Q資料とQ集団(小舘)

2023年12月10日春風学寮日曜集会

ルカによる福音書6:20-23, 6:27-36

 

序 Q資料の謎

 福音書はイエスの言動(イエスの救いの言葉と業)について記した書である。その福音書が聖書には四つある。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネのそれぞれが記した福音書である。このうちのマタイとルカによる福音書(紀元後85年ころ成立)は、最古のマルコによる福音書(紀元後65年ころ成立)を基にして書かれた。これら三つは兄弟のようなものなので、共観福音書と呼ばれる。ヨハネによる福音書(紀元後90年代に成立)はこれらとは全く別に書かれた独特のものである。

 ところで、マタイによる福音書とルカによる福音書はマルコによる福音書に基づいて書かれたにもかかわらず、マルコに載っていない記事が多い。しかもそれらの記事のほとんどが同内容である。このことから、マタイとルカはマルコ以外の資料を参照にして書かれたという仮説が19世紀に唱えられ、以降研究が進むにつれて定説となっていった。学者たちはこの資料をQ資料と呼び、それを保存したであろう人々をQ集団と呼んだ。

私もこの定説に同意する。Q資料がなければ、イエスに直接会ったわけでもないマタイ(12弟子のマタイとは別人であるというのが最近の通説である)とルカが同内容を記せるはずがないからだ。というわけでここからは、Q資料とQ集団が存在したという前提で話を進めていこう。

 Q資料を保持した集団はガリラヤ(イエスの活動中心地)で直接目撃したイエスの業や直接聞いたイエスの言葉を記録して、それに従って生きた。そしてその記録を子孫にも伝えた。ところが紀元後66年にユダヤ人はローマと戦争を開始する。Q集団は恐らくはイエスの愛敵の教えに従ってこれに参加せずにガリラヤを離れシリアに逃がれた。そこでマタイやルカの教会と合流した。そうであればこそ、イエスと直接会っていないマタイとルカがマルコに基づかない同内容の記事をたくさん福音書に盛り込むことができたのである。

 さて、なぜこのようなことを語りだしたのかと言うと、Q集団には驚くべき謎があるからである。その謎とは、彼らがイエスの十字架や復活について深い認識を持たないままにイエスへの信仰を約40年間保持したということである。マルコ、マタイ、ルカの教会の中にはイエスの十字架と復活という事件を直接見聞きした者がいたであろう。そうであればこそ、彼らの間では十字架と復活を基礎とするキリスト信仰が生まれ、それを保ちえたのである。ところが、Q資料には十字架と復活の記事がない。ないということは、彼らは十字架と復活を知らなかったか、知っていたとしても、噂にそれを聞く程度で重視していなかったということである。つまり、Q集団はイエスの十字架と復活なしでキリスト信仰を持ち、それを何十年も保っていたということである。これは、実に驚くべきことである。もしそのようなことが事実であるとすれば、十字架も復活も不要ということになってしまう。はたして十字架も復活もなしにキリスト信仰が成立するのか。もしそうだとすれば、Q集団はどのようにして、どのようなキリスト信仰を保っていたのか。これは、今日に至るまでのキリスト教をひっくり返してしまうほどの大問題である。

 以下、今日の聖書個所を通じてそのなぞに迫ってみよう。今日の聖書個所はマタイとルカにはあってマルコにない記事、すなわちQ資料に基づく記事であり、しかもQ資料の特質を最もよく表していると思われる個所である。これらの記事を追っていくなら、Q集団の謎が解き明かせるかもしれない。

 

1.解説

6:20 さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである。

*「貧しい人々」とは単に貧困な人たちを指すわけではない。社会的に疎外されている人たち全般を指す。病気の人たち、仕事に就けない人たち、差別されている人たち、罪人などの人々がここに含まれる。そういう人たちは全て貧しかった。そのような人たちに向かって「幸いである」とイエスは呼びかけている。しかしこの訳では弱い。原文に忠実に訳すなら、「幸いなるかな、貧しい人々!」とでも訳すべきである。なぜそれほどに貧しい人々が幸いなのか。「神の国はあなたがたのものである」からだ。

・ここで注目すべきは時制である。ここには未来形は使われておらず、現在形が使われている。つまり、「神の国」は今この瞬間に「貧しい人々」のものとなったとイエスは、断言しているのだ。これはいったいどういうことであろうか。イエスはいったい何を言おうとしているのであろうか。

