主は言われる。

33:15 その日、その時、わたしはダビデのために正義の若枝を生え出でさせる。彼は公平と正義をもってこの国を治める。

33:16 その日には、ユダは救われ、エルサレムは安らかに人の住まう都となる。その名は、『主は我らの救い』と呼ばれるであろう。

33:17 主はこう言われる。ダビデのためにイスラエルの家の王座につく者は、絶えることがない。

「正義の若枝」こそは「救い主」のことである。そのような「救い主」をダビデの子孫のうちに造るとエレミヤは預言を述べる。ここで注目すべきこともまた、「救い主」は「公平と正義をもってこの国を治める」現世的な支配者とみなされていることである。

*これらの預言に従ってファリサイ派の人々を含むほとんどのユダヤ人(サドカイ派を除く)が、「救い主」は現世を知恵と力と正義をもって統治する支配者であると考えていた。イエスの問いに「ダビデの子です」と答えたとき、ファリサイ派の人々の頭にあったのは知恵と力と正義に満ちたこの世の支配者であった。

・これに対してイエスはまたもや驚くべき返答をする。

22:43 イエスは言われた。「では、どうしてダビデは、霊を受けて、メシアを主と呼んでいるのだろうか。

22:44 『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい、/わたしがあなたの敵を/あなたの足もとに屈服させるときまで」と。』

22:45 このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのか。」

*「主は私の主にお告げになった」とあるが、「主」とは神様のことであり、「わたしの主」とは「救い主」のことである。ダビデが「救い主」のことを「わたしの主」と呼んでいるのだから、「救い主」がダビデの子孫であるはずがない。「救い主」は太古の昔から働く霊的存在なのだ。イエスはそのことを指摘した。

・いったいなぜこのような答えをイエスは返したのか。現世を超えた霊的ビジョン(霊的視野)を持つことをファリサイ派の人々に期待したからである。この世の人間の肉的ビジョンから見れば、「救い主」は確かにダビデの子孫として生まれる。しかし天の神の霊的ビジョンから見るならば、「救い主」は太古より働く神の子であり、ダビデの主なのである。イエスは、そのような霊的ビジョンを持つことの重要さをユダヤ人の宗教的指導者であるファリサイ派の人々に気付かせようとしたのだ。

・「わたしの右の座に着きなさい、/わたしがあなたの敵を/あなたの足もとに屈服させるときまで」という神様の言葉も深い意味をたたえている。神様は「救い主」に実力を行使しないように言っているのだ。戦いは、神様ご自身が行うので、「救い主」は実力を行使する必要がないと。「救い主」はその気になれば実力を行使して悪人を滅ぼし、国を統治することができるのだが、それを控えるように言っているのだ。この言葉もまた、「救い主」の霊的資質を強調するための言葉とみてよいだろう。

・誤解してはならない。イエスは霊的ビジョンがすべてだと言っているのではない。霊的ビジョンも持つ必要があると言っているのだ。肉的ビジョンからすれば、確かに「救い主」はダビデの子孫である。そして最終的には、この世を支配するこの世の支配者となるであろう。このことは聖書の説く真理である。しかしこの世的なことが聖書の真理の全てではない。聖書にはこの世的な真理以外の他に霊的な真理もある。書かれている。そういう真理に対しても目を開くようイエスは誘っているのだ。

*もし霊的ビジョンをもって「救い主」のことを考えるなら、全く異なる「救い主」像が見えてくるであろう。すなわち肉的には敗北しながらも、霊的には勝利する救い主が見えてくるであろう。イエスはここでファリサイ派の人々を含む全ユダヤ人に、そのような「救い主」像にも目を向けるよう促しているのである。

・では、肉的には敗北しながらも霊的には勝利する救い主とはどのようなものであろうか。これもまた旧約聖書に預言されている。それが、イザヤ書の53章である。この53章こそは現世的支配者とは全く異なる霊的支配者としての「救い主」の到来を預言したものである。ところがユダヤ人たちは、この預言を全く無視してきた。なぜ無視してきたか。全く理解できなかったからである。現世的ビジョンしか持たないユダヤ人たちはこの預言を全く理解できなかった。だからこそ、数百年にわたりこの預言は無視されてきたのである。

・今、イエスはファリサイ派の人々を含む全ユダヤ人に向かって改めて「救い主」の霊的側面に目を向けるよう促している。この促しは「救い主」の霊的側面を余すことなく描き出したイザヤ書の53章に目を向けよという促しでもある。というわけで、以下53章を学んでみよう。

 

2.解説(続き)

