イエスの杯を飲む

2023年5月7日春風学寮日曜集会
聖書個所 マタイによる福音書20:20-28

1.解説
20:20 そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。
*「そのとき」とはいつか。この直前にイエスは自分が十字架にかけられて殺され、三日後に
 復活すると予告している。その直後ということである。
*「ゼベダイの息子たち」とは、イエスの十二弟子であるヤコブとヨハネのことであり、彼ら
 の母はイエスの母マリヤの姉妹である。つまり、ヤコブとヨハネはイエスの従弟なのだ。
*ところでマルコによる福音書の並行記事(同じ出来事を記した記事)では、イエスに願い出
 ているのはヤコブとヨハネ自身であり、そこには彼らの母親は出てこない。(10:35 ゼベダ
 イの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえてい
 ただきたいのですが。」)これは怪しい。いったいどちらの記事が本当なのだろうか。この
 答えは明白である。マルコの方が史実であろう。なぜなら、この直前20:17には、「十二人
 の弟子だけを呼び寄せて言われた」とあるからである。十二人の弟子しかいないはずの場所
 に突然「ゼベダイの息子らの母」が出てくるはずがない。したがって、イエスに願い事をし
 たのは、ヤコブとヨハネ自身であり、彼らの母親ではなかった。
・すると疑問が生まれてくる。いったいなぜマタイは、彼らの母親を登場させ、彼らの願いこ
 とを彼女の願い事であるかのように書いたのであろうか。加えて、マタイはヤコブとヨハネ
 という実名を隠して、「ゼベダイの息子たち」と言い換えている。これも不思議である。い
 ったいなぜマタイは、ヤコブとヨハネを舞台の後方に追いやろうとしたのであろうか。この
 背後には、マタイの教会の複雑な事情が絡んでいると見ざるを得ない。以下、その事情を説
 明しつつ、以上の二つの疑問を解き明かしていこう。
*イエスの弟子たちは、イエスの生前から誰が一番合偉いのかと言い争っていたが、イエスの
 死後、その争いはいっそう深刻化する。それは単なる勢力争いではなく、誰が最も正しくイ
 エスの教えを継承しているかという思想上の対立へと転化していったからである。この思想
 上の対立はやがて大きな二派へ収斂していく。ペテロ派とパウロ派である。ペテロ派はエル
 サレムの教会を中心に活動するユダヤ人系のキリスト教徒であり、その主張をざっくり言え
 ば、人が救われるためには律法も福音信仰も両方必要であるというものであった。対してパ
 ウロ派は外国(小アジア、ギリシア、ローマ)の教会を中心に活動する異邦人や異国で暮ら
 すユダヤ人のキリスト教徒であり、その主張は、福音信仰さえあれば救われるというもので
 あった。この二派が激しく対立する様は、使徒言行録に詳しく書かれている。そして、マタ
 イの教会はペテロ派の教会であり、ペテロをイエスの後継者と仰ぐ教会であった。その証拠
 にマタイは十六章に次のようなイエスの言葉を記していた。
  16:19 わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつ
  ながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。
 これは、イエスがペテロを後継者として指名したことを示す言葉である。しかしこのような
 言葉は、他の福音書にはどこにも記されていない。マタイだけが記した言葉である。つまり
 マタイの教会は、ペテロを指導者と仰ぐ、生粋のペテロ派の教会であるがゆえにこの記事を
 加筆したのだ。
・このようなペテロ派の教会は、パウロから激しく非難された。人間を師と仰ぐとは何事か
 と。イエスのみを師と仰ぐパウロは、ペテロどころか他の十二弟子たちを崇めることも非難
 した。そして彼らが律法に頼って救われようとしていることをも激しく非難した。それでは
 ユダヤ教と同じではないかと。
・以上のような事情を考慮するならば、マタイがなぜヤコブとヨハネを舞台から後退させ、彼
 らの母に願い事をさせたのかもわかってくる。マタイは十二弟子であるヤコブとヨハネの権
 威を守りたかったのだ。もしヤコブとヨハネが以下に見られるような野心むき出しの願い事
 を直接行ったということが記録に残るなら、ヤコブとヨハネの権威は地に落ちてしまう。そ
 れと共に十二弟子の権威も、十二弟子の筆頭であるペテロの権威も地に落ちる。そうなるこ
 とをいくらかなりとも防ぐために、マタイはヤコブとヨハネの実名を伏せ、舞台の後方に追
 いやったのではないだろうか。
20:21 イエスが、「何が望みか」と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」
*繰り返せば、このような願い事をしたのはヤコブとヨハネ自身であり、彼らの母親ではなか
