怒れるイエス・キリスト(2)(小舘)

2023年11月12日春風学寮日曜集会

聖書個所 マタイによる福音書23:13-28


 一見して明らかなように、今日の個所はイエスによる律法学者たちとファイリサイ派の人々の激烈な批判である。果たしてこのような激烈な批判をイエスは行ったのであろうか。確かにイエスは彼らの批判を行った。しかしその批判は、ここに書かれているほど攻撃的なものではなく、相手の破壊を目的とするようなものではなかった。

 すでに前回説明したように、イエスの律法学者やファリサイ派への批判は、様々な状況の下で彼らを悔い改めに導こうとして行われた愛に満ちた批判であった。ところがマタイは、それを一か所に集め、しかも言葉を激化させて羅列した。その結果イエスの愛情に満ちた批判は、悪人を断罪するかのような裁きの言葉へと変質してしまったのである。

 いったいなぜマタイはそのような変質を施したのか。これにはいろいろな理由があるのだが、その根本的動機を指摘するならば、律法学者やファリサイ派の律法主義から、生まれたばかりのキリスト教の福音信仰を守るためであった。

 マタイの教会にはたくさんのユダヤ人がいた。彼らはキリストと出会い、あるいはキリストの教えを聞いて、キリストは律法を守れない罪人ですら救うことができるという福音信仰を持ち始めていた。ところがそこへ律法学者に遣わされたファリサイ派の人々が現れて、「そんなのは嘘っぱちだ。救われる道は律法を守ることでしかない。福音などを信じて律法を軽んじる者は死刑だ」と触れ回り、実際にキリスト教徒を処刑し始めた。このためにマタイの教会からは大量のユダヤ人が福音信仰を捨て、律法主義のユダヤ教徒へと回帰してしまった。このような状況をなんとしても食い止めなければならないとマタイは思った。そこで彼はイエスの愛情に満ちた批判を激烈な批判へと変貌させ、イエスの言葉の権威によって律法学者とファリサイ派を否定しようとしたのである。

 だから、そのような言葉を読んでも現代の私たちには何の感動も起こらない。それどころか、このような激烈な批判を展開するイエスに対して疑問さえ抱いてしまう。これでは敵対者を貶めようとするだけのトランプやプーチンと同じではないかと。そもそもイエスは、人の悪口を言ってはならない、腹を立ててはならないと教えたのに、自らの教えに反しているではないかと。

 しかし、そう思うのは早合点である。イエスの本来の言葉は、繰り返すが悔い改めを促すための愛情に満ちた批判であった。そこにまでさかのぼらなければ、イエスの本当に触れることはできない。というわけで、以下、その作業を行っていこう。

 

1.解説

23:13 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。人々の前で天の国を閉ざすからだ。自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない。

23:14 (†底本に節が欠落 異本より訳出、解説では無視する)

23:15 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。改宗者を一人つくろうとして、海と陸を巡り歩くが、改宗者ができると、自分より倍も悪い地獄の子にしてしまうからだ。

*ここより、「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ」という言葉が8回繰り返される。これは、イエスの山上の説教で「~な人々は幸いである」と8回繰り返される八福の教えに対応している。イエスがこのように回数を計算して語ったはずがない。これは明らかにマタイの編集の結果である。

・この編集にはマタイの裁きの基準が現れている。その基準とは以下の通り。≪たとえ罪を犯そうとも、善を目指したうえで知らず知らずのうちに犯した罪であれば、あるいは弱さのゆえに犯した罪であれば赦される。そういう罪人は皆天の国に招かれている「幸い」な人たちである。しかし、元々利己を目的としながら、善を装って人々を誤らせる罪(偽善)は赦されない。そういうことをする「偽善者」は皆天の国には招かれておらず「不幸」である。そして律法学者とファリサイ派こそは「不幸な」偽善者の筆頭である。≫

