裁きと赦し(小舘)

 

2024年1月24日春風学寮日曜集会

聖書個所 マタイによる福音書25:31-46, 26:6-13


 今日の個所はかなり長いが、前半(すべての民族を裁く)は至極簡単なことを述べているので、恐れるに足らない。問題は後半である。この後半(ベタニアで香油を注がれる)をどのように解読するかは、昔から学者を悩ませてきた問題であり、いまだに結論の出ていない問題である。しかるに、この箇所をきちんと解釈できないなら、イエスの本質も、新約聖書の本質も、全て見誤ることになる。今日は2024年度最後の集会である。この集会をもって二度と私の話を聞く機会を失う学生もいることであろう。だから、今日は全力をかけてこの箇所を解読し、イエス・キリストの本質の何たるか、新約聖書の本質の何たるかをお伝えしたい。

 

1.解説

◆すべての民族を裁く

25:31 「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。

*「人の子」とはイエスのことである。この奇妙な呼称は、黙示文学の影響でイエスの弟子たちが使うようになった言葉であり、イエス自身はこういう呼称を用いなかったというのが最近の聖書学の結論である。

・しかしそんなことなどどうでもよい。重要なのは内容だ。イエスはここで、自分がいつの日かこの世に再び神から遣わされて(再臨して)、最後の完全な裁きを行うと宣言している。

・こんな話はフィクションだと無信仰の人たちは言う。他方最近の聖書学者らは、こんな話はイエスが語ったことではなく、黙示文学の影響を受けた弟子たちが付け加えたことだと主張する。彼らもまた、イエスの再臨をフィクションだと考える。

・しかし、私はそうではないと考えている。イエスによる最後の裁きという発想が作り話だとするならば、聖書を読む意味など消え去る。最後の裁きという発想がイエスに無かったとすれば、イエスの存在意義すらも消え去る。イエスによる最後の裁きは必ず起こる、これは聖書を読み解く上での大前提である。もちろん君たちに最後の裁きを信じろ、と言っているのではない。最後の裁きを大前提としないなら、聖書は読み解けないと言っているのだ。信じるにせよ信じないにせよ、先ずは聖書をきちんと読み解く必要がある。そのためには、最後の裁きの存在を大前提として読解を進めなければならないのだ。

25:32 そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、

25:33 羊を右に、山羊を左に置く。

25:34 そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。

25:35 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、

25:36 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』

25:37 すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。

25:38 いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。

25:39 いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』

25:40 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』

25:41 それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。

25:42 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、

25:43 旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』

25:44 すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』

25:45 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』

25:46 こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」

*まず確認しておきたいことは、マタイによる福音書によれば、この説教がイエスの最後の説教であるということだ。ヨハネによる福音書によれば、イエスはこの後にさらに決別遺訓呼ばれる長い説教を行った(ヨハネによる福音書14章から16章)。しかしマタイはそれに触れずにこの説教をイエスの最後の説教として提示した。それほどにマタイはこの説教を重視していたのである。当然マタイ自身は、この説教が真正のイエス自身の言葉であったと確信していた。

*そこで内容を検討しよう。すでに述べたように、この説教は長いわりにはメッセージが単純明快である。要するに困って苦しんでいる人(「最も小さい者」に対して愛を実践した人が裁きにおいて義とされて神の国に迎えられる(命を得る)。逆に彼らに愛を実践しなかった人は裁きにおいて罪とされて神の国から締め出される(命を与えられない)ということである。

・そこでまず私たちが受け止めておく必要があるのは、神の裁きというもの苛烈さ、その怒りの激しさである。聖書の神は愛の神である。であればこそ愛の実践を極めて重んじる。自分のように隣人を愛せ、自分の敵すら愛せと命じるのである。このことは逆に言えば、愛の実践を怠る者や愛に反する行動を行う者に対して烈火のごとくに怒るということである。神は愛を実践する者を途方もなく愛し、愛を実践しない者に途方もなく怒る。これこそ神の愛の第一原則である。この説教でイエスは、愛を実践した者は神の国に迎えられて永遠の命を得、愛を実践しなかった者は地獄で永遠の火に焼かれると述べているが、この言葉を通じてイエスが伝えたかったことは、それほどに神は愛の実践者を愛し、愛を実践しない者を憎むということである。

