婚宴のたとえ(小舘)

 

2023年9月24日春風学寮日曜集会

聖書:マタイによる福音書22:1~14

 

1.解説

22:1 イエスは、また、たとえを用いて語られた。

*「たとえ」は基本的に全体で一つのメッセージを語ろうとする物語であり、その一点以外は現実の事物にあまり対応していない。イエスはよく「たとえ」を語った。

・対してアレゴリーは、複数の点が現実の事物に対応し、複数のメッセージを含んだ物語である。筆者のマタイは、イエスの「たとえ」をアレゴリーに変えて記録している。以下はひとまずマタイの意図に従ってアレゴリーとして解読していこう。

22:2 「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。

*「王」は神様、「王子」はイエス、「婚宴」は「天の国」を表す(以下天国と混同しないよう「神の国」と記す)。「花嫁」は旧約聖書ではイスラエルの民、新約聖書ではキリスト教徒(教会)を表すが、ここは人類全体ととるべきであろう。「神の国」とは、キリストと人類が一つに結ばれる状態、すなわちキリストが人類と共にあり、キリストの命と義と愛が人類に与えられる状態である。人類がキリストによって救われた状態といってもよいだろう。この状態をマタイは「婚宴」にたとえた。

22:3 王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。

*「家来たち」は旧約聖書に出てくる預言者たち。「招いておいた人々」とはイスラエルの民(以下ユダヤ人たちと記す)。神様は預言者たちを遣わしてユダヤ人たちを「神の国」に招いたが、彼らはその招きを拒否した。この拒否はユダヤ人たちの罪を表す。

22:4 そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」』

*神様は拒否されたにもかかわらず再び預言者たちを送って、ユダヤ人たちを招いた。ここには神の愛の大きさ(赦し)が現れている。「すっかり用意ができた」とは、「神の国」を実現できるような歴史的状況が整ったということである。具体的にはアッシリアやバビロンの滅亡を意味していると思われる。

22:5 しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、

22:6 また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。

*ところがユダヤ人たちは再び「神の国」を拒否した。「神の国」よりも「畑」や「商売」の方が大事だと思ったのだ。ここに描かれているのはユダヤ人たちの誤った価値観である。命と愛と義が与えられる神の国は本来最優先されるべきものであるが、彼らはそれよりも富(物質的利益)を優先した。

・ここには、「神の国」よりも富を優先するユダヤ人たちの価値観への批判が込められている。

*「他の人々」とは、ユダヤ人の指導者たち。彼らは、神の国の大切さを述べ立て、他のもの(富、権力、名声、快楽)の価値を否定する預言者たちが目障りになり、預言者たちを殺してしまった(旧約聖書の預言書に書かれている通りである)。

・ここには、価値観の誤りが深刻な罪を引き起こすというメッセージが込められている。

22:7 そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。

*軍隊というのはローマ軍のこと。「その町」とはエルサレムのこと。謝った価値観の末に深刻な罪を引き起こしたユダヤ人たちに対してついに神様の怒りは爆発し、ローマ軍を使ってユダヤ人の中心都市であるエルサレムを滅ぼしてしまった。

・エルサレム滅亡の真の意味は、神の国からの永久追放である。このとき預言者たちを殺したユダヤ人たちは神様から永久に見放された。

・ここには神様の愛の大きさ(赦し)にも限界があるというメッセージが込められている。

22:8 そして、家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。

22:9 だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』

*町はすでに焼き払われているのだから、「町の大通り」というのは変。マタイは物語を通じて、物語以外のことを伝えようとしているので、物語の整合性にあまり気を使わない。

・「見かけた者は誰でも」とはユダヤ人以外の全員(異邦人)ということ。神様はもはやユダヤ人たちを神の国に迎えることを諦め、異邦人を「神の国」へと招くことにした。ここでの「家来たち」はイエスの弟子たちであろう。

22:10 そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。

*イエスの弟子たちは、神様に言われた通り、善人も悪人も区別せず、「見かけた人」(異邦人)はみな「神の国」へと連れてきた。だから、「神の国」は満員となった。

・ここで注目すべきことは、悪人も含めた誰もが「神の国」に迎えられていること、つまり「神の国」の価値を認めた者であるなら(正しい価値観を持った者であるなら)、全員が「神の国」に迎えられているということである。