*しかし、繰り返すが、イエスはそのような裁きの基準を示そうとしてこれらの言葉を語ったのではない。そのことは、「不幸だ」という言葉の原語(古代ギリシア語)がOuai(英語のWoe)であることから理解できる。この語は悲しみや苦痛のあまりに出てくる叫びのようなもの(間投詞)であり、あえて訳すとするなら、「なんと傷ましいことか」である。だから、この言葉を「不幸だ」などと訳してはいけない。律法学者やファリサイ派を否定しようとしているマタイの意図に即して訳せば「不幸だ」が適当であろうが、イエスの思いに即して考えるなら、「なんと傷ましいことか」でなければだめなのだ。

*「人々の前で天の国を閉ざすからだ。自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない」とはどういうことか。先週学んだように、律法学者やファリサイ派は、自分の名誉(承認欲求)のために律法を守り、民衆に律法を守らせようとして裁きを行っていた。そのような彼らが「天の国」に入れないのは当然である。ところが彼らは、律法を民衆に守らせようとすることによって、民衆をも同じような人間に変えてしまう。承認欲求のために律法を守り、他者を裁く律法主義者に変えてしまう。そうすることで民衆が「天の国」に入る道を閉ざしてしまうのである。

・そしてイエスは、そのことを「なんと傷ましいことか」と言い表した。ここには明らかに悲しみと憐みが満ち溢れている。イエスは自身の承認欲求のためにではなく、神と隣人への愛のために律法を守るよう促しているのだ。そうでなければ救われない。神の命の生命圏に入れないと。

*「改宗者を一人つくろうとして、海と陸を巡り歩くが、改宗者ができると、自分より倍も悪い地獄の子にしてしまうからだ」は13節とほぼ同内容だが、「地獄の子」などと言う言葉をイエスが使うはずがない。また、ファリサイ派の人々は基本的に改宗者を作ろうとせず、彼らが「改宗者を一人つくろうとして、海と陸を巡り歩」いたのは、イエスが死んでから数十年後のことだから、これは明らかに後のキリスト教徒が付け加えた言葉である。

23:16 ものの見えない案内人、あなたたちは不幸だ。あなたたちは、『神殿にかけて誓えば、その誓いは無効である。だが、神殿の黄金にかけて誓えば、それは果たさねばならない』と言う。

23:17 愚かで、ものの見えない者たち、黄金と、黄金を清める神殿と、どちらが尊いか。

23:18 また、『祭壇にかけて誓えば、その誓いは無効である。その上の供え物にかけて誓えば、それは果たさねばならない』と言う。

23:19 ものの見えない者たち、供え物と、供え物を清くする祭壇と、どちらが尊いか

*この奇妙な問答の意味を理解するためには、ユダヤ人の間では第三戒(神の名をみだりに唱えてはならない)の必然的帰結として神にかけて誓うということが行われなかったという前提を理解しなければならない。そこでユダヤ人の間では、神以外の神に近い物にかけて誓うという奇妙な習慣が行き渡った。例えば神殿や神殿の黄金や祭壇や祭壇の供え物や天地にかけて誓うという習慣が。

・この奇妙な習慣を統制するために律法学者やファリサイ派はさらに奇妙な規定を作った。『神殿にかけて誓えば、その誓いは無効である。だが、神殿の黄金にかけて誓えば、それは果たさねばならない』とか『祭壇にかけて誓えば、その誓いは無効である。その上の供え物にかけて誓えば、それは果たさねばならない』とかいうような。黄金や供え物という実質的な物にかけて誓わせれば、誓いを破らなくなるだろうという罰則的発想のゆえだ。

・しかしこのような発想は世俗社会では合理的かもしれないが、信仰のレベルからすると明らかに間違っている。その間違いをイエスは鋭く指摘する。

23:20 祭壇にかけて誓う者は、祭壇とその上のすべてのものにかけて誓うのだ。

23:21 神殿にかけて誓う者は、神殿とその中に住んでおられる方にかけて誓うのだ。

23:22 天にかけて誓う者は、神の玉座とそれに座っておられる方にかけて誓うのだ。

*イエスは要するに、何にかけて誓おうとすべての誓いは神にかけてなされるのであって、誓った以上は絶対に果たさなければならない、かけた物の種類によって誓いを果たす義務がなくなるなどということはあり得ないと指摘したのだ。