 った。この願い事の意味するところは何か。それは彼らがイエスに従ってきた真の目的が権
 力的野心であったということである。この前の章には、ペテロの次のような言葉が記されて
 いる。
  19:27 すると、ペトロがイエスに言った。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあ
  なたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。」
 この言葉に明らかなように、弟子たちは純粋な気持ちで何もかも捨ててイエスに従ってきた
 わけではなかった。何かが欲しいためにイエスに従ってきたのだ。では彼らは何を望んでイ
 エスに従って来たのか。ヤコブとヨハネの言葉がすべてを表している。天の国で右大臣か左
 大臣になることが望みであったのだ。天の国で支配的地位に就くという権力的野心こそが彼
 らの望みであったのだ。
・このような野心むき出しの姿を描き出せば、ヤコブとヨハネの権威は地に落ちるであろう
 し、十二弟子の権威も地に落ちるであろう。それを防ぐためにこそ、マタイはこの願い事を
 彼らの母の願い事にすり替えたのだ。
20:22 イエスはお答えになった。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」二人が、「できます」と言うと、
20:23 イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。
*イエスは先ず彼らに対して「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない」と 
 答えている。つまり天の国で大臣となることがいかなる意味なのか分かっていないというの 
 である。では天の国で大臣になるとはどういうことか。それはイエスが「飲もうとしている
 杯」を飲むことなのだ。
・では、イエスが「飲もうとしている杯」とは何か。この直前にイエスはこう述べている。
  20:18 「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者た
  ちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、
  20:19 異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。
 この言葉より、イエスが「飲もうとしている杯」が十字架にかけられることであることは明
 白である。
・ところが弟子たちは、そのことにはまったく気づかず「できます」と即答している。いった
 いなぜだろうか。数々の奇跡を引き起こしたイエスが十字架にかけられてむなしく死ぬとは
 想像できなかったのであろう。イエスこそは王となってこの世に神の国を作ると信じていた
 のだろう。であればこそ自分を大臣にしろなどと要求するのだ。
*この弟子たちの軽薄な即答に対して、イエスは重い言葉をぶつける。「確かに、あなたがた
 はわたしの杯を飲むことになる」と。これは、ヤコブとヨハネの将来に対する予言である。
 ヤコブはこの言葉の5~6年後の紀元40年ころ、殉教死を遂げる。使徒言行録にはこうあ
 る。
  12:1 そのころ、ヘロデ王は教会のある人々に迫害の手を伸ばし、
  12:2 ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。
 まさにヤコブはイエスの「飲もうとしている杯」を飲んだのである。
・他方ヨハネの方は、殉教しなかった。100歳近くまで生き延び、自身の教会を導き、ヨハ
 ネによる福音書を記すことになる。ということは、ヨハネはイエスの杯を飲まなかったので
 あろうか。そうではあるまい。ヨハネは殉教こそとげなかったが、やはりイエスの杯を飲ん
 だと言えよう。なぜならヨハネの生涯は、自分を捨てて神に従う生涯であったからだ。
・イエスの杯を飲むとは、十字架にかかることであるが、その本質的な意味は自分を捨てて神
 に従うということである。しかしその形は一つではない。殉教死を遂げることがそれである
 かもしれず、恵まれない人々に生涯奉仕することがそれであるかもしれず、何かの仕事に生
 涯をかけることがそれであるかもしれない。十字架にかかる方法はいろいろなのだ。
・話を天の国の大臣に戻せば、天の国で大臣になるということは、権力をほしいままにして支
 配することではなく、自分を捨てて神に従うということなのである。そのことが分かってい
 ないからこそ、イエスは彼らに対して「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かって
 いない」と述べたのだ。
20:23・・・しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」
