聖霊について

2023年4月2日春風学寮日曜集会

 

聖書:ヨハネによる福音書
14:15 「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。
14:16 わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。
14:17 この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。

序 聖書の最重要事項
 今日は聖霊について学んでみよう。聖霊は、キリスト教の中枢である。人間と神を実質的に結ぶものはこの聖霊であり、聖霊を受けるかどうかが神とつながれるかどうかを決める。ゆえに聖霊こそは命の要、救いの要、善の要、聖書中もっとも重要な事柄であると言ってよい。今回が最後の集会になる人もいるであろうから、その最重要事項である聖霊について、その全貌を紹介したい。

 1.聖霊とは何か
*語源は古代ギリシア語のpneuma hagion。hagionの意味は「聖なる」、pneumaの意味は「霊」である。
*旧約聖書には度々神の霊が登場するが、それは聖霊とは異なる。旧約聖書の神の霊は、神の意志を実現する力のごとき存在である。それは天地を創造し、洪水や噴火を引き起こし、超自然的な奇跡を引き起こし、人間に特殊な能力を授け、戦争を勝利に導く。旧約の神の霊は力なのである。対して聖霊は、新約聖書に初めて登場するイエス・キリストの霊である。それは「真理の霊」とか「弁護者」parakletosと呼ばれることからも明らかな通り、人格的霊である。それは力としてではなく人格的感化によって働くのだ。
・キリスト以降の時代は、神の霊ではなく、聖霊の働く時代である。つまり、現代は神が聖霊を通じて人格的感化によって働く時代なのだ。だからこそ神が力を行使するという次元の低いことは、滅多に起こらない。
*聖霊とはどのような人格であるか。キリストの霊であるから、もちろん愛と義の霊であり、自己中心性(罪)の反対の人格であるが、より掘り下げると以下のようになる。
 ①義と愛への服従:神の義と愛を完全に理解し、それに完全に従う。
 ②へりくだりと赦し:全能の力を持ちながらもそれを行使して裁かず、あえて負けに徹
  して赦し続ける。
 ③奉仕と犠牲:自分の最も大切なもの、自分の命さえも他者にささげて、奉仕する。

2.聖霊の降臨
*聖霊は人の心に働きかける。これを聖霊の降臨という。ではどのように降るか。
静かな声の語りかけとして降る。聖霊は人格的霊であるから、何よりも先ず良心への声なき語りかけ
 として降ってくる。
静かな感化力として降る。人の感情を激しく掻き立てて降るものではない。使徒行伝のペンテコステ
 の記事は例外的なものであって、それを模倣しようとする試み(リバイバル)は聖霊降臨とは異な
 る。聖霊は人格的感化力により静かに降るのである。
生涯にわたって徐々に降る。聖霊降臨を繰り返し体験すると、やがて自分の心に宿っている
 かのように感じられる。
誰にでも降る。旧約の神の霊は選ばれた特殊な人間にのみ降ったが、聖霊はあらゆる人に降
 る可能性がある。
*聖霊の効果はどのようなものか。一言で言えば清めであり、人の自己中心性(罪)を取り除
 き、人を愛と義の人へと変えていく
のがその効果である。
 ①罪の自覚:聖霊が宿った者は自分の罪(自己中心性)を徹底的に知らされる。それは同時
 に神の愛、正しさを知らされることであり、その前に自分は立ち得ない、裁かれざるを得な
 い存在であるということを知らされることである。
 ②十字架の救い:自分の努力(修行や善行)によってではなく、キリストの十字架によって
 罪が贖われ、赦され、神との和解がなされたことを知らされる。
 ③へりくだりと感謝:おごりが消え、へりくだりの心(謙遜)が生じ、神への感謝の念が生
 じる。
 ④平安と元気:神との和解がなされたことを知らされることは、心底からの平安をもたら
 し、根源的な不安や恐怖を一掃する。加えて、生きるための根源的な活力をもたらす。
 ⑤自己中心性からの解放:自分の意志ではなく、キリストの意志によって生きるようにな
 る。(ガラテヤ書2:20 生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたし
 の内に生きておられるのです。)
 ⑥美徳と愛の芽生え:自分の内より様々な美徳と愛が生じてくる。清らかさが生じてくる。
 つまり律法が守れるようになる。
 ⑦命の付与:この世においてわずかに健康になり、わずかに長生きする。
 ⑧希望と自由:来世において永遠の命が与えられるというイエスの言葉やその証拠である復
 活が信じられるようになり、希望が湧いてくる。それと同時に現世的しがらみ(経済関係、
 権力関係)を無視できるようになり、真の自由が与えられる。
 ⑨試練:聖霊が宿るとしばしばご利益(りやく)とは反対のことが起こる。貧困になり、事
 業は失敗し、病気になり、人間関係に不和が生じる可能性がある。しかしこれらはたいてい
 一時的なことである。それらは真の豊かさ、真の成功、真の命、真の人間関係へと導くため
 の試練なのだ。最終的に聖霊は、人を最高の状態へと導いてくれる。そのためにこそあえて
 試練をもたらすのだ。
・ゆえに内村は、聖霊こそ神からの最大の賜物であると言う。
・以上の効果が表れることは聖霊が心に降臨していることの証拠である。聖霊が下るというの
 は単なる思い込みや幻想ではない。