53:1 わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。

53:2 乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように/この人は主の前に育った。見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もない。

53:3 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。

*ここに預言されているのは、結局は民衆や弟子にさえ見捨てられる「救い主」の姿である。この姿は後に十字架にかけられてボロボロになって死んで逝くイエスの運命と正確に符合する。

53:4 彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。

53:5 彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。・・・

「救い主」は自分の罪のゆえに苦しめられ、殺されてしまうように見えるけれど、実は全ユダヤ人の罪のゆえに、ひいては全人類の罪のゆえに、その身代わりとなって殺されるのだとこの箇所は言っている。

・イエスはこの預言の通り、ユダヤ人の指導者たちから罪人と見なされ、民衆からも罪人と見なされ、十字架にかけられた。

・しかし事実は全くそうではなかった。イエスの十字架において執行されていたこと死刑は、イエスの罪の処罰ではなく、神様に逆らい続けてきたユダヤ人全員の罪の処罰だったのである。

・このことを5節は驚くべき正確さを持って予言している。「彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった」と。(再び用いられている時制は預言的完了である。)

53:5 ・・・彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。

*しかし、この預言の中で最も驚くべき箇所はこの節の後半である。この箇所は、イエスの十字架において「救い主」が処罰処刑されることによって、ユダヤ人の心に平和が与えられ、ユダヤ人人間の心や体の傷が癒されると語ってことを予言している。つまりユダヤ人の罪は神様から赦され、神様との和解に基づく真の平和と健康(真の命)がユダヤ人に与えられると言っているのである。

・この預言の通り、後にイエスの十字架はそれを仰ぐ者に真の命を与える機能を発揮することになる。驚くべきことに人々は、イエスの十字架を見つめることによってそこに神の裁きと赦しを同時に見出し、平安を得るという体験を持つのである。つまり、イエスの十字架を見つめることによって魂が救われるという体験を持つのである。

このことを通じて彼らは最も重要な二つの掟を守れるようになっていく。イエスの十字架を見つめることによって平安を得た者は、全身全霊で神を愛する力と自分のように隣人を愛することができる力を与えられるのである。

・そしてこれこそが「救い主」の霊的勝利である。イエスは十字架にかけられることによってこの世的には敗北した。ところがこの敗北が霊的には人々に魂の救いをもたらした。そして人々に神と隣人を愛する力をもたらした。これこそが「救い主」の霊的勝利である。肉的には敗北しながらも、霊的には勝利する霊的救い主とはこのようなものである。

*ちなみにこの預言書が書かれたのは、イエスが十字架にかけられる約700年前である。十字架を見てもいない預言者イザヤが700年後に起こるイエスの十字架の本質的働きを正確に言い当てている。これまた驚くべきことだ。

53:6 わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。

*ここは4節~5節前半の繰り返しである。

53:7 苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。

53:8 捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。・・・

*ここで預言されているのは、「救い主」の従順である。「救い主」は自分の命を守ろうとして一切抵抗しない。神様が自分に負わせた使命を黙々と果たし、ユダヤ人の身代わりとなって処刑される。「屠り場に引かれる小羊のように」。このような従順は現世的意味からすれば無意味である。しかし霊的意味からすれば、勝利への道なのである。

・事実、イエスはこの預言の通り、完全に神への従順を貫いて、殺されていき、霊的勝利を得た。

53:8・・・彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか/わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり/命ある者の地から断たれたことを。

53:9 彼は不法を働かず/その口に偽りもなかったのに/その墓は神に逆らう者と共にされ/富める者と共に葬られた。

53:10 病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ/彼は自らを償いの献げ物とした。・・・

*今までに述べられたことの繰り返し。(「富める者」はイザヤ書の脈絡では、民衆を犠牲にして私欲をはから上層階級の悪者)

53:10 彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは/彼の手によって成し遂げられる。

53:11 彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する。

*神様の望みは、ユダヤ人の救いであり、ユダヤ人の救いとはユダヤ人が神様と和解し、なおかつ神を愛し、隣人を愛せる民となること。そのような神様の望みが「救い主」によって実現されると10節は述べる。そして「救い主」の霊はそのようにして神様の望みが実現するのを見て満足する。「救い主」の幸せはひとえに神様の望みが実現していくことにある。

