宮清めとは何だったのか(小舘)

宮清めとは何だったのか

2023年6月25日(日)春風学寮日曜集会

マタイによる福音書21:12-22

1.解説

21:12 それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。

*ロバに乗ってやってきた柔和な王イエス。彼がエルサレムに入るなり行ったことは「売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒す」ことであった。いったいなぜイエスはこのようなことを行ったのであろうか。この背後には、とてつもなく大きな問題があるので、それを明らかにしていこう。

・「両替人」とは何か。ユダヤ人は皆、過越祭の前までに銀貨半シュケルの神殿税を納めなければならない。ところが当時流通していたローマの銀貨には皇帝の顔が描かれていた(図52頁参照)。偶像崇拝を禁じる神殿にこのような銀貨を納めてよいわけがない。そこで、神殿税を納めるためには、ローマの銀貨をユダヤの銀貨に変える必要が出てくる。かくして神殿の境内には、ローマの銀貨をユダヤの銀貨に変える両替商が立ち並ぶことになったのである。彼らは少なからぬ手数料を取って莫大な利益を上げた。

・「鳩を売る者」とは何か。ユダヤ教(旧約聖書の律法)によれば、罪を赦してもらうためには神に動物のいけにえを捧げなければならない。しかもそのいけにえとなる動物は、無傷のものでなければならない。遠方から動物を運んでくれば、途中で必ず傷がつく。たとえ傷がついていなくても、神殿の検査官が難癖をつける。だから、いけにえとなる動物は神殿の近くで調達するほかはない。かくして神殿の境内には「鳩を売る者」の屋台がずらりと立ち並ぶことになった。鳩だけではない。羊や牛を売る屋台も立ち並んだ。裕福な者や重い罪を犯した者は、羊や牛をいけにえに捧げなければならないからだ。かくして彼らは、通常の15倍もの値段で動物を販売し、莫大な利益を上げていた。

・いったいどれだけの動物がいけにえに捧げられたのか。ローマ総督によって行われた63年の調査によれば、羊だけで約25万頭であった。ここから63年に過越祭に参加したユダヤ人の人数も概算できる。羊一頭は10人で捧げることになっていたから、羊を捧げた者だけで約250万人。牛や鳩を捧げた者を合わせると少なくともその倍の500万人が参加したであろう。

・これだけたくさんの人が参加したとなると、この祭りではとてつもない額のお金が動いたことになる。しかもここで注目すべきことは、神殿の境内で両替をしたり、動物を売ったりするには大祭司などの神殿の権力者から許可を得る必要があったということである。彼らは、許可を与える代わりに莫大なリベートを要求した。あるいは、彼ら自身の家族にこれらの店を出させることも多かった。こうして神殿の権力者たちは、莫大な利益を手に入れたのである。

*それだけではない。この背後の歴史的背景も学んでおく必要がある。紀元前63年、エルサレムはローマ帝国の支配下にはいった。ローマ帝国はこの頑固な民族の統治をヘロデ王の手に委ねた。ヘロデ王は政治的には辣腕で、神殿の権力者たちの権限を縮小し、ユダヤ地方に政治的安定をもたらした。ところが、そのヘロデが後継者を残さないままに死んでしまう。疑心暗鬼だった彼は、自分が後継者に任命した自分の息子まで殺してしまったからだ。こうしてユダヤ地方の支配権は、エルサレムの神殿権力者に戻ってくる。神殿権力者たちは、土地の集約に熱心で、様々な手段を用いて下層農民の土地を取り上げ、自分たちのものとしていった。当然彼らは自分の地方の土地から莫大な利益を受け取り、更には地方税においても莫大な利益を受け取ることになる。かくして、人口わずか4万のエルサレムにユダヤ全土の富が集中するという驚くべき事態が生じたのであった。他方、土地を取り上げられた下層農民たちは、日雇い労働者や物乞いとなった。彼らの不満を抑えつけるために、神殿の権力者たちはこう言った。「神殿には神がいるのだ、これはすべて神の御心なのだ」と。何と無茶苦茶な。しかしこれが当時のユダヤの現実だったのだ。