・言うまでもなく、イエス自身が神の国を今この瞬間に到来させているということを言おうとしているのだ。イエスは命そのものであり、イエスがいるところには命の支配(=神の国)が到来するということを言おうとしているのだ。

*これとよく似たイエスの言葉をもう一つ引用しておこう。ルカによる福音書の次の言葉である。

4:16 イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。

4:17 預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。

4:18 「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、

4:19 主の恵みの年を告げるためである。」

4:20 イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。

4:21 そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。

 これはルカ独自の資料に基づく言葉だが、Q資料の影響を濃厚に受けて書かれたものであると私は見ている。「この聖書の言葉」とは、「主が私を遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げる」という言葉である。その言葉が「今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」とイエスは言うのである。つまりイエスは、自分こそは神の国を到来(実現)させるものであると公言しているのだ。

・これは、「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである」という断言とほぼ同じ内容である。

6:21 今飢えている人々は、幸いである、/あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、/あなたがたは笑うようになる。

*「飢えている人々」とは単に空腹な人たちを指す言葉ではない。心に空洞を抱えている人たちも含まれる。古代のユダヤにおいては心と身体をほとんど分けないのである。そのような体に空腹、心に空洞を抱えている人たちに対して「あなたがたは満たされる」とイエスは断言する。

・この「満たされる」は原語では未来形だから「満たされるであろう」という訳が正確である。それではイエスは、遠い未来に実現される「神の国」において体の空腹も心の空洞も満たされると言おうとしたのであろうか。確かにそういうメッセージも含まれているであろう。しかし、前節からの脈絡で考えるならば、その解釈では不十分である。前節の言葉は、イエスのいる今この瞬間に神の国が到来しているという意味なのだから、それに基づいて解釈するなら、イエスのいるところでは体の空腹も心の空洞も満たされるという意味にとるべきであろう。そうなのだ。イエスはここでも、もし私が共にいるなら、命の支配(神の国)が実現するから、体の空腹も心の空洞も満たされると言っているのだ。

*「泣いている人々」とは、単に泣いている人たちのことではなく、家族や友人をなくしたり、罪を犯したりして、心が傷ついてしまっている人たちのことである。そのような人たちに対してイエスは「あなたがたは笑うようになる」と断言する。つまり、神の国では死んだ人たちと再会し、罪も赦されて、傷ついた心が癒されると言うのだ。しかしここもまた遠い未来の神の国の出来事だけを語っているのではない。イエスのいるところでは命の支配(神の国)が実現するので、心の傷が癒されることになると言っているのである。

*そしてイエスは実際にこれらの人々の前で神の国を実現して見せた。イエスのいるところでは病が癒され、差別がなくなり、罪人が赦され、貧しい者は飢えることがなく、心が満たされ、心の傷が癒された。死者さえも甦らされた。イエスはまさに神の国を到来させたのだ。

・これらのこと全てを体験した人々はどう思ったであろうか。イエスこそは神の国を実現することのできる命そのものであると確信したではないだろうか。そしてイエスが自分たちのもとを去ったのちも、イエスのことを思い出し、イエスに祈ったのではないか。そして一部の人たちはイエスのことを思い出すために、その教えや業を必死で記録に残そうとしたのではあるまいか。Q集団とは恐らくそのような人たちだったであろう。

・だとすれば、Q集団の信仰を生み出し、それを支えたものが何かも見えてくる。イエスの霊(聖霊)である。Q集団の人々はイエスを命そのものであると信じ、イエスのことを繰り返し思い出そうとし、イエスに祈った。その祈りに応えて、イエスはその死後にも聖霊として彼らを支え、導いた。だからこそ、Q集団の人々は、十字架と復活なしに、キリスト信仰を何十年も保てたのであろう。

6:27 「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。

6:28 悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。

6:29 あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。

6:30 求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。

6:31 人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。

*イエスは万人を愛した。そこには敵も含まれていた。自分のことを憎み、侮辱し、その悪口を言い、頬を殴り、持ち物を奪う者すらも、イエスは愛した。彼らに親切にし、与え、殴りたいだけ殴らせ、彼らのために祈った。

