ぶどう園の労働者のたとえ


2023年4月30日春風学寮日曜集会
聖書個所 マタイによる福音書20:1-16

1.解説
20:1 「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。
20:2 主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。
*以下のたとえは、「天の国」のたとえであって、この世のたとえではない。この世の話であるとするなら、これほどめちゃくちゃな話はない。しかし、「天の国」のたとえと読むなら、私たちはここに素晴らしい神の愛の論理を発見することができる。以下、それを発見していこう。
・「天の国」とは神の支配が行きわたる世界のことである。したがってここに登場する「主人」は神もしくはキリストのたとえである。つまり、このたとえは、神(キリスト)の支配とはいかなるものかを伝えようとするたとえなのだ。
*夜明けが正確に何時を指すかはわからないが、当時のパレスチナでは日雇い労働者は朝6時から夕方の6時まで働いたようだ。つまりこの労働者たちは、朝6時に働き始めたと考えられる。
*一デナリオンは一日の労働者の賃金だから、だいたい1万円と考えてよいだろう。
20:3 また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、
20:4 『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。
20:5 それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。
*ここから展開が普通ではなくなる。普通なら、主人は夜明けに広場で労働者を雇ったなら、再び広場に戻って労働者を集めるなどということはしない。ところが、この主人は繰り返し広場に戻り、労働者を雇っている。このことはいったい何を意味するのであろうか。
・加えて、人々についても疑問がわく。普通、人が雇われるのは夜明けだから、それ以降に広場にやってくるはずはない。ところがこの話では、人々は午後遅くになっても仕事を求めて広場に押し寄せている。これまたいったい何を意味するのであろうか。
・主人がキリストだとすれば、理解できる。キリストはできるだけ多くの人に弟子として働いてもらいたい。何度も何度も広場に来て労働者を探す主人は、弟子として働いてくれる者はいないかと探しまわるキリストなのだ。
・夜明けに広場に来て、朝六時から働いた人々とは、すぐに弟子として働くことができた最初の弟子たちである。そして、遅くなっても広場にやってきた人々は、遅れてキリストの弟子になった人たちである。後者にはハンディを抱えているためにすぐに弟子として働けなかった人も含まれる。病気や高齢、年老いた親や子供の世話、貧困のためにすぐに弟子になれなかった人々である。
20:6 五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、
20:7 彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。
*五時になっても広場にやってくる者とはいったい何者か。労働は六時に終わるわけだから、働く時間はあと一時間しかない。あと一時間しかないのに雇ってくれと言う人は先ずいないし、それを雇う主人もまずいない。しかし、このたとえが天の国(神の支配)のたとえだとするならば、これらの疑問もすべて氷解する。
・五時になって広場にやってきた人々とは、社会の最底辺の人々である。『だれも雇ってくれいないのです』という言葉が表すように彼らは、一般社会からはじき出された人々、例えば、徴税請負人、外国人、らい病患者、聾唖者、盲人、犯罪者などである。彼らは、普通に働くことなど全くできない。「何もしないで一日中立っている」という言葉はそのことを表している。しかしキリストはそのような人々をも、いやそのような人々をこそ弟子にしてやりたい。『あなたたちもぶどう園に行きなさい』という主人の言葉は、そのようなキリストの気持ちを表している。
20:8 夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。
20:9 そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。
20:10 最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。
20:11 それで、受け取ると、主人に不平を言った。
20:12 『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』
*主人は全員に約束通りの報酬、一デナリオンを与える。
・ところが、夜明けから働いた者たちは不平を言う。『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは』と。もしこの話がこの世における労働の話であるならこれは至極もっともな不平である。しかし、キリストの弟子としての働きに関するものであるとするならば、全く的外れな意見となる。なぜか。
・その理由の第一は、キリストの弟子としての働きの報酬が永遠の命であるということにある。この話の報酬である一デナリオンとはお金のことではない。永遠の命のことなのである。永遠の命はもらうことのできる最高のものであり、それ以上のものなどない。それ以上のものを要求するということは、その価値が分かっていないか、それを信じていないかである。
