聖書の基本(小舘)

2023年4月23日春風学寮日曜集会 
讃美歌:312、405

聖書 
出エジプト記 
20:1 神はこれらすべての言葉を告げられた。 
20:5 「・・・わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、 
20:6 わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。 
ヨハネによる福音書 
11:25 イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。 
11:26 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」 

1.旧約聖書と新約聖書の違い 
  新しい寮生も入ったことだから、聖書の基本の確認から始めよう。 
聖書は、旧約聖書と新約聖書の二部からなる。 
旧約聖書とは何か。読んで字のごとく旧い約束について書かれた書物である。では旧い約束とは何か。思い切りざっくりと言ってしまえば、様が与えた律法(戒め・掟)をきちんと守れば、神様から正しいと認められ(義認され)、ご褒美としてこの世で成功(物質的恵)が与えられるという約束である。この約束を最も明確に記したのは、先ほど読んだ出エジプト記の次の言葉である。 
  20:6 わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。 
この旧い約束について詳しく記したのが旧約聖書である。すなわち、この約束がどのようにして与えられたのか、律法とはどのようなものか、その律法をユダヤ人たちはどのように守ったか、どのように破ったか、その結果どのようなことが起こったか、今後はどうなるのか・・・そうしたことを延々と記してあるのが旧約聖書である。(ちなみに旧約聖書は39巻からなり、そこに記されているのは天地創造から紀元前2世紀までの出来事であり、舞台は主に西アジアである。) 
 対して新約聖書は、新しい約束について書かれた書物である。では新しい約束とは何か。これまた思い切りざっくりと言ってしまえば、たとえ律法を守れなくても、イエスを信じさえすれば、神様から正しいと認められ(義認され)、ご褒美として来世で永遠の命を与えられるという約束である。この約束を最も明確に記したのは、先ほど読んだヨハネによる福音書の次の言葉である。 
  11:25 イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」 
この新しい約束について詳しく記したのが新約聖書である。すなわち、この約束がどのようにして与えられたのか、イエスとはどのような人物か、イエスを信じた者たちはどうなったか、これからどうなるのか・・・そうしたことを記したのが新約聖書である。(ちなみに新約聖書は27巻からなり、そこに記されているのは紀元1世紀の出来事であり、舞台は主にパレスチナである。)  
 では、イエスを信じても現世では物質的恵みは与えられないのか。例外はあるが、基本的には何も与えられない。この世で与えられるのは、霊的恵みだけである。では霊的恵みとは何か。一言で言えば心が清められるということである。イエスを信じた者には聖霊が降り、その働きのために欲望から自由になり、正義や愛を重んじるようになる、自分を捨てて神様につかえるようになる。これが清められるということである。要するに新約聖書が約束するのは、来世での永遠の命と現世での霊的恵み(清め)である。 
 以上の旧約聖書と新約聖書の違いを簡単に図示するなら、次の図のようになる。 
  旧約聖書:律法を守る→現世での成功(物質的恵) 
  新約聖書:イエスを信じる→来世での永遠の命、現世では霊的恵 
もちろん実際にはこれほど単純ではなく、旧約聖書の中にも新約聖書の内容と一致する記事があるし、新約聖書の中にも旧約聖書の内容と一致する記事がある。にもかかわらずその要旨を大胆に単純化するなら、上記の図のようになるのである。 
 さらに付け加えるならば、旧約聖書の約束を信じる者たちはユダヤ教徒と呼ばれ、彼らは新約聖書など認めない。「イエスを信じれば、永遠の命を与えられる」などという約束は嘘っぱちだと考えている。対して新約聖書の約束を信じる者たちはキリスト教徒と呼ばれ、彼らは、旧約聖書をさほど重視しない。「律法を守れば現世での成功が与えられる」という約束はどこにでもあるご利益宗教とに似ており、警戒すべきであると考えている。だから、旧約聖書だけを信じるユダヤ教徒と新約聖書をより重視するキリスト教徒では、考え方が全然違ってしまうのである。 
 ではどう違ってしまうのか。例えば、ユダヤ教徒は物質的恵を重視するから、現世における権利には敏感である。だから彼らは自分たちの土地や国家を死守しようとして強大な軍隊を持とうとし、お金をせっせと稼いで、莫大な富を築こうとする。その実例が現代のイスラエル国やフェアチャイルド家である。そして彼らは自分たちの国や財力が拡大していくことは、自分たちが正しい証拠であり、神様から認められている証拠と考える。だから彼らは、自分の力で必死で律法を守ろうとする。彼らの信仰は自力本願なのである。 
 対してキリスト教徒は、現世での権利などどうでもよいと考える。重要なのは、永遠の命と霊的恵みなので、お金や土地には執着しない。それどころか、永遠の命や霊的な恵を得るために、それらを平然と手放す。彼らも初めはせっせとお金を稼ぐのだが、自分の生活が安定するなら、それ以上は望まない。成功してたくさん稼いだとしても結局は、貧しい人や慈善団体に寄付してしまう。その実例の一つがこの春風学寮である。この寮は、道正安次郎というキリスト教徒が数億円に相当する土地と数億円の資金を寄付することで出来上がった。このようなことをキリスト教徒は、しばしばしでかす。さらに、キリスト教徒は暴力や軍備によって自分の命を守ることを拒否する非暴力主義や絶対平和主義さえも主張する。道正安次郎の師にあたる内村鑑三は日本で最初に絶対平和主義を唱えた人である。有名なマハトマ・ガンジーやマーチン・ルーサー・キング牧師もキリスト教の影響を受けて、非暴力を貫いた。そして重要なことは、キリスト教徒はそのようにいろいろと自分のものを捨てられるのは、神様の働きのお陰だと考えていることである。彼らの信仰は他力本願なのである。ここはユダヤ教徒と決定的に異なる。 
 もっとも実際には、これほど単純に分けることはできない。ユダヤ教徒の中にも霊的恵(清め)を重んじる人がたくさんいるし、キリスト教徒の中にも物質的恵(お金や力)に固執する人がたくさんいる。特に現代のアメリカのキリスト教徒の中には、現世的成功(力とお金)に固執し、厳格に律法を守ろうとするキリスト教徒が多い。原理主義と呼ばれるキリスト教徒たちで、トランプの支持者などはその類だ。これについては、いつか詳しく学ぼう。 
 しかし現象に目を奪われてはならない。現象に目を向けるといくらでも、例外を見つけることができる。重要なのは、本質であり、当人たちが自分でどういう主張をしているかである。ユダヤ教徒の聖典である旧約聖書は、すでに確認したように、現世での成功〈物質的恵み〉を重視する。他方キリスト教徒の聖典である新約聖書は、来世での永遠の命(霊的恵み)を重視する。この本質的な違いを把握することが重要なのである。 