*しかしここには、それとは別にそれよりもはるかに重要なメッセージが含まれている。それは神が苦しむ人間と一体化するというメッセージである。40節には『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである』とある。さらに45節にも『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである』とある。いずれも神が自身を苦しむ人間と共にあることを、いや共にあることを超えて一つになることを宣言する言葉である。今まで神は外側から人間の苦しみを憐れむだけの存在であった。ところが今や、神は苦しむ者の内側に内在し、苦しむ者とともに苦しむ存在になろうとしているのだ。そしてイエス・キリストこそは私たちと共に苦しむ神を表す存在なのだ。

・このことを深く受け止めるとき、私たちは初めて次の記事に込められたマタイの真のメッセージ、新約聖書の本質に迫ることができる。

◆ベタニアで香油を注がれる

26:6 さて、イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家におられたとき、

26:7 一人の女が、極めて高価な香油の入った石膏の壺を持って近寄り、食事の席に着いておられるイエスの頭に香油を注ぎかけた。

26:8 弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「なぜ、こんな無駄遣いをするのか。

26:9 高く売って、貧しい人々に施すことができたのに。」

*この弟子たちの言葉の意味するところがわかるであろうか。弟子たちはここでイエスの愛の教えを実践しようとしているのだ。「高く売って、貧しい人々に施すことができたのに」という言葉は明らかにイエスが先ほど述べた「最も小さい者」を意識した言葉である。一壺の香油は、マルコによる福音書によれば300デナリオン(300万円)で売ることができた。300万円あればどれだけ多くの「小さい者」を助けることができるだろうか。ましてやこの場所は、「重い皮膚病の人」の家である。彼らは、これだけあればどれだけ「重い皮膚病の人」を助けられただろうと思い、「高く売って、貧しい人々に施すことができたのに」と述べたのである。

・だとすればこの弟子たちの言葉は、まさに苦しむ者への愛の実践を目指す言葉であり、称賛されてしかるべき言葉ではないか。ところがこの後に続くイエスの言葉は、賞賛ではない。むしろ非難である。弟子たちの愛の実践とは異なることをした女が称賛されるのだから。

26:10 イエスはこれを知って言われた。「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。

26:11 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。

26:12 この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた。

*このイエスの言葉の意味するところは何であろうか。一義的にはイエスを愛することの重要性である。「最も小さい者」に愛を実践することは確かに大事である。しかし、それと同じくらい重要なことは、イエスを愛することだとイエスは示そうとしているのだ。思い出してほしい。イエスは最も重要な掟は、神を愛しなさいであると述べていた。同時にそれと同じくらい重要な掟は隣人を愛しなさいであると述べていた。つまり、イエスはここで、隣人を愛することも重要だが、神を愛することも同じくらい重要だと訴えているのだ。もっと言えば、この二つの愛はどちらも重要な表裏一体のものだと訴えているのだ。

・人は隣人を愛していればよいというものではない。人間だけに目を向けているなら、決して隣人愛を全うすることはできない。なぜなら、隣人だけに目を向けていると愛とは何かが分からなくなるし(欲望の実現が愛であると勘違いしてしまうし)、見ず知らずの人や敵を愛する力など人間には不可能なのだから。人は神を愛し、神の導きに従い、神の力の助けを得て初めて隣人を愛することができるのだから。他方、神だけを愛そうとしても神への愛を全うすることはできない。なぜなら、神を愛そうとしていくら祈りをささげ、讃美歌を歌い、礼拝で儀式を行い、いくら律法を守ったところで、神を愛したことにはならないからだ。神の導きと力に従って隣人を愛し抜いたときに初めて神の愛を全うできるのだから。

・というわけで、隣人への愛は神への愛を通じて初めて全うできるし、神への愛も隣人への愛を通じて初めて全うできる。この愛の表裏一体性を伝えるためにこそ、マタイは「最も小さい者」への愛を強調する記事の後にイエスを重視する記事を載せたのである。