・第二の理由は、キリストの弟子としての働きの大半は神からの恵みによってなされるものであり、弟子自身の功績ではないということにある。キリストの弟子としての働きは愛の奉仕であるが、愛の奉仕は人間の力でできるものではない。人間の心には愛などないのだから。人は神から愛する心や愛への導きをもらって初めて愛を実行することができる。人間の側にある唯一の功績は、キリストの弟子として働こうと決めたことだけである。ここにおいてのみ人間の功績がある。だとすれば、キリストの弟子となった者が皆同じ報酬をもらうのは当然のことと言えよう。
・第三の理由は、境遇の相違である。初めから弟子として働けた者は、初めから弟子になることができる恵まれた境遇にあったのであり、遅くにしか弟子になれなかった者は遅くにしか弟子になれない恵まれない境遇にあったのだ。神(キリスト)は人間の背後にあるそれらの境遇を全て見抜くことができる。そのような視点からすれば、報酬が同じであることこそ真に公平である。恵まれた境遇にある者がたくさん働いたからと言って報酬をより多く与えられるなら、それこそ不公平というものであり、それではこの世の資本主義の原理と同じである。
20:13 主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。
20:14 自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。
20:15 自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』
20:16 このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」
*「友よ」という呼びかけは、対等の関係にある者への呼びかけである。主人(キリスト)は今や夜明けから働いた労働者(早くから弟子だった者)と対等の立場に立っている。この呼びかけの真意は、君も夜明けから働けなかった人々(遅く弟子になった人々)と同じ立場に立って考えてみよということである。
*「自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか」という言葉は少し乱暴である。これがこの世の話であるなら、全員の賃金が同じである理由をもっときちんと説明してしかるべきであろう。しかしこれは天の国(神の支配)の話なのである。そして夜明けから働いている弟子とは、最も古い弟子なのである。早くからキリストに仕えている者なら、キリストのように、遅れてしか弟子になれなかった人々の立場に立って考えてみることができるはずである。だから主人は敢えてその理由を説明しない。それどころか、𠮟りつけるようなことを言うのである。
*𠮟りつけるような言葉とは、「わたしの気前のよさをねたむのか」である。この言葉は、最初からの弟子たちの不平の本質をよく表している。
・彼らが遅れて弟子になった人たちの立場に立てない理由とは何であろうか。比較する心である。自分の業績と遅れてきた者たちの業績を比較するからこそ、ごくわずかな働きしかないのに同じ賃金をもらいやがってという気持ちが起こるのである。これはまさに妬みである。この妬みのゆえに、最初からの弟子たちは遅れて弟子になった者たちの立場に立てない。主人(キリスト)は、このことを見抜いたからこそ、「ねたむのか」と𠮟りつけたのだ。キリストならではの恐るべき一撃である。
*ここでこのたとえは終わる。そしてまとめとして、「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」という言葉が語られる。この言葉の意味するところはいったい何か。早くからの弟子の救いは後になるということである。いったいなぜそうなるのか。別にキリストが彼らを差別するわけではない。早くからの弟子たちには妬みが起こりがちだからである。早くからの弟子はイエスと共に長く苦労して働くことになる。新しい弟子はその苦労は断然少ない。にもかかわらず受ける報酬は同じ永遠の命なのだ。そうなると当然、早くからの弟子には妬みが起こってくる。この妬みが永遠の命だけでは満足できないという気持ちを引き起こしてしまう。それ以上に名誉が欲しいという気持ちを引き起こしてしまう。かくして、キリストが与えてくれる永遠の命を感謝して受け取れないという事態に陥るのだ。これこそ、早くからの弟子の救いがあとになりがちである理由である。
・このたとえを聞いた12弟子たちは、夜明けから働いた労働者とは自分たちのことであると感じ、ぎくりとしたのではなかろうか。

2.メッセージ
①神の公平さ
天の国とは神の支配(神の愛)がいきわたる状態である。そこでは完全な公平が実現される。愛と公平は不可分である。不公平がまかり通るところには愛も正義もありはしない。
それでは公平はどのようにして実現されるのであろうか。恵まれない人たちの状況を完全に理解することによって実現されるのである。特に、きちんと働くことができない者の立場に立ち、その状況を理解することによって実現されるのである。主人は夜明けから働いた労働者に「友よ」と呼びかけて労働者と同一地点に立った。これこそ神の公平さの根拠であり、イエスはこのたとえを通じてこの世の人間にも同じように他者と同一地点に立って真の公平とは何かを考えるようにと促しているのだ。
そのような視点から見れば、この世にはなんと多く見せかけの公平や不公平がまかり取っていることか。税制、会社の報酬体系、役所の弱者救済制度などの見せかけの公平には怒りを感じずにいられない(Lost Care)。少なくともこの寮では、相互に相手の位置に立とうとすることによって、真の公平を目指していきたい。
②愛の働き