・イエスはまさに神様の望みの実現を生涯の喜びとし、目的として生きた。先ほど確認したような完全な従順もここから生まれてくるのである。この意味でイエスはまさに「全身全霊で神を愛しなさい」という最も重要な掟を生きたのだ。他方神様の望みはユダヤ人に救いをもたらすことであった。そのような神様の望みを生涯の目的として生きたということは、イエスは二番目に重要な掟である「自分のように隣人を愛しなさい」をも完全に実行したことになる。つまりイエスの十字架は、最も重要な二つの掟の完全な実行であったのだ。

53:11 わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った。

53:12 それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで/罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった。

*「わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った」という言葉の動詞部分には、原文では未完了形が使われているので、ここは「自ら負うだろう」と訳すべき。つまり、「救い主」は罪人が赦されて、義人とされるために自ら罪人の罰を負って処刑されるということがここでは神様の視点から一層明確に述べられているのである。繰り返すが、これは最も重要な掟の完全な実行に他ならない。

・だからこそ神様は「救い主」の行為に完全に満足し、「救い主」に目を注ぐ者全員の罪を赦すことにする。「それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける」という言葉は、「救い主」を仰ぐ者を「救い主」の弟子として認め、そのことに免じて彼らの罪を赦すということである。

・この預言の通り、イエスの十字架の後には多くのユダヤ人たちが十字架を通じて神様の赦しを体験し、イエスの弟子となっていった。そしてイエスの十字架は異邦人に対しても力を発揮し、異邦人さえもイエスの弟子になっていくのである。その果てに現在21億人と数えられるキリスト教徒がいる。

 

3.メッセージ

①霊的ビジョン(視野)を持とう

まず第一のメッセージは、やはり霊的ビジョンを持てということである。現代人が持っているビジョンは科学的ビジョンであり、換言すればそれは物質的ビジョンである。それはそれで重要だが、それだけでは不十分である。なぜなら、そこからは人生の目的とか価値観とか生きるべき道とかいった重要な答えが出てこないからだ。このような重要な問題に答えてくれるのは、まさに霊的ビジョンである。

霊的ビジョンと言っても、それは死者の霊が住む霊界を見通すことではない。神の霊の働きを知り、神の声に耳を傾ける感性のことである。宗教を拒否し神を否定する現代人に決定的に欠けているのはこの感性である。だからこそ現代人は、先ほど挙げた重要な問題について何も答えることができず、ひたすら物質主義の延長でしか生きていくことができなくなっている。このような限界を乗り越えなければ、人類に未来などないし、深い幸福などつかめはしない。

②霊的勝利を目指せ

第二のメッセージは霊的勝利を目指せということだ。この世的な価値観によれば、勝利とは物質的に豊かなことであり、そのような豊かさを手にした者は勝ち組と呼ばれる。しかし、霊的ビジョンを持つならば、全く違う勝利が見えてくる。イエスの生き様を通じて、神様と隣人に喜ばれることこそが本当の勝利(霊的勝利)であるとわかってくるのだ。私たちの目指す勝利とはこの霊的勝利のことであり、この世で勝ち組になることではない。

物質的価値観で言えば、プーチンとか習近平とかトランプなどの人たちは勝ち組である。しかし、霊的ビジョンから見れば、これらの人たちは究極の敗者である。なぜなら彼らは、神様の御心に最も逆らう者たちであり、死者も含めた無数の人間から憎まれていることは明らかだからだ。現在彼らのもとで豊かな暮らしを満喫している市民たちでさえ、どこまで彼らのことを尊敬しているかはわからない。彼らが力を失えば、この市民たちはすぐさま彼らを見捨てるであろう。心の底から彼らを尊敬し、彼らのために命を捨てもよいと思う人など恐らく存在しない。これこそ霊的敗北である。

対して、世の中では負け組に分類されている人々の中にこそ、本当の勝利者がいる。そういう人たちは、神様を愛し、隣人を愛するために、物質的成功を捨てた人々である。例えば、この寮を建てた道正安治郎はかつての満州鉄道のエリートであり、満州鉄道全体の土台を設計した人である。その気になれば、満州鉄道総裁にもなれたであろう。ところが、軍部と共に歩む満州鉄道の方向に危惧を抱き、40歳そこそこで退社し、経堂の学生寮の運営に身を捧げてしまう。登戸学寮を建てた黒崎幸吉は住友製鋼所の副支配人をしていた人で、住友家から絶大な信頼を受けており、その気になれば住友財閥の中枢を担う人となったであろう。しかし妻の死をきっかけとして突然住友を辞め、聖書学者の道を歩み始め、以降は伝道に身を捧げてしまう。道正と黒崎、この二人はいずれもこの世での勝利者にはならなかった。しかし、なんと多くの弟子や学生たちから敬愛されたことか。そして彼らの志は今なお見ず知らずの人々によって受け継がれている。ここに神様の働きがあることは確実であろう。これらの結果こそは霊的勝利の実例である。