・ここには、神の裁きの基準が罪を犯したか否か(善悪)から、神の国の価値を認めるか否か(価値観)に移ったというメッセージが込められている。

22:11 王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。

*「婚礼の服」とはキリストにつながっていることによって与えられる義のこと。たとえ悪人でも、キリストにつながっているなら義と認められる。だから、「婚礼の礼服を着ていない者」とは要するにキリストにつながっていない者のこと。

22:12 王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていると、

22:13 王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』

*「神の国」には悪人でも入れるが、キリストにつながっていることによって与えられる義の服をまとっていないなら、放り出されるのである。

・ここには、神の裁きのもう一つの基準が示されている。すなわちキリストにつながっているか否か。

22:14 招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」

*神様の愛は大きいので「神の国」には悪人も含むたくさんの人が招かれるのだが、そこにとどまることができる人は少ない。なぜなら、「神の国」が最も大切であると考える人は少ないし、キリストにつながり続ける人はさらに少ないからである。

 

2.メッセージ

このアレゴリーのメッセージは何であろうか。すでに解説の中で触れているが、もう一度おさらいしてみよう。

一つ目は、神の愛は大きく、多少のことで神様は人を見捨てはしないということである。それどころか、多少価値観の違う者や多少罪を犯した者でも赦し、神様は「神の国」へと迎えようとする。

二つ目は、そのような神様にも我慢の限界があり、それを超えたときには決定的な裁きが下される、すなわち「神の国」に迎えられなくなるということ。ではその際の神様の裁きの基準は何か。一つは価値観が正しいか否か。「神の国」よりも富、権力、名声、快楽の方が大事だという決定的に間違った価値観を持っている人は神の国には迎えられない。そもそもそういう人は「神の国」など望まない。望まない人にまで神様は「神の国」を与えない。二つはキリストにつながっているか否か。たとえ悪人であろうとも、キリストにつながってさえいれば、命は保たれ、悔い改めが生じる可能性がある。しかし、キリストから完全に離れてしまった人にはそのような可能性はない。ゆえに神様は、キリストから完全に離れた人は見放してしまう。

三つ目は、「神の国」にとどまれる人は少ないということ。正しい価値観を持っている人もキリストにつながり続けられる人も少ない。だから、「神の国」に迎えられ、なおかつそこにとどまれる人は少ないのである。

しかしこれらは、マタイのメッセージであり、イエスのメッセージではない。イエスの全体的な言動から考えるなら、イエスがこんなに厳密な裁きの基準を提示したとは思われない。そこで近代の学者たちは、イエスの言動全体に基づいて、イエスが本来語ったであろう物語を再現している。以下、それを紹介しよう。

 

ある男がかつて大きな宴会を催した。そして晩餐の時刻に、彼は僕を送り出し、招待客たちに言わせた、「来てください、もうすっかり準備ができました!」。すると皆がいっせいに言い訳を並べ始めた。最初の者が彼に言った、「私は土地を買いました。私はどうしてもそれを見に行かねばなりません。申し訳ありませんが、失礼させていただきます」。そして、次の者が言った。「私は二頭ずつ五組の牛を買いました、これからその品定めに行くところです。申し訳ありませんが、失礼させていただきます」。そして第三の者が言った。「私は(妻を一人)娶ったばかりです。ですから、私は伺うことができません」。そして僕は帰り、そのことを主人に報告した。すると主人は怒って、僕に言った。「急いで通りに出ていきなさい。そして出会った人を連れてきなさい。僕は、命じられた通りにした。そして家は一杯になった。客で大入り満員!(川島重成『イエスの七つの譬え』より)

 

この物語が、マタイの物語と決定的に違うところはどこだろうか。重点が裁きにないということである。マタイは神様の愛の大きさを認めつつも、その上で神様の裁きの最終的な基準を提示している。マタイの物語の重心は裁きにあるのだ。ところがこの物語の重心は裁きにはまったくない。神様に相当する「ある男」は一応怒りを表すのだが、招待を断った人たちを裁こうなどとは少しも思わない。裁きのことはわきに置いておいて、できるだけたくさんの人を「宴会」(神の国)に向か入れようとし、そしてついには神の国を大入り満員にしてしまう。つまりこの物語の重心は、裁きを超越した神の愛の途方もない大きさにあるのだ。