このようなユダヤ人社会の構造を根本的に突き崩し、変えてしまおうとするのがイエスであり、そのようなイエスの行為の第一弾こそが今日の「宮清め」と呼ばれる行為なのであった。

・先ほど算出したとおり、エルサレム神殿の境内〈砧公園ほどの広さ〉には祭の間に少なくとも500万の人々がいけにえの動物を捧げに来た。過越祭は7日続いたので、500万÷7で約70万の人が境内に来たことになる。すると、イエスの目の前には少なくとも数万人のユダヤ人がいたであろう。これほどのユダヤ人と彼らの間で売り買いされた動物をイエスが一人で追い出すことなど不可能である。イエスの弟子全員(70人)を動員したとしても、無理であろう。しかし、イエスの後についてきた群衆がそれを手伝ったとすれば可能になる。そうなるとこれはもう暴動である。

・すると改めて疑問が起こってくる。あれほど王になって力を行使することを拒否したイエスが、なぜここでは群衆を動かしてまで力を行使しているのかと。そこにはよほど重大な理由があったに違いない。

21:13 そして言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしている。」

*『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである』はイザヤ書56:7の言葉。「強盗の巣」はエレミヤ書7:11の言葉。イエスは預言者たちがかつてのエルサレムを批判したその同じ言葉をもって、エルサレムを批判した。これはさりげないようでありながら、強烈な批判である。なぜならこれらの言葉をもって批判することは、預言者たちが当時の権力者に対して行ったのと同じ批判を彼らに向けることであるからだ。

・これはたとえるなら、戦前に「天皇は神ではない、民衆から富をむしり取る強盗の親玉だ」と叫ぶようなものである。戦前にそのようなことを叫べば、獄中で殺されたであろう。内村は、天皇の写真にきちんとお辞儀しなかっただけで、日本中から袋叩きにされたのだから。それほどに、危険なことをイエスは言ったのだ。改めて、そこにはよほど重大な理由があるとみなさざるを得ない。

*ここでもう一つ注目すべきことは、イエスの批判対象が神殿の権力者たちだけではないことである。「売り買いをしていた人々」という言葉からわかるように、そこで売られているいけにえの動物を買わざるを得なかった民衆もまたイエスの批判の対象であるということである。つまりイエスはここで、民衆も含めたありとあらゆるユダヤ人に強烈な批判を浴びせているのである。いったい彼らの何がそんなにいけないのか。

・一言で言えば、神と直接向き合わないからいけないのだ。なぜユダヤ人たちは動物のいけにえを捧げたのか。確かに旧約聖書の律法には、罪を犯した者はいけにえを捧げよと書いてある。しかしそれは、自分の罪を神の前に深く悔い改めさせるための教えであった。ところが時とともにユダヤ人たちは、いけにえを捧げれば罪が赦されると勘違いし、少しも神と向き合わず、悔い改めなくなっていった。

・そもそもの話、なぜユダヤ人たちは神殿を建てたのか。初めは、神と向き合うためであった。神殿の奥には至聖所というところがある。そこには「契約の箱」という律法が納められた箱があり、それに神が宿ると信じられていた。一年に一度大祭司が至聖所に入り、心から民の罪の赦しを祈り、悔い改める。これが神殿の元々の意義であった。ところが時と共に、この祈りと悔い改めは形骸化され、儀式だけが重視されるようになっていった。動物のいけにえを捧げる贖罪の儀式を執り行えば、それで罪が赦されると考えられるようになり、神殿は神と向き合って心からの祈りと悔い改めを捧げる場所ではなくなってしまったのだ。

神と向き合って真剣に祈り、悔い改める。これこそ神との真の交わりであり、命の根源である。ここが失われるなら、人間は罪の虜となり、サタンにつけ入られ、腐敗と滅びの道へと向かっていく。エルサレム神殿に動物のいけにえを捧げて満足するユダヤ人たちは、まさにその滅びの道を歩んでいた。しかもだれ一人、自分たちが滅びの道を歩んでいることに気付いていなかった。

・イエスは、そのような彼らに何とかして気づいてもらいたかった。本当に重要なことはいけにえを捧げることではないのだと。神と向き合い、真の祈りと悔い改めがなされることなのだと。いけにえを捧げる道は滅びの道であり、神と向き合う道こそが命の道なのだと。かくしてイエスは、自説を曲げて、このときばかりは暴動めいたやり方で、警告を発したのである。