神のために働くということは、愛のために働くということである。そして愛のために働くということは愛の実行、愛の奉仕である。しかしこれは自力でできることではない。人間には、他者を愛する心などないからだ。親は子供を愛し、夫は妻を愛しているようにみえるが、それらの愛は愛情というものであり、厳密に言えば自己愛の延長でしかない。真の愛は見ず知らずの人や敵にさえ向けられるものなのだ。人間には本来そのような愛などない。神の助けがあって、神から愛を受け取ることによって、人は初めて愛する心を持つことができるのである。その意味で、愛の奉仕においては、人間の功績はほとんどない。だから、愛の奉仕においては、多く働いた者が自分を誇ることはできないし、働きの少ない者を蔑むこともできないのである。
しかし、一つだけ評価されるべきことがある。それは、愛のためにはたこうと決めた意志である。一言で言えば善意である。善意の発動だけは神も全面的に評価する。だからこそ神はそれに報いて、一デナリオンを与えるのである。カントは、この善意の発動こそ人間の人間たるゆえんであり、人間の尊厳の根拠であると述べた。まさにその通りであろう。人間は善意を発動するからこそ尊いのである。
皆さんも善意の発動をこそ重んじてもらいたい。そして、善意さえあるなら、その結果(業績)について評価するのは控えてもらいたい。この世はその真逆である。善意があっても結果が出ないなら、そこでは何も評価されない。しかし、神はそうではない。そしてこの寮もそうではない。神もカントもこの寮も、善意をこそ最も尊いと考えるのだ。
③愛は命
神は一人でも多くの者に神のために(愛のために)働いてもらいたがっている。愛は命そのものであるからだ。一デナリオンは永遠の命を表すが、その命は実は労働者たちが一デナリオンを受け取る前からすでに与えられている。なぜなら、愛のために働いたということは神から愛を受け取ったということであり、神から愛を受け取ったということは命をいただいたということなのだから。
聖書では、しばしば永遠の命が愛のために働いたことの報酬であるかのように描かれているが、それは庶民向けに話を分かりやすくしようとするからであり、本当は永遠の命は神から愛を受け取った瞬間に与えられているのだ。だからこそ、イエスの本音を手加減せずに表したとされるヨハネによる福音書にはこう書かれている。
5:24 はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。
神から愛を受け取る方法は、神の愛を信じることである。神の愛を信じた瞬間に、「死から命へ移っている」とヨハネは述べている。これこそまさに、神から愛を受け取った瞬間に命が与えられることを現した言葉である。
④比較する心
人間は一般に永遠の命の価値を判っていないし、信じてもいない。本当にそれを信じ、理解しているなら、それ以外のことは何も望まないはずである。夜明けから働いた人は、命以上に自分の業績が高く評価されることを望んでいた。つまり命よりも自身の名誉を望んでいたのだ。これこそ人間一般の日常の姿である。
名誉を望むとは、他者から認められることを望むことであり、すなわち承認欲求のことである。なぜ人は他者から承認されたいと思うのであろうか。他者と比較して自分が優れていることを実感したいからだ。承認欲求の裏返しが妬みである。他者が自分よりも評価され、自分が劣っていることを実感した時、妬みが生じる。承認欲求とねたみ、これらの気持ちは、人間の行動の根源的な動機の一つであり、SNSが不動の人気を博しているゆえんである。しかし、聖書によれば、比較して自分が優れていることを実感したいと思う心こそは、自分を神とする心する心の現れ、すなわち自己中心性(罪)の現れなのである。人はこの心から解放されないでは、他者の立場になって考えることなどできないし、永遠の命の価値に気付くこともない。結果神の愛(命)を受け取ることもなくなる。
 いったいどうすれば、私たちは比較して優越感を得ようとする心を抜け出すことができるのであろうか。その方法の一つを今日の個所は教えてくれる。すなわちすべての功績を神に帰することである。自分の功績も他者の功績も、すべては神のなせる業であると考えるなら、自分の功績をおごる心もなくなるし、他者の功績をねたむ心もなくなる。すなわち比較する心に苦しめられることなどなくなるのである。事実、優れた愛の奉仕はすべて愛を与えてくれた神のお陰でなりたつものなのだ。


話し合い
k君「一律に一デナリオンというのは、労働者から見れば不公平でしょう。」
寮長「これが実際のぶどう園の話なら、その通りです。」
O君「天の国のたとえとしてもよくないと思います。主人と労働者が対等のようで、主人があまり神様らしくない。また報酬がお金であるというのも天の国らしくない。さらに労働者キリストの弟子であるとすると、報酬が少ないと不平を言うのもキリストの弟子にあるまじきことだと思います。」
寮長「内容をきちんととらえれば、天の国のたとえとして素晴らしいものであるとわかりますよ。主人が神様らしくないのには理由があるし、報酬が一律一デナリオンであることにも意味がある。そして12時間働いた労働者が不平を言うことにも意味がある。その不平に対する主人の応答にも深い意味がある。」
So君「比較することのまずさを感じました。他者と比較しなければ、一デナリオンもらえたことに感謝できるのに、他者と比較するから、感謝できなくなる。比較相対的に評価することが人間から幸せを奪うのではないでしょうか。」
寮長「鋭い!それこそ今日の個所の本質的メッセージです。比較する心は人を優越感か劣等感に導きます。どちらも幸せとは言い難い。他者と比較せずに、自分が受けたものを感謝して喜べば、それで人は十分幸せになれる。しかし問題はどうすれば、比較する心を抜け出すことができるかです。今日の個所は、その道を示してくれます。」
Sa君「次の日はいったいどうなるのでしょうか。こんなことしたら、次の日はみんな夕方5時から働くのではないでしょうか。」
寮長「現実のぶどう園ならそうでしょう。しかしこれは天の国のたとえであり、一日の労働は生涯を表します。次の日などないのです。」