 

3.聖霊を受けるには
聖霊を受けるための決定的な方法はない。聖霊がいつ誰に宿るかは聖霊の選び次第。聖霊は
 風のごとく気ままに吹き抜ける。人間に聖霊を操ることはできない。
*にもかかわらず、聖霊が宿りやすい心というものはある。そういう心を準備しておくことは
 できる。

 ①信仰と祈り:「求めなさい。そうすれば与えられる」(マタイ伝7:7)という言葉の通
 り、神を信じ、神に祈り求める者には聖霊が降りやすい。この際、聖霊自体を祈り求めなく
 とも、神に何か(富でも健康でも勝利でも成功でもかまわない)を真剣に祈り求めるなら
 ば、その人の心には聖霊が宿る可能性がある。

 ②聖書研究:聖霊を求めるならば何よりも先ず聖霊について知る必要がある。聖霊の本体で
 あるキリストとはどのような方か、キリストの父である神とはどのような方か、聖霊そのも
 のはどのような方か、そうしたことを聖書を通じてよく学ぶならば、聖霊を受ける可能性は
 高まる。
 ③律法の実行:神の御心の箇条書きである律法(掟・戒め)を真剣に守ろうとするならば、
 聖霊は降りやすくなる。内村は律法の実践こそ祈りの最高形態であると言っている。
 ④愛の実行:では律法の中心は何であるか。「思いを尽くして、あなたの神である主を愛し
 なさい」と「隣人を自分のように愛しなさい」(マタイ伝22:37-38)である。この
 戒めと真剣に向き合い、それを実行しようとする者こそ聖霊を与えられる可能性が高い。
 ⑤儀式:誠実に心を込めて行われるなら、洗礼式、ミサ、按手霊によっても与えられる可能
 性がある。(ちなみに内村は、聖霊を物化する行いであるとして儀式を否定し、儀式によっ
 て聖霊が与えられることはないと述べている。)
*しかし、繰り返すが、これらの方法はあくまでもが聖霊を受けやすい心を準備するためのも
 のであって、それらを実践すれば必ず聖霊が降るということではない。
・時には、上の条件に全く当てはまらない人にも聖霊が宿ることがある。いつか紹介した日本
 の中江藤樹などはその類であると思われる。