21:14 境内では目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄って来たので、イエスはこれらの人々をいやされた。

*「目の見えない人や足の不自由な人たち」は本来神殿には入ることを許されていなかった。だから、彼らは普段は神殿の外にあるベトサダの池の周りにたむろして、奇跡の癒しが起こるのを待ち続けていた。そのような障碍者たちが神殿の境内に入ってきた。宮清めによって神殿の秩序が破られたのだ。これはイエスの行動がまさしく命の道であることを表す。神と向き合い、真の祈りと悔い改めが行われるところでは、命の躍動が始まり、病人は癒され、人間が作り上げた差別的秩序の崩壊が始まる。

21:15 他方、祭司長たちや、律法学者たちは、イエスがなさった不思議な業を見、境内で子供たちまで叫んで、「ダビデの子にホサナ」と言うのを聞いて腹を立て、

21:16 イエスに言った。「子供たちが何と言っているか、聞こえるか。」イエスは言われた。「聞こえる。あなたたちこそ、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』という言葉をまだ読んだことがないのか。」

 *群衆は子供たちにいたるまで「ダビデの子にホサナ」と叫び出した。これはいつか学んだよ
 うに、「救い主に栄光あれ」という意味である。今や、彼らはイエスを王として迎えようと
 し
ている。

 ・「祭司長たちや、律法学者たち」とは神殿の権力者たちである。彼らは、群衆の叫び声を聞 
 いて、慌てて神殿の奥から出てきて「子供たちが何と言っているか、聞こえるか」とイエスに 
 詰問した。その意味するところは、「群衆を扇動するとは何ごとか」という非難である。それ
 に対してイエスは答える。「『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』という言葉
 をまだ読んだことがないのか」と。イエスの引用した言葉は詩編8編からのものであるが、イ
 エスの意味するところは、神が子供たちに「ダビデの子ホサナ」と叫ばせているのだというこ
 とである。つまりイエスは、神が自分を救い主として認めていることが分からないのかと反論
 しているのだ。

・このようなイエスの言葉に、神殿の権力者たちは腸が煮えくり返るほどの怒りを感じたはずだ。しかし、彼らにこのような気持ちを起こさせることこそイエスの第二のねらいであった。そうなのだ。イエスの宮清めの第二の意味は、神殿権力者に対する宣戦布告なのである。今やイエスは、神殿の権力者たちと正面から対決しようとしている。ところが、イエスは再び不可解な行動をとる。

21:17 それから、イエスは彼らと別れ、都を出てベタニアに行き、そこにお泊まりになった。

あれだけの騒動を起こしておきながら、イエスは神殿を抜け出し、ベタニアへと逃亡してしまう。ベタニアは、エルサレムの二つ隣の町である。

・この行動の意味するところは何か。実はこの行動の意味するところを教えてくれるのが、次のいちじくの記事なのである。

21:18 朝早く、都に帰る途中、イエスは空腹を覚えられた。

21:19 道端にいちじくの木があるのを見て、近寄られたが、葉のほかは何もなかった。そこで、「今から後いつまでも、お前には実がならないように」と言われると、いちじくの木はたちまち枯れてしまった。

*「いちじくの木」とはいったい何か。それがイスラエルの民を表すことは、ユダヤ人の間では常識であった。旧約聖書は数度、イスラエルの民をいちじくにたとえている。しかし、このたとえで重要なことは、いちじくは実のならないいちじくであるということである。エレミヤ書にはこうある。

8:13 わたしは彼らを集めようとしたがと/主は言われる。ぶどうの木にぶどうはなく/いちじくの木にいちじくはない。葉はしおれ、わたしが与えたものは/彼らから失われていた。

神に逆らい続けたために、ユダヤ人は神が与えてくれた命を失ってしまった。命を失ったイスラエルの象徴こそ実のならないいちじくなのであった。

*だから、ここに実のないいちじくが出てくるのも偶然ではない。それは、神に逆らい続けたために命を失ってしまったユダヤ人の象徴なのである。そのいちじくに向かってイエスはさらに言う。「今から後いつまでも、お前には実がならないように」と。するとたちまちにいちじくは枯れてしまう。これはいったい何を意味する出来事なのであろうか。