 

2.誰が聖書を書いたのか 
 次に学んでおくべきことは、誰が聖書を書いたのかについてである。旧約聖書を書いた直接の筆者は、ユダヤ人の祭司や預言者や王たちである。だから旧約聖書は元々ユダヤ人の言葉である古代ヘブライ語(ヘブル語)で書かれた。対して新約聖書を書いたのはイエスの弟子たちであり、イエスの弟子たちは世界中の人々にイエスのことを述べ伝えようとした。だから新約聖書は異邦人にも通用する当時の国際語である古代ギリシア語(通称コイネー)で書かれた。 
 しかし、彼らは自分勝手に聖書を作り上げたのではない。自分たちが先祖から伝え聞いた神様に関する物語(神話)と自分たちが目撃した神様の活動(史実)とそして自分たちが直接示された神様の教え(啓示)を書き写したのである。その意味で聖書の本当の作者は神様であるというのが、聖書の大前提である。 
 私たち日本人の多くは、聖書の本当の作者が神様であるなどということは信じない。しかし聖書の筆者たちは、自分たちの書いていることは神様の活動と教えの記録であると本当に信じていた。そしてその後に聖書を読んだ何百億の人々も、聖書は神様の活動と教えの記録であると本気で信じた。事実、現代においてすら世界人口77億人の約3分の一にあたる約24億人のキリスト教徒が聖書の本当の作者は神様であると信じている。旧約聖書のみを信じるユダヤ教徒1700万人、旧約聖書を含むコーランを信じるイスラム教徒18億人を加えれば、世界人口の半数以上がそう信じていることになる。聖書の作者を神と認めないのは、世界ではなんと少数派なのである。 