*つまり、誰が右大臣や左大臣になるかを決めるのは神様であって自分ではないということである。ここには、完全に自分を捨てて神にのみ従おうとするイエスの姿勢が表れている。
・このようなイエスが自らペテロを後継者に指名するはずがない。
20:24 ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた。
20:25 そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。
20:26 しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、
20:27 いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。
*ここでは、他の弟子たちが、自分たちを出し抜いて高い地位に就こうとしたヤコブとヨハネに腹を立てている。他の弟子たちもこの世の原理に従って、高い地位につき、支配者となりたかったのである。
*これを目にしたイエスは言う。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。」これこそイエスの杯を飲むということの最もわかりやすい例である。私は先ほど、イエスの杯を飲む(十字架にかかる)ということの本質的な意味は自分を捨てて神に従うということであり、その形は様々であると説明した。その最もわかりやすい形は特定の人ではなく、皆に仕えることなのである。
・そしてそのような者こそ天の国では一番偉いとイエスは言う。ここでイエスが言おうとしていることは、天の国の原理がこの世の原理とは逆であるということである。この世では、支配する者が一番偉いが天の国では仕える者が一番偉い。そして天の国とは、直訳すれば神の支配であり、神の支配とは仕える者が神から評価される状態のことなのである。
20:28 人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」
*ここにはイエスが十字架にかかることが、なぜ自分を捨てて神に従うことなのか、その理由が説明されている。
・ここは難しいので詳しく説明しよう。人間は神様に逆らい続ける(罪を犯し続ける)ので、神様から命をもらうことができなくなっている。つまり死んだような人生を生き、死に向かわざるを得なくなっているのだ。しかし神様はそのような人間を憐れに思い、逆らい続ける人間(罪人)にも命を与えてやりたいと思った。しかし神様は何の罰も与えずに罪人を赦すことなどできない。神様には義に反することはできないからだ。そこで神様は、自分の独り子であるキリストを人間としてこの世に遣わし、キリストを人間の代表として処罰することによって義を貫き、その罰をもって他の人間の罪を赦すことにした。つまり命を与えることにしたのだ。
・このような神様の意志のもとに、人間の代表として処罰されて殺されるべく生まれてきたのが、イエス・キリストである。イエスは神様のこのような意志を完全に理解し、その意志に従って十字架にかけられるべく生きてきた。
・そして今それが自分の使命であることを弟子たちに告げた。その言葉こそが、「多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」である。身代金とは罪人を救うための代金である。イエスは罪人である人間たちを救うために自分の命を身代金として神に差し出すのだ。もしイエスがこの言葉の通り、本当に十字架にかけられて処刑されるとするなら、それは完全に自分を捨てて神の意志に服従することである。しかもそれは同時に人間への完全な奉仕でもある。言い換えればそれは、神への愛と隣人への愛の完全な実行なのある。

2.メッセージ
①評価すべき非難
 パウロは激しくペテロや他の弟子たちを非難した。非難したり、非難されたりすることの嫌いな現代人からすれば、最も嫌われるタイプであろう。イエスも同じである。イエスもまた、律法学者やファリサイ派の人々、サドカイ派の人々を激しく非難した。イエスがもし現代に生まれてきたならば、嫌われるどころか、激しくいじめられ、再び殺されてしまうかもしれない。
 しかし、パウロやイエスの行う非難が凡人の行う非難と全く質の異なるものであることはおさえておく必要がる。いったいどこが異なるのか。凡人の行う非難は自分を擁護し、自分を正当化しようとする非難である。ところがこの二人の非難には自分を正当化するところが全くない。パウロの行う非難は激しい自己否定の帰結であり、イエスの行う非難も厳しい自己放棄の帰結なのである。その意味でこの二人の非難は限りなく客観的に近い(聖書の言葉で言えば神の視点に近い)。もう一つの違いは、彼らの非難対象は絶えず強者(権力者)であるということだ。客観的な視点からの権力者への非難。これなくして、よりよい社会は築けない。私たちはそういう非難をできる人間、少なくともそういう非難の正当性を見抜ける人間になる必要がある。非難することがすべて駄目という態度では駄目なのだ。
②真の権威