・イエスが祈るとその言葉はたちまちに実現している。このことは、イエスの祈りが神の御心に沿っていたということである。つまり、命のないユダヤ人が滅びの道を歩むのは、神の御心なのである。

・このことがわかるなら、イエスがエルサレム神殿の権力者たちに宣戦を布告しておきながら、逃げてしまうという行動の意味もわかってくる。イエスの戦いは、力で相手をやっつけることではなかったのだ。すべてを神の御心に委ねてしまうことであったのだ。神の御心に相手を委ねることによって勝利する、それがイエスの戦法なのである。イエスは今やイスラエルの民を神の裁きに委ねたのだ。

2.メッセージ

①神の前に立つことこそ命

 イエスが宮清めという暴挙を遂行した第一の理由は、真の神の前に立って祈り、悔い改めることこそ命であるとユダヤ人全員に知らせることであった。悔い改めもないままに、いくら動物のいけにえを捧げたって何の意味もない、意味もないどころかそれは滅びの道でしかないということを知らせることであった。したがって、今日の個所から受け取るべき第一のメッセージは、何といっても、真の神の前に立って祈り、悔い改めることこそ命であるということである。

 さて、私たちは、真の神の前に立って祈り、悔い改めているであろうか。真の神の前に立つことは容易ではない。何よりもまず真の神の存在を信じなければならない、第二に真の神が自分の全てを見抜いているということを信じなければならない。第三にそのような神が自分の罪を裁き、かつ赦すということを信じなければならない。第四にこのような信仰に立ったうえで、自分の全てを神の視点から見なおしてみなければならない。そのときに初めて人は、自分の罪(自己中心性)を知り、悔い改めるという心的現象を体験する。これこそ命の現れだ。これを失うなら人の霊は腐敗し、滅んでいく。すなわちひたすら真理に目を向けず、真理を受け入れず、自己肯定の道を歩んでいくことになるのである。

 しかし、悔い改めを行い続けるのは非常につらいことである。だから、たいていの人はそこから逃げ出そうとする。ユダヤ人たちは、律法を守ったり、いけにえを捧げたりすることで安心し、真の神の前に立つことを止めてしまった。キリスト教徒も洗礼や聖餐式や聖日礼拝を行うことで真の神の前に立つことを止めてしまった。異邦人たちは自分たちの都合に合うような偽の神を作り上げて、真の神の前に立つことを止めてしまった。新興宗教の人たちは教祖に服従することで真の神の前に立つことを止めてしまった。日本人は、神など存在しないということにして、欲望に身を任せることで、真の神の前に立つことを止めてしまった。

 しかし、そのようなところに命はない。春風学寮もつらいからと言って、神の前に立つことを忘れて行動するなら、霊的に死んでいく。自己肯定だけを目的とするむなしい個人の集まりとなってしまう。

②裁きは救いの一過程

 イエスは実のないいちじくを枯らしてしまった。これは、神が実のないイスラエルに裁きを下すことに決めたことを意味する。事実、エルサレムは七〇年にローマ帝国に滅ぼされる。神は、逆らい続ける者を裁くのである。

 しかし、神の裁きは神が見捨てたことを意味しない。それどころか、神の裁きは神の救いのプロセスの一部である。なぜなら人は、滅亡に近いほどの打撃を受けて始めて悔い改めるからである。ほとんどの人間にとって、裁きはほとんど唯一の救いの道である。裁きを通じて初めて人は神の存在を認め、神の前に立ち、自己中心性を改める。その裁きの具体例は死である。死こそは神の人間への裁きの最たるものであるが、この死によってこそ人は神の存在に目覚め、その前に立とうとする。ゆえに、死もまた救いへの重大なプロセスなのだ。

 しかし、裁きを経ずに悔い改めの道を歩む道はないものであろうか。内村が指摘しているように、裁きがあったから悔い改めるというのは何とも情けない話であって、本当は裁きなどなしに悔い改められるのが一番良いのだ。