*しかし、この記事に込められた最も深いメッセージはそのことではない。ではそのメッセージとは何か。12節でイエスは「この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた」と述べている。「わたしを葬る」とは何のことであろうか。もちろんイエスが十字架にかけられて殺され、墓に葬られることである。してみるとこの女の行為は、イエスが殺されることに対する感謝を表明する行為であったのだ。すると不思議である。いったいなぜこの女はイエスが殺されることに感謝を表明したのであろうか。そもそもの話なぜイエスが殺されることを見抜いていたのであろうか。確かにイエスは自身が殺されることを何度も予告していた。しかしその言葉は全ての弟子から無視されていた。それなのになぜこの女だけが、その言葉をまじめに受け取ることができたのであろうか。しかもイエスが殺されることが感謝すべきことであるなどとなぜ思えたのであろうか。神の啓示があったからとしか考えようがない。彼女は、イエスが殺されることの意味を神から示され、イエスに感謝せずにはいられなくなった。その故にイエスに300万円もの香油(おそらく彼女の全財産)を注いで最高の感謝を表明したのである。

・そこで、考えなければならない。イエスが殺されることがいったいなぜ感謝すべきことなのであろうか。殺されることは普通悪いことではないか。それなのになぜこの女はそれに感謝するのであろうか。その理由は先ほどの裁きの記事が教えてくれる。先ほどの裁きの記事において、イエスは神が苦しむ者と一体になるということを述べていた。そのことに基づいて考えるならば、イエスが殺されることこそは、神が苦しむ人間と一つになるという出来事なのだと理解できる。そうなのだ。イエスが十字架にかけられて殺されるという出来事こそは、神が苦しむ人間と一つになるという決定的な行為であったのだ。いやもっと本質的に言えば、イエスが十字架にかけられるという出来事の意味は、死や病や罪で苦しむ人間の苦しみの一切を神がわが身に引き受けるというという出来事だったのだ。事実、このことを信じて十字架を仰ぐなら、人は魂の根幹において苦しみを癒される。神の苦しみは人の魂の苦しみを癒すのである。この驚くべき、真理を示されたからこそ、この女は、全財産を使い果たしてまで、イエスが殺されることに感謝の意を表明したのである。

・神の苦しみが人の苦しみを根本的に癒す。この不思議な現象を理解するためには、アルコール(ニコチン・ギャンブル)中毒患者の話し合いのセッションについて調べてみるとよい。彼らは、互いの中毒の苦しみをひたすら打ち明け合う。すると何が起こるか。自身の苦しみが癒されるということが起こってくるのだ。互いの苦しみを打ち明け合うということが、中毒患者たちの心を癒すのだ。東北大震災で家族を亡くした人たちも同じことを体験した。お互いに家族を亡くした苦しみを打ち明け合うにつれて、彼らの多くが苦しみから解き放たれていった。人間同士苦しみを分かち合っただけでも苦しみが癒されるのだ。もしその分かち合いを神と共になすことができるなら、いったいどれだけ深い癒しが与えられることであろうか。この不思議な現象はイエスが十字架にかけられて以来、無数の人々によって体験されてきた。私自身子供を癌でなくして絶望の苦しみに打ちひしがれているときにその途方もない癒しを体験した。いったいなぜこのような不思議な癒しが起こるのか。神が人の苦しみをわが身に引き受けていると考えざるを得ない。

*ところで、神が人の苦しみを引き受けたという十字架の出来事には、さらに重大なメッセージが含まれている。話を混乱させる可能性があるが、今日は今年度最後の講話だから、敢えてそこまで話を広げたい。十字架において神が人の苦しみを引き受けたという出来事は、単に「最も小さい者」の苦しみを引き受けたということにとどまらない。その最も深い意味は「最も小さい者」に対する愛を実行しなかった罪人たちの苦しみも引き受けたということである。イエスは十字架にかけられたとき、自分を十字架にかけたすべての敵対者を赦した。このことの本質的な意味は、彼らをさらに大きな愛(アガペー)で包み込んだということであり、すなわち彼らの苦しみをも我が身に引き受けたということなのだ。