・ここには、律法学者やファリサイ派とイエスの違いがくっきりと表れている。律法学者やファリサイ派は、誓いを破れば損害を負うという規定を作ることによって誓いを守らせようとしている。対してイエスは、神への愛に基づいて誓いを守らせようとしている。

・ここで最も注目すべきことは、イエスが律法学者やファリサイ派を決してばかにせず、彼らのくだらない態度につき合い、細やかにその間違いを指摘していることである。イエスは、言葉を尽くして彼らを悔い改めさせようとしているのである。

*ところで、イエスは5:34で「一切誓ってはならない」と教えへていた。この教えと今の教えはどうつながるのだろうか。その個所をもう一度振り返ってみよう。

5:34 しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。

5:35 地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。

5:36 また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。

この箇所を読めば、「誓いを絶対に果たせ」という教えと「一切誓ってはならない」という教えはともに神への愛に貫かれていることが分かるであろう。神への愛を重んじるならば、神にかけて行われた誓いは絶対果たさなければならない。しかし誓いを絶対果たすなどということは人間にはできないから、神への愛を最高に重んじる者は一切誓うべきではない。イエスは神への愛を極限まで推し進めた結果、神にかけて一切誓うなという結論に至ったのだ。

23:23 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。薄荷、いのんど、茴香の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もないがしろにしてはならないが。

23:24 ものの見えない案内人、あなたたちはぶよ一匹さえも漉して除くが、らくだは飲み込んでいる。

*「薄荷、いのんど、茴香(クミン)の十分の一は献げる」のどこがいけないのか。律法によれば、ユダヤ人たちは自分の土地でとれた産物の10分の一を神に捧げなければならなかった。ところが律法学者やファリサイ派はその上に「薄荷、いのんど、茴香」といった高級産物の十分の一も捧げた。いったいなぜそのようなことをしたのか。これもやはり自分の名誉を高めるため(承認欲求のため)である。

・その証拠に彼らは「律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしている」。もし本気で神と隣人を愛しているなら、これらの実行にこそ全力を注ぐべきなのに。

・このことに基づいて神への愛を言い換えるなら、それは神の属性である「正義、慈悲、誠実」を重んじることとなる。そして律法とはつまるところ「正義、慈悲、誠実」を重んじるための規定である。

*「あなたたちはぶよ一匹さえも漉して除くが、らくだは飲み込んでいる」とは、細かい律法の規定(誓いや税金の規定)にはこだわるが、律法の最も重要なこと(正義、慈悲、誠実)を行っていないということ。このような事態になるのは、繰り返すが彼らの根本的動機が承認欲求と利害(賞罰)だからだ。イエスはこの点を悔い改めさせようとして全力を尽くす。だから、以下のような激しい言葉がこれに続く。

23:25 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。

23:26 ものの見えないファリサイ派の人々、まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる。

23:27 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。

23:28 このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている。

*ここでは、清らかさとは何かという問題が追求される。これらの言葉は本来ファリサイ派の人々から食事に招待されたイエスが食事前に手を洗わなかったために、彼らから神の前に不浄であると批判されたときの反論の言葉である(ルカによる福音書11:37以下)。イエスはそのとき、手を洗うかどうかなど神の前での清らかさと何の関係もないと反論し、本当の不浄とは何かを語った。その時の言葉がここに集められている。「杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちている」とは、他人に見られようとして細かい律法は守るが、律法の最も大事なハートの部分(正義、慈悲、誠実)をなおざりにしていること。

・だから、「杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる」とは要するに律法のハートの部分を重んじる心を持てば、律法全体をきちんと守れるようになるということ。つまり、「正義、慈悲、誠実」を動機として持っているならば、心がきちん正され、律法全体を守れるようになるということ。