 それを可能にしてくれたのが、イエスの十字架である。もしイエスの十字架の上に、自分の罪の裁きを見ることができるなら、人は裁きを通り抜けて悔い改めに至ることができる。しかしそのためには、イエスは自分に代って裁きを受けるために十字架にかかったのだと身に染みて納得する必要がある。そのためには、イエスのことを良く学び、イエスと自分を繰り返し比較してみる必要がある。そのようにして、イエスと自分の決定的な相違を知り、イエスの愛の大きさを知るとき、イエスは本当に自分の身代わりに裁きを受けたのだと納得する道が開ける。

 しかし、イエスが自分の決定的相違を知るのも容易なことではない。楽をして命を得ることはできないのである。

③悔い改めの歴史

 悔い改めとは、すでに述べた通り、神の前に立ち自分の自己中心性(罪)に気付くことであるが、それは同時に真理へと向かうことであり、人に新たなビジョンをもたらす。すなわち命が与えられることをも意味するのだ。

 実を言えば、私たち一人一人の心の成長過程は神なき悔い改めの過程であり、人類の精神の歴史も神なき悔い改めの歴史である。以下、そのことを少しだけ説明しよう。

 人間の欲望は他者から承認されること(自由の獲得)である。初めは人間は自分を力で他者に認めさせようとする。中高生のころの私たちや古代の人類はまさにそのようであった。しかし、いくら力を行使したところで、人間は他者に認めてもらうことはできない。他者は力ある者に服従するが、それはうわべだけのことだ。心の底では往々にして支配者を軽蔑している。こうして人は内的必然により、力で他者に認めてもらおうとすることが間違いであったと悟る。この気づきこそ悔い改めの第一弾と言ってよい。

 力では他者に認めてもらうことなどできないと知った人間は、次には特定の個人に自分の個性を認めてもらおうとする。こうして青年は、友人や恋人に自分の個性を認めてもらおうとする。貴族は王に認めてもらおうとする。個人においては思春期、人類においては中世封建社会の始まりだ。

 しかし友人や恋人が自分の個性をきちんと認めてくれることは滅多にない。友人や恋人は元々味方であり、彼らから客観的評価を得ることは難しいからだ。貴族が王に個性をきちんと認めてもらえることも滅多にない。王と貴族は対等の関係にはなく、王の判断は政治に左右されるからだ。こうして人間は、特定の人に個性を認めてもらおうとすることも間違いであったと悟る。これが悔い改めの第二弾である。

そこで人間は、もっと広い範囲の人間に自分を認めてくれる人を探すようになる。それと同時に社会というものの重要性を知ることになる。社会において、見ず知らずの人から認められた時にこそ、自分の個性は本当に認められたということになるのだと。社会の重要性を知った人類は、不特定多数の人間が主権を持つ社会を作り上げようとする。そして個人はその中で、自分が認められる可能性を模索する。人類においては近世民主主義時代、個人においては就職活動期の到来だ。

 しかし、社会において自分を認めてもらうことも容易ではない。たとえ不特定多数の人の人気を得たからと言ってそれは、必ずしも自分が認められたということにはならない。人気はたいてい、その人の真の個性とはかかわりのない次元で決定されるからだ。こうして人は、自分が本当に認められるとはいったいどういうことなのかと悩み始める。自分の真の個性とは何かと。自分の真の個性を認めてくれる人はどこにいるのかと。この過程で彼は少なくとも次のことを悟る。偽物の個性で人気を得ても、他者から認められたことにはならないと。これこそ悔い改めの第三段である。

 そしてこの過程はさらに次の段階へと進んでいく。・・・

 以上は極めて大雑把な見方だが、人間の精神は全体としてはこのように展開してきた。つまり、人間は、個人においても、人類としても、悔い改めの歴史を歩んできたのだ。この悔い改めには真の神と向き合うという要素は必ずしもなかった。これらの悔い改めは、いずれも自分のそれまでの欲望実現の態度が行き詰まり、追い詰められたがゆえに起こった、やむを得ぬ悔い改めであった。

 しかし、このような悔い改めは、やがて真の神の前での悔い改めへと進んでいくであろう。なぜなら、神こそは最大の他者であり、人間は神に認められないなら、その欲望を究極的に満足させることはできないからである。