・しかしイエスは自身でそれを実行しただけではなかった。人々にも同じことを実行するように命じた。人々にも敵を愛するようにと命じたのだ。人々はそのようなことはとてもできないと思ったであろう。ところがイエスのいるところではそれが実行できた。そして実行したときには、不思議と心が満たされるのを感じた。こうして人々は、この教えは決して実行不可能な教えではないと悟った。実行不可能であるどころか、本当の意味で心を満たしてくれる、幸せを生み出す教えであると悟った。

・それだけではなかった。イエスが去った後も、イエスに祈るならばこの教えを実行できるようになることを彼らは知った。そしてこの教えを実行し続けるなら、素晴らしい仲間が出来上がっていくことを知った。そのようにして教会が出来上がっていった。その中の一つがQ集団であったに違いない。

*先ほど私は、Q集団の信仰を生み出し支えたものはイエスの霊(聖霊)であると言ったが、イエスの霊の導きを受けるための最大の方法は、イエスのことを思い出し、イエスのように行動することである。イエスのことを思い出し、イエスのように行動するとき、イエスは霊として私たちの心に現れる。そしてイエスのことを思い出し、イエスのように行動するための最大のきっかけは愛敵の教えなのである。なぜなら、敵を愛せと教えたのはイエスだけであり、それをとことんまで実践したのもイエスだけであるからだ。

・敵を愛そうと必死で努力するなら、必ず限界に突き当たる。そのときにイエスのことを思い出し、イエスに祈るなら、イエスの霊は必ずその人の心に立ち現れ、その限界を突破させてくれる。Q集団はこのプロセスをたどって、キリスト信仰を保ったのではないだろうか。

6:32 自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。

6:33 また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。

6:34 返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。

6:35 しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。

*流れるような、それでいて心の奥にまで響く言葉。先ずはこの言葉の力に注目してほしい。正しく生きようとする者がこの言葉を読むならば、彼はこの言葉に吸い込まれていくような気分を味わうであろう。

イエスの言葉は、それを真剣に読む者の心に力、元気、勇気、自信、希望を引き起こすのだ。そしてそのようなエネルギーが心に生じたとき、すでにイエスの霊が人の心に到来していると言ってよい。つまり、イエスの言葉は、それを真剣に読むだけでも、人の心にイエスの霊を来たらせることができるのだ。Q集団の信仰を支えたものの一つは確かにイエスのこのような言葉の力強さであったはずだ。

*しかし、この箇所で注目してほしいのはやはり内容である。この箇所の内容は、どう見ても黙示文学的である。敵を愛しなさい、報いを当てにしないで愛し、善いことをし、貸し与えよ、とは実に素晴らしい教えであり、まさにイエスにしか言えない教えである。ところが、最後の「そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる」というのはイエスではなく、黙示文学の定番である。そこでは、敵を愛し、報いを当てにせずに愛するということすらも、神の国に入り、神の子と認められ、そこで報いをたくさんいただくための手段なのだ。

・そこでQ集団に話を戻せば、彼らの信仰を支えていたもう一つの要素は、やはり黙示文学的な終末論であったということができる。事実、Q資料にはこのような黙示文学的記事が多く含まれている。彼らは神の最後の裁きが差し迫っていると本気で思っており、その裁きを免れるために、そしてそのときに神の子と認められて、神の国で多くの報いを受けるために、イエスの教えを真剣に実行した。すなわち敵を愛し、報いを当てにせずに愛し、善を行い、貸し与えたのだ。前回述べたように、黙示文学(神の最後の裁きの思想)には大きな力があった。その力が彼らの信仰を支えたのである。

 

2.メッセージ

①聖霊に直接導かれる

Q集団が残してくれた最大のメッセージは、やはり十字架と復活がなくとも、キリストの霊の導きを得るならば、信仰を保てるということである。十字架と復活はキリスト教を発展させてきた最大の剣であるが、他方では躓きの石でもあった。十字架にまつわる思想(贖罪思想、刑罰代受説…)は極めて理解しにくいし、復活にまつわる話は作り話のようで信じがたい。つまり十字架と復活のためにキリスト教を信じる気になれない人がこの世には無数に出てきてしまったのである。

そのような人たちに対しQ集団は別の道があることを示してくれた。十字架と復活を通らないキリスト信仰の道があることを示してくれたのである。その道とは、キリストの霊に直接導かれる道である。キリストは命そのものであり、キリストがいるところでは神の国が実現する。キリストの霊にも同じ力があり、キリストの霊が導いてくれるならば、十字架と復活なくして神の国を体験することができる。これこそQ集団が伝える最も貴重な体験であり、私たちがきちんと受け止めておくべきことである。