4.私の体験
*私自身は、二度決定的な聖霊降臨を体験した。結婚してすぐ、27歳のころ、私はつれあい
 と共にある伝道者の聖書講話を聴きに行った。彼が何を話したのかはよく覚えていない。キ
 リストの十字架について述べていたことだけは覚えている。にもかかわらずその講話の最後
 には、涙が止まらなくなった。その涙は15分は続いたと思う。その涙は悲しいとか嬉しい
 とかいうときに出てくる涙とは全然違う涙、何かすごいものに触れてしまった時に生じる涙
 であった。このときこそ私が聖霊を初めて受けたときである。
*二度目は、子供が病気で亡くなったときである。聖霊が降されると試練が与えられると述べ  
 たが、子供の死はその試練であったと思う。いくら神に祈っても子供は救われず、苦しみな
 がら死んで逝った。この衝撃のゆえに、私は一時期神を恨んでいた。ところがそのさなか
 に、聖霊はやってきたのである。病床で苦しむ子供の姿にうなされていたとき、子供の傍ら
 に十字架上でボロボロになったイエス・キリストが現れた。そして、「わが神、わが神、な
 ぜ私をお見捨てになったのですか」と語ったのだ。
・この語り掛けによって私は、神が自分の子供と共にいることを確信することができた。神
 は、自分が苦しみのどん底にある者と共にいることを示すために、子なるキリストをこの世
 に遣わし、十字架にかけたのだと。
・この出来事によって私は、神と和解し、生きる力、平安、希望などを一時期に与えられた。
 これが私の体験した二回目の聖霊の降臨である。

結び
 その後も小さな聖霊の働きかけは何度か起こった。そして私を最良の方向へと導いてくれた。今、思うことは、まさしく聖霊は、神が下さる最大の賜物であるといことである。皆さんにもぜひ聖霊を受けてほしい。

話し合い
A君:自己犠牲のところに「自分の最も大切なものや命を捧げる」とありますが、いったい誰に捧げればよいのでしょうか。
寮長:内村鑑三はこう言いています。I for Japan, Japan for the World, the World for Christ; and all for God.つまり大切なものを捧げる相手は、神様です。神様のために捧げるには、世界に捧げなければならず、世界に捧げるためには世界を支える日本のために捧げなければなりません。そして日本のために捧げるとは、結局自分の周りの人たちのために捧げるということです。周りの人に自分を捧げることによって、周りの人が少しでも良くなっていくのなら、それは神のために捧げたことになるでしょう。
B君:旧約聖書の時代には、神様は力で働いたけれど、イエス・キリスト以降は人格的感化力として働いているというところが心に残りました。私自身も聖霊の働きかけを幾度か感じたことがあります。悪い力の働きも感じますが。
寮長:B君は、この寮に来てから随分変わったように思われます。きっと聖霊の働きかけを受けたのでしょう。
C君:寮で暮らしている人は皆聖霊の働きかけを受けているのではないでしょうか。みんなで暮らしているといろいろなぶつかり合いがあり、助け合いがある。聖書を学びながらそういう暮らしを続けていると聖霊が降ってくるのではないでしょうか。
寮長:そうかもしれません。寮生活をしていると、義務をさぼったり人に迷惑をかけたりする人がどうしても許せないという自分に出会う。これは自分の罪と出会っているということです。自分の罪と出会う人には、聖霊が降る可能性が高いと思います。なんせ、自分の罪に気付かせるのが聖霊の最も重要な働きなのですから。
D君:聖霊はご利益をもたらさずに試練をもたらすというところが心に残りました。自分はたくさん失敗してきて、そのたびにそれをプラスにとらえることで、成長してきたと思います。
寮長:失敗や不幸をプラスにとらえることができ、それで精神的に成長しているとするなら、それこそ聖霊の導きと言ってよいでしょう。
F君:僕には人間関係が試練です。特に今年は最高学年になり、バイト先でも一番年上になります。そうなるとどうやって年下の学生たちを指導すればよいのかわからない。これは本当に試練です。
寮長:人間関係で苦労するということは、そのことで聖霊が何かを伝えようとしているのですね。そういうときこそ良心に働きかける聖霊の声に耳をすまして下さい。