・愛を実行しない人は、自分の欲望を目指して自己中心的に生き、苦しんでいる人には目を向けない。目を向けないどころか苦しんでいる人を利用してさえ自分の欲望を満たそうとする。そしてそうすることに何の苦しみも疑問も感じない。しかし、ここで気づくべきことは、彼らといえども、心の深いレベル(=霊的レベル=良心のレベル)においては無意識のうちに苦しんでいるということだ。だからこそ彼らは、理屈を様々に凝らして自分の自己中心的な生き方を肯定する。例えば、「この世は弱肉強食の原理で動いているのだからしようがない」、「社会システムが資本主義なのだからしようがない」、「欲望こそ正義であり、欲望のお陰で科学は発達した」、「自分のことで精いっぱいで他者のことまでかまっている余裕はない」・・・。このように言い訳せずにいられないことこそ、愛を実行しない人が心の深いレベルで苦しんでいることの証拠である。だから、心の深いレベルで言えば、愛を実行しない人々こそ最も苦しんでいる。彼らの魂はまさに血を流しているのだ。イエスが十字架にかけられたという出来事は、神がそのような人々(=愛を実行しない人々=イエスを十字架にかけ続ける人々)の苦しみをも我が身に引き受けたことをも表しているのである。

・そして、繰り返すが、このような神による苦しみの引き受けは人の苦しみを根源的に癒す。愛を実践しない人が自身の魂の苦しみに気付き、心全体で苦しむなら、その苦しみは十字架において示された神の苦しみによって癒される。だからこそイエスの十字架は、全く愛を実行しない人々でさえも変えていくことができるのである。十字架にかけられたイエスを見捨てたとき、ペテロは愛を実行しないことがいかに苦しいことかを知り、号泣した。そうであればこそ、十字架上で苦しむイエスの姿を思い出した時、そこに自分のゆえに苦しむ神を見出すことができた。そしてその瞬間にペテロは自身の苦しみが癒されるのを感じたのだ。パウロも同じだ。彼はイエスの弟子たちを迫害し、その殺害に協力するにつれて、苦しみが増し、追い詰められていった。そんなときに十字架にかかったイエスが彼の心に現れた。そしてパウロもペテロと同じように、その十字架上のイエスに、自分のゆえに苦しんでいる神の姿を見出した。そしてこの瞬間に彼は苦しみが癒されるのを感じたのだ。以来無数の人々が同様の体験をし、キリスト教が成立することとなる。しかしこれは特定の宗教の教義の問題ではない。確かに神の苦しみは人の苦しみを癒すのである。

*この記事に登場する女は、その驚くべき真理を神から啓示された。だからこそ彼女は、全財産をはたいて香油を買い、それをイエスに注いだ。

・そしてイエスもこの女が自分が殺されることの意味を深く理解していることに気付いた。だからこそ、13節でこう述べるのである。「はっきり言っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」と。福音とは、神が人の一切の苦しみをわが身に負い、人の苦しみを癒すというメッセージである。

 

2.メッセージ

 というわけで、今日のメッセージをまとめよう。

一つ目は、神は愛を実行しない人(罪人)に対して、大きな怒りを持っており、罪人を裁かずにはいられないということ。だとすれば私たちは全力で隣人を愛さなければならない。

二つ目は、神を愛することなくして隣人愛を全うすることはできないということ。だとすれば私たちは、神とはどのようなかたか、必死で学ばなければならない。

三つ目は、イエスが十字架にかけられて殺されるという出来事を通して、神は人間の負う苦しみ(死の苦しみと罪の苦しみ)を共に分かち合う(自分が引き受ける)ことを表明したこと。神は、人の苦しみを分かち合い、わが身に引き受ける方であった。