③十字架を仰げ

今日の個所から受け取っておくべき第三のメッセージは、イエスの十字架について深く学べということだ。すでに述べたように最も重要な掟二つを実行するのは難しいことである。言い換えればそれは、霊的勝利を得ることが困難だということだ。冒頭にも述べたが、霊的勝利というものは、人間の自力では達成不可能なものであり、「救い主」からの助けがあってはじめて達成できるものなのだ。

では、「救い主」からの助けはどうすれば得られるのか。十字架について深く学ぶことによって与えられるのだ。十字架刑を黙って受け入れるというイエスの行為は、それ自体が最も重要な掟二つ(「全身全霊で神を愛しなさい」と「自分のように隣人を愛しなさい」)の完全な実行であった。そのような十字架について深く学ぶならば、私たちは十字架に神様による罪の裁きと罪の赦しを同時に見出すことができる。そのとき私たちは、不思議なことに「救い主」から平安をいただくことができるのである。この平安は単に自分の罪が赦されたという平安ではなく、自分の罪が正当に裁かれた故の平安でもある。この平安によって私たちには最も重要な掟を実行する力が生まれてくる。その実例は、歴史をたどれば枚挙にいとまがない。私自身ですら、イエスの十字架を深く知るにつれて、平安をいただくことができ、愛する力を与えられるくらいだから。確かにイエスの十字架はそれを深く知る者の心に何かを引き起こす。そのことを体験せよ、と今日の個所は訴えているのである。

それは十字架を信じろと命じているわけではない。ただ深く知れと命じているのだ。十字架について深く知るならば、外から不思議な力がやって来る。信仰が始まるのはその後だ。

 

 

4.話し合い

S君「霊的勝利だけを目指すのではだめなのではないでしょうか。というのも物質的に余裕のある人が初めて十字架を学ぶことができるのであって、貧しい人たちは自分のことで精いっぱい。十字架のことにまで気が回らないと思うのです。」

寮長「確かにそういう面がありますよね。衣食足りて礼節を知るという格言もありますし。しかし、不思議なことに十字架の力はそういう人間的限界を突破します。十字架のことをよく理解する人は不思議にも貧乏や不幸のどん底にある人たち、頼るべきものを何も持たない人たちです。」

Y君「23章のいろいろなところが過去形に訳されているのは、キリスト教徒がイエスの十字架の救いを体験したからではないでしょうか。」

寮長「そうかもしれません。しかしイザヤの時代にはイエスの十字架などありませんから、その時代の視点に立って訳すなら、やはり未来を表す訳し方をすべきでしょう。」

M君「キリスト教徒がなぜ十字架を重視するのか、その理由がよく分かりました。そこに裁きと赦しが同時にあるというのは確かに深いですね。ところで、霊的勝利を強調し過ぎるのはよくないと思います。イスラエルなども霊的勝利を強調して、国民を戦争に駆り立てていますから。」

寮長「霊的勝利という概念は確かに、国民に命を捧げさせる聖戦のプロパガンダとして使用されがちです。しかしイスラエルの本音はただ土地が欲しいだけで、彼らが霊的勝利を本気で目指しているとは思えません。本気で霊的勝利を目指しているなら、隣人を殺すようなことをやるはずがない。霊的勝利とは隣人に喜ばれ、神様に喜ばれることなのですから。ですから、霊的勝利を目指すこと自体は悪いことではありません。悪いのはそれを利用して私腹を肥やそうとする人間たちです。そういう人間たちが悪いからと言って霊的勝利を目指さなくなるというのは、本末転倒でしょう。」

G君「バイトをしていると今日の話のようなことをよく体験します。物質的価値観からすると売り上げが上がることが良いことなのですが、果たしてそれでお客さんを喜ばせられているのかと疑問になるのです。やはり売り上げをあげることではなく、お客さんを喜ばせることを目的にしていかなければ。霊的勝利を目指すことはビジネスにおいても重要なのではないでしょうか。」

寮長「そうだと思います。そのことは、コビー博士が『七つの習慣』という本に書いていて、バブル以降のビジネスマンの間ではよく知られるようになりました。物質的成功は霊的成功の後について来ると。聖書も決して物質的豊かさを否定するわけではありません。ただそこに目的を置いてはいけないと言っているだけです。霊的勝利の後から物質的豊かさはついて来る。ついてこないことがあるとしても、神様からは祝福されると。」