②敵を愛する

 では、キリストの霊に来ていただくためにはどうすればよいのか。最大の方法は、敵を愛しなさいという教えを実行することである、とQ集団は教えてくれる。キリストの霊に来ていただくためには、キリストを思い浮かべ、キリストのように生きようとする必要がある。そしてキリストのように生きるための最大の道は、敵を愛することである。このような教えを述べたのはキリストだけであり、このような教えを実践したのもキリストだけである。だから、この教えに忠実に生きようとするなら、どうしてキリストの霊がやってきて助けてくれないことがあろうか。敵を愛そうとするところには、必ずやキリストの霊がやってきて導いてくれるはずである。

③イエスの言葉と真剣に向き合う

 キリストの霊に来ていただくための第二の方法は、イエスの言葉と真剣に向き合うことである。Q資料に残されたイエスの言葉には、キリストの霊を誘致する力をもったものが多い。その言葉と真剣に向き合うならば、それだけで心が熱くなり、元気、勇気、自信、希望が湧いてくる。これはすでにイエスの霊が到来している徴である。

ではどうすれば、イエスの言葉と真剣に向き合うことができるのであろうか。決まった方法などはないが、一つ言えるのは全人格的にぶつかることである。すなわち理性と感情と倫理感とそしてそれを実行しようとする意志をもって読もうとすることである。そのとき初めて、イエスの言葉と真剣に向き合うことができる。これらのうちのどれか一つではもちろん足りないし、どれか一つ足りなくても駄目である。これら四つが一体となったときに初めて、私たちはイエスの言葉と全人格でぶつかることができるのだ。

今日引用したルカによる福音書の個所やその並行記事であるマタイによる福音書の5章などは真剣にぶつかれば、必ずイエスの霊が到来する箇所である。私は大学院生のときに最高の文学を探求していく中でそれを体験した。皆さんにもぜひその体験をしてほしい。

④イエスの霊に明け渡せ

 Q資料に残されたイエスの言葉から受け取るべきもう一つの重大なメッセージは、イエスの霊に自分を明け渡せということである。

Q集団は確かに神の裁きが迫っているという黙示文学的終末思想を持ち、その裁きを免れようとして(神の国で大きな報いを受けようとして)、イエスの教えに従っていた。しかし他方では、そのようなご利益信仰とは別にイエスの霊の到来そのものを今目指すような信仰があった。イエスの霊が到来するならば、それだけで今神の国が実現する。自分の貧しい状況も、飢えている状況も、悲しい状況も、イエスの霊が到来するなら、全ては今喜びに代わる。敵を愛するという不可能な教えも、イエスの霊が到来するなら、今可能になると彼らは考えていたのである。

しかし、イエスの霊の到来は、それまでの自分を全て捨てイエスの霊に明け渡すことをもって初めて、今神の国となる。このような明け渡しの信仰があればこそ、「幸いなるかな、貧しい人々!」と言うイエスの言葉を十全に受け止めることができたのだ。この明け渡しの信仰こそ、私たちがQ集団から最も受け取らなければならないものであろう。なぜなら、この明け渡しの信仰があってこそ、私たちは初めて自己中心性のラビリンスを抜け出し、本当に神の国を知ることができるからである。つまり、イエスと共に「幸いなるかな、貧しい人々!」と言うことができるからである。

Q資料には次のような言葉があるのである。

11:20 しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。(これはルカによる福音書の言葉だが、マタイによる福音書の12:28に全く同じ言葉があり、しかもマルコにはないから恐らくQ資料である。)

イエスはここではっきりと、自分のいるところには神の国が到来していると語っている。しかしその到来は、同時に悪霊を追い出すことと重なっている。悪霊とイエスの霊は共存できないのである。言い換えれば、イエスの霊は、私たちの自己中心性と共存できないのである。だから、もし私たちが自己中心性にしがみつくなら、せっかくイエスの霊が到来しても、それを迎え入れることはできない。つまり、イエスの霊は神の国とならずに、私たちの心を素通りしてしまう。イエスの引き起こした奇跡が、多くのユダヤ人の心を素通りしていったように。

 到来したイエスの霊に自分を明け渡したその瞬間に神の国は実現する。Q集団が残した最高のメッセージであろう。