*「白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている」は25節と全く同じ内容を比ゆ的に言換えた言葉。28節「外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている」も同様の内容をまとめたもの。

*同じ内容でありながら、25~26節と27節はニュアンスが全く異なる。前者は愛情に満ちた悔い改めへと促す響きをたたえているが、後者は憎むべき相手を粉砕しようという怒りの響きである。このように、同じ内容でありながらも、ニュアンスは完全に異なり、このニュアンスによって、どれがイエスの真正の言葉かが見分けられる。25~26節のみが真のイエスの言葉なのである。

・ではこの部分から読み取るべきメッセージは何か。すでに述べたが、まとめるなら以下の通り。≪清らかさとは、律法の核心である(正義、慈悲、誠実)を行動の動機としていることであり、不浄さとは承認欲求や利害を行動の動機としていることである。そして清らかであるならば、その者は心を成長させ、律法全体を全うして、神の生命圏(救い)へと至るが、不浄であるなら心はねじ曲がり、律法の細部にこだわるようになり、滅びへと至る。≫

 

2.メッセージ

①清らかであれ

 聖書とは聖なる書であり、聖なる神について語った書である。だから、当然人間にも清らかさを要求する。では清らかさとは何か。今日の個所はこの問題を最もはっきりと伝えてくれる。清らかさとは要するに神への愛を行動の動機としていることであり、言い換えればそれは「正義、慈悲、誠実」を動機としていることなのである。弱い者や悪い者を憐れみつつも公正さを忘れない、それでいて相手の一人一人に対して誠実である。これらを根本的動機として行動することこそ清らかさである。

対して、自身の利害や承認欲求を動機として行動することは不浄である。世間の人々はたいていこれらを動機として行動し、律法学者やファリサイ派もこれらを動機として行動した。そして非常に不思議なことだが、そのように不浄な者に限って表面的な清らかさに固執し、情不浄を細かく区別する規定を作ったり、清めるための儀式を行ったりする。日本人の何と多くが神社に詣でることか。

そのような世間の動向に対してイエスは待ったをかける。それではだめだ。それでは心が成長していかない、律法を全うできない、天の国(神の生命圏)に入れないと。心が清らかであってこそ、根本的動機が「正義、慈悲、誠実」であってこそ、人の心は成長し、律法を全うしていくことができ、天の国に入れるのだと。

その通りである。清らかさは精神の核である。これが動機とされてこそ、心は成長して行き、人格が発展していく。そのときに真の意味で律法が守れるようになる。そのときに人は初めて神の生命圏へと移されていく。これ以外のもの(利害や承認欲求)が動機である場合、心の成長などありえない。世間をうまくわたっていくための処世術が養われるだけである。

だから、人の話を聞く場合にも、本を読む場合にも、学問を学ぶ場合にも、寮生活を営む場合にも、根本的動機を「正義、慈悲、誠実」においてほしい。これはイエスが律法について伝えようとする最も重要なメッセージであると思う。

②誠実であれ

 そこで今回特に注目してもらいたいのが誠実さである。正義と慈悲の大切さについては常々語ってきた。しかし誠実さについて触れたことはなかった。誠実とは、人や仕事に対して真剣に向き合おうとする態度であり、侮蔑の反対にある態度である。侮蔑は仕事を馬鹿にし、いい加減に仕事を行う態度である。あるいは人を馬鹿にし、いい加減に人をあしらう態度である。これまたなんと世間で多く出回っている態度であろうか。対して誠実な人のなんと少ないことであろうか。

イエスには一切そのようなことはなかった。彼はどんなに小さな相手にも真剣に向き合った。律法学者やファリサイ派などの敵対する人々にも真剣に向き合った。律法を破ったこともあったが、それはイエスが律法を馬鹿にしたからではなく、むしろ律法と真剣に向き合ったからだ。つまりイエスは、すべてに対して誠実であったのだ。