四つ目はこのメッセージ(福音)を受け入れることによって、人の苦しみは癒されるということ。この癒しを受けることで、人は初めて隣人を愛せるようになる。

 神は愛の神であるゆえに、愛を実行しない者(罪人)に対して激しい怒りを発せざるを得ない。しかし、愛の神であるゆえにこそ、そのような罪人をも赦し、救わずにいられない。敵を愛しなさいと人に命じた神は、自身で敵の苦しみをわが身に負うことで、敵への愛とはどういうことかを示した。敵の苦しみを負うことが敵を愛する道であり、そうすることで敵を愛の人に変えることができると。神の愛の怒りは火山のごとく恐ろしく、神の愛の赦しは深海のごとく深いのだ。

それゆえに、愛は当然怒りと赦しの両方を伴う。あるがままでよい、何をしてもよい、というのが愛ではない。悪いことをした者(愛に反する者)に対しては怒らねばならぬ。しかしその怒りを乗り越えて、相手を赦す。愛を実行できない相手の苦しみを分かち合い共に背負う。それが愛の道であり、そのような愛の道によってこそ、新たに愛が生み出される。皆さんには、そのようにして愛の道を歩んでほしい。

 

3.話し合い

Y君「神の苦しみによって人の苦しみが癒されて初めて愛が実行できるというメッセージに感動しました。改めてイエスについて学ぶことの重要さを思いました。」

寮長「イエスはそういう意味で、私につながっていなさいと言ったのかもしれません。イエスについて学ばないと、神の苦しみが人の苦しみを癒すなどということはわからないし、体験もできませんよね。」

S君「愛を実行しない人は心の底で苦しんでいるという言葉、本当にその通りだと思いました。自分でも愛を実行しないことの言い訳をいろいろと考えてしまいます。これはやはり心が苦しんでいることの証拠ですね。」

寮長「そのことが分かるなら、それだけで大きな前進です。」

O君「人と苦しみを分かち合うと癒されるというところは、よくわかるのですが、イエスと苦しみを分かち合うということがよくわかりません。そもそもイエスは復活する命を持っているのに、なぜ人と苦しみを分かち合えるのでしょうか。」

寮長「鋭い。これは神学上の大問題です。そもそもイエスの苦しみとは何なのでしょうか。確かにイエスは十字架刑で肉の苦しみを味わいました。しかし復活するはずのイエスが肉の苦しみを味わったところでその苦しみはたいしたものではありますまい。だから、イエスの本当の苦しみはただの肉の苦しみではなかったのです。では、イエスの苦しみはいかなるものであったのか。それは真の命の根源である神と断絶してしまう苦しみ、神の怒りによって魂を滅ぼされてしまう苦しみです。「すべての民族を裁く」という記事で、イエスは愛を実行しなかった者は永遠の火で焼かれると言っていましたが、イエスが十字架上で味わった苦しみは、まさしく永遠の火で焼かれるというような魂までも滅ぼされてしまう苦しみであったのです。このような最大級の苦しみを味わったからこそ、イエスはどんな人の苦しみにも寄り添うことができる。体の痛みで苦しむ者はおろか、魂から血を流す罪人の苦しみまで負うことができるのです。ですからイエスと苦しみを分かち合うという体験をするためには、単なる肉体の苦しみを超えた魂の苦しみを、自分の罪の苦しみを体験しなければなりません。ペテロやパウロのように。皆さんはまだそんなことを体験したことはないと思いますが、今の世はひどい世の中であり、これからはもっとひどくなるでしょうから、きっと近々体験することになるでしょう。」

K君「心理学のカウンセラーと話をしていても少しも癒されません。それどころか、上から目線を感じて逆に気分が悪くなってしまいます。」

寮長「それこそイエスとの違いですね。イエスは上から目線ではなく、共に苦しんでくれる。だからこそそこに癒しが生まれるのです。」

K君「しかし、私たちは愛を実行しようとするとどうしても上から目線になってしまい、とてもイエスのように人と苦しみを分かち合うことなどできません。そこで必要になってくるのが、仲介者としてのイエスだと思います。私たち自身がイエスの十字架の苦しみに癒され、そのことを伝えることで初めて人を愛せるのではないでしょうか。」

寮長「すごい!その通りだと思います。」