 マタイは十二使徒の権威を保とうとして、ヤコブとヨハネの欠点を隠そうとしているが、こういうことで権威を保つことなど不可能である。なぜか。
権威というものはそもそも神に由来するものであり、人間が神のような性質を帯びたときに人間に権威が宿る。例えば極めて強い人間や頭の良い人間、あるいは大金持ちなどはある意味神に似ているので、権威を帯びているかのように見えてしまう。
 しかし、神の本質は正しさであり、愛である。だから真の権威は真に正しく、真に愛に満ちている者にこそ宿る。イエスに他者の追随を許さぬ権威があるのは、イエスが完全な義と愛を十字架において実行したからである。そのような視点から見れば、十二使徒の権威を保とうとしてその欠点を隠そうとしたマタイの行為はなんと権威からかけ離れていることか。また、そのようなマタイの行為によってたとえ欠点を隠しおおせたとしても、誰がヤコブとヨハネに権威を認めるであろうか。権威は愛と義と一体であり、体裁を取り繕うところには現れないのだから。
 偶然(おそらく本当は偶然ではないが)、先日チャールズ・イギリス国王の戴冠式を見た。そこには真の権威のひとかけらもなかった。一体なぜか。真に国民を愛し、正義を貫こうという姿勢が見られなかったからである。国民の負担を考慮に入れて確かに儀式は簡素化された。しかしその結果は何か。ロシア、中国、北朝鮮の偽物の権威に遠く及ばない、極めて中途半端な儀式ではなかったか。そこには何の権威もなく、体裁を繕うためのただの妥協があるだけだった。
 それでは、イギリスはどのような儀式を行えばよかったのか。独裁主義国家とは正反対の儀式を行えばよかったのだ。支配者としての権威を誇示する儀式ではなく、仕える者としての権威を示す儀式を行えばよかったのだ。具体的には、子供たちとお年寄りと労働者たちとそして神に仕える姿勢を示す儀式を行えばよかったのだ。もちろんそのような儀式は日ごろからそのような姿勢で国民と交わっていなければ成り立たない。日頃から愛と義によって国民と接しているか否か、それを形に示すものが儀式なのだ。にもかかわらず、何と多くの儀式は形骸化して偽物の権威を誇示することか。
 他方、愛と義を重んじる人々はなんと儀式を軽んじることか。無教会は儀式を軽んじすぎてきたきらいがある。この寮もまたそうである。儀式は普段の姿勢を表すものとして、極めて重要であり、普段の愛と義の姿勢が儀式に現れたときに、真の権威が示されるのだ。寮祭、クリスマス会、誕生日会、そして日曜集会。すべては儀式を含んでいる。そして非常に恐ろしいことに、儀式に対する姿勢がその団体の本質を示すのである。私たちは日ごろの姿勢の延長として、儀式を重んじていく必要がある。
③人が権威を持てる可能性
ところで、人間は権威など持つことなどできない。人間にはイエスのように完全な愛と義を実行できないからである。権威を持とうとする政治家や宗教家のほとんどが怪しくて胡散臭いのは、彼らが愛と義を完全に実行できないからである。
だから、人間は権威など持とうとすべきではないし、他の誰かの権威を崇めるようなこともすべきではない。人間に必要なのは、むしろ自分には愛も義もありませんというへりくだりの姿勢であり、絶えず自分の間違いを反省しようとする悔い改めの姿勢である。そして非常に逆説的なことに、この二つの姿勢を保とうとする者にこそ聖霊が働いて真の権威が現れるのである。
④天の国(神の支配)の原理
 この世の原理では、得る者が豊かであり、支配する者が偉く、気ままに振舞えることが自由である。ヤコブやヨハネなどの弟子たちは皆この原理に基づいてイエスに従ってきた。イエスがいつか王になれば、自分たちはたくさんのものを得、多くの者を従えて気ままにふるまえると。
 ところが、イエスの示した天の国の原理では全く逆であった。与える者が豊かであり、仕える者が偉く、従う者が自由なのである。なぜそうなのか。言うまでもなく神様がこれらの姿勢を祝福するからである。天の国とは神の支配のことであり、神の支配とは神が与えること、仕えること、従うことを評価して祝福する状況のことである。
 そこで注目すべきことは、イエスが何の見返りも要求しない、無私の奉仕をよしとしているわけではないということである。確かにイエスはこの世的な見返りを求めることは間違いであると否定する。金銭や名誉や権力と言った見返りを求めて奉仕することを否定するのである。しかし、こと神様から祝福されることについては、それを求めることを可としている。いやそれどころか、神様から祝福されることこそは最も尊いことであり、それを目指して神様を愛し、隣人を愛しなさいとイエスは説いている。
 この前の章の終わりにはイエスのこういう言葉が記されている。
  19:29 わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百
  倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。