だから皆さんに今日最も伝えたいメッセージは、このようなイエスの誠実に見習ってほしいということだ。つまり、誠実さを根本動機として行動してほしいということだ。

奇しくも誠実のギリシア語はpistisであり、信仰とも訳される。恐らく、誠実な人(何語地とも真剣に向き合う人)は神を無意識に敬っている信仰者なのだ。

③守れない約束はするな

 誠実さが一番あらわれるのは約束に対する態度である。誠実な人は相手にも仕事にも真剣だから約束は絶対に守る。約束をきちんと守るかどうかが誠実さをはかるバロメーターになるのである。

 しかしイエスが指摘する通り、約束を絶対に守るというのは至難の業である。だから、守れそうもない約束は元々しない方がよい。それでは何も約束しないことが良いことなのであろうか。そうではあるまい。

 できる範囲で約束をし、その約束を誠実に守っていくことはその人の心を成長させていくし、他者との信頼関係を築いていく。イエスが否定したのは、神にかけて誓うというような、絶対に約束を守ることを宣言するがごとき、おごり高ぶった態度であり、約束そのものではない。

 

 

3.話し合い

S君「先週の自己中心性の話と誠実さの話はつながっているように思われました。誠実さを動機とすることは大切ですが、もし天の国に入ることを目的として誠実であろうとするなら、これまた不純であり、自己中心的であるということになるのではないでしょうか。」

寮長「その通りです。人間に、どんなに尊い教えも自分の利害のために用いてしまうという驚くべき才能があります。だから誠実に生きようとする場合にも気をつけなければなりません。」

Y君「慈悲の実践というのはどういうことでしょうか。なんだか上から目線のような気がするのですが。」

寮長「慈悲というと上の者が下の者を憐れむような感じがあり、上から目線に感じてしまいますが、イエスの言う慈悲は、困っている人の痛みを自分のものと考えて、助けようとする気持ちです。イエスはこれを動機としてたくさんの病人を癒しました。そこには上から目線のようなものはありません。」

S君「最近ちょうど、重要なのは誠実さだと思うようになり、O君とも先日そのことで同意していたところです。今日の話では、隣人と仕事に対する誠実さが語られましたが、自分に対しても神様に対しても、誠実でなければならないと思います。この三つに誠実であって初めて愛が全うされるのです。」

寮長「すごいことを言いますね。全くその通りですが、S君はその通り実行しているのでしょうか。」

S君「・・・。」

M君「本を読むときにも正義、慈悲、誠実を動機とするというのは難しいのではないでしょうか。自分などは面白いから本を読むのであって、そういうものを動機として読める気がしません。」

寮長「面白さとは何でしょうか。結局は正義、慈悲、誠実と出会うことが面白いのではないでしょうか。私は今も面白いと思う本だけを読んでいますが、今おもしろいと思える本はまさしく正義と慈悲と誠実について教えてくれる本です。金儲けの方法とか勝ち負けの物語を読んでも、思い白いとは思いません。面白さを誠実に追求していくと自然に正義、慈悲、誠実が面白いと思うようになるのではないでしょうか。これも自分に対する誠実さの一つですね。」

G君「バイト先で叱られることがあるのですが、それはたいてい売り上げにかかわることで、仕事に対する誠実さなどはあまり評価されません。そういうのは腹が立ちます。」

寮長「大いに腹を立ててください。それもまた自分に対する誠実さです。しかし相手に対する誠実さという点からすれば、バイト先はあくまで企業であり、利潤をあげることが目的なのだということを理解する必要があります。誠実さを動機とすることは人間としても、神の目から見ても最も重要なことですが、世間はそのようには動いていないし、企業もそのようには動いていない。だから世間も企業も駄目だというのではなく、そういう大前提を理解したうえで、誠実さを実行する道を探っていくことが大切なのです。まともな企業の上司なら、きちんと話し合えば、誠実さを評価してくれると思います。」