そのことを確認したうえで、この物語に込められたイエスのメッセージを取り出すならこうだ。≪神の愛は途方もなく大きいから、人間が仕事や結婚で忙しかったとしても、結局は僕を使ってご自身で神の国を実現してしまう。だから、私たちがどうしたら神の国に入れるかなどと考えて思い悩む必要などないのだ!

なんとぶっ飛んだメッセージだろうか。これこそイエスが本当に伝えようとしたメッセージだと思わないだろうか。マタイが示した神様の裁きの基準は確かに重要である。私たちはそれに基づいて自分たちの価値観を見つめなおし、イエス・キリストにつながることの重要さを考え直す必要がある。しかし、イエスの本質は裁きを伝えることではなくて、愛を伝えることである。私たちの知恵や想像を超えた神様の愛の驚くべき大きさと展開の仕方を伝えることこそイエスの本質なのだ。だから私たちは神の愛のすごさにただ驚けばよいのである。

 

3.話し合い

S君「山上の垂訓の八福の教えとその後の厳しい掟は全然違いますよね。これらはどのように整合するのでしょうか。」

寮長「これは鋭い。八福の教えは全ての人を神の国に受け入れようとする教えで、今日紹介したイエス自身が語ったとされる物語は八福の教えに基づいて復元されたものです。イエスには基本的に基準に基づいて裁くという発想がない。それでは、八福の教えの後にある厳しい掟は何を意味するか。これは裁きの基準となる掟というよりは、神の国はあなたがたのものだという八福の教えを受け入れた人の心に自然に生じる姿勢を言い表したものだと思います。だからこれらは命令形で訳すべきではない。「腹を立てないはずだ」、「復讐しないはずだ」、「敵を愛するはずだ」と訳すべきものです。神の国はあなたがたのものだという教えを受け入れれば、この世のしがらみから解放され、自ずから愛する心が出てくるのです。S君はどう思うのですか。」

S君「寮長と同意見です。八福の教えが先にあり、その後に掟が置かれているところに、そのことが現れていると思います。」

寮長「その通り。」

M君「マタイのメッセージを聞いた時は、非常に違和感を覚えました。価値観やキリストへの信仰があるかどうかで裁くなんておかしいと。しかし、イエスのメッセージを聞いて納得しました。聖書を読むときには、イエスまでさかのぼることが本当に大事なのですね。」

寮長「わかってくれてうれしいです。」

B君「価値観や信仰の有無が裁きの基準だったりするなら、キリスト教徒の間ではいじめが生じてしまうのではないでしょうか。」

寮長「これまた鋭い質問。そうなんです。実際キリスト教の教会には、自分たちの基準に合わない人々を排除・迫害してきたという負の歴史があります。そういう歴史を反省して内村鑑三は無教会という立場を唱えました。この寮はその無教会の流れを汲んでいます。」

O君「なぜマタイには、裁きの基準を設けてしまう傾向があるのでしょうか。」

寮長「これまた鋭い。今日は皆さん冴えていますね。イエスのメッセージ(全員が神の国に招かれている)を受け入れた人の中には、では悪いことをしてもよいのだと考えて、好き勝手をする人が出てきました。そういう人たちを抑えるために、マタイは裁きの基準のようなものを儲けて、それを守らなければ神の国に入れないぞと脅しをかけざるを得なくなったのです。しかしこれは間違っています。たとえ好き勝手なことをやる人が出てきても、裁きの基準を設けて恫喝して導くようなことをやってはいけません。「そんなことしていると地獄に落ちるぞ」と脅す宗教者がいますが、そのような言葉はイエスのものではありません。好き勝手をする人たちを導く方法は、イエスがしたように自分を犠牲にしてまで彼らのしりぬぐいをすることです。この寮は、基本的にそういう方法で秩序を保とうとし、結構成功しているでしょう。」