というわけで、最後のメッセージは、今の皆さんには社会で不特定多数の人に認められるべく、自分の個性を錬磨していくことが重要だということである。このことと真剣に取り組んでいけば、やがては第三の悔い改めへと向かっていくだろう。そしてやがては、神の前に立つ真の悔い改めへとたどり着くに違いない。

話し合い

一.講話前

M君「要するに神殿が金儲けしているのが悪いという話ですよね。」

寮長「基本的にはそうですが、もう少し深い理由を読み取る必要があります。」

G君「イエスは柔和な王だったのに、なぜこんなことをしたのでしょうか。」

寮長「よくぞ気が付いてくれました。そこを考えてこそよみが深まっていきます。」

O君「いちじくの話は変です。イエスとも思えない。」

寮長「そうなんです。しかしいちじくの木については、宮清めの話のメッセージを受け取ったときに初めて理解できるようになります。」

B君「神殿では何がなされていたのですか。」

寮長「罪の赦しを請うために、動物がいけにえにされ、大祭司が神に罪の赦しを祈るということがなされていました。」

二、講話後

K君「エックハルトの本を読んでいて、今日の話と同じようなことが書かれていました。いくら神聖な捧げものをしても、神と向き合っていないなら意味がないと。」

寮長「エックハルとは神秘主義者なので、神との交わりを大切にします。そのような立場からすれば当然そういう批判が出てくるでしょうね。他方、神秘主義は神秘主義で、神と一体化するという危険がありますので、このことにも気をつけながら読んでください。」

S君「内村の言葉に、真理と信仰が対立するなら、自分は真理を取るという言葉があったそうですが、今日の話はそれと似ていると思います。キリスト教は信じれば救われるということで、形骸化している。やはり神の前に立って、真理に目を向けなければ。」

寮長「その通り!」

N君「自分が最もやりたいと思うことを追求するのと悔い改めとは両立するのでしょうか。自分は、最近、明日死ぬとしたら今日何をするかと考えながら、やることを選んでいるのですが。」

寮長「両立するどころか、そのような姿勢こそが、悔い改めへとつながっていくのだと思います。自分の欲望が深まり、高まっていくことと、悔い改めは表裏一体だと言ってもよいでしょう。」

E君「神の前に立つことが重要だという話と悔い改めの歴史の話のつながりがよくわからないのですが。」

寮長「力によって他者に認められようとすることが間違いだったという認識が、一つの悔い改めであることはわかると思います。問題は、そこに神が絡んでいないことですよね。悔い改めの定義は、神の前に立って自分の自己中心性に気付くことだったのに、人間は神の前に立つなどということはせずに、自身の欲望の内的必然から悔い改めらしきことを行ってきた。だとすると、前半の話と後半の話はよくかみ合わないのではないかということになる。ここに気付いた君は確かに鋭い。しかし私は最後には一つになるであろうとまとめています。欲望の必然から生じ人類の神なき悔い改めが最後には、神の前に立つ真の悔い改めにつながっていくということを私は示したかったのです。つまり、信仰のない人と信仰者とが最後には同じ土俵に立つことになると。」

E君「そう言われてもやはりなんかもやもやしています。」

寮長「確かに後半は飛躍があり過ぎました。ここはもっと時間をかけて話すべきところでした。」

T君「他者から認められるということが本当に人の欲望の基本なのか、僕にはわかりません。他人の評価なんかまったくどうでもよいという人だっているでしょう。」

寮長「そういう人が本当にいるのかどうか、極めて怪しいですが、仮にいたとしてもそれは例外でしょう。人は普通他者から自分の個性を認められることによって喜びを感じ、自分の自由を感じます。この寮だってそのように動いているでしょう。ある人が善いことをして、誰かがそれに感謝してくれる。だからまた善いことをしようという気になり、皆が幸せにやっていけるのです。もし何か良いことをしても誰からも感謝されないなら、善いことをする人なんていなくなってしまい、寮は冷たい集団になってしまいます。それでも全然かまわないという人はきっといないと思います。しかし、先ほども言ったように今日は話を急ぎ過ぎました。他者から認められることが人間の基本的欲望だということも、もっと時間をかけて話すべきことでした。申し訳ありません。せっかくよい聖書個所だったのに。」