「その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ」とは、神様か祝福されることのたとえである。イエスは確かに無償の愛ではなく、神様から祝福されること、神様から愛されることを第一の目的として求めるように説いたのである。
 ところで大哲学者カントは、何の見返りも求めない奉仕のみが尊く、見返りを求める奉仕は全て偽善であると説いた。イエスはそうは言わない。神からの祝福を目指して奉仕を行ったとしても、それは何ら偽善ではない、それこそ正当な善行であると説くのだ。
 いったいなぜこのような違いが出てくるのか。カントが最も重視したものは自由だからである。人間の最も尊い行為は自由意志によって善を行うことだとカントは考えた。何か他のものを目的として善を行うことは自由ではない。その目的に支配されていることを意味するからだ。人は善そのものを目的として善を行うときにのみ自由でありうる。だからこそカントは、他の何物をも目的に据えてはいけないというのだ(定言命法)。
 ところがイエスが最も重視したものは神の支配である。他の何物にも支配されてはいけないが、神だけには支配されてよいとイエスは考える。いや神に支配されることこそ本当に素晴らしいことでありそこにこそ真の自由があるとイエスは考える。だからこそイエスは、神からの祝福を求めて大いに結構ということになるのである。
 一言で言えば、両者の違いは神の存在を前提とするかどうかの違いである。イエスは神の存在を前提として考えるからこそ神との関係がその目的の中心となる。カントは神の存在を前提としないから、神との関係が目的にはならない。自身の自由の原理がその目的となるのである。
さて、みなさんはどちらを支持するであろうか。

話し合い
M君「イエスの十字架の意味が初めて明確に分かりました。」
寮長「今日紹介したのは、最も伝統的な刑罰代受説と呼ばれるもので、これが十字架解釈の全てではありません。特に最近の学者たちは、他の解釈を唱える人が増えています。しかし今更他の解釈を唱えたところで、刑罰代受説を打ち破ることはできません。すでに無数の人がこの説によって救いを体験してきたのですから。」
B君(中国出身)「ヤコブとヨハネの示すこの世の原理は、中国そのものです。中国ではまさに、得る者が豊かであり、支配する者が偉く、気ままに振舞えることが自由であると考えられています。政府の幹部はそれを目指して生きている。」
寮長「中国はこの世の原理の象徴なのですね。」
K君「イエスはなぜいつも質問したことに直接答えないのだろうと常々疑問に思っていましたが、解説を聞いてそこには深い意味があるのだなあと納得できました。」
寮長「質問に直接答えない人はたくさんいますが、そのような人のほとんどはその質問に答えることができず、それでも自己主張をしたいので質問に直接答えないという態度になるわけです。イエスはそれとは違う。直接答えようとすればできるのに、敢えてそれをせず、次元の異なる話をします。その理由は、聞き手が自分で考えて答えを見つけ出すことを願っているからです。直接答えを言ってもほとんどの人は右の耳からそれを聞いて左の耳から出て行ってしまう。しかし、自分で考えて辿り就いた答えならそうはならない。きちんと心に残ります。イエスが直接質問に答えないのは、聞き手の心に答えをメッセージとしてきちんと残すためなのです。例えば今日の個所でも、「右大臣と左大臣にしてください」というヤコブとヨハネの要求に直接答えずに、「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」と問い返している。こうなるとヤコブもヨハネも読者も「イエスの杯を飲む」とはどういうことだろうと考えざるを得ない。そのうえで考えるヒントとなるようなことを伝える。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい」と。このヒントに基づいて考えるなら、「イエスの杯を飲む」とは神に仕え、隣人に仕えることなのだという答えに辿り着く。そのようにして獲得した答えはメッセージとして心に残ることでしょう。イエスはそうなることを望んでいるのだと思います。」
O君「神から祝福されることを目指して善を行いなさいというイエスの教えすら自分からは程遠い。ましてや善そのものを目的として善を行えというカントの教えは自分から遠すぎて全然ピンときません。自分はこの世的原理の中にどっぷりつかっており、この世的欲望を目指して生きています。しかもそういう自分の生き方が悪いとは思っていない。結局、そういう生き方が罪であると気づかなければどうにもならないのでしょうね。」
寮長「これは良い応答ですね。いつかも言ったように、聖書を読むうえで一番重要なのは高邁な理想を学ぶことではなく、それでは自分はどうなのかと問うことです。今日の個所で述べられている天の国の原理は確かに素晴らしい。しかし、それは私たちの日常の姿とは全くかけ離れている。そのような自分の立ち位置に気付くことが本当に重要なのです。それこそへりくだりの姿勢ですよ。」