3.聖書と事実 
 さらに聖書と事実の関係についても学んでおこう。聖書に書かれていることは果たして事実か。先ほど述べたように、聖書の筆者たちは、自分たちが先祖から伝え聞いたこと(神話)と実際に目撃したこと(史実)と神様から示されたこと(啓示)を書いている。だから、聖書に書かれていることのすべてが事実であるとは言いがたい。そこには書かれていることは、しばしば神話と史実とそして啓示の混合物なのである。そのような困った書物が聖書なのである。例えば聖書の始めのほうには、「ノアの洪水」という有名な話がある。これなどは、ただの神話だと思われていたのだが、いろいろと調査をしてみると本当にそのような洪水がかつて西アジアであったということがわかってきた。この例が示すように、聖書の話の中心にはたいてい何らかの事実の根がある。そこに神話と啓示が混ざり合って聖書の話の多くが出来上がっているのである。 
 だから、聖書に書いてあることのすべてを事実として鵜呑みにしてはいけないし、かといって、そのすべてを作り話として切り捨てることも許されない。いや、はっきり言ってしまえば、事実かどうかにこだわって読むのは、正しい読み方ではない。聖書に記されていることのほとんどは、事実かどうかなど確かめられないのだから。 
 では、どのようにして聖書を読むのが正しいのか。正しい聖書の読み方とはどのようなものなのか。筆者が伝えようとしているメッセージを探りつつ読むこと、もっと言えば、筆者の筆を促している神様のメッセージを探りつつ読むこと、これにつきる。 

4.寮の立場  
 以上が聖書の基本である。こういう知識はただの情報であり、死んだ知識なので、本当は大して重要でもないのだが、聖書を深く学び、そこから生きたメッセージ(神様のメッセージ)を引き出すためには、知っておかざるを得ない基本知識である。だから、努力して覚えておいて欲しい。 
 そこで最後に寮の立場について少し説明したい。春風学寮は、基本的にはキリスト教を支持する立場にある。つまり寮長も寮の理事長も、イエスを信じるならば永遠の命(霊的恵)が与えられると信じている。しかし、春風学寮は、普通のキリスト教とは少しだけ違った立場に立っている。では、どう違うのか。春風学寮は、別にイエスを信じなくたってよいと考えているのである。イエスを信じるに越したことはないが、たとえイエスを信じなくても、イエスについて学び、イエスの教えに従おうとすれば、自から永遠の命や霊的恵が与えられると考えているのである。そしてイエスを紹介することを通して、若者たちに永遠の命や霊的恵を与えることこそ真の教育であると考えている。 
 だから、春風学寮が君たちにイエスへの信仰を強要することなど絶対にない。信仰をもってもらいたいと思ってはいるが、別に信仰を持たなくたってかまわないと考えている。では寮が君たちに望むことは何か。聖書を学び、イエスについて学ぶこと、ただそれだけである。聖書とイエスについて学べば、自然にイエスを信じたい気持ちが生まれてくる。たとえそのような気持ちが生まれなかったとしても、イエスに従おうとする気持ちが生まれてくる。イエスは、カントが述べるように、究極の倫理的人物像だからである。ぜひとも聖書とイエスについて学び、そこから命と霊的恵を受け取っていただきたい。